a particle effects... 私たちの世界はきっと、いくつもの出来事が少しだけすれちがって、二度と調和しない。
雨の粒はすぐにかわいたけれど、その跡は消えない。
序
真っ赤だ。それはそれは、何か重要なことを僕に暗示するように、混じりけなく。
それは、真っ赤だ。
綺麗に円を描く小さなラズベリーパイは、酸味と甘みと、バターの匂いを僕に教えてくれた。きっと、口に運べば抜群に美味しくて。彼女に向けて幸せそうな顔を作るに違いない。僕はいつもそんな毎日に飽きもしないんだ。
黒い肌の彼女、豊かな髪の膨らみ。
やけに整った顔で、薄く僕に笑いかけて優しく、
「君が、好きなんだ」
と伝えてくれる。いつも寡黙な彼女は、時折饒舌で、僕が放った質問に答え続けてくれる。ひとりでに歩き出す話題は空調の風に混ざって、いつまでも続いて僕の耳に優しく入って心地良い。
その風に乗った、彼女の付ける香水の匂いが僕の鼻腔に入ってくる。その匂いはまるで彼女そのもので。僕は、彼女と見つめ合って、目をそらさない。この風は、どこからやってきて、どこに行くんだろう。静けさはどこまでも静けさで、他の誰かが僕らを邪魔する事もなくて。彼女がカップをソーサーに置く音が時折彼女の言葉に混ざって、それも心地よい。この世界に何が起こっても、この場所ではそうじゃない。永遠に何も起こらないし、何も伝わらない。何も見えないし、聞こえない。
僕と、君。ここにいるのは二人だけ。何かがはじけるような音が鳴っている部屋の外の事を、僕は知らない。永遠と思えるような静けさを、感じる。僕の、君の場所。
白い壁。
白い机と食器。
心地の良い場所。
僕たちはここにいる。時間はずっと止まっていて。
僕と同い年の、彼女。永遠に美しくて。永遠に気持ちは離れていかない。彼女は僕を見つめて、私もあなたの事を永遠に思い続けるの、と言う意味の視線を僕によこす。いつも、いつも。
僕の心に迷いはなくて。
そのはずなのに。心のどこかに、不安があって。
彼女を見つめると、ずっと続いていくに違いない幸福感が僕の中に生まれて、そして消えて、また生まれる。なのに心のどこかに寝転がる不安を僕は知っている。だけどその正体は、見つけようとしてもさっぱり見当たらない。風に揺れる前髪の先端が、額に小さな不快感を僕に送り続けて、それを右手で掻き上げた。
それを見つめる彼女と、視線を受け止めて微かに笑う僕。僕らはいつもここに居る。
ここは、僕の、君の、僕らの場所。
一
「ねえ、好き。どうしたらあなたもそう思ってくれる?」
彼女は、髪を乱しながら、言葉を絞り出した。
整ったリズムで動く二人。整ったリズムの音、整ったリズムの、声。
僕と、彼女の体液は混ざって、二人の息は不規則になる。僕の気持ちはこの感覚に深く溺れて、もう出られなくなってしまうような気持ちに囚われた。そして、
「僕だって、君が好きだよ。ゲームなの?そういう」
目一杯乱れながら、ユリに返す。しばらく無言で僕たちは唇を重ねて、舌を絡ませると、お互いの体の形をくまなく確かめる。
何も考えない時間、何も得ない時間、何も失わない時間。
僕たちはそうやって数時間を過ごす。彼女の中に不作法に入り込んで、彼女の心を粗雑になめ回して。ユリは、僕の行為を愛情であると受け止めて、それを疑う。なんでもないセックスを、ナノマシンで補正する。これが僕らの火遊びだ。麻薬や媚薬を使った類のそれと同様の効果を、人工的に、直接的に脳神経に働きかけて引き出す。
科学と医学の粋を世界に黙って無断借用する。それを出来るユリと、それを使って良い僕。立場を濫用して、快楽に溺れる。
彼女は、本来はこんなところでこんなことをするような立場の人間ではないが、肩書き上は立派なまま、地の底まで自分自身の尊厳を貶めた。
彼女は、僕を愛している。そして、快楽に溺れた。でも、僕の方はと言うと彼女の事を愛していない。むしろ、彼女に感じるのは嫌悪感だ。自分を貶めて、傷つける。その行為に酔う様には煙たさを感じる。だが、本当は僕だって似たようなものだ。自分を貶め、傷つけて。そしていつまで経ってもそこから先の出口なんてきっと、見えない。
そして、僕は、彼女と違って罪に塗れた救いようのない人間である事がこの行為の中でも心をチクチクと罪悪感が刺し続けた。
「あなたを、解放してあげる」
ユリは言う。どんなやり方でそれが出来るのか。だけど、僕はその言葉に中身もないのに期待を込める。
「どうやって?僕の持ち主は、君じゃなくて、この国だよ」もはや、この国の誰が僕の持ち主で、僕の何をもっているのかも、漠然として。否定のための否定を彼女に返す。
そして、
「それに、僕は解放されるんだろう? なにから」そして一体誰のために?
言いかけて考える。いや、そうじゃない。
「解放された僕ってどう言う僕なんだろう。ユリ」答えてくれる?ユリ。僕はそっと彼女の頬にかかった髪の毛を、耳にかけ直して言う。
僕は、今のまま生き続ける事に、たいした疑問を持っているわけではないけれど、PTSDに悩まされ続けている様は、まるで最後の夕食を食べきれないでいる死刑囚のようだと、彼女は言う。
「あなたのために、わたししか出来ないことをさせてよ」と。
その言葉に僕の心は冷たい手のひらで撫でられたような気がして、記憶がまた、現れる。
タンディ。
僕の初恋の女の子。彼女の事をユリは嫌悪に満ちた感情で、僕からかき消そうと何度も何度も僕に尋ねる。
「あなたを、心を綺麗にしたいの」
彼女がそう言うのは、何度めだろう。
僕の頭の中を見ることの出来る彼女は僕が、記憶に引きずり込まれて苦しむ様を時折目にして、その原因を知りながら、その事で僕に核心を突いてくるような無粋なことをしない。それが彼女の美徳で、あざとさで。僕には、それが溜まらなく気持ち悪くて。
お互いの心の中にある、小さな機械。
血流に浮いて、血液脳関門を簡単にすり抜ける機械。僕はその被検者で、彼女はその「管理者」だ。この小さな、生き物と機械の境目を行ったり来たりするコイツらは、僕らの気持ちを、事実と違う様相にすり替える。愛のないところに、愛を届けて。憎しみがあるところから、それをぬぐい去って。殺意に取り憑かれても、それは消えてしまう。
まだ学生だった六年前に、このブレイクスルーを彼女は実現した。
それまではSF小説やアニメのガジェットだったナノマシンを血管の中に浮かせて、任意のコードに対応する代謝を、あたかも生物のようにさせる方法を確立したのが、ユリだ。このナノマシンは、幹細胞から脳神経細胞へと多段階で自己生成を行い、被験者の脳機能を拡張するために自分自身に遺伝子的構造を転写すると、脳にトランスミッターと、レシーバーをそれぞれ置きっ放しにする。全身に散らばったこの機械なのか生物なのか良く解らないデバイス達と通信をし、様々な生命活動を行うのがユリのモデルだった。これが脚光を浴びる直前、トーキョーで行われたオリンピックで、大規模な虐殺が起こった。
宗教的な動機で起こされた殺戮は、薬物と、脳に留置する方式のレシーバー型生体補助デバイスが投与された人間が実行した。
本質的には異なるが、ユリが作り出したナノマシンと、同じ様な事が出来るこの技術が実在していて、それによって歴史的なテロリズムが行われていたなんて事が知れれば、世界中が恐怖するだろう。
だけど、この事を合衆国政府と米軍は完全になかったことにした。社会を覆しようとして、それをし損なった主義者は、全てを消し去ろうと意図した。この実行犯、幹部や残党達が自死を選び、中の末端の人間たちに漏れなくそれを強要した、あくまでもエゴ丸出しな仕業。と言う体にして、僕らUSSOCOMが何人も、何人も関係者を殺害、拉致した。
そうやってすっかり世の中には存在しない事になった、これらニューロン関与型コントロールデバイスは、拉致に応じて米本土に連れてこられた研究者と技術者によって一旦完成され、今もひっそりと継続して研究中というわけだ。
テロリストの脅威と、彼らが行った事の余波が消えない二十年代に存在するべきではないとして、その技術は世の中的には宇宙人や合衆国政府の陰謀の類であるという事になり、オカルティックな話が事実に、核心に近づきはじめてしまった。そうなるとユリもいつの間にかNSAに買い取られた。
