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7:破滅の足音

 わたしには、わかったことがある。

 これからも瑠璃を裏ぎることはない。心に刻まれた女神(瑠璃)への崇拝は、けっして築かれた境界をこえることを許さない。


 失った半身の望んだ理想の王国を、壊すことはできないのだ。

 葵の想いにまき込まれそうになるたびに、圧倒的な恐れが、わたしをとらえる。

 葵の容赦のない振る舞いをもってしても、たたき壊すことのできない世界。


 わたしの心には、楔が打ちこまれていたのだ。

 いつでも瑠璃は、すぐ傍にある。


 その事実は、不安定なこころを立てなおした。

 これ以上、まちがいを犯さなくてすむ。

 そっと安堵した。


 放課後の教室で気をうしなったときに至った境地。

 きっと葵にもわかったのだろう。

 手を伸ばすと、わたしが壊れてしまうということ。

 波打ちぎわに築かれた砂上の城のように、わたしの心はもろい。


 あれから、葵は教師としての顔しかみせなくなった。

 もう、わたしを欲しがる悪魔はいない。

 胸の十字架クロスに意味を求めることも、新しい戒めも必要がなくなった。


 あの日、つきあってもいいと答えてしまった速水には、後日きちんとことわった。

 うしろめたさに恐れることのない、穏やかな自分がもどってきた。

 葵の気配を感じることがないまま、ゆっくりと日々が過ぎる。


 本格的な受験シーズンを迎えたころ、ふいに葵が改まった装いで我が家を訪ねてきた。

 わたしが放課後の教室で気を失うまでは、まるで家族の一員という風情で、ためらいもなく訪れていたのに、最近では両親が不在の時刻にやってくることはなくなっていた。


「こんばんわ。サラ」


 彼は校内で出会うときとは違い、幼馴染の顔をして微笑む。

 わたしを欲しがっていたころの熱は消え失せて、妹を見るような眼差しを向けてくる。

 どこか気まずい気持ちを抱えたまま、わたしはうつむいて「いらっしゃい」と呟いた。


 玄関先で彼と対峙していると、背後から母の足音が近づいてきた。

 両親は葵の訪問を知っていたのか、瑠璃が生きていた頃から、変わらない待遇で迎える。

 夕食時だったので、彼はそのまま食卓に招かれた。


 最近は白衣をまとった姿しか見ていなかったわたしは、スーツ姿の葵に不安をかんじる。

 なにか良くないことがおきる予感がした。


 何がおきたわけでもないのに、前を歩く葵の後ろ姿を見つめているだけで、気持ちがはりつめていく。

 昔からそうであるように、両親は葵を歓迎した。瑠璃の夫となる前から、両親にとっては葵も私達双子と限りなく同列にならぶ子どものようなものだ。


 両親と笑いながら夕食を囲む葵を眺めながら、わたしは砂をかむような心地で食事をしていた。

 しめ付けられるような息苦しさをかんじる。

 早くじぶんの部屋に引きこもってしまいたかったけれど、予感がわたしをとらえて、椅子から立つことができない。


 半分以上をのこして食事を終わらせると、母が食卓を片しながら、わたしに食後のコーヒーを淹れるように促す。

 葵の気配がない台所キッチンで、おもわず大きく呼吸してしまう。


 コーヒーの豊かな香りに包まれながら、わたしは予感の正体をかんがえる。

 答えを導くことができないまま、仕方なく用意したものをはこんだ。


 そのまま部屋にひきあげても良かったのに、そうすることもできず、わたしはまた食卓についた。

 角砂糖を落として、自分で淹れたコーヒーを口に含む。

 まだ、苦い。


「元気がないな」


 ふいに声をかけられて、わたしは角砂糖に伸ばしていた手をとめた。

 顔をあげると、葵が兄のような目をして笑っている。


「受験勉強で煮詰まっているのか?」


 両親がどっと笑いだすのを感じながら、わたしは自分を取りつくろう。


「べつに、順調よ」


 大学への受験に高望みをしていないことは、葵も知っているはずだった。


「そうだな。おまえの学力なら、なにも問題はない」


 あっさりと認めて、葵は両親と笑っている。まるで下手な茶番劇に参加させられているような嫌悪感がわきあがってきた。


