太陽
月を発ったオリンピック&タイタニック姉妹は、今度は太陽を目指す。
船の窓から確認できる地球はどんどん小さくなり、やがて肉眼ではわからなくなった。
すると、アース・アウト・オブ・ビュー(地球視覚外問題)が浮き彫りになる。
月に向かったアポロの宇宙飛行士が、宇宙船が月の裏側に回って地球が見えなくなったタイミングで、言い知れぬ恐怖心に襲われたという逸話がある。
母なる地球の姿と人間の心の間には、「深層心理的なへその緒」とでもいうべきものが存在する。その緒が切れた瞬間、人は自分が地球とは完全に隔絶した暗黒の宇宙空間をさまよっているのだと、はじめて強く実感することになる。
二五〇人も乗客がいれば、中には完全に理性を失ってしまう人もいる。
しかし、そういった問題が宇宙旅行につきものだということは、太陽系観光時代の初期にはもうすでに認識されていた。
渡は戸惑うが、追加募集に受かる直前まで宇宙大学への入学を目指していた崇女は、冷静に対処する。その姿に触発されて、渡はハスキーを「アニマルセラピー」に使うというようなアイデアを考え出すのだった。
第一次全史レースの期限である一一月一一日は、もう二週間後に迫ってきていた。
太陽系グランドツアーにおける太陽の次の目的地は、水星である。
太陽から水星へ向かう途中で、第一次全史レースは期限を迎えることになる。
そのため、現時点で全史一〇〇ページを達成できていない探査機にとっては、太陽でのミッションが、全史レース生き残りをかけたラストチャンスということになる。
多くのA、B、C級探査機と、半数ほどのS級探査機が、この時点でまだ全史一〇〇ページを達成できていなかった。
彼女達は、期限が日一日と近づくにつれてナーバスになっていく。
はやぶさとさっちゃんのページ数はこの時点で九三に達しているものの、もうあとは太陽しかないという状況を考えれば、先行きは不安にならざるをえなかった。
オリンピック号とタイタニック号に乗船しているH探査機がこれから期限までに全史を稼ぐ方法というのは、二つしかなかった。
ひとつは、周期的に太陽に接近している彗星を観測すること。
もう一つは、太陽そのものを観測すること。
太陽は活動的な天体なので、太陽観測による全史更新は、決して不可能なことではない。
今回のグランドツアーでは、太陽には二〇〇〇万kmまで近づくことになっていた。
それは太陽に一番近い惑星である水星と太陽までの距離(五八〇〇万km)のおよそ三分の一の距離だった。
その領域は、ありとあらゆる意味で苛酷な環境だった。
日向の熱さは一○〇〇度を越える。さらに、地球まで八分かかる太陽フレアの電波バーストが一分で届き、太陽フレアの放射線が数分で到達する。
タイタニック号の船内には、距離二〇〇〇万kmでの太陽アクティビティで使うことを想定した、二〇〇〇度の高温に耐えられるBT素材の宇宙服が用意されていた。
しかしそれは今回のグランドツアーにあわせて開発されたものであり、太陽まで二〇〇〇万km、温度一○〇〇度以上という環境下で人間が船外活動を行った例は、過去になかった。そのため、ゲスト、クルーともに太陽アクティビティには二の足を踏む。
いくら耐熱の面で問題がなかったとしても、太陽フレアの放射線が数分で到達する場所で船外活動を行うことにはリスクが伴う。
太陽フレアが観測された場合に慌てて船内に逃げなければならないのはもちろんのこと、太陽との距離が近いぶん放射線被爆した場合の被爆量が高いというリスクがあった。
ゲスト、クルーが二の足を踏む中、渡は、「なら俺がやるよ」と言う。
磁場と水のバリアに守られない危険な船外に渡を送り出すことを、はやぶさは躊躇した。
今回のチャレンジには死のリスクが多少あるため、はやぶさの脳裏にかつてミネルバを失ったショックがフラッシュバックしてしまう。
そんなはやぶさを、親友のニアは、
「やらなきゃあんたと妹は確実に全史レースから脱落する。なら、やるしかないでしょ」
と、一喝する。
すると、はやぶさは、いままで一人で胸に抱えつづけてきた思いを吐露しはじめる。
「あんたがミネルバのことを気に病んでるってことは、あの犬に対するあんたの接し方を見て薄々感づいてはいたわよ。……でも、だからって、失敗が怖いからやる前に諦めるわけ? 万が一のことが起こらないようにするために、あんたがしっかり太陽活動を監視する。それで済む話じゃないの」
「でも、でも……自分は失敗機だから……用心したって絶対なにかトラブルが起こるに決まってるぶさ……」
「絶対って……」
言葉を失うニア。はやぶさの胸を侵すトラウマが、如何に根深いものであるかを知る。
翌日、はやぶさはもう一度ニアに呼び止められる。
ニアから青いなにかを渡される。
布状の、ふっくらとしたもの。
両手で広げてみる。瞬間、息が止まった。
ミネルバ?
それは、探査機はやぶさに搭載されていた小型機・ミネルバを模した、手編みの何かだった。
手編みの……腹巻?