僕たちはお互いその下請けの従業員で、専門家で、罪に塗れている。開いてしまった穴にお互いを詰め込んで埋めようとするうちに、僕らはお互いを性欲や孤独感を消してくれるひとであると、認識するようになったかというとそうではなくて。彼女の僕を見る目が本気になっていくにつれて、僕の心の中に澱のように積もる嫌悪感は僕の心を犯し続けた。そして僕は疲れ果てると、眠った。
シンプルに過ぎる白い部屋。
黒く輝く肌。
これは、夢だ。現実じゃない。それがすぐに分かるほどに、現実感の欠如したこの空間は、偽物だ。いつだって、僕がここでタンディと会う日は、雨が降っている。あの日から
僕が、ただ彼女が死んでいくのを見つめていただけのあの瞬間から、この場所で雨が止む事はもう、ほとんどなくて。彼女は死んだまま、僕に向かって走ってくる。僕は、それを受け容れると、彼女の上半身は、消えて無くなってしまうんだろう。
今日も、赤道の南側は雨が降って、そこら中が水たまりになって、パンツの裾を汚すものだと思っていた。だけどどうだろう。
気がつくと、僕らのこの部屋の窓から見える景色の空はただただ青い。靴下を濡らして僕を不快にする泥水も、滝のような水の流れが作り出した、車のタイヤをスタックさせる穴ぼこもどこにも見当たらない。
いっそ作り物のようなその青さに僕はまったく疑問も持たない。雲一つないこの空は一体どこまで続いていくのだろうとか、この青い空がいつまでも続いていくのだろうとか。漠然と、楽観主義者の視線を空に送る。
そして、タンディの顔を思い出すよりも先に、彼女の上半身は消えて、大げさに血を流したその姿が目の前にいた。
*
僕らが生きているこの世界は、平和極まりない世界で、退屈で生産性の上がらない、上流階級の茶飲み会の様相を呈していた。と言っても、それもちょっと前の話だ。今世紀になってやっともたらされた技術の進歩は、世界各地でガス資源を吹き出させて、中東の価値をいっそう引き下げた。まさに欧米と極東だけが地球を活用して彩りある人生を送れる舞台であるかのようだった。
そんな時代にも実際は、色々な生き方が世界にはあった。僕は、父親に連れて来られた中央アフリカで、一〇代のはじめ頃までを過ごした。
決して豊かではないし、フロンティア精神を体現するような場所でもないバンギの周りにあるその町に僕はいた。その頃の僕は父の付属物であって、社会的意味をこれと言って持たない、プロパティの一つでしかなかったわけだ。
父の役割はと言うと、第3世界――中央アフリカのバンギ周辺の小さな街――で僕ら欧米人の科学を広めるという、酷く馬鹿げたコマーシャルパーソンを演じる事だ。そして広告塔を演じるピエロの息子が僕の仕事で、当然この事を受け入れる事なんて到底出来なかった。僕は彼女と出会った小学校で、父親の仕事をピエロだなんて伝えられず、科学者だったり、教師だったり、たまには営業マンだったり、たまには歯科医師だったり。その場その場でころころと、思いつく限りの肩書きを並べた。その一つ一つは本当のところ全く間違っていなかった訳で、並んでいるどれもがきちんとした、威風堂々な肩書きだ。それを、なぜこんな偽善事業に使うのか。そのことで僕はいつも憤っていたし、その事で僕は彼を酷く軽んじていた。そして、それは彼が迎える最後の瞬間まで変わらなかったし、それどころか今になってさえそう感じてしまう。
偽善ならまだマシだ。偽りでもその行為自体は善なんだから。だが、実際はどうだ。その知識を知らなくていい社会に、好き勝手にその叡智をばらまいて、その社会に棲む人間に疑問を持たせてしまうのが、要するに父のやってきた事だ。
「自分達は搾取されているのではないか」
「自分達にはもっと豊かな世界を見る権利があるのではないか」
「自分達が作りだしたものを、恐ろしいような値付けで扱う世界があるのではないか」
「自分達の正義は穢されてしまったのではないか」
そうだ、疑問符ばかりだ。自分を中心に彼らは並んだ疑問符で、ぎゅうぎゅう詰めな訳だ。
彼が最後に思いを伝えようと思った相手は子供だったけれど、それは伝わらなかったし、結局彼らの欲望は彼の持ち込んだ文明やら文化やらが届くような相手ではなかった。彼らにとってそれは関心の無い事で、それを押しつけられた彼らの自尊心は嗜虐性にすり替わったと思ったら、口をつぐむべきだった。
全くの無関係な世界にフラフラと入り込んで、僕らの持っている技術やら思想やらを全くの無償でばらまく。かれはそれを誇りにさえ思っていたようだが、そう言う古い思想に取り憑かれた人間はこんな危ない土地で生き抜く事はおろか、良い死に方さえ出来るわけがない。当然僕の父親も、彼を不愉快に思ったのであろう子供達に、射殺された。体中に穴が空いた父さんの遺体を見る事は無かったが、死体は冒涜されたという事を意味し、あの時僕は間違いなく彼に対して、
「ざまあみろ」
と思ったし、誰もいない部屋の中でもう一度ざまあみろと口に出して言ってみた事さえもあった。僕の彼に対する嫌悪は、今でもなぜだか消えない。
靴の溝に入り込む砂の感触が、不快だ。迷彩のベールに包まれてじっとしているのが今、僕の仕事だ。いやな瞬間がにじり寄るのを待つ中で、僕は考える。
昔、僕の父は日曜の朝にこんなことを言った。
「人間の価値は決して仕事では決まらない」
そんなはずは無いのに、あたかも善人になってしまったかの様な父さんの顔には、今の僕だったら拳の一つでも叩き込んでしまいそうな戯言が浮いている。そして父さんは僕に、土曜の夜をたっぷり使って滔々と語る。
酔った父親と、その息子の僕。
僕はその時はまだまだ世の中の矛盾だの、解決が出来そうも無い大人の事情だのを信じることが出来ない様な、出来の良い子供だった。それでも僕は、父さんのやっている事の真実を知ってしまえばそれを肯定する事なんて出来なかったし、それが自然な事だって事も知っていた。
そんな事をふと思い出すと、砂が風で動くのをひたすら眺める、全く自由の無いこの環境下で僕はほんの小さな身じろぎをする。昨日の砂嵐と違って、今日はいたって気候は優しくて、居眠りには最適な環境だ。視線の先にはなんとかって言う虫がよちよちと歩いていて、まったくもってのどか極まりない。
誰の話を聞くでもなくじっとしているこの時間は、日曜の朝から教会に連れて行かれて、熱心にファーザーの説法に耳を傾ける大人に鼻白む空気を思い出させて思わず吹き出す。
平和な日常と毎日のルーチンに僕は、今日も溜息と深い安心感に浸かる思いだ。昨日と同じように大過なく今日を過ごす。
まったく、有難い。思わず呟く。
神様が存在するなら感謝したいくらいだ。何人か神様がいたとしたって、いちいち今日もありがとうございますと挨拶して回ってもいい位におおらかな気持ちになった。
それから、もしかしたら、と思う。
人間はどんなことをしても改心することができて心は、浄化されて行くのではないか。
どんなに間違った行為をしてしまっても、人の心を疵つけてしまったとしても、自分を欺瞞して綺麗になったつもりの僕は、しまいには、大勢の人を殺して回っている。
目の前で変わり果てていく彼らの遺体を悼むことも、弔うこともしたことが無い僕はきっと悪人なのだけれど、宗教であるとか主義であるとか抽象的なとらえどころの無い何かにすがれば救われるはずだと、しっかりした信仰も持っていないはずなのに十字を切って見せたりする。
毎週末、熱心に通う教会の懺悔室で恐るべき重さの罪を口から泡のように吐き出して、それであたかも罪が消えたかのような錯覚をする僕はやっぱり心の芯まで悪人であって、正義の執行者などではきっと、無い。
で、僕は毎日のように飽きずにせっせと作業を続ける。鼻歌を歌いながら、時には必要のないくらいの集中をしながら、時には惰性で、とにかく作業を続ける。
僕が次から次へとライフルのストックで頭をたたき割って、良く切れる、贅沢にタングステンが盛られた超硬質鋼の刃物で刺殺し続ける対象の少年達は、人間とは思えない様な行為をこれまで続けて生きている。僕がこうして彼らに止めたまえと制止してあげなかったなら、明日も、明後日も、延々とそれを続けるんだろう。彼らも、僕も飽きもせず。
