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元カノ

作者: yumyum

「ありがとう、元気が出た」

 突然のみゆきからの電話は、そう言ってあっさり切れた。何かの間違いでもう一度受話器の向こうから彼女の声が上がってくることを期待してしばらくそのままでいたが、さすがに馬鹿らしくなって受話器を置いた。魔法を信じる季節はとうの昔に過ぎ去った。夢など、青春の残骸に過ぎない。みゆきも僕ももう三十路だ。

 七年ぶりの会話だったが、みゆきの声に変わりはなかった。透き通ていて慎みがあり、どこかに落ち着きがある。水琴窟の静寂だ。もっとも、そう思うのは、僕が恋した学生時代の彼女の記憶を引きずっているせいかもしれない。なんの関係のない人間が聞いたら単なるオバサンの声なのかもしれない。それは分からない。僕には主観が強すぎる。

 台所にいき水を一杯飲む。本当はウィスキーを飲みたかったが、あと一時間で朝日が昇る。食道を伝う熱い存在感でこの出来事ごと飲み下してしまいたかったが、その後の仕事を考えるとさすがにそんなことも出来ない。

 ため息をつき、崩れ落ちるように椅子に座った。何で今更電話なんか……ガランとした台所に、答えを教えてくれそうなものは無い。みんなが口をつぐんで静寂を保っている。

 風のうわさで彼女が旦那と別れたことは聞いている。そうして僕も、二年前に妻に逃げられている。こんな元彼の僕とだったら、似た者同士で傷の一つでも舐められるとでも考えたのだろうか。しかし、先ほどの会話にそんなものはお首にも出なかった。ただ学生時代の思い出話をして終わっただけだ。あるいは、これが彼女にとっての傷の舐め方なのかもしれない。昔話を絆創膏代わり、今の傷に蓋をするのだ。老人のすることだ。僕らもそれだけ歳を取ったのだ。

 この後僕はどうなるのだろうか。多分僕は彼女と再会し、運が良ければベッドで一夜を共にする。そのあと元旦那か今の彼氏とトラブルになり、なにかしらの不運に見舞われる。特別機転を持ちあわえていないので、出来るだけ軽い方がいい。行っても暴力事件止まりで、殺人事件には発展しないでもらいたい。警察とのやり取り一つ分からない小市民な僕なのだ。

 とりあえず……寝られそうもない。ミルで豆を挽き、時間をかけて特別濃いコーヒーを入れると居間にいき、テレビをつけると女子アナウンサーが朝から爽やかな笑顔を振りまいていた。幻想だ。寝起きの妻がこんな笑顔をしてくれたことなんて一度もない。クソッたれ、と冷めたコーヒーでため息ごと喉の奥に流し込んだ。


 数日後にみゆきから二度目の電話があった。時刻は夜の十一時、この前の時間を考えればまずまず常識的な時刻だ。相変わらずの昔話に花が咲いて、近況を交換することはない。二人ともそれは避けているといった感じだ。それでも最後に、「実は最近……」ときたときにはとうとうお出ましなすったと思った。

「実は最近……彼と上手くいってないの。彼って、今お付き合いしている人なんだけど、普段はいい人なの、だけどちょっとお酒が入ると何でも疑い深くなっちゃうって、抑えが効かなくなちゃうの……」

 はいはい、と心の中で相槌をうつ。よくある話だ。何万回聞いたか分からない。旦那と別れて出来た新しい彼氏と上手くいかない。それを聞く元彼の僕。この関係のどこに旨味があるのだか分からんが、とりあえずうんうんとうなずく。時刻はすでに十二時を回った。

「私もなんども叩かれたりしていて、どうしたらいいのかな……」

 とっとと別れろよ! と怒鳴って受話器を置きたかったが、多分それは、ダメな対応なのだろう。世間では非常識というのかもしれない。

 どうにも要領を得ないナオキ(彼氏)の批判と擁護を交互に聞きつつ、みゆきが今なにを言われたいのかを模索する。多分ナオキの事は好きだし、だけどその酒癖の悪さだけは何とかしたいのだろう。僕からしたら酔っぱらって手をあげる人間なんて問題外なのでやっぱり『とっとと別れろよ!』なのだが、二人三脚で立ち直ればいいのではないのかと断酒に関するどこかで聞いたことを言ってみる。それでも彼女には効果があったみたいで、「ありがとう」と電話は切れた。

