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その水平線の向こう側

 彼に再会したのは、別れてから三年が経った頃だった。


「よぅ。息災か?」

 無造作に畑に踏みこみ、傷一つない上等な靴を泥で汚した男は、陽気に声をかけてきた。

 その姿に、思わず手から籠を落としてしまったのだ。

「へ……へいか?」

「陛下じゃない。王冠は、甥に譲ってきた」

 呆然とした農夫にそう返して、そしていい歳をして少年のように笑った。

「さあ、海を見に行こう、相棒!」


 彼と共に、ほんの数分間だけ山の峰から眺めた、遥か遠い小さな海のかけらが、脳裏を過ぎった。




 ここ三年で、(みやこ)の方から漏れ聞こえてきたのは、隣国との諍いだ。

 一体この国が何をしでかしたのか、怒れる隣国の王は、結果として多額の賠償金を手に入れ、農夫の住む地方を割譲させた。

 ずっと遠方での出来事と思っていたのに、突然当事者になってしまったこの地方の民は、新たな領主に虐げられるのではないかと怯えていた。

 とはいえ、結果として何も以前と変わることはなく、僅かに波立った生活が、再び凪いできた矢先のことだったのだ。



「しかし陛下」

「陛下じゃないと言ったろ。私は、もうただの大公だ」

 王と大公とやらの差が判らなくて、とりあえずそこは放置することにした。

「畑を放ってはおけない。今の季節は忙しいんだ」

「大丈夫だ、ぬかりはない。農家出身の兵士を二人連れてきた。お前がいない間、真面目に仕事をするようにと命じている」

 畦道(あぜみち)に立つ、おつきの男たちに視線を向けた。なるほど、高貴な服装の人々の間に、物凄く青ざめた顔色の若者が二人混じっている。

 呆れた顔で口を開く。

「無茶苦茶だな。昔は、ここまで押しが強くなかったぞ、大公陛下」

「もう『陛下』じゃないからな。お前こそ、海を見たくないのか?」


 そんなことを言われて、心が動かない訳がないのだけど。



 結局のところ、領主の意向に逆らうことができる訳もなく、彼らは旅立つことになる。

 ドラゴンの背に乗り、切り立った渓谷の隙間を風のようにすり抜け。

 遥か上方より流れ落ちる滝の水飛沫を浴び。

 どこまでも広がる、青々とした草原に寝転び。

 巨大な城塞都市の、高級宿に連れこまれ。

 初めて見る数々の景色に、驚愕の叫びと笑い声を響かせて。

 今までの人生を大きく上回るほどの新たな体験に、僅かな羞恥と大きな好奇心を覚えて。

 あんなにも焦がれた海に辿り着いたのは、ほんのニ日後だった。



 ドラゴンが海岸に舞い降りる。

 そこからの眺めを、農夫は息をするのも忘れるほどに、見入った。

 水平線まで広がる、明るい碧の海原。

 流木が点在する白い砂浜。

 穏やかに繰り返す、低い波の音は心を穏やかに導き。

 風は、初めて嗅ぐ不思議な匂いを運んでくる。


 これが、本物の、海。


「朝になったら、日の出を見に来よう」

 当人よりも満足そうな顔で、大公が提案する。

 あのほんの小さな煌めきを、とうとう目前で見られるのだ。

 この、視界一面に広がる海面に。

 呆然としたまま頷く農夫に、更に意味ありげに笑んだ。

「まあ、日の出までは時間がありすぎるからな。向こう側へ行ってみようか」

 そして、沖へと手を向けた。



 風を切って、ドラゴンは海上を進む。

 彼らの後方から岸が消えてしまった辺りで、大公は騎竜に小さく命令した。

 夢中になって下方の海を見つめていた農夫は、ぐらりと視界が揺れて、慌てて鞍にしがみつく。

 次の瞬間、彼らは冷たい海の中にいた。


「……!?」

 恐慌に陥りかけた農夫の背を、笑いながら大公が叩く。

「大丈夫だ、こいつが私たちを護ってる」

 見れば、空を飛ぶのと同じように、ドラゴンはすいすいと水中を進んでいる。

 呼吸もできるし、濡れてもいない。

 思えば、あれほどの速度で空を飛んでいても、乗り手は快適な状態を保っていた。不思議な力があるのだろう。

 ゆっくりと肩の力を抜いて、改めて周囲を見回し──農夫は、幾度目のことか、息を飲んだ。


 視界の中で、艶やかな紅色の枝がゆらゆらと揺れる。

 その間を身をくねらせて通っていく、色鮮やかな魚の群れ。

 岩の上を、奇妙な甲虫のような生き物が何本もの脚を動かして逃げていく。

 視線を上げれば、水面は波打ちながら午後の陽光を歪め、反射して降り注がせてくる。

 ……ここは、今まで彼が生きてきた、大地の上、しっかりと脚を踏みしめて立つ世界とは、全く違う。


「……凄い。凄い、凄い、凄いな!」

 目を見開き、ただそれだけを叫ぶ友に、大公は破顔する。

「凄いだろう? 世界には、こんなところが山ほどある。また見に行こう、一緒に」

 折角身軽になったしな、と続ける男に、うやむやの内に巻きこまれたことに気づかず、農夫は上の空で頷いた。


「水平線の向こう側」と見せかけての「水平面の向こう側」だというオチ。

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