正しくは、昨日まで行き続けていて、僕の手によって死体になり続け、その人数を増やし続ける彼らは、WFPからの食糧支援とUNICEFから分けてもらったワクチンでせっかく手にした命を、他人の命を奪うことに使い続けてきた。
いや、それだって僕は一向に構わない。僕が立っているところは、人様のやることに文句を言うような立場でも無いし実際のところ、仲間内で彼らが自慢し合う、
『強姦した女の特徴』
だの、
『ムカついた顔をしたその辺を歩いているだけの男を射殺した話』
だのは至ってどうでもいいことで、勝手にしてくれ、と言うのが正直なところだ。
それよりも、先週喧嘩別れした旧友や、実家の隣に住んでいる老人の体調の方がよほど気になると言うものだ。
そう言うわけで卑劣な作業を続ける、綺麗できめ細かい肌の艶が見せる幼さの彼らは、僕が知る限り誰一人として童貞ではなく、常にどのような卑猥な行為をしたら自分は気持ちいいだろうかとかを考えたり、麻薬の味の違いをたしなんだりしている訳だ。
「今日犯した女の旦那の顔は最高だったよ。終わる頃には死んじまったけど」
と、ひどく出来の悪いマチェーテで手足を切り落とした男が死んでいくのを眺めながらその隣で泣きながら命乞いをする妻を強姦をすることを、心から誇らしく吹聴したりする。しまいには自身の残虐行為のその残虐度が他の少年に負けた様な気がして競い合う様な輩までいるし、それが、女の子に笑ってもらいたくて言うジョークのような気軽さで口からでてくるものだから世も末だと、思う。
遠い遠い二〇世紀の世界のことを僕は知らないが、みんなが生きてる二一世紀の世の中は、世紀末までまだ何十年と余しているのになんと言うことだ。
本当に、世も末だ。
祖父さんが兵隊に志願しようとした僕に昔、こういったことがある。
「お前が生きていく時代がどんなことになるのか分からないが、俺たちの時はもっとこう、生々しい感触の闘いだったんだ」と。
実際そうだったんだろう。電子的なアシストも、頼るデバイスも今と比べたら圧倒的に貧弱な時代に、自分と仲間の力量と、それを支える精神力に任せて目的を目指す時代だ。ガジェットが色々な事をしてくれてしまう僕たちの時代とは根本的に違うと考えても何ら差し支えないと、思う。そして現状を憂う彼はこうも言った。
「嫌になりそうだったら、すぐに家に戻ってきたっていいんだ。世の中の流れから言ってこれからは、それなりに厳しい風当たりになるかもしれない。壊れちまうよりはよっぽどいい。そういうことで孫に死なれたら俺だってそれなりにショックだ」
うちの祖父さんも、危険なところに所属していて危険な仕事をしてきたそうだ。
僕がすっかりUSSOCOMに染まりきった頃になっても、祖父さんは詳しくは語らなかったが、話の端にそういう情報を、
「お前にだけは分かるように忍ばせよう」と、秘密を組み込む。
当時の先端技術に身を包んだ祖父さんは、きっと星の数だけ汚れ仕事をこなして、罪に塗れて、そしてそれをなかったことにしてこの場所でのんびりと余生を過ごしているという訳だ。
僕の方も、祖父さんには具体的なことがしれないように、また、話の端々に「祖父さんにだけは教えてあげるよ」と、仕事の中身を忍ばせる。ふんと鼻を鳴らす祖父さんは、「そうかそうか、やっぱり技術が進むと安全のためじゃなくて、それを使ってもっと危ない目に遭うのかもしれないな」と時折、笑った。
祖父さん達が使ったハイテク兵器は、今の僕らにとってはほんの付加機能に過ぎないような物ばかりだが、それも無いような状況下で祖父さんは任務をこなしてきたわけだ。今も昔も、機器によって仕事が楽になるなんて事はきっと無いのだろうな、とそれが分かるよと目配せすると祖父さんは、違いが分かる男になったと、誇らしげな顔をする。
そういう祖父さんを見て、僕はなにか、滑稽で諧謔の効いた祖父さんのジョークが帰ってくるのが楽しみだった。
当時のハイテク機材と今の何でもない機材を比べてみても仕方ないが、過酷で凄惨な局面にうっかり鉢合わせてしまったことだって彼にはいくらでもあるんだろう。そんなときに頼りになるのは機転とそれまでに受けた訓練の蓄積であって、デバイスの性能じゃないんだから。そう言うことを心得ているくせに、結局途中で仕事が嫌になってしまった祖父さんは、僕のようにPTSDに悩まされて希死念慮に苦しむことも無く、精神調整に足繁く通うことも無かった。
きっと彼は、僕と違って正常な側の人間だったと言う事だ。僕と同じような遺伝子配列の肉体を持っているからには、たぶん僕と祖父さんは同じような『良い』海兵隊員だったに違いない。だけどこうやって真っ当な、のんびりした時間を孫と過ごすことを選んだ彼は、きっと真人間だったのだろう。
現代のユーザーに合わせて開発された大変快適な装備群、殺したい相手から見つかりにくい戦闘服だの、人工衛星と連動した囮だの、随分便利な道具達を使ってこなす、祖父さんが想像するような生々しい場所が僕の現場だ。
ネットに転がる、僕らが使っている先端の玩具を祖父さんは眺めて、こんな恐ろしい機械があったら世の中どうなっちまうんだと大げさなジェスチャーで茶化していたが、それを知る前に彼は癌で死んでしまった。どうにかして祖父さんにもこの玩具を見せてやりたかったな、などと思う。死んでしまう前に、具体的な、生々しい話で盛り上がっておいても良かったか、などと彼が喜びそうなシチュエーションをぼんやりと、僕は考えた。
衣擦れの音を少しだけ立てるBDUに視線を落とす。少し血で汚してしまったがこの程度で壊れることも無いコンポーネントたち、本当に便利だ。
だけど、結局祖父さんの言う「生々しい感触」の殺害行為なんかも全然変わってないんじゃないだろうか。頭蓋骨をへこませて、たまには目玉をぶら下げて死んでる少年達を傍目にふっと気にとめると僕だって
「こりゃひどい」
って漏らしたりするんだから。便利な機材でひどい殺し方の密度を上げてった先の姿が僕らなだけなのかもしれない。良く出来た武器であっても、結局それで殴りつけて、頭蓋骨を砕くことに使う分には石器時代の何かと何ら変わりの無い道具だ。ただそれが握りやすいかどうかとか、重量のバランスがどうだとか、頭蓋骨がへこんで命の火が目から消えてく側からしたら本当にどうでも良いことだ、と思う。
カービンのストックを叩き込み続けると、バタバタと死んで行く僕の胸ほどの大きさしかない彼らが、巨大なAKをこんな狭い場所で振り回す姿は愛らしくすらある。
これはコメディ映画の一部なんだ。僕はその脇役で、画面の片隅で彼らを勤勉に殺害し続けるというわけだ。ふと手を止めたくなる衝動に笑いをこらえる。
そう、そうだ。この行為が一番罪深い。いつも、子供だ、僕が殺すのはいつも子供。彼らにまともな未来なんてやってこない事はとうに知っているのだけれど、それだって成長しきってもいない体の大きさと、本来なら人なつっこいはずの顔の向こうにある、汚れた心を僕は殺害という方法で処理する。そうしてたまりにたまった罪の量に、それを告白された神父もきっと当惑を隠せないに違いない。色々言い訳をしてはみるけれど、どうにもならない程罪にまみれようと、相手は子供じゃないか。
そして僕は、こいつはある種の諧謔だな、と笑う。
ユリは、そう言う話を僕から上手に引き出すと、決まって笑う。
「あなたの役割なの。そう言うものよ、あなたは悪くないって」
綺麗な顔で僕をまっすぐ見ながら、彼女は僕を言いくるめるみたいに。
ほんの少し不快を感じる僕は、彼女の顔を見つめるいつもの僕を演じることにして、今度は僕が彼女に作り込んだ笑顔を返してあげた。
「君が、君の言葉でそう言うんだね。僕がそうであって欲しいっていつも思ってることを」僕の代わりに、君が。
僕はありったけの、嘘で僕を僕の形をした人形のように、形作る。嘘が僕の心を騙すと、すっかりその気になって僕は続けた。
「ありがとう、僕は……彼らの顔を忘れられなくて」と、どうでも良いような取り繕った善人の言葉を返す。