 はー……とため息をつく。受話器を置いてベッドに横になった。時計は見ない。見ようが見みまいが陽は昇るのだ。

 

 三度目の電話で彼女は泣いていた。受話器を濡らす、感動的な涙だ。その雫は、彼女の腕を伝わり地面に帰り、鮮やかな花を咲かせる。草原の輝き、花の栄光……

 十年前の僕だったら飛んでいて彼女を抱きしめたかもしれない。問題は、七年という歳月と、その間にやさぐれた僕の心と、僕の住む東京と彼女の住む大坂という距離と、何より時刻が朝の三時だというところだ。人の恋路を邪魔する奴は、馬にけられて地獄に落ちるらしいが、だからといってJRが新幹線を動かしてくれる保証はない。レンタカー屋に怒鳴り込んでもいいが、そもそも店に人がいないだろう。

 彼女にももう少し時間を考えて電話をかけてきてほしい。僕だって昼――は仕事なので――夕食後のくつろいでいる時だったら幾らでも応じる。どうせビールを飲んでテレビを見るかマス掻くかのどちらかしかやることが無いのだ。

 だが、彼女からの電話をどこかで待ち望んでいるのも事実だ。僕は彼女に再度恋心を抱き始めているのか? 分からない。分からないが、確かに彼女からの電話を心待ちにしている。だからこそこんな真夜中に掛かってきてもベッドから飛び起きって受話器に飛びつくのだ。まったく、馬鹿らしい。僕らがまだ十代の学生同士だったら傍から見ても綺麗なもんだろうが、とうのたったジジババ同士じゃ情けないだけだ。どう贔屓目に見ても痛々しい。それは分かっているのだが、いかんせん電話が鳴ると心がはやる。

 とりあえず、彼女には恋をしていない、と定義することにする。そうしないと物事が前に進まない。涙に咽びながらナオキが、ナオキがと繰り返すばかりの彼女に根気強く相槌をうって、どうしたんだい? と出来るだけ優しく聞いてみる。

「彼……彼……うぅ……」

 これは長期戦である。明日の仕事の予定は、と頭の手帳をめくって昼寝が出来そうな時間帯を探してみるが、外回りがないので無理そうである。せいぜい昼休憩の数十分が限度であろう。ただでさえ僕は眠気に弱い。毎日七時間寝ないと頭が思うように動かない。またケアレスミスに追われるんだろうなぁ、へっへっへと声を出さずに笑ってみる。せめてあのスダレ上司が新人に後ろ指を指されない程度に手心を加えてくれることを祈るのみだ。

 どれくらいそうしていただろう。カーテンの向こうが白み始めたころやっと彼女は口を開いた。

「ありがとう、落ち着いたわ。ごめんなさいね、こんな時間に……でも、私には相談出来そうな人なんてシューちゃんくらいしかいないから……」

 『シューちゃん』という付き合っていたころの呼び名で呼ばれた時には赤い実はじけそうになったが、そこは僕も何度も言うが三十路のジジイ。ギリギリで踏みとどまった。

「いいよ、これくらいなら何時でも相談にのるから」

 もっとも、相手の嗚咽にうんうんと繰り返すことが相談だというのなら。しかし彼女がそれを相談だというのだ、こちらから異議を申し立ててこれ以上話を面倒くさくすることもなかろう。

