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サンプルリターン

 ハスキーと二人、自室で犬ぞりレースの録画番組を見ているときだった。


 コン、コン。


 きちんと間を置いたノックの音。主への敬意が伝わってくる丁寧な叩き方だ。この叩き方で、来訪者がはやぶさであるとわかる。そのようにしろと指示した覚えは、渡にはない。はやぶさはただ、自分が元々もっていた感覚に従って、このようにドアを叩いているのだ。


 渡はあえて何も返さない。すると、隣にいたハスキーが主の顔を一瞥したあと、


「ワン!」


 ドアに一吠え。はやぶさの行動パターンをもうすでに理解しているのだ。


「失礼しますぶさ」


 秘書のような礼儀正しい挨拶をしながら、はやぶさが入ってくる。


「オペレーター、お水をおもちしましたぶさ」


 相手の顔色をうかがいながら、はやぶさは、盆に乗せていた犬用水入れをハスキーの眼前に置く。座卓の下ではなく、上だ。


「なあ、気持ちはわかるんだけどさ」


 はやぶさの意識を引くため、渡は片手で雨粒を受けるような仕草をする。


「それをテーブルの上に置くのはやめてくれよ」


「も、申しわけないぶさ……」


 瞬時に平謝りしたかと思えば、はっと我に返ったような顔になる。五秒後には、非難めいた眼差しを送ってきた。


「オペ……」


 無意識に渡をオペレーターと呼ぼうとしてしまったのだろうか。途中で強引に言葉を切ったはやぶさは、自分を責めるようにぶんぶんと首を振る。


「渡さんは、自分のオペレーターになることを拒否したじゃないぶさか!」


「え? ……ああ、そうだけど」


「なのにどうして、いまさら自分に対してコマンド(司令)を送るぶさ!」


「コマンドって……」


 はやぶさの人差し指が、渡の目をハスキーへと導く。


「自分はいま、この方を自分のオペレーターとしているぶさ! だから、いま自分に対してコマンドを送る権利をもつのは、この方だけなんぶさ! 部外者になにをいわれても、聞くつもりはないぶさ!」


「それは、ここが俺の家でもなのか」


「もちろんぶさ!」


「まじか……」


 途方に暮れた渡は、ガクンと首を折るしかなかった。そのまま沈黙する。


「オペレーター、どうしたぶさ?」


 少しの間を置いて、はやぶさが言った。困惑した声だ。とっさに俯いていた顔をあげると、ハスキーが眼前の水入れを見つめたまま微動だにしなくなっていた。その様子を、はやぶさは気にしているようだ。渡は呆れてため息をついた。


「どうやらハスキーは、テーブルの上に乗ってる水入れから水を飲むことが、行儀の悪いことなんじゃないかと気にしてるみたいだな」


「ハスキーが? ……ううん、そんなはずないぶさ!」


「どうしてだよ」


「だって、人間はみんな、テーブルの上に食器を置いて食事をとるじゃないぶさか!」


「きみはロボットだからわからんだろうが、犬には犬のルールってもんがあるんだよ」


「ロボットじゃなくて、宇宙探査機ぶさ!」


「そう、宇宙探査機。宇宙探査機だからこそ、わからないんだろ」


「そ、それって、どういう意味ぶさ!」


「そのまんまの意味だよ。宇宙探査機ってのはみんな、打ち上げられてからはずっと宇宙にいるもんなんだろ? だから、宇宙に特化してる一方、地球の常識はまるで知らない。……だがそんななかでも唯一、探査機はやぶさってのは生まれ故郷である地球に帰ってきた探査機なわけだけどな」


「唯一じゃないぶさ」


「え?」


「ソ連の月探査機ルナ16先輩と、その妹のルナ20先輩と、アメリカの太陽探査機ジェネシス先輩がいるぶさ」


「その御三方が、はやぶさのように地球に帰還したサンプルリターン機ってことか」


「そうぶさ」


「なるほどな。……まあそんな風に、なかには母なる地球に帰ってくる探査機もいると。でもそんな君らだって、サンプルを地球の技術者に届ける使命がある以上、地球の上空にそんなに長くとどまるわけじゃないんだろ?」


「そ、それは……」


 はやぶさが声を詰まらせる。そのまま、俯いて黙りこんでしまう。黙りこんでいるうちに、肩が微動しはじめる。震えだしたのだ。顔から血の気が引いていく。


「おっ……おい、大丈夫か?」


「だ、大丈夫ぶさ……」


 不安定な小声が返ってきた。震える咽から絞りだした声だ。


 ぜんぜん大丈夫じゃないじゃねーか。


 テーブルを見つめる目は、大きく見開かれ、ありえない張り詰め方をしている。まるでそれは、この世の地獄でも見ているかのような……


 地獄?