彼女は、心を打たれたように、それを真に受けたように、僕を強い視線で一瞬見つめた。数秒の間をおいて後、彼女は僕の受けた精神的な疵を消し去るための手続きと、具体的なプログラムを立案して、それをコーディングするためのメモをARのキーボードで打ち始めた。僕からはテーブルでピアノを練習する女の子がメチャクチャに鍵盤を打ち付ける様のようにしか見えないのだが、ひどくそれは滑稽で。
それを眺めていると、抗しがたい眠気がやってきて、気がつかないうちに眠りに落ちた。
*
僕は、彼女の手を握りながら、訊ねる。
「君は僕のそばにいてくれるはずなんだよね、君がどこかに行ってしまうような気がして、僕はいつも気がかりなんだよ」と。
だけど彼女も
「どうしたって、このままだと君は消えてしまうんだよね」と口にし、僕に真っ直ぐ視線を送って、訊ねた。目をそらすといつの間にかさ、と付け足した。
彼女は、フワッと、水滴が水たまりに落ちるような瞬間を僕の中で止めて、笑う。
美しい黒い肌と瞳で僕の目をとらえて、長い足を綺麗にそろえて座る彼女は、そのままそうだとも、そうではないともとれる仕草で僕の手をほどいた。テーブルの上で湯気をくゆらせる紅茶は偽物みたいに綺麗で、温かさはきっと永遠だ。一体、誰が、いつそれを汲んだのだか分からないのだけれど、いつからか置いてある上品なカップに僕は手を伸ばす。
「あなたは、ずっとここに居ても良いのに。いつも、出掛けてしまうよね。気がつくと居ないのは、あなたの方」どうして? と、綺麗な顔で見つめられて僕は、本当は戸惑うはずなのに目もそらさないでするすると、さも自然体の自分が居るかのように嘘をつく。そして、言う。
「どうしてだろうね。本当に居たい場所だから僕はいつもここに戻ってくるんだ。今日だってほら、僕は戻ってきて、君とこうして見つめ合っている」次だってそうだよ。その次だって。いつの間にか僕は彼女の元に戻ってきて、永遠に見つめ合う。
どこからでも、そう。本当に、どこからでも。どうして、いつから、どうやってここに座っているのやら。僕はこの心地よさに騙されて、疑いすらしないままカップを唇に近づける。そして、アールグレイの香りに鼻腔が包まれると彼女の口元に視線を移して僕も、笑う。
僕は彼女にささやいたけれど、それを意識することもなかった。
「ここは、僕の居場所なんだ」
だけど、それは。いつから、いつまで。それは僕にも彼女にも、誰にも分からない。
空調もないのに、この部屋は少し暖かくて。だけどどこからか風が吹いて、微かに彼女の髪は風に揺れて。僕の視線はそこに映ろう。静かに時間は経ってたけれど、やっぱり紅茶は冷めない。
僕の、居場所。
ここは、僕の居場所。
風の音。
陽の光。
白い壁。
白い机と食器。
心地の良い場所。
僕の居場所、ここは、僕の居場所。
ねえ、知っているんでしょ?本当のことを。と、彼女の口元は音もなく動いた。
二
まだ真っ暗な夜空から滑空してきた僕らは、一㎞ほど離れた着地点から厳かにこの町に向かって行軍をはじめる。暗闇で顔を突きつけ合って、ハンドサインやら文字情報でブリーフィングを終えて、きっちり報告、連絡、相談をする。仕事の基本だな、とホワイトが五月蠅いのを鼻息でやり過ごす。全くもってサバンナの星空の綺麗さはいつも通りで、健康な者は人っ子一人出歩いていないこの時間を独り占めするのは贅沢極まりないものだ。
だが、例外だってたまには起こる。町の外れで子供に出くわした。アフリカ然とした民家の近所を通らざるを得ないときには、緊張する。小便に出てきた子供と数百メートルを隔てて目が合う事だってあり得るからだ。そして、それを引き当ててしまうのが僕だったりするわけだ。
速やかに僕らは身を伏せて、幽霊でも見たって事にしてもらう事にしたわけだが、そのままにしておく事は、出来ない。彼がのんびりと家のドアに向かって歩いて行くのを確認すると、僕らは全力で近づいた。
嘘であって欲しいと願っても無駄な事だ。衛星に通信を飛ばして、作戦本部に状況を伝えた。そして、返ってきた答えは、脅威になる可能性が高いから、殺せ、だ。
羊飼いに出くわして、見逃す。
子供が飛び出してきて、見逃す。
女が飛び出してきて、見逃す。
こう言うことは事故の元だ。のどかで純真な住民に見える彼らは家に帰ったならしっかりとしたテロリストであって、暗殺部隊がやってきたと言う情報は要塞化した村や町に一瞬で知れ渡るように訓練されてさえいる。
慎重に確実に、処理をしなければならなくて、僕の心は、気持ちとは関係無く仕事に向かって動き出す。
罪悪感は錆びた包丁を少しだけ背中に刺したように。いやな感覚を心に流し始めて、これを止めてくれと、作戦本部にリクエストを送った。
それが僕の仕事だ。
日曜の朝の父さんは、いつも僕に言った。
「人間の価値は決して仕事では決まらない」
確かに、綺麗な世の中ではそうかもしれない。だけど、ここは合衆国じゃない。
中央アフリカの中心部で、バンギ近郊の農村だ。今日の僕だったら間違いなく拳を顔の真ん中に叩き込んでいるだろう戯言を、土曜の夜滔々と語る酔った父親。その息子の僕はそれを反論もせずに静かに聞いていた。だが、少しずつ溜まる憎悪と嫌悪感、そして殺意。僕自身、なぜ父親にそれほどの感情を抱くのかが分からなかったし、実は今でも嫌悪に溺れながら、その理由がさっぱり分からない。疑問に溺れて、嫌悪に溺れて、殺意に溺れて。
そして見知った声。
「中尉どの、で、どうすんだ?」
思い出を反芻する作業を邪魔するホワイトは、満足そうに僕を眺める。また妄想しやがって、と。四人しか居ないこのチームは、もはや我々合衆国軍の中でも、識別表すらも足されていない非公式で、違法で、国際的にも許されない作戦群だ。
いつも通り、静かに侵入すると、そして、必要に応じて兵隊を殺して、目標を殺して、その辺を歩っている目撃者も、容赦なく殺す。殺していないときも僕らは、殺す練習を怠らず、寝ても覚めても殺人のことばかり考えているみたいだ。
いや、殺す作業に没頭しているとその事に対する罪悪感がなくなってしまうわけではないのだけれど、そう言う感情のどうのこうのはエンジニアの仕事だ。今はそれを沢山本土に持って帰って、奴らの仕事を確保してやるとする。
「機材の確認と手順の確認をする」
部下の慇懃無礼が癪に障るが、黙って聞けという意味を込めて無表情にそう返すと、三人は了解のサインを寄越す。
父親の戯れ言をふと思い出すと、チクリ、もう一度チクリと、自由の無いこの状況が僕の心に刺傷を残して、気がついた頃それは消える。昨日の砂嵐と違って、今日はいたって気候は優しくて。居眠りには最適な環境だ。視線の先にはなんとかって言う虫がよちよちと歩いていて、いたってのどかだ。
無言で機材のチェックを続けるサキオカに、ハンドサインで確認を続けるジョンソンは至ってまじめに僕の指示を待っている。ホワイトにコイツの爪の垢を無理矢理飲ませてやりたいが、ナイフの上手なホワイトにそれをしようとするのはなかなか手強い。
誰の話を聞くでもなくじっとしているこの時間は、日曜の朝から教会に連れて行かれて、熱心にファーザーの説法に耳を傾ける大人に鼻白む空気を思い出させて、思わず吹き出す。
平和だ。物陰で邪悪な作戦の開始を待つ僕らを隔てる漆喰の向こう側では、せっせと殺人者が爆弾を作ったり、その爆弾を持たせるための女子供に死後のセックス三昧を説いたりと、昼間の彼らもそれなりに忙しい日常だ。
「いくぞ」
と静かに僕が言う。機械仕掛けのようにナイフを抜くと、同じように良く切れる刃物を手に持った部下達にハンドサインを送って、鍵も掛かっていない家屋に侵入した。
暗がりの中で、安らかに眠る人間を殺す僕たちは言うまでもなく悪人だ。だけどだからといって僕の祖国に呪いの言葉を浴びせながら、自動小銃で抵抗しながら殺される彼らもひどく悪人であって、重い罪人だ。そして抵抗させることも許さずに速やかに彼らを殺す僕らの罪は一体どれほどの重さなのか。銃口のマズルフラッシュを嫌った僕らは、瞬く間に彼らの胸に、首にタングステンの刃を突き立てると、事務的に彼らの命を奪った。とても普通ではないような素早さで、彼らの生命は消えてしまったわけだ。そして一家の死体の脇に積まれた爆薬の質量と、使い古されたAKを眺めてため息をつく。
「こいつは……。たいしたもんですね」と、サキオカがため息をつく。
