子爵令嬢は自由になりたい
「ユーマ・ベルエニー。君との婚約を破棄する」
今日は王室主催の春の夜会。十四になる貴族の娘たちの、待ちに待ったデビュタントの夜会だというのに。
数段高いところに設えられた王族の席に先ほどまで座っていたはずのミゲール王太子が、いつの間にか目の前にいて。
衆人環視のもと、わたくしを指さして宣言したのです。
周囲のざわめきがぴたりと止んで。
ぴたと据えられた王太子の視線を受け止めたまま、手に持っていた黒レースの扇子を開いて口元を隠します。
……微笑んでいることに気付かれないように。
銀髪を綺麗になでつけた王太子の後ろには、デビュタントのダンスを待つ白いドレスを着た娘たちが鈴なりについてきています。
この状態で、婚約破棄をしてくれるなんて。
目を細めてしまったのは、口元を隠すだけではわたくしが喜んでいることを気付かれると思ったから。
でも、どうやらわたくしが涙を我慢しているように見えたようですの。
ぐるりとわたくしたちを囲んで固唾をのんでいるご令嬢のお一人が「あのユーマ様が……」と半泣きでこぼされたのが聞えましたから。
ええ。
わたくしが王太子の婚約者として選ばれたのは実に横紙破りでした。
ベルエニー家は子爵。先日まで男爵だった下級貴族の娘が、どうして王太子の婚約者になれたのか。
それは、ひとえにミゲール王太子の強引な申し入れによるものでした。
我が家が子爵になったのも、父の功績が認められたとのことですが、ミゲール王太子と少しでも釣り合うように、と家格を上げようとなさったものだと耳にしました。
「……そうですの」
口元を隠したまま、わたくしはミゲール王太子にお言葉を返します。
……これで、自由になれる。
王宮に縛りつけられたわたくしは、大口で笑うことも、馬に乗って好き放題駆けることも、剣を手に訓練をすることも禁じられました。
もともとが大して裕福でもない男爵家。家督を継ぐ兄も王国騎士団に入り、弟もいずれ同じ道を進むでしょう。
わたくしも、十四になったら女性騎士団に入るつもりでしたのに。
……六年前のデビュタントの日にこのお方と会わなければ。
わたくしは幼いころから剣を手に馬を駆けることの方が好きでした。下級貴族ですもの、自分の手で食い扶持は稼がねばなりません。
だから、鍛錬は怠りませんでした。もちろん、知識としての社交界での振る舞いは母からみっちり叩き込まれましたけれど、父も母もわたくしが社交界に出て嫁入り先を探すなど、期待もしていなかったようです。
デビュタントだけは、いかなる階級の貴族も免れません。だから、その一回だけのつもりでしたのに。
「結婚してほしい」
デビュタントのその日。
順番に王太子とのダンスを待ち、いよいよわたくしの番になった時のことです。
母から贈られた白いドレスを身にまとい、薄茶色の髪を結いあげたわたくしの前に、ミゲール王太子は膝をつき、わたくしの手を取って甲に口づけをして、そう言われたのです。
ええ、ええ。もうそのあとは大変でした。
わたくしの付き添いで来ていた両親は目を回して倒れ、わたくしのあとでダンスを待っていた娘たちは泣き始め。
わたくしは目を丸くしたまま固まってしまいました。
いつもの調子で手を振り払わなかったのだけはいまだに自分を褒めてやりたいですわ。もしそんなことをしていれば、ベルエニー家がどうなっていたか、わかったものではありませんもの。
王妃陛下が気が付いて、わたくしとミゲール王太子を奥へ連れていくように衛士に申しつけられました。
残る娘たちには第二王子がダンスの相手を務める、とおっしゃっていたのを覚えています。
深い赤で統一された客室らしき部屋に通されたわたくしは促されてソファに腰を下ろしましたけれど、ミゲール王太子は片時もわたくしの手を離してくださいませんでした。
そのまま、両親と国王陛下、王妃陛下が揃っていらっしゃるまで、わたくしは実に居心地の悪い状態で固まっておりました。
「ユーマ……ミゲール王太子殿下」
入室した途端、両親はわたくしと王太子を交互に見て、やはりその場にへたり込みました。
できることならわたくしも気を飛ばしてしまいたかった。夢だと誰か言ってくれないか、と視線を走らせるものの、だれも何もおっしゃってくれません。
