scene 3 ゴールデン街
晴と紋を乗せた車は、新宿一丁目のゴールデン街と呼ばれる一画へと差し掛かった。
車一台やっと通れる狭い路地に対して、このロールスロイス・ファントムの車幅は少々広過ぎるようだった。
沿道のノボリや立て看板を壊さない程度に、軽くあちこち擦りながら進んでいた。
「大丈夫かい、車」
と晴が紋方を向くと、彼女は虚空の一点を見つめたまま、何やら薄ら笑いを浮かべて自分の世界に入り込んでいた。
“さすが、装甲が厚く、静音性に優れた高級車だけあって、車内はすこぶる静かだ” と、さっきまでは快適に乗って居られたのに、今は打って変わって“キュッキュッ”や“グイッ”と怪しげな異音雑音が賑やかに鳴り響いていた。
晴は一応“ロールスロイスだし” 心配になった。
「意外と、大丈夫ですから」
と運転手が室内ミラー越しに優しく目を細めた。
居酒屋が多く立ち並ぶとある通りにの奥。
鄙びた6階建のビルの前で、ロールスロイスは止まった。
晴はとっさに「壊れた」と思った。
車から降りた晴は、まずそのレトロなタイル張りの外壁が気になった。
離れて見ると黒く見えるが、近づくと深い青色、おそらく《プロシアンブルー》と呼ばれる色に違いない。
「そのタイルには本物の《ラピスラズリ》が使われている……」
不意に男性の嗄れ声が聴こえて来た。
「鉱石を細かく砕いた顔料を使って窯で焼くんじゃ、七宝焼きみたいな感じで、サマルカンドのモスクみたいで綺麗じゃろ」
そう声をかけて来たのは、赤いニット帽を被り、白く長い髭を蓄えた背の小さな老人だった。
なんでも彼は一階の古書店の主人だと言う。
「君が物珍しそうに壁を撫でていたので、ついつい声を掛けてしまった」
その古書店には看板が無く、ただ店先に本だけが並べられてあった。
間口は2間ちょっとあるかないかだが、店内は奥に向かって広くなっていた。
古い町屋の間取りをそのまま流用したような作りだ。
晴は、店内に充満した古本のカビ臭さに、お香の匂いがブレンドされてるのが、どこか懐かしいように感じた。
「じゃあ“これ”もその《ラピスラズリ》ですかね?」
晴は自分の首に掛けてあった、プラチナのチェーンをシャツの襟元から引き出して、その先のペンダントトップを老人へ見せた。
老人は簾状に目へかかった白髪眉の奥で、目の色を赤く変えた。
「あ、あんた、これを何処で」
晴がペンダントとして首から下げていたものは古い指輪だった。
金の地に《プロシアンブルー》の細かな石の装飾が施されている、よく見ると石がはめ込まれている周りに、文字のような物も見えた。
「これは、人の目に触れては不吉だ」
老人は震える手を伸ばし、晴からそのペンダントを奪い取ろうとしたが、晴はそうとは気づかず、指輪を大事そうに胸元へしまった。
「これ、親父の形見なんです」
老人が、あわわわ、と震えているのをよそに、やっと車から降りて来た紋が、晴のシャツの袖を掴んだ。
「こっちじゃなくて地下ね、地下にライブバーがあるんだ」
と、紋がが指さした先に、確かに地下へと続く階段が見えた。
紋に手を引かれて階段を下り始めると、目線より少し高い所にネオン管で、
《Regina Albină》と書かれてあった。
そのネオン管には、まだ火が灯っておらず辛うじて文字と判別できる程度。
階段の先の方も真っ暗で、全体的に薄気味が悪いと晴は感じた。
紋は先に階段を下り切って、壁をドンドンと叩いた。
下階は暗くて何も無いように見えるが、どうも紋が叩いているのは、金属音からして防火扉のようだ。
案の定、黒い防火扉が中から開いて、
いかついスキンヘッドの男がヌゥっと顔を出した。
「玲ちゃんは?」
と紋はあっけらかんと話しかけた。
「まだ来てない」
スキンヘッドはそう答えて、階段の上の晴を上目使いで見つめた。
「あ、学校のお友達」
紋はすかさず付け足した。
「いいよ、入って待ってて」
スキンヘッドは終始眉間に皺を寄せていいてドスの効いた声だったが、案外優しい人なのかもしれないと、晴は直感的に思った。
店内はシーンと静まり返っていた。
最小限の照明しか灯っておらず、一見して何処に何があるかうかがい知ることはできなかった。
もう一人細面の男がいて、真っ黒な鏡面仕上げの床にモップをかけている最中だった。
紋は、掃除の行き届いた床をペタペタ土足で踏みつけて、更に真っ暗な奥の方へと我が物顔で入って行った。
晴は長身の肩を丸めて、スキンヘッドの男と細面の男にそれぞれ会釈した。
「すみません、お邪魔します」
と一応、声は張ったが、2人はチラリとこちらを見ただけで言葉ひとつもなかった。
その間に、紋は何の断りもなく、ステージの電源を入れて、スポットライトを全開に灯した。
「カラオケ歌う」
紋は、言うが早いか既にマイクを握っていた。
「モン、さすがにそれは……怒られると思うよ」
晴が、紋を止めようと近寄るが、
紋は聞く耳を持たず、
「あれ、ドムちゃん、これどうやってモニターつけんの?」
「機械の左っ側のスウィッチ、一回押せばモニターも全部つくよ」
とカウンターの中で仕込み中のスキンヘッドの強面が叫んだ。
“え、いいの?”