僕と、彼らのを隔てる距離は一体、どれくらいのものなんだ。
「放ってはおけなかった、気にするな」僕は言う。
善人は安全な土地でデスクワークだ。なかなか理にかなった世の中じゃないか。持ちつ持たれつで、まったくもって平和でルーチンな日常と、想像される毎日の繰り返しに僕は、今日も溜息と深い安心感に浸かる思いだ。
血の臭いが取れないいつもと同じように、大過なく今日を過ごす。
遺体をベッドの下に隠して軽く片付ける。そしてブリーフィングを済ませて民家を後にした。僕らはすっかりこれを過去のこと、大切な思い出のようにしまい込んだ記憶にして、目標地点に静かに歩いて行く。
三
「ピート」
ホワイトは、僕を時々名前で呼ぶ。それは作戦中にはよせと言っても、なかなか止めない。強情なヤツだ。
僕らが町に着いてから数十分経つ。脳内で直接麻薬を生成するナノマシンを実用化させてしまったとか言う、行動力のありすぎる悪人を殺害するために僕らはやってきたわけだ。そしてその至近にいて、夜真っ最中の暗がりで準備をする事が出来ると言う事は、上手く物事が運んでいると言う事を表しているのに、ホワイトはそうではないという顔を僕に向ける。僕らの前にも僕らのようにしてやってきた兵隊がいる。彼らがその作戦を失敗していることは、僕らのこの作戦も、普段よりもずっと遂行できる確率が低いものであるかもしれないという推測をしなければならなかった。
有力なテロリストの暗殺作戦に失敗したSEALのヤツらを救い出す、あるいは遺体になった彼らを回収するために政府は、非公式な失敗を、非公式な僕らに、非公式に処理させるべく、非公式に押しつけたわけだ。
そして、非公式に、
「雲行きがヤバイ」
と今、部下が言っている。
なにやら様子がおかしいと彼は言うのだが、残念な事に僕にそれが感じられない。どうしても軍人として勝てるところが見つからない相手がそう言うのだから、不本意だが、きっとそうなんだろう。
「中尉どの、だろ」と、前置きをしつつ僕は彼に用件を聞く。
僕に感じられない何かを、さも嬉しそうに、端的に並べるホワイトはどう考えても、この場所が好きでたまらないとしか思えない。僕には嫌悪感しか涌かない仕事場も、ヤツにとってはシリコンバレーの清潔なオフィスと何ら変わりないと言う事なのか。
彼に言われて初めて、疑いながらも、人員配置の分布を脳内に浮かぶ端末に演算させ試算する。網膜に投影した、浮かび上がる色分布は、建築模型のようなかわいらしい町を包む。その警告色にまぶされたミニチュアを、脳の中で現れた現実のものとして受け入れるまでの間、数秒を待った。
「おい、周辺に人が多すぎるじゃないか……」
確かに最新のガジェットと、作戦本部にリアルタイムに監視されて援護を注文できる環境を用意された僕たちだけれども、それが訓練された何百人を相手に四人で殺戮をする事を、全く意味しない。
ジョークのように場所を間違えましたであるとか、情報収集が不十分でした等と言う事が申し訳ないで通るような問題ではない事は明白であって、もしかして、僕らはなにか本国のデリケートな問題に巻き込まれたのではないかと疑い始めてしまうような有様だ。
仮にそんなジョークが許されたとしても、それすら何とか出来てしまうのが、僕らの長所であった。そのはずだった。
だが、それが僕らの心を弛緩したのは、間違いなかった。
明らかに僕たちが携行する弾丸の数では対処しきれないほどの人員が、僕たちの侵入に気づいている。そして、僕たちの存在は公式な物ではない。僕らは、公的な援軍をそのままでは呼ぶ事が出来ない。僕たちを助けたければまず、通常部隊を偵察任務やら何やらでここに派遣し、そいつらの何人かが負傷するなり何なりして動けなくならなければならない。そのどさくさで、支援部隊を送り込んでもらわなければならない訳だ。
つまり、時間的なロスの間に僕らが死んでしまわない必要があって、なかなかにハードルが高い。いま、誰かが負傷したなら助かる見込みというのは実に、絶望的だ。
徐々に見張りが、点在する廃屋を巡回監視する範囲を広げている事が、ゴーグルのスクリーンに表示されている。その範囲と人員は確実に僕たちの緊張感を高め、時間的猶予を削り続けている事が鮮明になった。
さっき処理した家族か? と記憶を反芻する。しかし、あの現場には手抜かりは見当たらない。なぜ僕らの場所がこんなに正確にあぶり出されているのか。そのくせ彼らは、僕らが誰なのかを把握していないような不用心な探し方をしている。
それでも彼らが探している米兵は、もう見つかったような物だ。彼らがしらみつぶしにその辺にある建物に踏み込むのを繰り返して、あと数区画を残している今この瞬間すぐにでも何とかしなければならない。まだ陽が出ていない短い時間を使って、状況を打開する必要が、ある。
巡回する人員の位置情報と展開予測を、ジョンソンが全員のゴーグルに展開した。何パターンかの推移を眺める。僕たちが持っているM4と、サキオカのM24で事がどうにかなるという問題ではなくなりつつあるのは明白だ。
「お前の人生で、尊いものを理解しているか?」
こんなときに、よりによって浮かび上がるのが父さんの戯れ言だ。しかし、人の価値が一体何で決まると言うんだろう。罪深い人間になってしまった僕はじゃあ、全くの無価値ではないか。『仕事』でも、『精神的な意味』でも、僕は全くの無価値で。合衆国軍からもいないことになっている僕らは、全くのゼロな存在だ。
ほんの僅かな瞬間に、僕の心は不快感で満たされて、これを抑えるために調整をかけさせるリクエストを、ユリに送ろうとした。
その刹那だ。場にそぐわない声。
「お前らは」誰?
無造作に扉を開けて立っている子供が僕らに問いかけている。凄い形相だ、そんなに怒りを顕わにしちゃ駄目だ。子供らしく笑っていないと。
声の高さ、髪の長さ、愛らしい顔つきに、曇り空と、ぬかるんだ道路がよぎる。今、それを思い出してはいけない。気持ちを抑制する。女の子じゃないか。如何したんだ、君はこんなところにいなくてもいいんだと、そんな事をうっかり僕は思う。床板が微かに軋んで、僕の中に不安が広がる。
高い声で僕らに、
「何をしているんだ」
と彼女は尋ねる。君に聞きたいくらいだ、僕だってそう思う。だが、それは好意を全く含まないことに僕とっくに気づいていて。突然視界に現れた、子供は、コイツは。何でこんなところにいるんだと一拍送れて吐き出す。
そして、よりによってなぜ衛星の監視から漏れたんだ。
意識するより先に人差し指を持ち上げる。いつもなら彼女とキスをするための唇の前に、人差し指を立てて静かにさせようとした瞬間、既にこの子は僕に小さなリボルバーを僕に向けている。
なぜ、僕は逡巡したのだろう。もう、取り返しがつかないほど僕は無防備だ。僕の心は少しだけ、脳に話しかけるのを躊躇う。僕の息は酷くゆっくりで、彼女のそれもゆっくりと吐き出される。
視界の隅でホワイトの手の中で、ゆっくりと親指が動いているのが見えている。実在の物ではないかのように、緩慢に。M9の重さがやけに大げさで。僕は、撃鉄が少しずつ異様なゆっくりとした動作で上がっているのをただ眺めていた。
そして、轟音が、響いた。引き絞った右手の指先に驚きもせずに。
ホワイトは躊躇無く彼女を射殺した。脳みそが飛び散って、上顎より上のパーツは粉々に吹き飛ぶ。瞬きをする前に、彼女は小さな遺体になって、転がった。
家屋から銃声が聞こえればそれはそうだろう。
外は忽ち騒がしくなって、僕らは作戦本部に暗殺の中止をリクエストした。外の状況を知る彼らはそれを瞬時に承認して、僕らの任務はすぐさま「速やかに撤退する」事となった。
衛星からの経路指示と参考戦力の分布地図、それらがゴーグルに映し出されると、確認を終えるハンドサインをすぐさま了解して立ち上がる。朽ち始めた床板は大げさに軋んで僕らを追い立てる。この廃屋を飛び出すと、僕らはすぐに見通しの良くない幽霊区画に走り込む。バラバラと雑な、腹立たしいAKの発射音が壁の向こう、遠くから響く。そして跳弾と、流れ弾。
視界のずっと奥の方に飛び込む砂煙と、それを作り出す弾丸に怯む。でも、ただ運が良いだけの出鱈目な発砲に当たってあげるわけにもいかないんだ。