ようやく手が離されたのは、王妃陛下が王太子の手を扇子で打ち据えてからでした。
ミゲール王太子はそれでもわたくしの目の前に膝をついたまま、微動だにされません。
父や母、王妃陛下や国王陛下の言葉が聞えたような気がしましたけれど、ほとんど右から左でした。
なぜ、ミゲール王太子がいきなりわたくしのデビュタントで結婚を申し込まれたのか。
じっと王太子を見つめながら、頭を働かせます。
少なくとも、わたくしが王太子にお会いするのはこれが初めてです。どこかで見染められた、ということもおそらくないでしょう。
今回のデビュタントのために王都に出て来ましたけれど、それまではずっとベルエニー領の北の館にいたのですから。
両親は我が家の家格が王家に釣り合わないこと、わたくしは王妃を務められるような育て方をされていないことを申し上げましたけれど、王妃陛下と国王陛下は王太子の態度にほとほと困り果てていたようです。
結局、王家から申し込まれた婚儀を男爵などが断れるはずもなく。
わたくしは王太子の婚約者となったのです。
以来、王宮に上がり、未来の王妃になるための勉強に明け暮れて六年。自領に戻ることもありませんでした。両親や兄、最近社交界に顔を出すようになった弟とは、王室主催の夜会で会うのがせいぜいで、今宵も三か月ぶりの再会でしたのに。
向こうの方で誰かが倒れた音がします。きっと父か母でしょう。
「……理由は、聞かないのか」
こんなにも長く王太子の澄んだ青い目を見つめ続けたのは、初めてかもしれません。わたくしか王太子か、どちらかがすぐ視線を外していましたものね。
わたくしは目を伏せ、首を横に振りました。
「今までわたくしが婚約者であったことが間違いだったのですから」
再び目を開けたとき、王太子も視線を外し、うつむいていらっしゃいました。
さあ、あとは退場するのみ。
デビュタントのダンスを待つ皆様を、これ以上待たせてはいけませんわね。
「では、ごきげんよう。王太子殿下。……自領より、皆様のご多幸をお祈り申し上げます」
深々と腰を折り、出口へと足を向けようとすると、兄が仏頂面で立っていました。
そうですわね、兄まで巻き込んでしまいました。
兄は、王太子とは友と呼べる仲だと聞きました。わたくしとのことが影響しなければよいのですが。
周囲の皆さまが道を開けてくださいました。
出口の前で、二度と来ないであろう場所に頭を下げ、わたくしは王宮を去りました。
◇◇◇◇
風が草原を吹き渡っていく。肩のあたりで切りそろえた薄茶の髪の毛が風に遊ばれるに任せ、わたしは馬上から山の方を眺める。
遠くに見える山脈のてっぺんはそろそろ白化粧を始めたらしい。あの山が白くなったら、あと半月でこのあたりは霜が降り始める。
そうしたら、あっという間に冬だ。
「農作物の刈り入れは今週中に終わらせないとだめね。冬物も出さなきゃ」
領内の皆に連絡しなければ、と馬を帰路に向けた時だった。
黒い馬が立っていた。
このあたりの馬は北の寒さに強い種で、ほとんどが栗毛の馬だ。黒い馬はとても珍しい。領内でわたしが知っているのはイオタの爺さんのところの一頭だけで、それもこんなに美しくはない。
「ユーマ!」
その馬に跨り、まっすぐわたしの方に駆けてくるのは。
太陽の光に輝く銀髪と、蒼い瞳の。
「……王太子殿下……?」
どうして?
こんなところにいるはずのない人。
いいえ、こんなところにいてはいけない人。
二度と会わないと誓った人。
手綱をぐいと引き、脇腹を蹴って反対方向へと馬を走らせる。
「待って! ユーマ!」
追ってくる馬の足音はあっという間に後ろに近づいて、はっと気がついた時には伸びてきた手がわたしの馬の手綱を握っていて、次の瞬間には無理やり後ろに座られた。
手綱から手を離して馬から飛び降りようとしたけど、がっちり片腕で腹を抱えられていて、もがくうちに馬はすっかり歩みを止めてしまった。
「ユーマ」
「どう……して」
後ろから抱きしめられる。婚約していたときでさえ、こんな距離にいたことはなかったのに。
「ごめん」
どうして謝るの。
どうしてここにいるの。
色々聞きたいことがあるのに、言葉にならない。
「君に会えると思ったら、居ても立っても居られなくて。……ごめん」
だから、どうして?
