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8:砕け散った世界

 なれた足どりで、破滅あおい女神るりの部屋にたどりつく。静寂にみたされ、闇に沈んでいた部屋は、蛍光灯のあかりで色彩をとりもどした。


 瑠璃が生きていた頃と、何も変わらない室内。

 ただ彼女の輪郭だけがどこにもない。


 葵はまよいのない仕草で、瑠璃が好んで座っていた独りがけのソファに腰かけた。

 わたしは立ち尽くしたまま、こちらを見上げた葵をにらむ。

 葵はわたしの憎しみに無頓着な様子で、あさく嗤った。


「なにをそんなに憤っているんだ」


「どうして、瑠璃をあざむくことができるの?」


 こみ上げた激情で声がふるえる。葵は何もいわずこちらを見つめていた。


「瑠璃はあんなに葵を慕っていたのに! まだ二年もたっていないのよ! なのに、……信じられない」


 怒りを吐き出すわたしに、葵は視線を伏せた。ふたたびこちらに眼差しを戻しながら、冷淡な声がこたえる。


「何度も言うが、僕は瑠璃を愛してはいなかった。更紗、彼女に同情して夢をかなえることは、そんなに悪いことなのか?それとも、生前の彼女に真実を打ち明ければよかったのか?僕が愛しているのは更紗だと」