撃て。
死にたくなければ。
走れ。
だけど、僕は本当に死にたくないのか? 全力で走る中、僕はそんな考えに取り憑かれる。
目標のお屋敷の入り口は小さいが豪勢な門があって、かつてこの町が華やいでいた事を想像させたが、AKをこちらに向けて真剣な顔をした男が立っている。オイ、そんなに夢中でやっても良い事はないぞ、僕はそう彼に伝えてやった。今日何度目の想定外だ。
カービンのバレルに取り付けられたセンサーは、僕の血流に浮く小さな機械によって補正をかける。集中するだけで、筋肉と神経のコントロールはリンクして、かつての戦闘にはなかった精密射撃を僕は行う。
一瞬で、三発の破裂音と心地よい衝撃が右肩に伝わると、男は右肺のあたりに銃弾を受けて死体になる。そして僕らは十数秒の後彼の死体を無視して扉を蹴破り、小さなお屋敷に陣取った。忙しく機材を広げる手を止めずに援軍とピックアップを要求するが、作戦本部は、
「調整するから待て」
の、一点張りだ。しばらくは彼らも大慌てでデスクワークにいそしむのだろう。でも僕らは、もしかして死ぬんじゃないだろうか。
段々と近づいてくる非正規のくせに訓練の行き届いた兵士は、この建物に殺到してきて僕らはきっと、いつまでも持ちこたえられない。玄関の前に対人センサを取り付け、死角となる裏口や廊下場所にも幾重かのブービートラップを仕掛けて、僕ら自身の死に備えた。
ほら、一生懸命やっているだろう?と証拠を作る。
見ろ。もう来た。
AKの発砲音。
ガラスは割れて、漆喰に食い込む弾丸。粉が舞う室内はいやな匂いがする。センサーに任せて出鱈目な応射をすると、それなりに何人かが勝手に死んでいく。よせば良いのに、コイツらは。
RPGを構える男を見つけたサキオカは、彼の頭部を即座に破壊する。薬莢が滑らかに床に落下するのを横目に、僕とホワイトは殺人に懸命だ。
ジョンソンに投擲を指示して、僕は再度作戦本部に救援を要求した。せめて攻撃ヘリをよこせと。このままでは恐らく全員が、死ぬ。
そしてジョンソンの放ったグレネードが素人じみた一団の真ん中で炸裂したとき、強く左肩を小突かれた。
7.62㎜の粗悪な鉛の塊が、防弾ベストの繊維に滑り込んだ。
四
肩が、熱い。
痛みのはずなのに、もはや、これは熱さだ。
そして、しばらく声も出せないでいると、その熱さが肩から消えていく。
粘度の高い液体でベタベタになった下着は、心地の悪さを演出して、ストレスの限界を僕に教える。
砂の上にこぼれた僕の赤い体液は、いつまでもそこに居続けた。丸く、金属のようにしっかりした質感のそれは、滑らかだ。まるで、消える事を嫌がっているようなたたずまいに少し感心する。
でも、本当は容赦なく砂の毛細管現象は塊を吸い取っていく。
消えてしまった赤い玉はもう、どこへ行ったかわからない。
けど、その痕跡はやけに、主張するんだ。
鈍くはじける音がすると壁の漆喰は粉になって、微かな大きさの霧のように僕の目の前で煙のようだ。陽の光の形を柱のように作り出すその煙は、不規則な進度で急に濃くなっていく。
背後の壁に出来の悪い弾丸が入り込む音が聞こえる。何発も。いかにも着弾のばらつきそうな音が遅れてやってくると、このうちの一つが自分の体の中に入り込んで、肉をほじくり出している訳だ。どうりで、激痛にも似た熱さだ。だがよりによって、こんなときに作戦でヘマをする。
何度も何度も、いい加減飽きてしまうような繰り返しと我慢の先に、こうして現地での作戦を任されて意気揚々と出掛けてきた先で、こうやって僕は射殺されかけている。
「こう言うのは消すつもりが無いのかよ」
僕の蒼白な顔は、殺意を含んで笑う。
質の悪いジョークだろう。色々な物が消える。僕の大切な色々な物が。
感覚や、意識、思考に至るまで。
僕が日々大切に仕舞っておいた物を、彼らは、ほじくり出したと思ったら無造作に隠したり捨てたりする。まったくもって迷惑な話なのだが、実際のところ仕方が無いな、とも思う。
僕の中身は、遥か遠くにいる僕の仲間に覗き見られている。色々な方法で、色々な角度から探られている僕の体と心は、もはや誰の物なのやら。
僕の血管に封入された小さな機械は、機械という名前はついているが生物と工業製品の中間を行き来するグロテスクな代物で、いっそ僕の免疫にコイツらを消し去ってしまえと言ってやりたい。彼らは僕の免疫グロブリンを巧妙にごまかして、何食わぬ顔で体の中をうろうろと歩き回っては様々な仕掛けをする。時に、それは僕を困らせたりするわけだけれど、基本的には僕にとって有益なはずで今だって、本来必要な激痛だって消してくれるし、何かの折には衛生兵よりも早く応急処置だってしてくれる。
どうだ、今だって死んでもおかしくないこの状態にあって、感じるのは血まみれのシャツがべとべとで気持ちが悪いというような、些細なことだ。とても、どうでも良いようなことが煩わしくて。僕が撃たれたかどうかなんて事はどうでも良いことだ。
それでも、僕は安全なところで僕らにああだこうだと指示を出す彼らに呪いの言葉をもう一度浴びせる。おまえら死んじまえと。
AKの7.62㎜の銃創は、僕たちが得意になって打ち込むNATO弾よりも粗雑になって困る。
みろ、僕の鎖骨の下あたり。左胸の上の方だ。まるでミンチじゃないか。下手をすると旨そうだとかとか言うヤツだっているんじゃないのか、こう言うヤツは。小さなラズベリーパイみたいで、ちょっと綺麗でさえある。
遮蔽物になってくれている不潔な漆喰の壁にもたれながら毒づく。なあ、聞いてるんだろ?お前らだって。
こんな状況でも、僕と作戦本部はいつだってオンラインで、白衣を着た学者先生みたいな顔をした小生意気な技術者は、僕の血管に幾つも、無数に浮いている小さな機械で止血をはじめる。アドレナリンが大量に体を走るのを合図に、自分の体が何かのプラントにでもなったかのように、感覚がうねった。嘔吐感の直後、それは快感に変わって僕は耽溺する。馬鹿野郎、気持ちが悪いじゃないか速やかに何とかしてくれたまえ、とディマンドを送ったわけでもないのに反射のような気持ちの悪さのすぐ後の一瞬の出来事だ。
黙ってやるところが小憎らしい。いつかアイツにはカービンのストックを、叩き込んでやろう。そう呟くと、視界の中に整然と光る物が並ぶ。古風な演出に含まれた皮肉がホコリの輪郭を浮き立たせた。
「糞を食らえ」
と、マイクロソフトの丁寧なフォントが緑色に浮いている。僕の視神経に割り込んで、視界に映り込む。今この状況には全く無駄としか思えない気遣い。いつものように丁寧に返信が帰ってきた。
しっかり聞いてやがるじゃないか。良い仕事だボウズ。どうだろう、もう痛みが無いばかりか、本来ブラブラなはずの左手で、僕はもうM4のバレルを持ち上げている。
誰が居るかも分からない空間に向けて僕は、スタンといい音で、いつもの振動を健康な方の右肩で受け止める。そして、何発も発砲した。
こんな出鱈目な応射はいつもだったら誰にもあたらない。僕が撃った弾も、彼らが撃った粗悪な弾も。今日に限って、僕の体には大穴があいて彼らも本望だろう。軍が僕らに支給してくれる高品質なケブラーのボディアーマーを貫突してしまう弾丸をわざわざ使ってくれる彼らの意図は、これでは無意味ではないか。大きなお世話かもしれないけれど、僕を殺したつもりになって得意な彼らが気の毒になってきた。
きっと、彼らはもうしばらくすると僕の仲間に射殺されて、しばらく、一回休みだ。 まあ、死んでしまっては次も無い。
かわいそうに。
五
僕の体にあいた穴は、ちょっと昔ならこのまま視界がブラックアウトして、走馬燈を見せたまま、僕をどこかにしまい込んでしまうはずだったのに。
本土の奴らときたら、僕に人工的な走馬燈を見せて、その間僕は気持ちが良くて。その上後顧の憂いなく彼らも治療が捗るわけだ。
走馬燈の中で、今日も僕は彼女と出会う。紅茶の匂いはいつもと同じアールグレイだ。
乱暴に扱われた僕の副腎は、いつもなら少ししかくれない物質をこれでもかと今吐き出して、みるみる傷は萎縮していく。ナノマシンは創傷部にわさっと集まってくると、すぐに組織を生成し始めるんだ。僕の遺伝子は彼らにとって生命の神秘でもなんでもない、ただの情報でしかなく、本土の白衣の連中に命じられるままに蛋白を合成する。その組成は実に巧妙で、見た目こそ瘢痕のようだが、本物の瘢痕と違って僕自身の組織と同じような機能を持っている。安心して任せていられるというわけだ。