「……隣国の姫を、迎えると聞きました」
もう、わたしには関係のないこと。今頃は隣国の姫が国境を越えている頃だろう。
なのに、どうしてここにいるの。
王太子が自分の姫を迎えに行かないなんて、ありえないのに。
……わたしの時でさえ、自分で迎えに来たくせに。
「僕には関係ない」
「ご自身の婚約者でしょう?」
「関係ない」
何が関係ないというのだろう。
こぼれかけた涙をぐっと飲み込んで後ろを振り返ると、眉根を寄せて不機嫌そうな顔が見えた。視線は相変わらず合わせてくれないのね。
「……じゃあ、わたしを笑いに来たんですか」
「違う」
子爵風情が王太子の婚約者などと、と笑われて六年。婚約破棄されたわたしの元に届く縁談はもうない。兄や弟も、わたしが王太子の婚約者だった間には降るように届いていたのに、ぱったりと途絶えた。
余計なことで煩わされなくなった、と二人は喜んでいたけれど、わたしのせいなのは変えようもなくて。
二人とも騎士団に行ったきり、自領に戻って来ない。
両親はわたしを腫れものを触るように接していたけれど、わたしが王宮に上がる前の生活に戻るのを認めて、最近ようやく目を合わせて会話をしてくれるようになった。
一年半かけて、ようやくここまで来たのに。
「君の兄が領地に戻るというから、ついて来た」
「……なんで」
兄が戻ってきたという話はうれしい。でも、どうしてそこに王太子がくっついてくるの?
「フィグが来てもいいと言ってくれた」
それがわからない。
あの後、兄はわたしを王都にあるベルエニーの館に馬車で送ってくれた。
到着するまでは何一つ言わなかったけれど、翌日になって、兄が王太子を殴ったとかで謹慎処分になったことを知った。
あの兄が、そう簡単に許すはずがない。……わたしの思いは、知っていたかもしれないけれど、それとこれとは別だ。
「お帰りになってください」
「嫌だ。まだユーマの笑顔を見てない」
笑顔。
笑顔なら、王宮にいた六年間、散々見せたじゃないの。いまさら何を言うのよ。
でも、それで帰ってくれるのなら。
「……下ろしてください」
「嫌だ」
こんなにわがままを言う人だっただろうか。いつも厳しい顔をして、眉間にしわを寄せて必要最小限のことしか言わない。そんなイメージだったのに。
仕方がない。この体勢でも笑顔を見せることはできる。
ため息を一つついて、六年で培った微笑を浮かべ、後ろを振り向く。
一瞬だけ、青色の瞳が見開かれた。でも、すぐに眉間のしわが戻り、視線を逸らされた。
「それじゃない。……そんな作り笑顔、見たくもない」
見たくもない。
そんなことを言われるとは思ってもいなかった。そして、思ったよりもその言葉が、胸を深く貫いていた。
わたしは、見たくもないと言われるような笑顔を六年も、王太子に見せ続けてきたのだ。
鼻の奥がつんと痛くなる。前を向いて、深く息をつきながら片手で鼻の根元をつまんで涙をこらえようとしたけれど、間に合わなくてぽろりと目じりからこぼれた。
「申し訳……ございませんでした」
涙声にならないように気を付けてそれだけ口にする。
婚約破棄されるはずだよね。わたしは……嫌われていたんだ。
デビュタントの日にプロポーズされて、それからすぐ王宮に上がって。勉強の合間を縫って月に一度だけ、忙しい王太子と会えるお茶会がわたしにとっては楽しみだった。
なのに、王太子はいつも不機嫌そうで、会話もあまり進まなかった。わたしは望まれていると思っていたのに、顔を合わすごとにどんどん不機嫌になって、言葉少なになって。
その原因はやはりわたしにあったのだ。
六年もずっと我慢させてしまったのだ。
「……泣くな。泣かせたくて言ったわけじゃないんだ」
すっと手綱を握っていた手がわたしの目を覆った。
柔らかいものが後頭部に押し付けられる。
「十四年前の夏のことを覚えてないか」
十四年前。わたしはまだ八歳になるかならないかの頃だ。あの頃はよく領内の子供たちと遊んだ。この草原に集まっては日が暮れるまで遊び倒した。