「ふざけないで。……もう、わたしを愛していたなんて言わせない。瑠璃もわたしも、葵に弄ばれていただけよ」


「弄ぶ?」


 不思議な言葉をきいたような反応で、葵が眉を寄せる。黒硝子のような光沢をもった瞳に、わずかに苛立ちがにじんだのがわかった。


「僕が、違う誰かを選ぶから?」


 彼をにらむ視線に力をこめる。怒りだけが充満していた。瑠璃でもわたしでもなく、他の誰かを求めるのならば、もう葵をおそれる理由がない。

 瑠璃がどんなに葵を想っていたか。わたしがどんな気持ちで二人を祝福したのか。

 今となっては、すべてが意味をうしなっている。


 葵はわたしの視線いかりを真正面から受け止めて、ふたたび嗤う。低く漏れた彼の声に、血が逆流した。


「何がおかしいの」


 声を高くすると、葵はソファから立ち上がり、その勢いのままわたしの腕をつかんだ。背中を打ち付けるような衝撃がはしる。


 いつかの放課後の教室を再現するように、わたしは追いつめられていた。閉じられた扉に押し付ける葵の力は、容赦がない。


 吐息の触れ合う距離にあっても、もう震えるような恐れはかんじない。

 逆巻くような苛立ちが全てを遠ざけている。心の奈落に生まれた怒り。


 わたしにはわかる。

 これは、葵の裏切りを責める瑠璃の怒りだ。


「おまえは気づいたはずだ」


「何を?」


「自分に施された呪いに」


 葵の瞳の中に自分の影を見つけながら、わたしは視線にさらに怒りをこめる。


「だから、何?それが、瑠璃をあざむいたことと、どう関係があるの?」


「瑠璃の呪いを、認めるんだな」


「認めたから、なんだというの?」


 たしかにわたしは気づいた。心の内に、瑠璃が生きている。

 わたしは彼女を失った瞬間などなかった。彼女が在りつづける限り、わたしが葵をもとめることはない。

 もう戒めを必要としない。心には強く穿たれた、瑠璃という名のくさびがある。


「瑠璃の呪いがなんだというの?」


「それを自覚することは、とても重要な変化だ」


「葵が瑠璃をあざむいたことに、関係があるとでもいうの?」


 まったく意味のない話だ。ますます苛立ちだけが募る。

 葵はわたしを背後の扉に押し付けたまま、上体をかがめるようにして顔を寄せてくる。


 うつくしい顔。

 そのまま頬のふれあいそうな距離で、彼は肩越しにささやく。


「自覚したなら、次へいこう。その呪いを施したのは、本当に瑠璃なのか?」


「そんなことは今、関係ない!」


「そうかな」


「いいかげんにして!」


 苛立ちに任せて葵の顔をつきはなそうと振り上げた手は、目的を果たさずとらわれる。

 まるで背後の扉に磔にされるように、わたしは葵に動きを封じられた。


 至近距離でこちらを見下ろす瞳に、じわりと滲み出す熱。

 跡形もなく消え失せていたはずの情熱が、葵を侵していくのが目に見えるようだった。


「更紗」


 艶を帯びた声。苛立ちが、恐れに上書きされていく。

 とたんに怖気づいたわたしに、葵はささやくように告げる。


「僕が愛しているのは、おまえだけだ」


 ささやきには、どんな拒絶も受け入れない強さが満ちていた。葵がさらけだす想いは、血しぶきのように激しい。


 彼からほとばしる気配に耐え切れずに、視線をそらした。うつむいたわたしの顎に、葵の長い指先が触れる。

 目をそらすことを許さないと言いたげに、上向きに込められた力。

 ふたたび葵を仰ぐと、作り物のように美しい瞳に、わたしが映っている。


「おまえを愛している。だけど、おまえには僕の言葉は届かない」


 ふっと彼が嗤う。


「おまえは瑠璃を選ぶ。けっして僕を選ばない。瑠璃の呪いに守られた体は、僕が触れることを許さない。

 意識を断ってまで、瑠璃の世界を守ろうとする」


 闇をふうじこめたような双眸にやどる、暗い決意。


「だから、僕も覚悟をきめた」


「覚悟?」


「春になったら日本をはなれる。おまえがそれまでに僕を選ばないのなら、違う女性だれかを選ぶ」


「……何を、言っているの?」


「僕は優しくはない。決して自分を選ばない女を、いつまでも待っていたりはしない。たとえ、どれほど愛していても」


 瑠璃をあざむいたように、葵は違う誰かをあざむいて生きていくというのだろうか。

 それは瑠璃のように一時の演技ではすまない。


 けれど、葵は成しとげる。瑠璃に演じ続けたように、違う誰かにも。

 そしていつしか、終わりのない偽りが、真実になってしまうのかもしれない。

 葵が、違う誰かを心から愛する日がおとずれる。


「更紗。僕を失いたくなければ、瑠璃ではなく、僕を選べ」


 葵の指先を振りほどくようにして、顔を伏せる。

 彼を失ってしまうのだとしても、瑠璃の世界に背くことはできない。


 はじめに瑠璃をあざむいたのは私だ。

 あの時。


ーー更紗は葵のことをどう思っているの?


 素直に、ありのままに、瑠璃に気持ちを打ちあけなかった私が、受けるべき罰。

 本当は初めから知っていた。葵が瑠璃を愛していなかったことは。


 わかっていて、わたしは瑠璃に葵をゆずったのだ。

 本当にひどいのは、わたし。

 葵を責める資格などないのに。

 どれほど後悔しても、瑠璃を失った今となっては、どうしようもない。

 もう、永遠に真実を伝えることはできない。償うことも。


「わたしには、葵を選ぶことはできない」


 葵の気配がさらに近づく。吐息が触れる。


「おまえは、そう言うと思っていたよ」


 穏やかな葵の声。わたしは固く目を閉じた。与えられた安息に、引き裂かれるような痛みを感じる。

 終わるのだと思った。

 瑠璃の世界が終わる。葵の愛をうしなって、砕け散ってしまう。同時に、わたしに穿たれていた楔も砕かれた。


 粉々に散ったかけらに、瑠璃の理想の王国と、わたしが抱きつづけたうしろめたさが見え隠れしていた。

 きらきらと、ガラスのように美しい幻想。

 葵がわたしたち双子の前から去っていくのなら、わたしたちの世界はうしなわれる。

 すべてが白紙にもどる。


「おまえを愛しているよ。誰よりも」


 ささやく声。もうどこにも辿りつかない、愛の告白。


「……知っていたわ」


「はじめてだな。……素直に認めた」


「私は葵を選ばない。だから、葵もわたしを選ばない。そうでしょう?」


「……そうだな。瑠璃を選ぶおまえを、僕は追いかけない」


 はっきりと認めてから、葵はそっと唇をかさねた。わたしは抗うこともせず、受け入れる。

 激しい波にとらわれて、身体中が葵を求めても、もう後ろめたさを感じない。

 瑠璃の悲鳴は聞こえてこない。視線を感じることもない。


 これは、全てを終わらせる口づけ。

 砕け散り、すべての理想と背徳をうしなった世界には、何も残らない。

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