scene 3 死と乙女
「エルキュール──」
晴はその呼ばれるのは、あまり好きではなかった。
「──仕方のないことだ、そなたはエルキュールの魂を宿しておる、ラミアが策謀を巡らせたのだ」
アレスはそう言って、玉座に君臨したまま、ひれ伏す晴を見下ろし笑っている。
アシュラ族の王シャンバラを成敗した晴は、旅の途上、アレスの天空神殿へと招かれた。
アレスには、晴の思念の一端が垣間見えるようで、さしたる言葉を交わさなくとも会話が成立した。
「お前に、そのラミアから言伝を預かった──」
アレスの言葉に晴はハッとして彼の顔を見た。
「── その通り、ラミアは生きておる──厳密には蘇ったと言った方が良いな、ラミア曰く、“モンは既にこの世には居ない、お前が帰るのが遅過ぎたのだ”」
アレスの話の最中、晴は悔し涙を流し、拳で床を打った。
◇
「──遅かったか、」
身体年齢16歳ほどのラミアは、
火防恒隆の山荘の居間で、紋の骨壷を見つめながら呟いた。
ラミアを追って居間へ入って来た恒隆は、彼女が持ち上げた骨壷を床へ叩き付けるのを目撃し、泣き叫んだ。
「ラミア様、なんて酷いことを──」
床の上で粉々に割れた骨壷の中から、紋の骨混じりの遺灰が溢れ出していた。
「日本の守護職たる火防家の当主が、娘ひとりの死をいつまで悼んでおる」
床中に散らばった遺灰を、愛おしそうに掻き集める恒隆を足蹴にして、ラミアは強い口調で吐き捨てた。
「親が娘の死を悼んで何が悪い──」
恒隆は、遺灰を踏み散らかすラミアのロングブーツを履いた長い足へ追いすがった。
「──なにを、あんたは鬼か!」
「鬼じゃない、邪神だ」
ラミアは、足だけで恒隆を軽く振り払うと、紋の骨がどれだか分からなくなるほど、床中を踏み散らかして回った。
そして部屋の隅で膝を抱えて泣き崩れる、恒隆を睨みつけると、
早口でまくし立てた。
「腑抜けブタ野郎、この世界が危機に瀕しておる時に、娘を悼んで2年も隠匿生活、先祖が見たらなんと思うか、命をかけて戦い死んでいった者どもに、申し分けが立たぬと思わぬのか、」
顔にかかった長い髪を搔きあげながら、再び恒隆を見つめたラミアの目に光るものがあった。
「紋──」
と尚も泣く恒隆の首根っこを掴み、ラミアは瞳を赫く光らせた。
「貴様の命を差し出すと言うのなら、紋を生き返らせてやっても良いぞ」
「出来もしないくせに──あなたには、紋を救うことが出来なかったじゃないか!」
震える恒隆は、死を覚悟したかのように声を荒げた。
「妾はこの2年の月日を費やし、地球と対話しておったのだ、この地球の深層にある凡ゆる素粒子から肉体を生成する方法を学んだ」
ラミアはそう言うと床へ散り散りになった紋の遺灰へ片手を翳した。
すると細かな塵が、まるでダイソンのサイクロン掃除機に吸い上げられるかのように渦を巻き空中へ舞い上がったのだった。
それらは見る見るうちに、紋と思しき肉体を形成し始めた。
「妾とて魂まで復元するとなると、至難の技じゃ、さあ、貴様の命を差し出してみよ」
紋の体がほぼ完成すると、ラミアは鋭い爪を長く伸ばし、恒隆の眼前へ突きつけた。
「私は、娘に誓った──」
恒隆は震えながらも、ラミアの手を押しのけてヨロヨロと立ち上がった。
「── 私にはまだ、生きてやらねばならん事がある、この国を守ると、この世界を守りぬくと、紋と約束したんだ、だからまだ死ぬわけにはいかない」
涙を流しながらも強い口調で、そう言い返した恒隆を、見つめてラミアはニヤリとほくそ笑んだ。
「やっと思い出したか、まったく、手のかかる奴だ──」
ラミアは、裸の紋に自分の上着を着せ、ひょい抱き抱えると、外に突っ立っていたアイリスへ紋を託した。
「この娘を、お前らの生命維持カプセルへ入れてやってくれ──」
「どのくらいの期間ですか、蘇生する可能性は?」
と聞くアイリスに、ラミアの返答は曖昧だった。
「さぁな、今ちょうど或るバカが、魂を迎えに行っている頃だろう」
そう言うと、ラミアはふわりと宙へ浮かび上がった。
「え、ラミアさん、あと、私はどうすれば──」
アイリスは空中のラミアを見上げて叫んだ。
「 好きにしろ、どの道、《ディマー》は地球上の生き物を一掃するために、やって来る」
ラミアはそう言い残すとジェット機並みのスピードで空の彼方へと消えて行った。
◇
「──“紋を生き返らせたくば、《冥府》へと下れ”とのことだ」
アレスは、ラミアからの言伝を晴へ伝え終わると大欠伸をひとつした。