「これは……?」
「それ、あの犬に着せてあげたら、暖かそうじゃない」
「犬って、ハスキー?」
「ほかになにがいんのよ」
「ど、どうして……?」
「は?」
「こ、これって……」
「ミネルバよ」
放り投げるような口吻だった。
息を詰めたまま、はやぶさは受け取ったものを凝視する。
規則的に並ぶ青いソーラーパネルが、円柱を成す構造。その円柱を縁取るようについている、一六個の小さな突起物。
間違いなく、小型着陸機ミネルバだった。
「ミネルバから、預かったのよ」
「あ、預かった!?」
「ミネルバから、はやぶささんに渡してくださいっていわれたの」
「ど、どこにいたぶさか!? ミネルバは」
「えっ!? ……ど、どこでもいいじゃないそんなの」
「どこでもよくないぶさ!!」
「うるさいわね! わからないんだから、しょうがないでしょ」
「わからないって……会ったのにわからないって、どういうことぶさ!?」
声が裏返る。自分が泣きそうになっているのに気づいた。
「どうしてそんな細かいことにこだわるのよ……はやぶさのくせに……」
前後に揺れながら、ニアが言った。はやぶさが両手で肩を揺すっているのだ。
「私も直接会ったわけじゃないから……そう、たしか拾ったのよ、それ」
「拾った!? さっきと言ってること違うぶさ……」
「拾ったの。そして、この手紙も」
そう言って、ニアがピンク色の何かを渡してくる。封筒だ。ハート型のシールによって封がされている。いつもながら、凝り方が完璧だ。さすがは、愛の神エロスを守護神にもつと自分で豪語するだけのことはある。
「これは……?」
「だから、手紙よ。ミネルバが、はやぶさに宛てた手紙」
「ミネルバが、自分に……? でもこのハートのシールって、二アのじゃ……」
「それは私が貼ったのよ」
なんか問題でもある? という風にニアがすまし顔でいった。
「そ、そうなのぶさか……」
「いいから早く開けてみなさいよ」
手紙は、下手すぎる日本語の字で埋めつくされていた。
縦書きの文章だった。やはり、日本語になれていないニアが、ミネルバを装って書いたものなのだろう。
拝啓はやぶささん
はやぶささん、本当にお久しぶりです。ミネルバです。元気にしていますか。
今回私がこの手紙をしたためたのは、他でもありません、はやぶささんにお礼が言いたかったからです。
はやぶささん、私ははやぶささんがイトカワへ私を連れて行ってくれたことに、本当に感謝しています。
小惑星イトカワは、私達が訪れた時点では、宇宙探査機の探査対象としてもっとも小さく、もっとも重力が小さい天体でした。
探すのも大変なら降りるのも大変、ということは、最初からわかりきっていましたね。
たどりつくだけでも奇跡、といわれていましたね。
それでもはやぶささんは、私をイトカワまでちゃんと運んでくれました。
私は、イトカワを間近に見れただけで、十分幸せでした。
私をイトカワへ運んでくれてありがとう、はやぶささん。
ミネルバより。
はやぶさは手紙を胸に抱いて泣く。
失敗への恐怖心を克服したはやぶさは、渡の今回のチャレンジを全力で支える決意を固める。
その様子を見たニアは一安心。
太陽観測か、彗星観測か。
どちらをとるかという判断で彗星を選んだオペレーターたちは、自身の探査機を彗星へ送り出す。
タイタニック号に乗船している五〇機のH探査機のうち、二〇機が、彗星に可能な限り近づくための遠征に出ることになった。
ニアとスターダストのほかに、アメリカの彗星探査機ロゼッタや、日本の彗星探査機さきがけ&すいせいらも参加する。
船長の勝田は、彼女らを「コメット艦隊」と表現した。二〇機のチャレンジを称えたあと、ゲストに盛大な拍手を促す。
意外にも、彗星探査機の代表格であるはずのディープはこのミッションに参加しない。
オペレーターである崇女が、今回は渡のチームの太陽観測をサポートすべき、と判断したためだ。
ディープはソーラーシールドという巨大な四角い盾を展開できる探査機だ。
万が一渡の船外活動中に太陽フレアが起こった場合、ディープがそばにいれば、その盾で渡を守ることができる。そう判断して、崇女はディープを彗星に派遣しないことを決めたのだ。
コメット艦隊が旅立った数日後、タイタニック号は太陽再接近の瞬間を迎える。
渡は、太陽との距離二〇〇〇万kmで宇宙遊泳をするという、人類史上初の快挙を成し遂げる。
特殊加工されたバイザー越しに見る太陽は、想像以上に大きかった。地球から見える月が一〇個は収まるくらいの大きさをしている。
驚異的な景色だった。
人類史上初めて母なる太陽との対面を果たした感動に、渡は打ち震える。
はやぶさ、さっちゃん、ディープそれぞれが、このミッションによって全史を一〇ページ更新する。
第一次全史レースの期日が数日後に迫っていたなか、三人はなんとかぎりぎりゴールである一○○ページを達成することができた。
数日後、コメット艦隊が続々と帰還する。
ニアとスターダストは、帰還時に重い顔をしていた。
はやぶさは二人を出迎える。
全史の話をするため、人間のいない場所に移動する。
はやぶさはニアから、
「自分とスターダストはもうとっくに第一次全史レースをクリアしてる」
と伝えられていたため、はやぶさはまずは自分が今回のミッションによって一〇ページの全史更新を成し遂げたことを二人に伝える。
瞬間、ニアがはやぶさの胸に飛び込む。
「よかった……本当によかった……」