 そうか。


 そうだ、地獄だ。


 はやぶさの前世である探査機はやぶさは、オーストラリアの砂漠に落下しながら、大気との摩擦によって燃え尽きた。


 はやぶさはいま、そのときに自分が味わった地獄のような熱さを、思い出しているのだ。


「悪い。不謹慎なことを言っちまった」


「そんなことないぶさ……」


 はやぶさがふいに双眸を閉じた。涙を止めようとしたのだろうが、手遅れだった。決壊する。


 とめどなく頬を滑り落ちていく雫に、ハスキーが鼻を寄せる。おもむろに舐めはじめた。気づいたはやぶさが、ハスキーに覆いかぶさる。いや、包むように抱きしめたのだ。



 一時間後。


 はやぶさが持ってきた水入れは、テーブルの上ではなく、床にあった。落ちつきを取り戻したはやぶさが、自分で場所を移し変えたのだ。


 床に置いてから、ハスキーは水入れに舌を伸ばすようになった。その様子を見たことで自分の間違いを悟ったのかどうかは定かではないが、ふいにはやぶさが、


「たしかに自分は、地球のことを何にもわかってなかったぶさ……」


 と、もじもじしながら言った。


「いいよもう、その話は」


「よ、よくないぶさ!」


「地球と宇宙、両方を気にすることが、宇宙探査機の仕事ってわけじゃないだろ」


 つかの間、はやぶさは眉根を寄せて押し黙る。


「自分は、そうは思わないぶさ……地球を特別な星と考えるのは、人間特有の感覚ぶさ。自分たち宇宙探査機からみれば、地球だって、五〇億年前に誕生した原始太陽系円盤(生まれたての恒星の周囲を取り巻く濃いガスが回転している円盤)を起源とする、八惑星のうちのひとつなのぶさ。地球だって宇宙そのものなのぶさよ」


「地球だって、宇宙そのもの……」


「そうぶさ。だから自分はいま、かつて小惑星イトカワに対して抱いたのと同じくらい強い関心を、地球に対しても抱いてるぶさ」


 宇宙探査機が、地球に強い関心か……目から鱗の話だな。


「今年、はやぶさみたいに生まれ直した人型の宇宙探査機ってのは、たしか全部で二〇〇機いるんだっけか」


「そうぶさ、二〇〇機ぶさ」


「その二〇〇機みんなが、はやぶさみたいに地球に強い関心を抱いてるのか?」


「いえ、そういうわけではないぶさ……ちょっとチャンネル変えてもいいぶさか?」


「ああ」


 スクリーンに広がる光景が、アラスカから火星へと切り替わる。


 マイクを向けている側の人間と、向けられている側の人間がいることから、ニュース番組かなにかの取材だとわかる。


 アナウンサーが動きやすそうな最新の宇宙服に身を包んでいる一方、取材を受けている側の人は、シャツに白衣という、地球上のいでたちをしている。


 新時代の息吹しか感じさせない宇宙服姿のアナウンサーと、地球上感覚で素肌を晒す女とが地球外天体の特殊な環境で競演する映像は、シュールとしか言いようがない……そう思っていた時期が、渡にもあった。


 しかし、技術革新革命ことBT革命が成立して八年、さらに、A探査機なる機械じかけの天使たちが突如人類の前に降臨してからニヶ月が経過した現在、渡の、いや人類全の太陽系に対する認識は、すでに大きく変化してきていた。


 渡、はやぶさ、ハスキーが見つめる画面が、取材対象にズームインしていく。


 取材を受けていたのは、銀色ショートヘアの女性だった。ネクタイを締めるかわりに襟にリボンを結んでおり、女性教授の印象。


 頭の白いアンテナと、ワンピースの両腰の部分にくっついたソーラーパネルという2つのデザインが目立つものであるため、はやぶさ姉妹を人間化した宇宙探査機と見なすのは容易い。一方、スクリーンごしに取材を受けている女性は、はやぶさ姉妹と比べれば、そこまで露骨なデザインはしていない。ならば完全に人間と見分けがつかないのかというと、そういうわけでもない。


