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5:肌の十字架

 わたしが胸にクロスを彫ったのは、瑠璃と葵の婚約がきまったときだった。余命いくばくもない瑠璃。彼女がそのみじかい生涯にいちどだけほしがった男。

 それが、葵。


 彼はわたしたち双子にとって偉大な存在だった。幼馴染だとかたるだけでは、何かがたりない。幼いわたしたちは、そんなことにも気がつかず同じときを戯れていた。

 瑠璃もわたしも、葵になついた。彼こそが世界のすべてだった。


「どうしたの?」


 放課後、屋上でつよい風に身をゆだねていると、綺麗なまきがみをあそばせながら、ミヤが姿をみせた。

 美しい夜とかいて、美夜。彼女にはこの上もなくふさわしいと思う。

 本来のふかい色素がぬけた明るい髪色。かんぜんに校則違反の髪。この学院では不つりあいなのに、ミヤは楚々としたふるまいで、その過剰な華やかさをなじませている。


「いい子ぶるのも、そろそろ限界?」


 皮肉をかたるように、ミヤはわたしを労わる。まるで年のはなれた妹を危惧するかのようなふかいまなざし。彼女のなかには、ほかの生徒にはない世界がある。

 ミヤは教室ではみせない飾りけのない笑みをうかべると、小さな箱をとりだした。なれた手つきでタバコを一本くわえる。


「かわいそうね」


 何でもないことのように忠告だけをくれて、タバコに火をつけた。けだるげに煙を吐きだして、ちらりと黙りこんでいる私をながめる。


「もっとポジティブになればいいのに」


 ミヤはほそい指先で私の胸をトンとたたく。

 むねのクロスは、ミヤのなじみの彫り師が手がけてくれた。


「先生もかわいそうに」


 なぜあの時ミヤに心のうちをぶつけてしまったのだろう。わたしはただ自分を戒める刻印がほしかっただけなのに。


 ミヤはクラスメートが一目おくほど優秀な生徒であり、家柄も申し分のないお嬢様だった。ただ素行はあまりほめられない。夜の繁華街で彼女をみたとささやく生徒達のうわさ。わたしは恵まれた彼女へのヒガミだろうと耳を貸すことはなかった。