女の子は少なかったから、男の子たちに交じって木の棒で打ち合いのまねごとをしてみたり、かくれんぼをしたりしたのを覚えている。
目を覆っていた手が外される。目じりに残っていた涙をこすって後ろを振り向くと、やはり王太子は視線を外した。
「その中に、黒髪の男の子がいただろう」
「黒髪?」
このあたりの人たちは皆、一様に色素が薄い。わたしの薄い茶色は父譲りだし、母も金髪だ。濃い茶色や黒髪の人を見ると、外から来た人だとすぐに分かるほどに。
だから、いたとしたら外から来た子供で。
確かにいた。わたしより二つ年上だったと思う。どこから来たのか聞いたことはなかったけど、別にそんなことを気にすることもなかった。
「覚えてる」
「あれ、僕だ」
「……はぁ?」
思わずじろりと見てしまった。あれは黒い髪だったし、銀髪じゃない。目は……確かに青かったかもしれないけど。
「ウソ言わないで。まるで色が違うじゃない」
「嘘じゃない。髪の毛は染めてたんだ。このあたりに銀髪は少ないって聞いたから。あの頃は喘息もちで、体が弱かったんだ。北の方が空気がいいからって転地療養に来てた。驚いたよ、男の子の中に交じって女の子が剣振り回してるって聞いて」
あの頃はすでに、女騎士になろうと思って兵舎のみんなに交じって鍛錬を始めていた。でも、あの少年は一度もそこで見かけたことはなかったはず。
「じゃあ、僕が子爵の別邸を使わせてもらってたことも覚えてない? 挨拶の時に顔は合わせてるんだけど」
「覚えてない」
王太子が別邸にいるなんてこと、両親も兄も言わなかった。
「ちなみに、いつも君が遊びに行ってるところを教えてくれたのは、フィグだ」
「ええっ?」
どういうこと? 兄は王太子のこと、知っていたの?
「だから、僕は君の笑顔を知っている。……太陽のように輝く笑顔の君が好きだった」
好きだった。……過去形、なんだ。
一度は浮上した心が再び抉られる。――なぁんだ、やっぱり過去、なんだ。
「君のデビュタントでプロポーズしたのも……ほかの男に取られたくなかったから。僕のためだけに笑っていて欲しかった。でも……君は笑わなくなった」
「……えっ」
「どこかの貴族の令嬢と同じく、作り笑いしか浮かべなくなった。僕と二人きりの茶会でさえ。……それでも、僕の傍にいてくれればいい。あの時は、そう思ってた」
だって。
……王宮のマナーの先生に徹底的に叩き込まれたもの。淑女たるもの大口を開けて笑ってはいけません。たとえ不快な言葉が耳に入ってきても、鉄壁の微笑で跳ね返すのが王妃の務めだと。
だから……学んだ成果を見せようと、必死になってた。わたしは王太子にふさわしい女性になれてる? っていつも不安だったから。
でも。
違ったんだ。
「幼かったんだ、僕は。……君がどれだけ僕のために心を削って王宮にいたのか、知らなかった。フィグに言われて初めて気が付いたんだ」
――あんな場所で笑えるわけないだろう? お前でさえ笑えないのに、不器用なユーマが笑えるはずがない。
ああ、その通りです。お兄様。
王宮内で王太子の笑う姿など一度も見たことがなかった。夜会でもめったに微笑むことはなく、わたしに対しても、いつも通りの態度で。
寡黙な人だと、気難しい人だと思ってしまえば気にならない。そう思って過ごしてきたの。
だから、こんなに良くしゃべる人だなんて、知らない。
「だから、君を解放しようって決めた」
「……それで、婚約破棄を……?」
じっと見つめていると、王太子はそっぽを向いたまま小さくうなずいた。
確かに、婚約破棄を喜んだ。息苦しい王宮から出られるなら、理由なんてなんでもよかった。だから聞かなかった。
「君に笑っていて欲しかった。あの太陽のような笑顔を、取り戻してほしかった。……でも、君の横に僕以外の男が立つと思うと……夜も眠れなかった」
「……え」
王太子は不意に馬から降りると、わたしを抱き下ろして、片手を取った。そのまま、膝をついて頭を垂れる。