「《冥府》?」
さっきまで涙を流していた晴は、急にキョトンとしてアレスを見つめた。
「死者の魂が集う場所じゃ、《冥府下り》とは風流ではないか、しかし神族とて少々骨が折れるな──」
アレスは半ば退屈そうに言った。
「── 我々の叔父、つまりゼウスの弟にハーデスと言うのがおってな、それが今、冥府の魂を管理しておる、奴はついこの間も我らに反旗を翻してな、ゼウス と未だにイガミ合っておる、相当な曲者じゃ、気をつけてかかれよ」
紋が蘇ると喜んだのも束の間、晴はハーデスと聴いて、文字通り地獄へ叩き落とされた気分になった。
あのアレスをひれ伏せさせるゼウスの弟と言えば、神族の中でもズバ抜けた能力者に違いない。
真っ向から戦うことになれば、晴には万にひとつも勝ち目はない。
晴が、どんよりした気分で白亜の廊下を歩いていると向こうからラミアではなくラミアに激似のヘルメスが布面積の少ないドレスを着て颯爽と歩いて来た。
「なんじゃ、浮かない顔じゃなエルキュール、アレスに何か言われたのか?」
ヘルメスはそう言うと晴の顔を、豊満な胸元へ抱き寄せた。
「冥府、ふが、冥府下りを命じられて、ラ、ラミアさんから──」
晴はヘルメスの柔らかな胸に顔が埋もれてうまく話せなかったが、ヘルメスは皆まで聞かずとも話の内容を理解したようで、急にプンプンと怒り出した。
「《冥府下り》はともかく、ラミアのような下級、それも下の下、最下級神族が、孫とは言え、妾の可愛い弟であるそなたへ命令を下しただと、あのメスブタ許せん」
「あ、いや、命令とか、そう言うのは言葉のアヤで、俺が大切に思っている女の子を助ける方法を教えてくれたんですよ」
晴はラミアの株を落とさないため一応弁解した。
「大切な女の子、妾を助けるとな──、冥府と妾にどんな関わりが?」
ヘルメスは、優しく微笑みながら晴の顔を舐め回すように見つめた。
晴は、それが逆に恐ろしくなって、とっとと瞬間移動して、姿を眩ました。
◇
目黒区某所、火防記念病院の屋上ヘリポートに警視庁所属のヘリコプターが着陸した。
「現在心停止、腹側部銃創、現場での応急処置で銃弾は摘出しましたが、銃弾が脾臓を貫通、周辺の静脈は止血したけど、おそらく脾臓内の脾柱中心動脈が傷つき大量出血していると思われる、輸血の準備、ラピッドインフューザーを用意させて──」
巽澪は、ヘリから運び出された患者の上へ馬乗りになり心臓マッサージを繰り返していた。
傍らには、鮮血に染まったタオルで必死に傷口を抑える倉木巡査部長の姿があった。
「あなたは?」
若い男性医師が倉木の手からタオルを受け取って言った。
「警視庁捜査一課9係倉木巡査部長であります、彼は私の上司で、柊警部補、いえ本当のところは警視正であります、彼は幾多の苦境を潜り抜け──」
柊を見つめ、涙ながらに尚も紹介を続けようとする倉木を、後ろから井島が制止した。
「院長、我々に任せて下さい──」
若い男性医師は警察職員からストレッチャーを受け取り、その上で心臓マッサージを止めようとしない澪へ語りかけた。
「わたしが執刀します、手術室は開いてる」
澪は毅然としてそう言い放ち、他者の介在を許さないような形相で、尚も心臓マッサージを繰り返していた。
「──手術室が開くのは五分後です」
と男性医師が看護師たちとストレッチャーを引っ張りながら答えた。
「五分じゃ遅い、患者が死ぬ」
「院長──心停止してから何分ですか?」
男性医師は、看護師たちに目配せしながら澪を乗せたままストレッチャーをエレベーターへ押し込んだ。
「35、40分──」
「腹腔の出血量からして、絶望的です」
そう冷たく言い放つ男性医師の目を、澪はその時初めて見た。
「あんた、イルミナティか何か?」
澪の言動にエレベーター内の全員が耳を疑った。
「は、イルミナティ?」
呆気にとられた男性医師に、澪は続けた。
「──うちの医師なら、私の言うことに従って、この人は絶対に私が助けます」
「まだ60分経過してません、ERの外傷処置室で、止血を」
見兼ねた看護師の1人が口を開いた。
火防記念病院では、外科、手術室、ERは横並びに同じ階に存在している。
「心拍もどりました──」
心拍をモニターしていた別の看護師が、叫んだ。
「──心拍微弱、心室性頻脈です」
「虚血性心疾患ね、手術室が開かないなら、ERで開腹します、緊急オペの準備──」
澪の号令とともにエレベーターの扉が開いた。