 大きなレンズが1つくっついた仮面が、顔の右半分を覆っているのだ。


 さらに、自由に動くロボットアームを一本、片翼の天使さながらに生やしている。


「彼女は?」


「キュリオシティさんぶさ」


「キュリオシティ……なんか聞いたことあるな」


「史上最高峰の火星探査車ぶさ。自分たちH探査機シリーズ二〇〇機のなかでは、最高ランクの特S級に格づけされている方ぶさ」


「ということは、はやぶさやさっちゃんからすれば、こいつは格上の探査機になるわけか」


「そうぶさ。自分は、しょせんはS級探査機ぶさから」


 相手を持ち上げ自分を落とす、いつものはやぶさの卑下だった。


 自虐もほどほどにしろよと言いたくなる半面、キュリオシティと自分を明確に区切ろうとするはやぶさの気持ちに妙に共感できてしまう自分もいた。


 悩ましげに垂れ下がる眉。その眉の印象を全否定するような、口元の不敵な微笑。男顔負けの、堂々とした身振り。


 たしかにキュリオシティは、ランクに違わぬ底しれなさを感じさせる探査機なのだ。


「宇宙探査機には、おおまかにいえば五つのグループがあるぶさ」


 アナウンサーのマイクがキュリオシティの口元から離れた瞬間、はやぶさが切りだした。


「月開発の一環として打ち上げられた月探査機、


 太陽活動を監視する太陽探査機、


 惑星の理解を深めることを使命とした惑星探査機、


 火星生命に関する発見を大目標とした火星着陸機、


 惑星の成長過程を研究するための小惑星・彗星探査機。この5つぶさ。この5つのグループのなかで、地球と縁が深い探査機がいちばん多いのが……」


 言葉を切ったはやぶさは、自分の視線でもって、渡の目をいま一度スクリーンの向こうのキュリオシティへと導く。


「火星着陸機ってことか」


「そうぶさ」


「なるほど……でも、いわれてみればわかるわ。俺は宇宙にまったく興味のない人間だけど、火星が太陽系のなかでいちばん地球に近い環境を持つ星だってことくらいは知ってる」


 上目づかいに渡を見ながら、はやぶさが首肯する。


「次に地球と縁が深い探査機が多いグループは……それが多分、自分とさっちゃんが含まれる小惑星、彗星探査機になると思うぶさ」


「小惑星・彗星探査機は……えっと……すまん、なにをする探査機なんだっけ」


「い、いまさら聞くぶさか!?」


 はやぶさは両手で胸を押さえて、泣き顔を見せる。


 さっき泣いたことで、涙腺が緩んでしまっているのか。


 女子を一日に二回泣かせるとか、勘弁極まりないにもほどがある。


「わ、わかった。聞かない。聞かないから」


 参ったというように、両手を広げてみせる。それから、人差し指を自分の額に突き刺す。


 意地でも思いだそう。できないことはないはずだ。


 なんかの番組でみた記憶が、間違いなくあるのだ。


「ええっとな……そう……そうだ、たしか、小惑星と彗星ってのは、地球の元になったんだよ。太陽系には、最初は地球なんてなかった。まず太陽ができた。それから、小惑星や彗星が生まれた。最初は塵しかなかったが、それらが徐々に集まって大きくなって、小惑星になっていったんだと思う。恐らくは。そして今度は、小惑星と小惑星がぶつかって、それで……うおっ!?」


 突然なにかが覆いかぶさってきた。目を閉じて記憶を辿っていた最中だったため、まったく気づかなかった。仰向けに倒れそうになるが、両肘を杖のようにしてもちこたえる。


「すごいぶさ! どうして知ってたぶさか!?」


 状況を理解しようとした矢先、耳元ではやぶさの歓声が弾けた。自分がはやぶさに抱きつかれたのだと気づく。


 マジか!?


