9:絶望に宿る未来
卒業式が終わってから、わたしは校舎の屋上にやってきた。
この節目の日に、なにもかんじていない自分がおかしかった。
わたしは受験に失敗していた。成績が足りなかったわけではなく、わざと試験を受けなかったのだ。
雪の降りそうな、あの日。ただぼんやりと、川べりを歩いて時間をつぶした。
なぜそんな行動をしてしまったのか、自分でも答えをみつけられないでいる。
守り続けた世界の、砕け散ったカケラの上にたって、ただ安息の日々に身をゆだねている。
胸の奈落から、なにかがこみ上げてくることはない。
くるしいほどの痛みも、恐れも、なにもない。
まるで自分を突きうごかす感情を、うしなってしまったみたいに。
ーー瑠璃を選ぶおまえを、僕は追いかけない。
あの時、葵ははっきりと告白した。彼の中にある、ゆずれない矜持を。
なんどもくりかえし、葵のその言葉をかみしめた。
屋上を吹きぬける風は、まだ冷たい。
卒業証書の入った筒をもったまま、自分の体を抱くようにして身ぶるいする。
「サラサ」
すきとおった声がした。わたしはふりかえってやってきた人影にほほ笑みを向ける。
「ミヤ」
かわらず楚々とした美しい仕草で歩みよってきて、ミヤは私のとなりに立った。
制服の胸に咲くあかい造花が、風にあおられて揺れる。
「先生も、今日でこの学園を去るのね」
学園内でささやかれていた噂は、最後の教壇で、葵が生徒達に打ちあけた。
もう、教師ではなくなってしまう葵。
日本をはなれて、違うだれかに愛を語る。
「先生は、日本を離れるのでしょう?」
わたしはおどろいてミヤを見つめた。教職を辞すことを伝えても、その後のことは生徒達には語っていないはずだった。
「更紗は先生を選ばなかった」
「ミヤ、どうして?」
どうして知っているの、というわたしの問いかけに、ミヤはあでやかに笑う。
うごかなくなった心を、むりやり揺さぶるような残酷な美しさが宿っていた。
「更紗が先生を選ばないから、悪いのよ」
高校卒業後、ミヤは留学を決めていた。じりじりと、いやな予感が胸の内を焦がしはじめる。
「私は更紗に何度もきっかけを与えたつもり。それなのに、頑なに、いつまでも瑠璃に義理立てをしているから、わたしが先生をいただいたわ」
「冗談、でしょ」
はげしくなっていく鼓動を感じながら、あいまいに笑うと、ミヤはふっと笑みをひそめる。
「冗談じゃないの。サラサ。先生はね、私を好きになる努力をすると言ってくれたのよ。 そして私は、いつか先生にあなたを忘れてもらう自信がある。永遠の愛なんて存在しないのよ。 いつも傍にいるものが、すべてを手に入れる」
じわりと、奈落にうごめく何かを自覚する。うしなったはずの背徳。
「いつから」
うわごとのようなわたしの呟きに、ミヤは耳をかたむけるように口を閉ざした。
「葵とは、いつからはじまっていたの」
「先生がわたしに興味をもってくれたのは、サラサにタトゥーがあることを教えた時じゃないかしら」
「ミヤは、いつから葵を好きだったの?」
「はじめて見たときから」
無垢み見えるほど自然に、ミヤは言葉にした。
「先生と出会ってから、わたしはずっと彼を見ていた。 だから、本当はサラサに打ち明けられる前から、二人には何かがあるとわかっていたわ」
当たり前のことを示すように、美夜は淡々と教えてくれる。
なぜか、彼女を罵しるような気持ちにはなれない。
指先から血の気が引いていくのを自覚する。
息が苦しくなる。
いけない。
これ以上ミヤの言葉を聞いていてはいけない。
「瑠璃が死んで、更紗の時間も止まってしまったのね。あなたは、ずっと立ち止まったままだった。先生の気持ちも知らずに」
動悸がますます激しくなる。
体の内側で警鐘を打ち鳴らすかのように、ドッドッと鼓動が身体中に響く。
危機感が高まっていく。
「私がきっかけを与えても、サラサは先生を選ばなかった。だから、私が先生を選ぶ。もう我慢はしないの。これからは、私が先生と一緒にいるわ」
「これから……?」
「そうよ。これから、ずっと」
ーーこれから、ずっと。
奈落から滲みだした想いは、怒りでも哀しみでもなかった。
うらぎられたという気持ちでもない。
絶望。
瑠璃に葵をゆずったときとは、まるで違う。
カチリと、錆び付いていたはずの鍵が、かみ合ってしまった音がする。
急激に高まった危機感の正体。
ミヤも葵もすべてを受け入れて、進もうとしている。
それは。
生きている者だけに与えられる未来。
どっと、こみあげてくる感情があった。
世界が砕け散ってからも、守られていた世界。カケラとなって足元に積もっている瑠璃の理想の王国。
それがはっきりと壊されてしまったのがわかる。
とどめることのできない勢いで、痛みがあふれ出す。
視界がゆらめいて、すぐにミヤの姿がゆがんだ。
熱いかたまりがほどけて、流れだす。
突き付けられた真実。
その先にある答えを、ついに認めてしまった瞬間。
いままでわかったふりをしながら、本当は頑なに目をそらしてきた。
瑠璃は、もうどこにもいない。
わたしはまるで世界に独りで残された子供のように、誰にはばかることもなく、声をあげて泣いた。
ずっと認めてしまうのが、怖かった。
瑠璃のいない未来を思い描くことが、どうしてもできなかった。哀しすぎた。わたしには、たえられなかったのだ。
だから、葵をいけにえにして、瑠璃の存在を守りつづけてきた。
けれど。
全てを認めてしまった今、わたしには覆すことのできない気持ちがある。
たえられなかったはずの、瑠璃のいない未来をみとめてしまうほどに。
わたしは、葵をあきらめられない。
どれほどのうしろめたさにとらわれても、もう封じ込めることはできない。
引き抜かれてしまった楔。
瑠璃の死をみとめてしまったわたしには、二度と瑠璃の悲鳴は聞こえない。
私を責める、瑠璃のまなざしを感じることもできない。
共に生まれた私の半身。
かけがえのない存在。
瑠璃。
ごめんなさい。
わたしを許して。
泣きながら、わたしは瑠璃にあやまる。
何度も、何度も、許しを乞う。
あなたとの想い出よりも、葵との未来を欲しがるわたしを、許して。