彼らがその材料を思う存分使って良いように、注射器で適当な血管に過剰な栄養を込められた液体を打ち込んだなら、僕はそっと待っていれば良い。
便利な物だ、いっそこのまま面倒から永遠に解放されても良いと、本人が思っても、死ぬ事も出来ない。
何が起こっているのかを目にする事が出来ないのが少し残念ではあるが、仕方ない。少しだけ、眠らせてもらおう。彼女との永遠の時間を過ごさせてくれる黒服のあいつらに、少しだけ感謝して暗闇にへたり込んだ。
彼女の顔に僕の顔は近づいていく。ゆっくりと瞼を閉じる彼女に吸い込まれて、僕は息をのむ。彼女の唇に触れる唇の感触は、とても心地良い。目を瞑ったまま、僕はしばらく唇同士をくっつけて、彼女の事を考える。
「ここに居てくれるなら、僕だってずっとここに居るよ」と。
だけど、僕たちはいつも、軽いキスの後どうしていたんだっけ?とふとよぎった疑問のすぐ後、
「それはもうどうでも良い事か」
と、忘れる事にした。唇が離れて僕たちはまた、見つめ合う。
この時間はずっと続く。なぜ、彼女と僕は会う事が出来るのか、本当のところ僕は分かっている筈なのに。思い出そうとする事が出来ない。こんなときいつも現れる、雨の風景と泥の野原に顔をしかめそうになる僕は、なんだか疲れてしまったのだろうかと自問自答が止まない。何度も、何度も。僕は今ここに居る理由を一生懸命に探して、いつもそれが見当たらない事に当惑しながらも、嘘を含んだ僕の顔は滑らかに口角をつり上げて微笑む。
いつの間にか外は昼下がりになっていて、暴力的な紫外線を地面が受け止めている。それを気にもせずに歩き回る野生の生き物が居るはずなのに、彼らはどこにも見当たらない。
だけど、私たち以外には誰も居ないんだよ、ここには。と彼女は僕に柔らかく話しかけて、そして彼女は、何度でも僕に微笑む。
ゆっくり彼女に返した僕の視線はいつも通り控えめだったし、いっそ申し訳なさげでもあったはずだ。けれどいつもと全く同じ表情に僕は安心して、また同じように彼女の目を、あふれ出す好意を込めた表情筋で作り出す。
そして僕は見つめるんだ。
本土の、あいつらが作り出した白い部屋。いつも通りのこの部屋に僕の記憶は混ざらない。本当は、僕の海馬にこんな情報は入っていないはずなのに、奴らときたら、僕に美しすぎるこの仕打ちだ。本当の僕はアサルトライフルのストックで少年の頭をかち割る事に夢中で、思う様弾丸を彼らに撃ち込む。作業に夢中になりすぎた僕は、要塞化した街の中にとらわれて、死にかけているはずだ。
「やめろ」
僕は、どこかに繋がっているはずの回線を通して、黒服に話しかけた。紳士的にだ。いたって優しく、僕は彼に話しかけて機嫌を取ってやった。何のリアクションもないから僕はいささか腹が立つ。
「もう分かってるんだ。いい加減、何度も何度もバカ正直につきあえるか」
僕は彼に言い放つ。ユリが僕と、作戦室に仕掛けたコードが走る。そしてそれが僕を侵食する。
その瞬間、灰色の細いスラックスの右腿にいつものホルスターを着込んでいた事をふと思い出した。ベレッタの重みが急に膝に感じられた。彼女の顔はいつも通り微笑んでいて、僕がいま彼女の唇じゃなくて拳銃の感触に気持ちが傾いている事に一向に気づいていない。
空調の風はどこからも吹いていないのに、流れている。
それに、紅茶も相変わらず冷めない。
さっきまで見ていた走馬燈は、僕の何だったんだろうか。
全ての嘘にあきれ果てると、僕は彼女の笑顔に笑顔で返す。そして、温かいままの紅茶を口に含むと、そのリアルすぎる味に気味の悪さを感じた。
そうだ、ここは全てが嘘。全てが壁紙のような物で、表面的な本物でしかないんだから、「何度でも貼り直せば良いんだ」
貼り直すついでに、剥がす前よりもうちょっといいものを用意させようか。
僕はそんな事を考え始めている。部屋の外ではきっと、ホワイトやサキオカが死にものぐるいでほとんど死体みたいになった僕の体をバックアップしていることだろう。ご苦労様ですと、口に出すが、僕の内言語は彼らに聞こえただろうか。
この状況で、このまま僕の精神だけが帰ってこないんじゃチームだって締まらない。そろそろ出て行かなければいけない、彼女と、それを作り出す黒服達の嘘にすっかり気づいてしまうと、僕は鼻白んだ。
いつもはどんな会話をしていたのか、それすら思い出せないような希薄な関係性だったことに気がついて、僕は彼女の瞳を見つめながらそれを問いかけた。
「君と僕は一体、誰なんだっけ」と。
返答する彼女の優しい顔に僕は、彼女の名前と顔の一致性に疑いを感じて愕然とする。その美しすぎる人形の彼女は、僕にいつも通りの、型どおりの気持ちいい言葉を投げかける。あなたは私の、私はあなたのプロパティよ、と優しく、丁寧な。
だが、だけど。僕は誰の持ち物でも無い。それこそ合衆国軍の所有物ですらない。
僕は、僕だ。
まるで舞台劇のような張りぼての中で、僕は大切に飼われているのだとしても、もうそれに対して本気で騙されている事なんか出来やしないんだ。
そして、ホルスターからベレッタを静かに、ゆっくり抜くと、撃鉄を起こした。しっかりしたクリック感が僕の感覚野を満たして、そして、表面しか存在しないであろう彼女の眉間のあたりにフロントサイトを、ふわりとのせた。
窓の外では、広がる草と砂の広さが広がる風景に、ガゼル一頭たりとも存在しない。それなのに時折聞こえる獣の声。
ワンアクションで発砲したとしても外しはしないだろう距離で、僕はしっかりと彼女に狙いをつけて、フロントサイトを、金属の谷間の真ん中に丁寧に収める。
前頭葉に血が集まる。そして脊髄に向かって電流が跳躍する。
瞬間の一呼吸。
トリガーを、絞った。
告白するならば、僕らしくもなく、張りぼての彼女だって分かっていても。
彼女が、本物の彼女が目の前に居るかのように、
「僕は躊躇ったんだ」
一瞬の発光と、衝撃と、硝煙が飛び散った匂いが心地よくて。
そして、暗闇。
*
僕の居場所はいつだって、こっちの乱暴な世界なんかじゃない。白い漆喰の、清潔な、二人の部屋なんだ。
もう少し、気持ちよく彼女との永遠の時間を過ごしていたかった。僕は本来ブラブラな左手で元気に弾倉を交換すると、そしてまた誰かを撃ち殺し続ける。
もの凄い速さで奪われていく体力と、ナノマシンがそれ以上の速さで供給し続ける体力。その天秤は初めから自然の摂理からは考えられないような欺瞞に溢れていて。
もう走り続ける事なんて出来ないはずの健康状態の僕は、ドアを蹴破るとほんとの僕の姿を形作って隠すのをやめたような奇声を発して、部下に走れとサインを送る。重いエンジンとローターの駆動音が聞こえる。輸送ヘリと、攻撃ヘリ、入り乱れて三〇㎜の凶暴な塊をテロリスト達にぶつけて、彼らを肉片に変え始めた。
僕は、明るくなり始めた通りを疾走する。少しもつれる足が体を大げさに揺らしたけれど、僕はそれを気にしなかった。近づいてくる地面に、いよいよ終わりを感じた瞬間、ホワイトは僕の肩を支えた。
「ピート! おい。死ぬな」頼むから、と。
コイツが真剣な目で僕を励ます。嘘だろう。嫌味な笑顔をホワイトに向けると、彼は気の毒そうな顔で僕を見る。
そんな顔をするな、ちっとも面白くないぞという僕に、頼むから黙って走るんだと、懇願する。ホワイトがだ。
そんなに死と向き合っているのか、僕は、そうか。そうだろう。僕はもう、死にたがっているんだ。僕の心に塗り込まれた罪、彼女が死ぬのをただ見届けた罪、父さんの死をまるで悲しまなかった罪、無数の少年を無造作に殺した罪。そうだ、僕はもう、自分の命の尊厳なんて支え切れやしない。
跳弾、
火花、
ガラスの破片。
壁に侵突する金属。
カビのように臭う土煙。
それらを僕は見届ける事もせずに、とにかく、見苦しくも、無様でも、走る。頭上を通り過ぎていくアパッチに向かって駆け上がるRPGが、ことごとく空に向かって消えていくと、頭がおかしくなるようなまがまがしい重機関銃の音が、場にそぐわない絶叫のように滑稽で。それが耳に入ってまた、笑う。