 見開いた目で、恐る恐る声がした方向を見る。すると、グレーの大きな瞳と目が合った。瞬間、心臓が止まりそうになる。


「――!?」


 近い。というか、近すぎる。


 渡の顔とはやぶさの顔の間には、互いの顔全部をようやく捉えられる程度の間隔しかなかった。ある意味、絶妙な距離ともいえる。その間隔を保ったままはやぶさは、


「嬉しい、ほんとうに……嬉しいぶさ!」


 と、嬉々とした顔で叫び、細い体と小ぶりで柔らかな胸の感触を預けてくる。


 無防備にもほどがあんだろ。


 はやぶさは自分が年頃の女子の外見をしているということを、理解しているのだろうか。


 困惑していると、唐突にハスキーに顔を舐められた。ハスキーの目には、渡とはやぶさがじゃれあいタイムを過ごしているようにしか見えなかったのだろう。


 気づいたはやぶさが、両腕でハスキーを抱きしめる。抱きしめたまま、嬉しい、嬉しいと繰り返しつぶやく。渡は置き去りにされた格好だ。


 なんだ、そういうことか。


 ふいに脱力感に襲われ、渡は死んだように大の字になる。


 はやぶさが抱きついてきたのは、渡に対して特別な感情があったためではなかった。


 はやぶさは、人間と犬をもともと混同していた。


 つまりは、そういうことだったのだ。


「五つのグループか……宇宙探査機にも色々いるんだな」


 はやぶさが落ち着いた頃合いを見計らって、渡は言った。はやぶさのハスキーを撫でる手が止まる。


「俺はいままで、宇宙探査機ってのが二〇〇機も存在する理由っていうのを、まったく理解してなかったんだよ。いや、理解してなかったというより、勝手に腹を立ててた。国はなんで、宇宙探査なんていう意味のよくわからないものに、国民の血税を勝手につぎ込むんだ、って」


 渡に向けた目を、はやぶさはぱちぱちと瞬かせる。聞き入っているらしい。

「でも実際は、宇宙探査は意味のわからないものなんかじゃなかった。俺自身が、真面目に意味を理解しようとしてなかっただけだったんだ」


 ふいに眼裏に、はやぶさとさっちゃんが大勢のファンに囲まれている絵が浮かんだ。


 渡が二人とはじめて出会った瞬間の、渡の視点だった。


 俺はあの時、二人に近づいていって、そしてひどい言葉を……


「二〇〇機の宇宙探査機ってのは、みんなそれぞれにそれぞれの使命を持って、意味のあるミッションを行ってたんだな……なのに俺は……出会ったあの日、宇宙探査機そのものを非難するようなひどい言葉を言っちまったよな。本当に……悪かったと思う」


「あ、謝らないでほしいぶさ」


 はやぶさはふるふると首を横にふった。妹のさっちゃんがクールでスマートなのとは対照的に、はやぶさは何かにつけて大仰な身振り手振りで自分の感情を伝えてくる。


「宇宙探査機が税金で作られているのは、事実ぶさから……オペレ……渡さんが謝るようなことは、なにもないぶさ……」


「そんなことないだろ」


「そんなことあるぶさ」


「……そうか」


 これ以上言い合ってもきりがないだろうから、折れておこう。


 たまゆら目を閉じ、気持ちを切り替える。


「なあ、はやぶさ」


「何ぶさ?」


「どうしてはやぶさは、俺をオペレーターにしたがるんだ?」


「えっ?」


 はやぶさが固まる。グレーの双眸が、大きく見開かれた。


「そ、それは……」


 眉根が寄り、困った表情があらわれる。その顔のまま、はやぶさはもじもじしつづける。


 本音をさらけ出すのを躊躇しているのが見え見えだ。言いたくないことを無理に言わせるのが目的ではないので、切り口を変えることにする。


「はやぶさも知っての通り、俺は宇宙にまったく興味のない人間だ。それどころか、大した知識もない。こんな俺をオペレーターにしちまったら、はやぶさはそれこそ永遠に宇宙に行くミッションを得られなくなるぞ。……小惑星探査機が、小惑星を探査しないまま一生を過ごす……それってちょっと、洒落にならなくないか?」


「そ、そんなことないぶさ!」


 全否定するように、はやぶさは激しく首を振った。


「自分はもう、二度と宇宙に行かないほうがいいんぶさ。宇宙探査が向いてない宇宙探査機なんぶさから……」


 痛みを耐えるように目を閉じ、はやぶさがハスキーに覆いかぶさる。ぎゅっと抱く。


「宇宙探査が向いてない宇宙探査機って……どういうことだ?」


「向いてないものは、向いてないのぶさ」


「それじゃわかんねえよ」


 雫が2本、はやぶさの両頬から滑り落ちる。悲壮な表情が泣き顔に変わった。


「わ、わかった。もう聞かないよ」


 両手をあげる。本日二度目の降参の身振りだ。


「自分はこれからもここで仕事がしたいぶさ……ここでの仕事が合ってると思うぶさ……なので、これからもここで働かせてほしいぶさ……」


「ああ、だからそれは構わないって言ってるだろ。ていうか、ハスキーがはやぶさのオペレーターになることに対して、ワン! って言ったんだろ」


「そうぶさ。ワンって言ったぶさ」


「ならいいじゃん」


「は、はい……」


 ハスキーを抱く腕を解いたはやぶさは、背筋を正すと、両目の涙を片手で順に拭った。


教育を受けたメイドのような、品のある仕種だった。このようにはやぶさは、はしゃいでいない場面に限っては、いちいち整った所作をみせる。精神年齢の幼さを思うと、ギャップを感じざるを得ない。


