1 消えた美都ミヤビ
とうとう中国が日本侵略を開始した。
中国にとってそれは有史以来の本願だったのである。そして中国は、歴史書のなかでその悲願を阻む者も予見していた。
ミレニアムレディー。
日本を救う救世主は、2000年に誕生する女の子だった。その名は美都ミヤビ。
マゼランがかつて太平洋の島に落としたハイパワーをもつブレスレット。そのブレスレットをミヤビが腕にしたとき、ミヤビは世界最強の救世主としてこの世に存在する。
大気汚染ですっかりダークなイメージの上海だから、修学旅行で中国に行く高校は減ったのだが、上海と友好都市になっている中井田市は、そう簡単にやめるわけにもいかない。県立無双高等学校は、2年生が5月に4泊5日で修学旅行。
女子剣道部エースの美都ミヤビも、同じ剣道部の仲間と豫園でのショッピングを楽しんでいた。
「だあ、もう、気持ち悪い。」
「しっかりしなよ、町田!」
「ミヤビ、なんともないの? この空気・・・。」
「剣道部だろ? 道着や防具の臭さに比べたら・・・なあ、清水。」
「でもミヤビ、この空気、その臭さとは種類が違うべ。」
町田彩花は、ハンカチで口を覆いながら肯いた。清水珠梨は、町田彩花に肩を貸し、鼻をつまんだ。
「そんなことよりよ、ショッピングしようぜ、いいかげん。お前ら、なんにも買ってねえじゃねえか。」
「だって、怪しいモンばっかだもん。」
「町田、それがいいんだよ。中国ってとこはな。自由時間はあと一時間か。おっ、チャイナドレスがあるぜ、かっこいいぜ、これ!」
「ミヤビがドレスだって。うける・・・ゴホッ!」
「病人は先生んとこで休んでたらどうだあ?」
「ミヤビ、今、背中どついたでしょ!」
「どついたのはどいつだあ、なーんてな。町田、ほれ、これ、お前に似合うぞ。買え。」 ミヤビはチャイナドレスを一枚町田彩花に渡した。
「あ、わたすも買うべ。」と清水珠梨が言った。
「清水に合うのが、あるかあ? なあ、中国のおばちゃん。こいつに合うの、ある?」
ミヤビは清水珠梨の巨体を指さした。店のおばちゃんは笑いながら、手を横に振った。
「すごい、日本語、通じてる。」と町田彩花が言った。
「驚くことないだろ。日本人がこんだけ来てんだからさ。いいかげん覚えるだろ。それに、昔いろいろあったっつーことだからさ。」
「日中戦争とか、だべ。」
「それって、なんの話?」
「いいのいいの。町田は歴史って科目があることも知らねーだろ。」
「歴史? 知ってるけど。興味ないだけ。わたし、過去なんて振り向かない。ただ、真っ直ぐ、未来に向かって走り続けるの!」
町田はそう言って天井を指さした。
「うん?」
「どした? 町田?」
「今、天井から誰か覗いてた・・・。」
「天井?」
ミヤビと清水は町田の指先を辿る。真っ黒なすすけた天井が見えるだけだ。
「んなわけ、ねえだろ!」とミヤビは町田を再びどついた。
「彩花ちゃんさ、よく言ってるべさ。あの岩、人の顔に見えるーとか、あの壁、なんとかっていうタレントに似てるとか。」
「だけど珠梨、こーんな目玉がぎょろっと・・・。」と彩花は両目を大きく見開いた。
ミヤビは、手に持っていたチャイナドレスを天井に投げつけた。ドンと響き、埃が落ちてきた。店のおばちゃんは中国語で怒鳴っている。
「もう、ミヤビ。相変わらず荒っぽいんだから・・・。外、出よ。」
豫園は、上海観光の目玉のひとつで、春秋時代の政治家の豪邸だったところだ。飲食店、土産物屋が軒を連ね、多くの観光客が訪れる。
「なんだ、ただの古い屋敷じゃん。」と彩花はため息をついた。
「あの鯉、うまそ。」と珠梨はよだれを垂らす。
政治家の豪邸だった屋敷は、当時の建築様式と生活を今に伝える貴重な文化財である。
「ミヤビ、遅いね。」
「きっと、大だべ。」
ミヤビがトイレに行ってから、かれこれ三十分はたっていた。自由時間はまもなく終わる。「やばい、ほんとに何にも買わないで終わっちゃう。珠梨、ミヤビにはケータイで連絡してさ、買い物行こうよ。」