ただでは、死んでやらない。僕は、正義の執行者じゃない。このまま、僕はこのまま、ただ復讐をする。この世に、この世界に、この僕の狭い視界に。
僕らの仲間に、全くの日常として使われて、僕らの血液の流れに揺られているこの機械が、世界にもう無数に、無断で配布されていると言う事を、この世に明かしてやって、それを報告してやろう。情報の行き来が双方向でないことに安心しきっている黒服と、随分昔に死んでしまった彼女に。
僕の気持ちも心も置いてけぼりで、僕の尊厳を傷つけ続ける黒服の彼らとユリに、復讐して僕はいなくなる。
空から重い、がさつな銃撃音。
重いローターの、不吉な予感をさせる音。それにマスクされる、僕らの足音。四機ものAH―64がロケット弾をばらまく。
轟音と、
風。
耳を圧する。
伝統的な建物の幾つもが爆ぜていく。いよいよ僕たちだけに構っていられなくなった彼らは、おざなりに僕たちを撃つけれど、執拗に追いかけ続けることもままならないようだ。
弾丸が飛び交って、少年達の何人もが死んで、僕が撃たれて気を失っていた瞬間も。この壊れてしまったとしか思えない、ヒドイ有様を呈し続けるこの世界で、僕を愛してくれるユリは、繋がりうるインフラの全てに、死んだはずの少女が生き続けたならそうなっていただろう姿になって、僕の歪んだ欲求そのままの恣意を流し始めた。
僕の中で、彼女が編んだコードが走る。そしてそれを受け取った無数のナノマシンは、数十万、数百万の人間の頭の中でそれまで息を潜めていたのが嘘のように動き出した。存在しなくていい遺伝子配列を自分自身に転写させると、アミノ酸重合体を合成して脳の変性を促しはじめる。抑圧され続けた、ユリの恣意が僕の中で広がっていく。そして、僕が作り出した記憶はすぐに複製されて、世界中の端末に流し込まれていく。記憶をのせた、信号のトラフィックは、かつてないほどに汚れに満ちていて。それまでもとても綺麗とは言えなかった世界はすっかり灰色から、もの凄く濃い、墨のような色になってそこら中に繋がっている。
いま、意識を失っている人間。眠っている人間、病床の人間、ドラッグでこちら側の世界が見えていないのであろう人間、彼らに見えているのは僕の幻想だ。
僕の幻想が、彼らの脳を冒していく。左脳の言語的な記憶も、大脳基底核に埋もれたユリを抱くときの癖も、彼女が快楽に洩らす声が入った皮質も。小さな機械が脳神経を捏造し続ける。そして、すっかり頭の中を作り替えられてしまったら彼らは一様に、同じ女の子に恋に落ちる。
無数の人間が、同じ顔をした初恋の女の子と、白い部屋で密会する。そして、永遠に微笑みあって、口づけを交わす。だけど、彼女を見た人間はもう、善人じゃない。耐えきれない悪意で地上に無数に現れたタンディを一人残らず射殺して、ベレッタの生々しい感触を手に残したまま、彼らは我に返るんだ。
そうだ、苦しむが良い。
豊かで幸せな生活をただで享受できると思うな。お前らの生きている世界は、汚れ仕事あっての世界だろう?
「仕事で人間の価値は決まらない」
戯れ言じゃないか。全くの戯れ言だ。今こうやって、汚れ仕事をしながら、もの凄い速度で死に続けていく僕のことが見えるか? きっと見えないだろう。それに、見えたってお前達は、思う様残酷な口調で罪人の僕を、僕らを、罵って尊厳を持とうとすることさえ許さない。だけど、もう、それだっていい。さあ、お前らも僕と罪を共有したまえ。どうだ、人間に銃口を向けて、引き金を引いてしまう恐怖感は。
僕を使って、愛を語って。好き勝手に世界に悪意をばらまいたユリは、きっとただでは済まないだろう。僕にしたって、今は死にかけている。
「おあいこだ、生きていたらまた会おうよ」ユリ。
僕は笑い、カービンの引き金を引いて、また。
タンッ!タンッ!!
と、5.56㎜の弾丸がいい音で少年の頭を粉々にしながら、無様に走る。
脳漿と血が混じる飛沫は、美しくて。しばらくそれを眺めていたいという欲求を抑えながら、僕は走る。
通常部隊が降り立って、正式な戦闘が始まったからにはもう、僕らは用済みだ。早く家に帰らないと。各所で整ったカービンの発砲音が聞こえる。
ここはもう、まるで戦場じゃないか。
息が、詰まる。苦痛だ、久しぶりの、苦痛。
生身の自分を思い出す。いつぶりだろう。この苦しみは、僕が僕として生まれ変わるみたいだ。清々しいことじゃないか。死んだり、生き返ったり、僕は一日の中で絶え間なく色々な僕を演じてはそれを失って行く。
疼痛の抑制をするリソースが僕の体内に残されていないと言う事を、筋肉が、臓器が、粘膜が、骨が、神経が僕の心に送り続ける。
その意味をやっと理解すると、精神は緩やかに、それを受け容れはじめる。
血流に浮いている小さな機械はもう、僕のエネルギー消費のバランスを制御できなくなり始めているのかもしれない。両腕の違和感、心臓の拍動は緩やかに。
そして、僕の殺意も緩んでいく。適度な疲労は、眠気を誘って、開放感に満ちているようだ。
感じない。
聞こえない。
やっと、暗い。
肺に残った呼気をさらに吐き出して、僕は死に備える。もう手の届くところで僕たちを待っているMV―24は、識別信号を発信しない、殺到する子供達を次々と撃ち殺している。
あと、少しだ。もう、あと少し。ホワイト、もう少し、重い僕の体を引きずって、アレにのせてくれ。そうしたら、さよならだ。
もう、あの部屋は、僕の前に現れない。
ユリ、君の仕業なんだろう? 君は、僕を解放するために全てを失ってしまったんじゃないのか? 君は生きているだろうか。だけどまた、会えるよ。僕たちはいいチームだ、最後に最高の仕事を残せたじゃないか。
いつの間にか、雨が降っている。ここは、いつだって、雨が降る。そんな日は、良いことは起きないんだ。だから、早く家に帰ってじっとしていよう。もう、じっとして、目をつぶって、一人。
ありがとう、ホワイト。お前はいつだって僕に世話を焼く、最後に礼を言わせてくれ。
終わりがやって来たのを、体も、心も理解して僕は彼女に話しかける。
「さようなら。僕の、君」
最後に、酷い事をしてしまったけれど、もう、後悔はなくて。
*
白い肌の彼女、黒い髪は歪みなく美しくい工業製品のようで。
整った顔で、薄く僕に笑いかけて優しく、「君が、好きなんだ」と伝えてくれる。
いつも寡黙な彼女は、時折饒舌で、僕が放った質問に答え続けてくれる。ひとりでに歩き出す話題は空調の風に混ざって、いつまでも続いて僕の耳に優しく入って心地良い。
その風に乗った、彼女の付ける香水の匂いが僕の鼻腔に入ってくる。
その匂いはまるで彼女そのもので。だけど、どうしてだか、僕はそれが初めて嗅ぐ匂いのような気がした。ほんの僅か頸を傾げた僕は、彼女と見つめ合って、目をそらさない。この風は、どこからやってきて、どこに行くんだろう。静けさはどこまでも静けさで、他の誰かが僕らを邪魔する事もなくて。彼女がカップをソーサーに置く音が時折彼女の言葉に混ざる。
心地よいこの世界に何が起こっても、この場所では永遠に何も起こらない。
何も伝わらない。
何も見えないし、聞こえない。
僕と、君。ここにいるのは二人だけ。何かがはじけるような音が鳴っている部屋の外の事を、僕は知らない。永遠と思えるような静けさを、感じる。僕の、君の場所。
白い壁。
白い机と食器。
心地の良い場所。
僕たちはここにいる。時間はずっと止まっていて。
僕が愛する、彼女。永遠に美しくて。永遠に気持ちは離れていかない。彼女は僕を見つめて、私もあなたの事を永遠に思い続けるの、と言う意味の視線を僕によこす。いつも、いつも。
僕の心に迷いはなくて。
そのはずなのに。心のどこかに、不安があって。
彼女を見つめると、ずっと続いていくに違いない幸福感が僕の中に生まれて、そして消えて、また生まれる。心のどこかに疑念があるのだけれど、それがどこにあるのか見つけられない。
風に揺れる前髪の先端が、額に小さな不快感を僕に送り続けて、それを右手で掻き上げた。
それを見つめる彼女はいつもの強い視線を僕に送る。微かに笑う僕。僕らはいつもここに居る。
ここは、僕の、君の、僕らの場所。
了