scene 3 闇の追跡者
《ダンピール》の能力が開花して行く過程で、晴は世界史教師の田沢の“心の声”を捉えた。
「殺してやる」と、殺意を抱えて車で走り去った田沢を、紋と共に追う晴だったが……。
「もう繁田さん、何やってんの」
火防紋は頬を一杯に膨らませて憤慨した。
「すみません、不慣れな道なもので」
運転席の繁田は後ろを振り返って、頻りに頭を下げた。
目黒区内の元治大学付属城南高等学校を出た田沢のセダン車は、山手通りから淡島通りへ入り、閑静な住宅街のある東北沢あたりで、突如として姿を眩ませた。
「そんな、言い訳ばかりしてるから奥さん実家に帰っちゃうんだよ」
紋は案外情け容赦なく繁田を罵倒した。
「私の家庭の事は関係ないでしょ、お嬢様、そもそも私の奥さんが出て行ったのは、私の帰りがいつも遅いからで……」
繁田も負けじと言い返した。
「なに、何か引っかかる、アタシが悪いみたいな言い方やめてよ、」
“喧嘩するほど仲が良い”とよく言うが、状況が状況なだけに晴は意を決し大声を出した。
「俺が余計なお願いしたからです、すみませんでした」
紋と繁田の言い争いが収まったところで、晴は外へ出ようとドアのインナーハンドルへ手を掛けた。
「ハル、ちょっと待って」
紋が晴の背中をトントンと叩いた。
「どうした」
晴が振り返えると、
紋は息を潜めて車の前方をじっと見つめていた。
「お嬢様、どうしました」
と繁田も紋の視線を辿った。
「しっ……繁田、邪魔」
紋は視界に被る繁田の頭を退けた。
すると、紋の視線の先で田沢が、古びた路地裏から出て来た、電柱の陰へ隠れた。
「あ、隠れた」
と声を出した繁田の口を、紋の手が塞いだ。
田沢が隠れた電柱の向こうから、背の高い中東系の男が近づいて来た。
田沢と中東系の男は目線を合わせずに、すれ違いざま“何か”の受渡しを行ったようだった。
中東系の男はそのままこちらへ歩いて来る。
「隠れて」
紋の合図で3人は三様に身を伏せた。
中東系の男は、路肩に停まった。
ロールス・ロイスを少し眺め、
「Wow, Cool……」と言って通り過ぎて行った。
「行っちゃった」
紋がそう言うと繁田と晴は顔を上げた。
「あれ、田沢」
と晴が、電柱の陰に居た田沢が消えている事に気づいた。
「ああ、また見失った」
と繁田は、急いでサイドブレーキを下ろした。
「そんなに遠くには行ってない」と晴は、車を降りた。
「晴、ひとりじゃ見つけられないって」
と紋は車の中から叫んだ。
「大丈夫、感じるんだ」
晴はそう行って走り出した。
繁田は走り去る晴の後ろ姿を見つめて
「じゃ、お嬢様帰りましょうか」
と車をバックさせた。
「何やってんの、追いかけなさいよ」
と紋が口を尖らせた。
「お言葉ですがお嬢様、この車だと目立ち過ぎます、尾行には不向きです、東北沢は狭い道が多ございますから」
「じゃあ、もっと小さくて目立たない車を手配しなさい」
と紋は厳しい口調で言った。
「お嬢様、それってパワハラですよ」
「うるさい、すぐ手配しなさい」
と強情を張る紋を横目に、繁田は携帯電話を取り出した。
「また帰えるの遅くなるな、こりゃ」
繁田は虚空を仰ぎ見ながら電話を耳に当てた。
◇ ◇ ◇
晴は、東北沢の駅前を通り過ぎて池ノ上方面の商店街の中へ入った。
辺りの人通りが少し増えたせいか、また頭の中のノイズが酷くなっていった。
もう、紋の《薬》はない。
「薬に頼らなくても精神が“安定”さえすれば聞き分けられるはずだ」
と晴は、池ノ上駅の踏切のところまで来て、立ち止まって目を閉じた。
「集中しろ、きっと見つけられる」
多くの声やノイズが、晴の瞼の裏で、色とりどり人の形となって動き始めた。
「どこだ……田沢、どこにいる」
晴の思念は、天高く飛び上がった。
鳥の視界のように空から俯瞰した街並みが見えた。
光に包まれた多くの人影の中に、1人だけ異色を放っている奴がいる。
奴の赤い光は、だんだん強くなり、赤黒く、果ては黒く変わって行った。
「アイツ、変身する気だ」
晴は唐突にそう感じた。
「あそこは、下北沢か……反対側に来ちまったか」
晴の思念は、田沢らしき赤黒い影を捉えている。
にも関わらず、ここからでは、少々遠過ぎる。
「ハル、自分で決めなさい」
その時、晴の思念の中で、玲の声が響いた。
「そうか、“何が出来るか” じゃなくて、“何をすべきか” だ……」
晴は目を閉じたまま、高ぶる感情を抑えて平常心を保った。
そして、左手の中指にハマった指輪を見た。
「アイツのところへ」
そう唱えた瞬間、晴は池ノ上の踏切付近から忽然と姿を消した。
◇ ◇ ◇
下北沢の駅前、“ヴィレッジ何とか” 言うニューヨークの老舗ジャズクラブの名前を冠した派手な書店の前に、突っ立っていた女子高生が、そのままスマートフォンを見ながら歩き出した。
「スマホに見惚れて周囲が疎かになってるよう、仔羊ちゃん……」
その女子高生の数メートル後ろを、文字通り目の色が変わった田沢が静かに追いかける。
女子高生は駅前の止め処もない人の流れの中で、スマートフォンにヘッドホンを繋ぎ音楽を聴き始めた。
田沢は人混みを交わしながら、彼女の背後へ近寄ると、ソッと髪の香りを嗅いだ。
そして、ぶつかったフリをして、彼女の腕を掴むと女子高生共々、どこかへ瞬時に移動した。
「クソ、遅かった」
下北沢の人混みの中に現れた晴だったが、再び田沢を見失った。
「もっかい……あの感じ、もっかい」
と集中しようとする晴だが、人がどんどん押し寄せて来て、思念がノイズに邪魔される。
「ちっくしょう、何処だ田沢、田沢……」
焦る晴をよそに、
電車が到着すると、乗降客の数を増えて駅前通りはさっきにも増して、びっしりと人込で埋め尽くされた。
雑踏は容赦なく晴の体へぶつかってくる。
頭の中のノイズに喘ぐ巽晴は、人混みの中でただ途方に暮れるのだった。