 とりあえず、彼女の心は晴れた。それでいいじゃないか。

「いつか大坂にきて。案内してあげるから」

 二言三言儀礼的な会話を交わして電話は切れた。

 さて、僕はもう一度ベッドに入るべきだろうか? それともこのまま起きていて出勤するべきか? はたまた見知らぬ親戚に死んでもらって有給でも取ろうか。

 とりあえず、とりあえずだ、大概の問題はコーヒー一杯飲んでいる間に心の中で解決するものだ、という賢者の言葉を頼りに、ミルに珈琲豆をぶち込んだ。


 三十路男の残念な点は、学生時代に比べると多少なりとも貯金が溜まっている点だ。そんな大した額ではないが、思い立ったが吉日で大阪までとんで行きしばらく滞在するくらいの貯えはあるものだ。

 有給をかためてとる際上司には嫌な目をされたが、そこは労働者の権利である。どうどうと申請し、この日、僕は大阪駅に降り立った。

 さて、みゆきは、と探すまでもなかった。新幹線を降りたばかりのわたしに手を振っていた。

「ひさしぶりね!」

 みゆきは学生時代とは違い髪を短くしていた。化粧も濃くなり、派手な色の口紅をひいていた。それでも目の下クマは隠しきれず、そこに七年の月日を感じた。

 それでも僕の心はときめいた。素直に綺麗だと思った。逆に僕の方が彼女に幻滅を与えたのではないかと気が気ではない。

「どうしたの? 変なシューちゃん。行きましょう」

 みゆきは僕の手を取り歩き出した。久しぶりのぬくもりに、こちらも手を握り返した。

「そんなに握ったら痛いわ」

 ごめんと謝る僕に、クスクス笑ってみゆきは先を行く。こうしていると、まるで学生時代に戻ったみたいだ。

 まずは荷物を何とかせねばと、駅前でタクシーを捕まえ予約していたホテルに行くことにした。

 三流(どう贔屓目に見て二流)ホテルだったが、眺めのいい上階で、値段の割に装飾品の趣味も悪くはない。

「別に私のところに泊まればよかったのに」

 みゆきはベッドのスプリングの調子を試しながら言った。

 紛いなりにも僕たちは友達同士、さすがにそういう訳にはいかないだろうと言い服を掛ける僕は思わず息をのんだ。

 ベッドに腰掛ける彼女はなんとも魅力的で、肉感的で、僕の下腹部はすぐに反応をする。

 いけないとは思いつつも、本能には打ち勝てず、僕は彼女に抱きついた。

「いきなり何なの」

 そういって笑うみゆきの胸に顔を埋め、彼女の香りを胸いっぱい吸い込む。僕の手を拒むことはなく、胸はされるがままになっていた。その内右手を下に持っていき、「まって、シャワーを……」なんていう口をキスでふさいだ。

 これだけ燃え上がったのは何時ぶりだろう。妻と別れて以来、女に懲りたと思っていた僕は特定のパートナーを持つことはなかった。それでも運がいいと知り合いとワンナイトの関係になったり、付き合いや惰性でそういうお店に行くことはあっても、それは僕にとっては排泄行為の一環で確かに気持ちは良いが心から満足することはなかった。それが今ではどうであろう。大が三つも四つもつくくらい大満足の僕。満ち足りた、と思ったそばから胸の上で寝息を立てるみゆきの姿に下腹部は再度大きくなりはじめている。もっと欲しい、どこまでも欲しい。

 しかしそんな僕に冷や水を浴びせ掛けるものがあった。みゆきの体についた痣である。痣は出来たばかりの生々しいものもあれば、治りかけて薄くなってはいるがその分逆に痛々しいものまである。例の彼氏にやれたものだろうか。

 僕は痣の一つそっとに触れる。そのまま撫でていると、彼女は薄目を開けニコッと笑った。

「ごめんなさい、寝ちゃったわね」

 慌てて手を放す僕に気づかなかった(もしくは気づいたふりをした)彼女は、何事もなかったように僕の膨れた下半身に気づいたみたいで、クスクス笑うと毛布に潜り込み望みを果たしてくれた。

 

 当初は観光目的で大阪まで出張ったはずなのだが、気づいたら彼女とベッドを共にするだけで時間は過ぎていった。盛りのついた十代カップルなみの性欲を満足させると、僕は帰りの新幹線に飛び乗った。窓の外で見送るみゆきに手を振り、僕はまた下らん日常に戻っていった。

