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10:悪魔の策略

 突如こみ上げた波にのまれたまま、わたしはその場にくずれおちる。

 幼子のように、呼吸をすることもままならないほど、はげしい痛みにおそわれていた。


 誰でもないわたしが、瑠璃の永遠の不在を認めてしまった。

 すべてが想い出になってしまう。

 とてつもない喪失感を、哀しみが埋めていく。


「更紗」


 明瞭な声が、ふっとわたしを現実に引き戻す。涙をぬぐうと、傍にころがっている卒業証書の筒が視野に触れた。

 ここが校舎の屋上であることを思い出して、はっとして顔をあげる。


「大丈夫か?」


 いたわるような穏やかな声。いつのまにあらわれたのか、傍らに葵が膝をついていた。視線をあげると、ミヤが色を失った顔色でこちらを見つめている。


 とつぜん火がついたように泣き出したわたしに驚いて、葵をよんだのだろうか。

 彼の背後に立ってこちらをうかがいながら、ミヤが今まで見たこともないほど、うろたえているのがわかる。

 不安げな眼差しをしていた。


 醜態をさらしたと自覚しても、恥ずかしさを感じることができない。

 絶望の余韻が、すべての感情をとおざけている。

 パタリ、パタリと、涙が落ちて、屋上のコンクリートに染みをえがく。


香坂(こうさか)、ありがとう。もういい」


 わたしを見つめたまま、葵は背後のミヤに向かってつたえる。


「私、やりすぎたのかしら?」


「いや、予想以上に上出来だ。ありがとう」


「ーー先生。この貸しは高くつきますよ」


 ふっと顔をほころばせて、葵がはじめてミヤをふりかえる。


「いいだろう」


 うろたえて蒼白な顔をしていたのが嘘のように、ミヤの声に自信がよみがえる。


「じゃあ、サラサ。あなたが受験を放棄した理由を私が教えてあげる。本当は先生についていきたかったからでしょう?」


 止まらない涙を隠すこともなく、わたしはミヤをみつめた。

 そっとわたしに歩みって、彼女は細く白い指先で涙に触れる。


「先生が連れていく誰かは、あなたのことよ。気をつけなさい、サラサ。 先生はあなたが思っているより、ずっと諦めが悪いの。ある意味、ひたむきすぎて恐ろしい男よ」


 鈴を転がすように、ミヤが笑う。


「面白い経験をさせてもらったわ」


 彼女は「じゃあね」と告げて、何の未練もない様子で屋上から姿を消した。

 屋上を吹きぬける風を感じると、寒さがよみがえってきた。

 ミヤがしたのと同じように、葵が涙に触れる。指先があたたかい。


「おまえは僕を選んだ」


 わたしは固く目をとじる。葵にはすべてを見抜かれている。


「そして、瑠璃の死を認めた」


 彼のいうとおりだった。瑠璃を失ってからも、我をわすれるほど泣くことはしなかった。

 できなかった。瑠璃の死を認めていなかったから。


「わたしが、瑠璃を、……想い出にしてしまう」


 たえられなかったはずの現実が、すでに胸の内に宿っている。


「葵が、にくいわ。わたしから瑠璃をとおざける、あなたが」


「僕はそんな憎まれ口を聞きにきたんじゃない」


「そして許せない。瑠璃の気持ちを裏切るわたしを」


 わたしは選んでしまった。

 瑠璃の気持ちを裏切ることになるとわかっていても。


 あきらめきれなかった。

 葵を。


 目の前でほほ笑む、うつくしい悪魔を愛している。


「それでも、葵をうしなうことはできない。そんな世界には、たえられない!」


 奈落に秘めつづけた真実。はじめて素直に言葉にした。


「葵が好きなの。誰よりも」


 瑠璃よりも。

 葵が笑ったと思ったのは、ほんの一瞬だった。強い力に引き寄せられて、なにも見えなくなる。

 彼の体温と鼓動につつまれて、身動きができない。

 瑠璃と過ごしかけがえのない日々が、遠ざかる。


「やっと、手に入れた」


 肩越しに葵の声が聞こえた。


「僕の勝ちだ、瑠璃」


 まるでなにかを競っていたかのように、葵の声は勝者を思わせる強い響きを帯びていた。


「更紗」


 ずっと押し殺していた激情を解き放つかのように、葵の熱がわたしをおかす。

 瑠璃の気持ちを裏切って、わたしが手に入れた世界。

 甘くてにがい、背徳にみちた道。


 けれど、わたしはもう迷わない。

 壊れた世界の先に、新たな世界を求めて生きていく。

 この魔道を、葵と一緒(とも)に。

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