ふたりは結局チャイナドレスを買った。探しに探して、珠梨に合うドレスを見つけた。
「ミヤビのも買っとこ。これ三元だけどさ、五元で売ろうよ。」
「黙っとくから、一元ちょうだい。」
集合場所の広場で、彩花はミヤビに電話をかけた。珠梨もかけてみる。どちらの電話に出ない。
「ミヤビ、またまた、イタズラしようとしてるだべ。」
「ああ見えて、そういうとこ、あるもんね。まあ、結局は、まだガキなのよ。」
「でもわたす、ミヤビ、好き。転校してきたわたしに最初に話しかけてくれたのもミヤビだったし、剣道部にも誘ってくれた。」
清水珠梨の故郷は福島県。原発事故でやむなく故郷を捨て、母の故郷長崎で新しい生活を始めた。
「きれいだし、かわいいし、頭いいし、剣道は強いし。すごい人だから、ほんと、びっくらこいた、わたす。」
「そうね、でも、残念なことに・・・性格最悪・・・。」と彩花は変顔で言った。
「同感だべ。」
「おかしいわね、いつもならここで、いきなりどっかから出てきて、『なにが性格最悪よっ!』って、つっこんでくるのに・・・。」
「耳はいいし、鼻はきくし、まるで動物みたいな勘してるべさ、ミヤビ。試合してるとき、目がピカッて光ってさ、怖くて動けなくなるべ。」
「それで一本とるわけよ。強いはずよ。」
「あと、あの男っぽいしゃべり、わたすとしては、いただけねっす。せっかくの美貌が、台無し。」
「でも、そのアンバランスが、あの子の魅力でもあるのよ。中学からいっしょのわたしに言わせてもらうと。」
「あっ、すんません、先輩、去年仲間に入れてもらったばっかりのわたすが。大きな口たたいちゃって。」
「いいのよ、口、ほんとに大きいんだから。」
「・・・。」
2年生がぼちぼち広場に集まってきた。ひときわ賑やかな集団がある。女子生徒に囲まれてにやけた成人男子が、大声で笑っている。
「まったく、あれでも教師かねえ。」と彩花が言った。
「伊達先生・・・。あの方も、どこか、残念だべ・・・。」
「理事長の息子だからって、わがままでやりたい放題。あの種の人間、なかなか絶滅しないのよ、この日本では・・・。」
「ここ、中国だべ。」
「言うと思った・・・。」
「剣道部の顧問って感じじゃないべ、伊達先生。テニスとか、バスケとか、もっとミーハーな部活に行けばいいべ。」
「フェンシングとか。でも、あいつ、高校時代かなり強かったらしいよ。」
「どうだか・・・。防具、一度も着たことないし。『はーい、みんな、がんばってる?』って言って、遊びに行っちゃうべ。それに、完全にお姉だべ。」
「マンガとかであるじゃない、そういう人が強かったりするのよ。」
「フィクションは、意外性が大事だから、そんな演出をするべさ。」
「でもまじで、やばくない?」
「なにがだべ?」
「ミヤビだよ!」
「あっ、忘れてた。大丈夫だべ、ミヤビ、強いんだから。」
「確かに・・・。柔道、合気道、空手、少林寺、なんでもやるもんね。」
「将棋も強いべ」
生徒指導係の先生が生徒を呼んでいる。集合時間だ。
「大丈夫だと思うけど、ここにミヤビがいないと、ヤバい。先生に言わないと。」
「もう少し待つべ。」
クラスごとに集合し、整列が始まった。彩花と珠梨は辺りを見回し、ミヤビを探す。どこにも八頭身の人間は見当たらない。担任の先生、つまり、あの伊達先生が点呼を始めた。
「あら、ミヤビちゃんは?」
「たぶん、もう少ししたら、来ると思いますけど。」と彩花は答えた。
「三十分前に、トイレに行って、待ってたけど、出てこない・・・。
「そう、じゃあ、待ちましょ。」
結局それから二時間、三時間たち、西湖に行く予定も変更になった。副校長先生はしかめっ面で、ひっきりなしにケータイで電話している。ミヤビのクラスメート全員で隈無く探したが、ミヤビは見つからなかった。