「葵こそ、今日は何かあるの?」


 おもいきって口にすると、彼はふっと笑みを潜めた。そのまま両親に目を向ける。


「実は、今日はお返ししておきたいものがあって……」


 葵はスーツの上着に手をのばすと、内ポケットから一通の封筒を取りだした。

 すっと食卓の上を滑らせるように、父の前に置く。


「これは……」


 父には予感があったのか、中身をたしかめてから、葵を見た。


「こんな形だけのものを、まだ、持っていてくれたのか」


「僕には捨てることはできません。でも、もうそれを持っている資格もないと思います」


 葵は封筒の中身がわからないわたしに、哀れむような眼差しを向ける。


「これは大人の事情だ。きっと、サラには受け入れがたいことだろう」


「どういうこと?


 それは一体なに?」

 封筒を手にしている父を見る。すこしためらいを見せたあと、父は葵と何かを目でかたり、封筒をわたしに手わたす。


 わたしは中身をみて、愕然とする。

 入っていた用紙をひらく手が震える。

 婚姻届。

 瑠璃のサインと葵のサインがならんでいる。

 なぜ、これがここにあるのだろう。


「僕と瑠璃は籍を入れていない」


「どうしてっ?」


「更紗、やめなさい」と父の声がわたしをたしなめる。


「葵は瑠璃の夢を形にしてくれた。それだけで十分だった」


「でも、瑠璃は信じていたのに……」


「更紗。瑠璃の夢は」


 何かを言いかけた父を遮るように、葵の声が凛とひびく。


「いいんです。瑠璃の想いを信じているサラには責められる覚悟をしていました。……それは、瑠璃が僕に与えた課題のようなものです」


 自嘲的に語る葵を、両親はとまどったように見つめている。

 わたしには意味がわからない。

 どんな理由があっても、瑠璃をあざむいたことが許されるはずがない。


「僕は春が来たら、いちど日本を離れようと思っています」


 ハッとしたように両親が葵をみる。父が何かを言いかける前に、葵は秘密を閉じ込めるように、唇のまえで人差し指を立てた。一瞬言葉をのみこんだが、父はおもいきって言葉にすることをえらんだようだ。


「……独りで?」


「一緒に連れて行きたい人がいますが……。でも、まだわかりません。何も伝えていないので」


「だから、これを返しに来た」


 父が形だけの婚姻届を見る。


「はい。瑠璃には申し訳ありませんが、僕には心に決めた相手がいます。今日はけじめをつけるために、うかがいました。そのことをお二人にも報告しておきたかった」


 父と母は顔を見合わせてから、静かにうなずく。

 母が葵に笑顔を向けた。


「そう。……うまくいくといいわね。これは私たちが処分しておくわ」


 母の手がとどく前に、わたしは婚姻届をつかみとる。

 葵はわたしだけでなく、瑠璃からも遠ざかろうとしている。すべてを忘れて、あたらしい誰かと違う未来を築くために。


 胸がくるしい。瑠璃の絶望が、わたしにはわかる。

 涙があふれてきた。


「瑠璃のことを忘れるっていうの?」


「忘れるわけじゃない。思い出になるだけだ」


「同じことよ!」


 立ち上がって激昂するわたしの肩に、母が手をおいた。


「やめなさい、更紗。彼は――」


「妙子さん、いいんです」


 いつのまにか、葵がわたしのそばに立っていた。葵に見つめられて、母はそれ以上何かをいいつのることをやめた。


「サラにとってはルリは自分の半身のようなもの。僕たちにはわからない絆があるんでしょう。彼女には、僕から説明します」


 葵がそっとわたしの背中に触れる。


「ルリの部屋へ行こう」


 言いたいことは山のようにあったけれど、唇をかみしめてうなずいた。

 もう葵と二人きりになることを恐れる必要もない。

 すでに悪魔ではなくなった彼は、ただの破滅だった。


 どちらにしても、彼はわたしたち双子の理想の王国を砕くのだ。

 わたしと葵は、暗澹たる先途に旅立つかのように、瑠璃の部屋へむかった。

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