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琥珀の君に。

作者: 春草 鏡

短編です。…って、見れば分かるか。


誤字脱字、ご指摘ください。


本文最後、ちょこっとだけ変えました。

(12月27日)

 





『…コハク?』


さらりと私の髪をすくい上げてはすり抜ける、ささやかな指先。

優しく私を呼ぶ穏やかなその声に、瞑ったままの瞼がぴくりと反応する。

包み込むような温かさを持つそれは、何の抵抗もなくするりと私の中に入ってくる。


もっと呼んで欲しくて、手を伸ばす。鉛の様に重たく感じる右腕は、けれど私の意志に逆らうことなく、ゆっくりと持ち上がる。そっと彷徨わせた指先に触れたのは、絹の如く滑らかな、髪。

優しく掴んで軽く引っ張ると、頭上からくすくすと楽しげな笑い声が聞こえた。


『コハク』


堪えきれないと言うかのように、微かに震える声。不意に髪を掴んでいた私の手を覆う、彼の温かい大きな掌。

 

…これはきっと夢だ。私の愚かな願望が見せる、泡沫(うたかた)の幸せな夢。

目を開いてしまったら一瞬で消え去ってしまう、儚く脆い希望。

もう触れることが叶わなくなると分かっているのに縋りたくなる、かりそめの温もり。

けれど貴方は、こんな時でさえ優しく触れてくれる。


貴方だけが、私の心の支えだった。

私が苦しんでいる時は、いつの間にか隣に居て、誰にも見えない様に手を握ってくれていた。

そんな貴方のお陰で私は今まで頑張ってこれたの。

だから伝えたい。私に用意された、この言葉を。たとえここが、夢の中だとしても。

たとえこの胸が、どれほど酷く痛んでいたとしても。

……さようなら、と。



『…コハク』


 あ、ちょっとだけ不満そうな響きだ。ごめんなさい、ちょっと考え事をしていたの。


『……コハク?』


私が応えを返さないからか、少し不安げな声になった。

可哀想になってきたので、目は開かないままに頬だけを上げて笑ってみせる。


『………!』


あ、驚いてる。ふふ、可愛いな。

他の人と接するときは同じような顔でいるのに、私の前でだけは色んな表情を見せてくれる。

そんな彼の貴重な表情(かお)を見られないのは、とても残念だ。

 

『コハク』


そんな思いが伝わった訳はないのに、彼に咎めるような声音で名前を呼ばれた。

彼だけしか知らない、彼以外には教えなかった、私の名前。綺麗だと言った彼の、何故か嬉しそうだった笑顔をふと思い出す。

瞬間、心がふわりと軽くなった。体を包み込むこの倦怠感も、心なしか薄らいでいく気さえする。

 

『…ねえ』


彼を驚かせないように、そっと声を出す。掠れ声だったが、彼はちゃんと聞き取ったようだった。

『なに?』とそっと聞き返してくれる。

優しく包まれていた右手をそっと、彼の滑らかな頬へ添える。真っ暗な視界の中、それでも彼が目を見開いたのは分かった。


『…ありがとう』


そっと呟くと、息を呑む音が聞こえた。戸惑うような視線を感じる。

私は、それに構わず続けた。

 

『いつも、傍に居てくれてありがとう。貴方のお陰で、私はここまで生きてこられた。辛かった時も、悲しかった時も、貴方はそばにいてくれた。とても、嬉しかった。一人ぼっちじゃないって、何度も言ってくれた。

今も、夢の中だけど、貴方は傍に居てくれる。それだけでもう、私は幸せなの』


だから、と続けようとした言葉は、温かく固い何かに口を塞がれたことで遮られた。彼の両腕が、いつの間にか背中に回っている。

……彼に、抱きしめられたのだ。

あまりの驚きに、一瞬息が詰まった。……温かい。夢の筈なのにやけにリアルで、泣きそうだった。


『……こちらこそ、ありがとう』


彼の、ここひと月で声変わりした、低いテノールが耳を打つ。

あとこれは夢じゃないよ。と、夢では定番のセリフを言うその声も、私と同様に少し震えている。

それを誤魔化すかの様に、彼は続けた。

 

『僕の方が、救われていたんだ。コハクと出会った、あの日から。コハクそのものが、僕の存在理由になったんだ』


嬉しい、と思った私は頬が緩むのを感じた。彼も同じだったなんてと、心が歓喜に打ち震える。

彼の背にゆっくりと両腕を回し、服をぎゅうっと握り締める。

……この優しい夢が、淡く消え去ってしまう前に。

 