 みゆきからの電話は続いた。相変わらず深夜に掛かってきて、僕の寝不足は加速度的に増していく。近いうちにまた行くから、なんて僕が話していると、間もなく彼女からの電話はやんだ。

 そして久しぶりに掛かってきた電話では彼氏とよりを戻したのと素っ頓狂な声で報告してきた。歯ぎしりしつつ、それはよかったね、などと言ってみたが、私の声はかすれていて、うまく不機嫌は隠せていなさそうだった。

「今度こそわたし、幸せになれそう。彼も今とっても優しくしてくれるの」

 それでもみゆきは気づかないようで、未来の展望などを僕に語って聞かせる。義務的に、それはよかたね、と繰り返す僕。

 受話器を置くと、ざけんな糞アマと怒鳴る。決して彼女には届かない罵声を電話に向かってひとしきり浴びせ掛け、まだ見ぬ彼氏とみゆきのベッドでの様子などを想像して、無暗に嫉妬を掻き立てる。それは何時の間にか憎悪に変わり、気が付くと、彼氏とみゆき、どちらに向いていなのか分からなくなってくる。散々弄んで捨てたと思ったらすぐに帰ってくる彼氏も彼氏だし、そんな糞野郎をほいほい受け入れるみゆきもみゆきだ。

 今すぐにでも大阪へ駆けつけてやろうか……

 思い立ったが吉日だ!


 警察から電話があったのはそれから幾日も経たない頃であった。会社に直接掛かってきて、いぶかしる上司をしり目に私は上の空で聞いた。聞かれたことに答え、私の知りうる限りのことを伝えると、何でも協力すると言い電話を切った。

 気づくと寝室のベッドに座っていた。何時、どのようにて帰ってきたのか記憶にない。窓の外は明るく、時刻は昼過ぎだ。ということは、僕は早退したのであろう。

 電話が鳴った。飛び出して行って受話器を取る。何も聞こえない。どうやら空耳だったようだ。それでもみゆきの声が聞こえてくるんじゃないかと思って、受話器を置くことができない。


 会社帰り、最寄り駅でたまたまみゆきの兄に声を掛けられた。誘われるがままに近くのバーに行った。最後にこの人と顔を合わせたのは学生時代だったが、当時の印象からそれほど変わっていない。すぐに彼だと気が付いた。

「妹が付き合っていた奴だ」

 ギムレットを一啜りするなりみゆきの兄は言った。

「そいつが犯人だよ、間違いない。あいつからDVのことは聞いていた。俺ら家族も何とか別れさせたと思っていたのに、まさかまたよりを戻すとはな……警察だってどうなってんだ、もうかなり経つっていうのにそいつの居場所が分からないなんて。俺たちはいったい何のために税金払ってんだよ」

 酒が進むにつれ、みゆきの兄は涙を見せだした。

 みゆきが殺されて二週間が経とうとしていた。いまだに犯人は捕まらず、警察からも特に知らせはないという。

 僕は頼んだビールに手を付けず、みゆきのことを考えていた。

「なあ、最後に妹とあったんだろ。どうだったんだ?」

 別れ際にみゆきの兄は言った。

 特に変わりはなかった、僕にはそれしか言えなかった。


 まもなく犯人は逮捕された。案の定みゆきの彼氏が犯人だった。ドヤ街に逃げ込んだ逃避行も、最後は通報されあっけなく捕まった。言い合いのすえ、彼女を刺してしまったのだという。

 あれから随分経った。相変わらず僕は一人で暮らしている。僕にはみゆきに何が出来たのだろうと、今でも考える。あの時、大阪に駆けつけていれば最悪の事態は避けられたのではないだろうか。罪悪感はどこまでも膨れていく。ことによると、実は僕が刺したのではないかと錯覚するほどである。

 今日も受話器を取る。何かの間違いで、もう一度彼女の声が上がってくるのではないかと思って。

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