 クロスのタトゥー。

 そのきっかけがなければ、わたしは今もミヤを単なるお嬢様だと思いこんでいたはずだ。


「更紗は、本当は許されたいと思っている――違う?」


 ミヤの謳うような声は、どこか瑠璃をおもいださせる。


「違うわ」


「誰に?とは、聞かないのね」


 ミヤはいたずらっぽく笑う。わたしは降参する。黙りこむことしかできない。

 いまさら、ミヤに何をごまかそうとしているのだろう。


 瑠璃と葵の婚約。

 その日がくることを祝福しながら、少しずつ追いつめられていたわたし。

 とっくに封印できたと思っていたのに、それはとつぜん胸の奈落からにじみ出した。


 真紅の激情。

 自身をいましめる何かがひつようだった。

 わたしは十字架の刺青をえらんだ。


 当時、ミヤとタトゥーがなぜ結びついたのか。いきさつは、よく覚えていない。

 ただ胸に十字架を彫ることが、この上もなくふさわしいと思えた。

 うつくしい自戒の証。

 いつか心を形づくる皮膜がやぶれて、体中を支配している真紅にまみれた想いがあふれだしてしまわないように。

 ひとしずくも、真実が漏れでることがないように。


 しろい肌をあざやかに彩る十字架。わたしを戒めるシンボル。

 ミヤは何も詮索せず、あっさりとわたしになじみの彫り師を紹介してくれた。


 わたしがタトゥーをいれたことを知ると、ミヤはそれがなじむまで経過が良好かをしりたがった。

 わたしとミヤは、いつも校舎の屋上で会話をした。

 やがてクロスが傷跡ではなくなった頃、瑠璃と葵は挙式した。

 鎧のようなかさぶたがめくれおち、あらわれたクロス。

 タトゥーは美しいできだった。そして見事にわたしをいましめ、すべてを封印してくれた。


「先生は、あなたの胸にこんなものがあることを知ったら、どんな顔をするかしら」


「関係ないわ」


 小さくうったえると、ミヤはふうっと煙を吐きだす。


「更紗にとって、一番大切なことは何?」


 わたしは答えることができない。ミヤのその問いかけには、いつも答えることができない。すでに正しい答えは用意されているのに。


 瑠璃の世界をまもること。

 それがわたしにできる、せいいっぱいの償い。


「噂をすれば、影ね」


 ミヤの視線を追いかけると、ゆっくりと葵があゆみよってくるところだった。相変わらず、白衣が目にいたい。

 ミヤは悪女のようにほほえみながら、葵の白衣にタバコとライターをねじこんだ。


「先生――――――」


 悪びれることもなく、ミヤは葵の肩に手を添えて何かを囁く。すっと彼の顔色がかわるのがわかった。


「――まさか」


「嘘だとおもうなら、確かめてみればいいですよ」


 ミヤは不敵な笑みをのこして、屋上からすがたをけした。葵は信じられないものを見るように、わたしを眺めている。


 彼がなにを知ったのか。

 からだから血の気がひいていくのがわかった。恐ろしさにつきうごかされて、一目散にかけだす。

 屋上をはなれ、階段をかけおりた。放課後の教室は廃墟のようにしずかで、人影が絶えている。けれど、追跡者をふりきって独りきりになれるところがない。


 校舎をさらに下りるか、別棟へつづく渡り廊下をえらぶか。

 その迷いを、追跡者はみのがさなかった。

 のがれるための加速をうばわれ、ふわりと体がうきあがる。背後からいとも簡単にわたしを引きよせる力。ぞっとするほどの怒りがつたわってくる。葵は仔犬を抱えるように、力まかせにわたしをあつかう。


 無人の教室へ放りこまれ、すぐに逃げ場をうしなった。葵は容赦のないちからで、乱暴にわたしをとらえる。彼の中に充満している苛立ちが、目に見えるようだった。


 葵がなにをたしかめようとしているのかは、聞かなくてもあきらかだ。

 あらがうために暴れると、いきおいで机にぶつかって重心をうしなう。床に手をつくと、葵の手が引き裂くようにブラウスの胸元をひらいた。


 はじけとんだ小さなボタンが頬をかすめる。葵はためらわない。ながい指先が下着をたくしあげ、胸の膨らみを露わにした。わたしはまるで陵辱される処女のように、非力だった。力尽きたように抵抗をあきらめ、目をとじる。


 胸にきざまれた、美しい十字架。

 葵が見つけてしまったのなら、仕方がない。


「――なるほど」


 冷たいつぶやきが堕ちてくる。

 目を閉じているのに、声にならない葵の嘲笑を感じた。


「こんなもの、何のやくにもたたない」


 つっと、タトゥーに触れるぬくもり。クロスをなぞっていた指先が、ふいに爪をたてた。わたしは痛みに顔をしかめて、葵をにらむ。胸をさらけだしているのに、恥ずかしいという気持ちはわいてこなかった。


「こんなものでは、どうにもならないはずだ」


 わたしを見おろす厳しい瞳。声は穏やかなのに、表情はけわしい。


「更紗」


「――っ!」


 十字架にたてられた爪がうすい皮膚をつきやぶった。葵の指さきが真紅にそまる。いとも簡単にクロスを汚し、血にそめた指先がわたしの唇をなぞった。


「覚えておくがいい。おなじ血がながれていながら、瑠璃とおまえはまるでちがう。僕がなぜおまえに惹かれたかわかるか?」


 血で紅をひかれた唇に、葵はそっと唇をかさねた。わたしは抗うこともせず、ただ人形のように横たわっている。


「瑠璃がいちばん愛していたのは自分。あるいは更紗、おまえだけ。……だけど、おまえはちがう」


 ふっと葵のちからがゆるんだ。わたしをみおろす瞳が穏やかさをとり戻している。くみしいていたわたしを解放して、彼はまとっていた白衣を投げてよこした。わたしはのろのろと上体をおこして、目のまえに立つ葵をみあげる。視線があうと彼は苦笑した。


「おまえがいちばん愛しているのは、――この僕だ。幼いころから、僕がおまえの世界のすべてだった。それは今もかわっていない。だから、そんなふうにクロスのタトゥーをいれたりする」


 わたしは答えず、乱れた制服をなおす。白いブラウスが点々と血にそまっていた。立ちあがると、葵は感情のつかめない眼差しでこちらを見ていた。


「瑠璃が僕をもとめたから、おまえはそうやって自分を戒める」


「わかっているなら、わたしに関わらないで。葵がいなければ、わたしはまちがわずにすむ」


「それが正しいとは限らない」


 葵の言葉は、いつも築かれた世界をゆるがす。どれほど踏みかためても、雨がふれば柔らかくなるグラウンドのように。


 かたく乾いた大地。かたくなにその状態を守ろうとするわたしを、葵はみのがしてくれない。豊かな恵みをもたらして、ひび割れた場所をよみがえらせようとする。


「瑠璃はそのクロスのことを知っていたのか?」


 教室を出ていこうとすると、葵はひき止めることもなく、そんなことを訊いた。


「……知っていたわ」


 答えると、なぜか葵はわらいだす。


「なにがおかしいの?」


 おもわずたちどまってふりかえる。彼はこちらに背をむけたまま、独り言のように呟いた。


「生徒はもう下校時刻だ。さようなら――、かわいい更紗」


 夕闇に支配されつつある教室で、唐突にかたちづくられた境界線。わたしはだまって帰路についた。血のにじんだ胸のクロスが、じわじわと鈍く痛んだ。

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