伝えたい、この気持ちを。  


『…だいすきだよ、リュー』


ちゃんと聞こえるようにはっきりと囁く。

応えるかの如く強くなった腕の力に、閉じたままの目から涙が一筋、零れおちた。

……別れを告げられない自分の臆病さを、必死に押し隠して。


その時、髪にふわりと軽く温かい感触を感じ、それと共に何かが体の中に流れ込んで、私の体をふんわりと温めていった。

温もりが広がると共に薄れゆく朧げな意識の中で、確かに彼の声を聞いた気がした。

あるはずのない夢の”続き”を示唆する、その歌うような甘い声を。



『……僕もだよ、可愛いコハク。世界でただ唯一の、愛しい人』


『君の眠りは僕が守ろう。何者も、君に触れさせやしないから』




ーーー今はただ、ゆっくりおやすみ。君が目を覚ますまで此処(ここ)に、君の隣に居るから。













『…僕のところへ、来る?』


目の前に差し伸べられた、細く白いけれどしっかりした指を持つ手。

そこから続く腕を辿って顔を見上げれば、目を細め口元を少し引き上げた、春の陽射しの様な穏やかな微笑。少し垂れ目がちなその瞳は、静かながら色気を感じさせる。

その温かな色に安堵して、ぎこちないながらもゆっくりと指先をその掌に乗せる。

そっと包み込む様に握られた手。見つめていた先の微笑は、更に深くなった。


『…ではようこそ、異世界の乙女』


彼は小首を傾げながらそう言って、妖艶に微笑む。




ーーそれが、彼と私の出会いだった。













彼に出会ったあの日、私はこの世界に召喚された。

高校を卒業する一月前。その日は、私の十八歳の誕生日だった。


ふらふらと路地を歩いていた時、踏み出した右足の下に突如として黒い穴が出現した。

ぼうっとしていた私はそれに気づかす、踏み込んだ足を掬われて、暗い穴の底へと落ちていった。




ざわざわとした空気に包まれているのを感じて、ふと目を覚ます。

私はいつの間にか、気を失っていた様だ。

うつ伏せになっていた体を起こし、周りを見渡すと、薄暗い部屋の様だった。

石畳の床の、教室が六つくらい入りそうな大きな部屋だった。


周囲には、暗い、何色かわからないローブを着た人達が十数人ほどいた。

彼らは皆ひそひそと何かを言い交わし、こちらを指差している。

ミコサマ、と聞こえてくる。彼等の目線の先は、私では無い様だ。


「…ん」


その時、隣から声が聞こえた。

ハッとして見ると、女性が一人、仰向けで倒れている。

美しい、と形容するに相応しい容姿だった。艶やかな茶色の、緩く巻かれた長い髪。頬に影を落とす睫毛は、とんでもなく長い。鼻は小ぶり、軽く緩んだ口元はぽってりとしていて、ほんのりと赤い。