晴は目を丸くして、ドムと紋を交互に見た。
晴は紋を止めるのをあきらめて、
壁際のボックスソファーに座り混んで、
ステージの上の紋を見守ることにした。
50インチのモニターには、
《Heavenstamp /Hype》
と表示された。
まもなく、ビデオクリップと共に大音量でノイジーな音が流れ始めた。
紋は、前奏からヘッドパンキングで、
髪を振り乱している。
異様に甲高い声で絶叫気味に歌う紋に、
晴は開いた口が塞がらない。
ふと、店員2人に目をやると、
ちょっと良いBGMぐらいにノリノリで、作業に打ち込んでいる。
紋の歌は案外早く終わった。
彼女はステージを一旦降りて、
晴の方へドヤ顔で近づいて来て、
「はい」マイクを差し出した。
「何、歌えって?」
と晴は焦った。
「なに、フジファブリックだっけ?」
と紋はリモコンで入れようとした。
「いやいや、いいって……俺は歌わない」
晴の返事を聞いて、紋はステージに戻って行き、《Heavenstamp》のアッパーな曲ばかり、5曲連続で歌った。
ステージ上で、スポットライトを浴びながら、セーラー服姿のままぴょんぴょん飛び回って、ハチャメチャに歌う紋を、
晴は眩しそうに見つめた。
見慣れた“城南”のセーラー服が、まるで可愛い衣装にさえ見えた。
その時、
突然ステージの電源が落ち、店内が真っ暗になった。
「そこは、妾のステージじゃ、勝手に上がること、罷りならん!」
不意に暗闇から女性の怒号が響いた。
暗がりで、紋がマイクを“ガコン”と床へ投げ捨てる音が聞こえた。
そしてスタスタとステージを降りて、
彼女は一目散に晴の横に座った。
ゆっくりとスポットライトが灯り、無人のステージ薄っすら光り始めると、黒いラメラメのドレスを身にまとった長身の女性が、スルスルっと床を滑るようにステージに上がった。
完全に光に満たされたステージの上で、女性はしばし後ろ向きのまま佇んでいた。
ドレスの背中はざっくりと開き、大理石像のような白い背中が腰のあたりまで見えていた。
「どんな、登場のしかただよ……」
と紋が、晴の耳元で不満気にこぼした。
モニターには《ホイットニー・ヒューストン/すべてをあなたに》と日本語表記のタイトルが出ていた。
その女性は口パクかと思うほど、ホイットニー・ヒューストンそっくりの声で歌い始め、振り向きざま、晴の方を指差した。
晴は彼女のあまりの妖艶さに、一瞬で心臓を射抜かれた気分だった。
女性がステージを降りるとその動きに合わせて、サーチライトがその動きを追いかけて、暗闇のなかにその美貌を浮かび上がらせた。
栗色の長い髪に包まれた肩。細い首の上に、
小さな瓜実の顔がついていて、すっきり通った鼻すじの両端で大きく見開いた目の中には、サファイアのような瞳が、この上なく輝いている。
そんなのがゆっくり目の前に近づいて来ると、まるで金縛りにでも遭ったようで
微動だにできない。
彼女の細長い指が、躊躇する晴の尖った顎の先端を軽く撫でた。