……いつかのデビュタントで見た、そのままの姿で。
「ユーマ・ベルエニー。僕と結婚してほしい」
「……嫌です」
いやいやをするように、首を横に振る。だって、もう。王太子の婚約者は決まっている。それでも望まれるのだとしたら、側妃か妾妃しかない。それは――わたしが嫌だ。
「それは、僕が王太子だから?」
王太子はちらりと顔を上げてわたしを見る。目を伏せて頷くと、ぎゅっと手を握られた。
「それなら大丈夫だ。……僕はもう王太子じゃない」
「は……?」
顔を上げた王太子……ミゲール様は、六年間で一度も見たことのない笑顔でわたしを見あげていた。
「ミゲール・デ・ラ・フォリア。これが今の僕の名前だ」
「フォリア……」
どこかで聞いた覚えがある。
昨日だったか、父と母の会話で、フォリア公爵家がどうのって……。
「まさか……フォリア公爵って」
「僕の新しい肩書だ。……弟に王太子を押し付けるのに一年半かかったけど、ようやく迎えに来れた。ユーマ。君の笑顔が好きだ。僕の横で笑っていて欲しい」
「嘘……どうしてっ」
わたしなんかのために、次期国王の地位すら投げ出すなんて、なんて愚かな選択をしたの。ミゲールは先生たちの覚えもめでたく、賢王になるともっぱらの評判だったのに。
「国王陛下も王妃陛下も、王太子殿下も理解してくれたよ。僕が十四年前からずっと君の笑顔に恋してきたこと、知ってるからね」
「そんなっだめですっ」
「だめなことない。……それとも、もうユーマの心の中には誰かいるの?」
不意にミゲール様の声が低くなって、蕩けるような笑顔が瞬時に消えた。いつもの不機嫌そうな顔に戻っている。
「どうなの?」
「わ、わたしの心の中……?」
「王宮にいる六年の間、君の心の中に僕がいなかったことは知っている。……だから、これでも一生懸命急いだんだけど」
――もしかして、間に合わなかったのかな。
ミゲール様はそうつぶやいてうなだれた。
婚約者であった六年間。わたしは立派な女性になることだけを思い描いてきた。そのために大好きなお菓子だってあきらめた。笑うことも、馬に乗ることも。
「……見くびらないでくださいっ」
苛立ちを込めて言うと、ミゲール様はびっくりしたように顔を上げた。
「わ、わたしが六年もがんばれたのはっ、王太子の横に立てる女性になりたかったからです。婚約者の義務だからがんばったわけじゃ……」
わたしが言葉を紡ぐたびにミゲール様の顔がどんどん蕩けていく。ああ、どうしてこの笑顔を六年も見せてはくださらなかったのだろう。
「それは……六年間ずっと僕を思ってくれていたと、僕を好きだったと言ってくれているの?」
「きっ、聞かないでくださいっ」
握られた手を取り返して、両手で顔を覆って背を向ける。ああもう、顔が熱い。
「隣国の姫のことも……妬いてくれたんだ」
そっと後ろから包み込まれるように抱きしめられて、耳元でそっとささやかれる。それだけで恥ずかしいのに、恥ずかしいことを質さないでほしい。
「今も?」
ああっ、お願いだから、耳に息を吹きかけないでくださいっ。
絶対ミゲール様、遊んでる。ゆるゆると柔らかな唇が触れてくる。
変な声がでそうになって、慌てて頷くと、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。
腕の力が緩んだと思ってほっと息をしたのもつかの間、くるりと向き直された。顔を上げるとミゲール様は本当にうれしそうに頬を赤らめている。
「ユーマ。……答えを聞かせて」
熱い視線に思わず目を伏せる。でも目を閉じたところで視線がなくなるわけじゃなくて。
ゆっくり目を開けると、蒼い瞳をじっと見つめた。心が、心臓が張り裂けそうにドキドキする。
「……お慕いしています。でも……」
元王太子で臣籍に下ったとしても公爵家。王家の血を引いているのは間違いなくて、王家主催の催しには出る義務がある。それ以外にも社交界に呼び戻されることになるのは必至で。