「こんな話、さっちゃんに聞かれでもしたら、丸一日はどやされるぶさ……」


 はやぶさは自分の言葉に急かされたように腰を上げた。


「ハス……オペレーターのお水をお持ちするぶさ」


 空になった水入れを手に取ると、ドアへ向かう。


「あっ、ああ……」


 部屋を出ていこうとするはやぶさの背を、渡はぼんやりと眺めていた。


 はやぶさがドアノブを握ってドアを開いた瞬間のことだった。


 ふいに、はやぶさの後ろ姿に、漆黒の宇宙空間を旅する探査機はやぶさの背面が重なって見える。孤独な光景だった。その幻にむかって、渡は手を伸ばす。


「おっ……おい!」


 はやぶさが行ってしまう。


 このまま行かせたら、もしかしたらもう二度とはやぶさは、ここへは帰ってこないのではないか――どういうわけかそんな思いに駆られ、声を上げてしまった。


「は……はい!? 何ぶさか?」


 はやぶさがビクッとこちらをふりむく。


「い、いや……」


 俺は一体、なにを……


 顔を被う。前髪をかき上げながら深く息を吸い、吐く。


 はやぶさがもう二度と戻ってこないような気がして焦った、なんていえるはずもない。


 しかし、どうしてあの一瞬、俺の目にはあんな光景が……


 そう考えたとき浮かんできたのは、直前にはやぶさが発した「仕事」という言葉。そして、さっき聞いた、宇宙探査機のグループの話だった。


 なるほど、そういうことか。


「俺はいままで、わかってるようでわかってなかったんだなぁ」


 独り言のようにつぶやく。


「わかってなかったって……何をぶさ?」


 はやぶさが不思議そうに首を傾げる。


「はやぶさは、本当にあの探査機はやぶさだったんだな」


「なにを今更……あたりまえじゃないぶさか」


「ハハハ、そうだな」


 ということは……だ。


 渡は、はやぶさが持っている水入れを一瞥する。


 はやぶさがオペレーターであるハスキーに水や餌をしきりに運ぼうとするのは、つまり……そういうことか。


「なあ、はやぶさ」


「何ぶさ?」


「そんなに何かを運ぶのが好きなんだったら、今度からは俺にもなんかもってきてくれよ」


 はやぶさの、円の上半分を除いた形状の目が、丸みを帯びる。大きく見開かれたのだ。


「いっ……いいんでぶさか?」


「ああ」


「オペレ……渡さんにも何かをお持ちして、いいんでぶさか!?」


「もちろん」


 優しい笑顔を意識して作り、頷いてみせる。


「やった!」


 はやぶさはバンザイをしながら飛び跳ねた。刹那、ゴンという音が響く。手から離れた水入れが、天井にぶつかったのだ。跳ね返った水入れは、はやぶさの頭に直撃する。


 コン!


「いたっ!」


 頭を押さえ、しゃがみこむ。涙目になる。


「おいおい、大丈夫か……?」


「大丈夫ぶさ!」


 自分で自分に気合いを注入するように、はやぶさはすっくと立ち上がった。


「いますぐ、渡さんに何かをお持ちするぶさ!」


 言うやいなや、台所の方へ駆け出す。


「とりあえず、水でいいよ!」


 両手を口元に添え、家の反対側まで響かせるつもりで叫んだ。


「はいぶさ!」






探娘辞典 火星探査車キュリオシティ


 一人称は「先生」


「~ヨ」「~ネ」といった風に、語尾が必ずカタカナになる。


 火星生命に関する発見を期待されて打ち上げられた経緯を反映し、超越的な雰囲気を持つ。


 大きなレンズが1つくっついた仮面が、顔の右半分を覆っている。これは、レーザー発射口になっている右目を隠すためのもの。


 さらに、自由に動くロボットアームを一本、片翼の天使さながらに生やしている。


 レーザーで物質を変質させたり、ドリルで穴を開けて物質を掘り出す能力を持つ。


 二○○機の探査機ちゃんのなかでも並外れた好奇心キュリオシティをもつ、マッドサイエンティスト。


 S級にして、ドS。


 周囲のすべての探査機ちゃんと人間を手玉に取る道化師。


 キュリオシティというのは愛称で、マーズサイエンスラボラトリー(火星化学実験室)というのが本名。その名称を反映し、化学者風のいでたちをしている。

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