そうなるときっと、わたしは飲み込まれてしまう。自領でのびのびと過ごしているのとはわけが違うもの。
「もしかして、公爵としての義務について考えている?」
「……はい」
「それなら心配は要らない。……王位継承権も返上したし、爵位に伴う義務は全部免除してもらった。それでも誕生日ぐらいは祝ってくれと言われたけど。それに、公爵家と言っても一代限りなんだ。万が一弟に何かあったとしても、僕や僕らの子供が王位につくなんてこともあり得ない」
「えっ……そんなこと、できるの?」
「そのために時間がかかったんだ。……それに、いただいた領地はベルエニー子爵領の隣でね」
「隣? えっ? 山しかないわよ?」
確かに自領の隣には王家直轄地になっている領地がある。でもそこは山しかないから下賜するにはふさわしくない土地で。
「うん、だから僕らの館は領地の境目に立てようかと思って。本当は子爵家に婿入りしたかったんだけど、フィグが嫌がって」
「兄様が?」
「フィグに伯爵になってもらって、後釜に入ろうと思ったんだけど、それでもカレルがいるからダメだって」
「当たり前でしょう? 何考えてるのよっ!」
思わず素の口調で窘めてから、あっと口を手でふさぐ。
曲がりなりにもミゲール様は公爵家。子爵令嬢に許される口調ではなかった。
でも、ミゲールは嬉しそうに顔を緩ませた。
「ああ、十四年ぶりだなぁ、怒られたの。……僕の方が年上なのに、ユーマにはよく怒られたっけ」
「へっ……」
「そこらへんに生えてるキノコ食べそうになって怒られたり」
そういえば、そんな記憶がある。外から来た子が毒キノコを食べそうになって怒鳴りつけたのとか、かぶれる木に触りそうになって引き倒したりとか。
……あれがミゲール様だとしたら、よく今まで首がつながってたなあ、と思うほどのこと、やらかしてる気がするんですけど……。
「もしかして、思い出してくれた?」
真っ赤になったまま言葉に出せなくて口をぱくぱくさせていたら、ミゲール様は何を思ったのかいきなり抱きしめられて唇を重ねてきた。
「う、うわぁっ!」
「ごめん、あんまりに可愛いから……で、返事は?」
すっぽり腕の中に囲い込まれて、至近距離から聞いてくるのって反則だと思う。
ここまでがっちり外堀埋めておいて、わたしがイエスって言わなかったらこの人、どうするつもりなんだろう、なんて思ってしまう。
王太子の地位も受けるはずだった称賛も何もかも振り捨てて、わたしなんかを選んでくれた人。
勘違いじゃなかった。わたしは望まれていた。
そしてわたしも――忘れられなかった。婚約破棄されたのに、一年たってもこの人以外との将来が描けなかった。
馬鹿なのは、わたしも同じ。
少しだけ背伸びをして、目を閉じてミゲール様に口づける。囲い込む腕に力がこもる。
「ユーマ……」
「わたし、馬で好きなところに行きますよ」
「もちろんかまわない。僕もついていく」
「剣の鍛錬もします」
「僕も一緒にやろう」
「女らしいことは何ひとつできません。刺繍とかお料理とか……」
「そんなこと、気にしない」
「畑仕事もするし」
「かまわない。僕にも教えてくれ」
「大口開けて笑うし」
「望むところだ」
「きっと子供ができたら一緒になって走り回ったり躾で怒ったりします」
「もちろんだ。……君との子供ならかわいいだろうな」
わたしの言葉にミゲール様が一つ一つ答えてくれるのがうれしくて、視界が滲んだ。流れた涙をミゲール様の指がぬぐっていく。
「わたしでないとだめって言って」
「っ……ユーマでないとだめだ。ユーマだけが欲しい。……愛してる」
「……わたしも愛してます」
どちらともなく顔を寄せる。近付いてくる青い瞳にはわたしが写っている。
そうしてわたしは青い瞳に囚われた。
王太子の髪の毛の色の件、追記しています。
連載版、始めました。こちらもよろしくお願いします。
子爵令嬢は自由になりたい【連載版】
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