体つきも華奢で、なのにしっかりしたメリハリがついている。


その彼女の瞼がふるりと震え、徐々に目が開いた。

濡れた硝子玉の様な、透き通った深い青の瞳。目を覚ました彼女は、ゆっくりとした動作で体をおこし、周りを見回した。

見ていると、ハッと慌てた様にぐるりと周りをもう一度見て、愕然とした様な顔をした。

やはり、彼女にもこの状況は理解出来ないのだろう。

ーー目が覚めたら、見覚えなんて全くない、見知らぬ場所にいただなんて。


呆然としながら、でも何処か縋る様に周囲を見回していた彼女は、ある一点に目を留めた。

その瞬間、彼女の目が見開かれた。

一瞬その瞳をよぎった何かを見極める事も出来ず、私は彼女と同じ方向に顔を向けた。


灰色の石畳に硬いブーツの音を響かせながら前方にあった重厚な扉から入って来たのは、一人の青年だった。

短く整えられた髪は、この薄暗い中でもはっきり分かる、太陽の様な輝きを放つ金色。

意思の強そうなきりりとした眉の下には、こちらを見下ろす涼やかな紫の瞳。

スラリと伸びた手足は長く、高身長だろうと推測できる。

姿勢良く、真っ直ぐに歩いてきた彼は、流れるような動作で、片膝を付いた。

未だぽかんとして彼を見ていた、美しい彼女の前に。


跪いた彼は恭しく右手を差し出し、その精悍な顔に微笑を浮かべた。


「…ようこそ、神子様。私は、この国の第二王子、アルフレッドと申します。貴女は、この世界を魔物から救ってくださるお方。私達と共に、おいで頂きたい」

「……はい」


暫くその差し出された手を見つめていた彼女は、にこりと微笑んで彼の手を取り、立ち上がった。

すると、彼も微笑み、彼女の手を取ったまま立ち、優しく手を引きながら石の扉へ歩いていった。

私たちを取り囲んでいたローブの人達も従う様に彼等に付いて出て行き、いつの間にか部屋の中には、誰もいなくなっていた。


ーー訳も分からないまま、見向きもされずに一人で取り残された、私だけを置いて。













私は暫く、そこから動けなかった。誰もいなくなった暗い部屋の中で、呆然とする。

足に触れている硬い石畳の感触は冷たく、なけなしの体温をも容易く奪っていく。

強ばる両腕で膝を抱えて、大きく息を吐く。

静かな部屋の中で蘇るのは、胸に穴が空いたかの様な鈍い痛み。手をギュッと握りしめ、込み上げてくるもの無理やりにも抑え込む。こんな訳の分からないところで、泣き出すわけにはいかない。堪えようとするけれど、ズキズキとした胸の痛みは、なかなか消えてくれない。


奥深くから湧き上がるものに、呼吸さえも苦しくなってきた時。


「…大丈夫?」


その声が、聞こえた。


瞼の裏に突如として現れた白く優しい光に誘われる様にして目を開くと、真っ白な、襟が三角のローブ。縁には鮮やかな青が使われている。徐々に上を向けば、可愛らしくも妖艶な美貌をもつ、一人の少年がいた。

こちらを窺う様に傾けられた顔は、幼さを残しつつも青年へと変わっていく途中の様な危うい雰囲気を醸し出す造作。唇は薄く、鼻筋はスッと通っている。

金髪だった先程の青年とは輝きの違う、闇夜の月光の様に穏やかな光を放つ肩につくかつかないくらいの長さの白銀の髪。

少し垂れ気味な瞼の下にある瞳の色は、私の名前と同じ色の煌めきを宿していた。


「…きれい…」


少し細められた優しげなそれに思わず呟くと、彼はほんの少し嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう」と言った彼は、私の前に、手を差し出した。意味が分からなくて、その暗闇の中でも白いと分かる掌を見つめる。

そんな私に苦笑して、彼は言った。



…僕のところへ、来る?


と。













あの後、彼が彼の師匠から貰い受けたという屋敷に連れて行かれ、翌日から屋敷に置いてもらえることになった。

そこには彼以外誰も住んでおらず、一人でなんでも出来てしまう彼の役に立てることは、自分にはなかった。落ち込んだ私を慰め、見た目通りに優しかった彼はこの世界の事を色々と教えてくれた。


まずこの世界には、魔術というものがあること。


その元となるものを魔力といい、人の中に先天的に存在する。人が生命活動をするのにも使われているため、魔力が全くないという人はいないが、魔力の量には大小の差がある。

属性というものも存在し、それは五大素と言われている。

主に火、水、土、風、光。属性によって体の一部の色が分かれているそうだ。

例えば、火属性なら、赤い髪や橙色の髪。瞳も同様だそうだ。

彼は銀髪なので、風属性。琥珀色の瞳は、土属性。

彼の様にたくさん魔力がある人でも、魔術の使い過ぎなどで魔力が尽きてしまえば、もう魔術を使う事は出来ないばかりか、命さえも失ってしまうらしい。

そんな人達の話を聞かされて震える私に、彼は言った。


曰く、異世界の人間は、この世界の住人達と違って、魔力を持たない。なぜかと言うと、本来人が持っている”魔力の器”を持っていないから。


けれど、魔術を行使することはできる。

頭にはてなマークを浮かべた私に、彼は説明を重ねた。


魔力は、実はそこらじゅうに溢れている。器を持つこの世界の住人がこの魔力を取り込むことは出来ないが、異世界の器を持たない人間は、取り込んで自分の魔力として扱える、のだそうだ。


その原理は、異世界の人間全員に共通して言えるらしい。

そこで私は気付いた。ならば、私も魔術とやらを使えるのでは、と。

その期待を胸に質問した私に、彼は頷き肯定した。


さらに、この世界には人以外に器を持たないものがいる。

それは、動物などの中で死に瀕したものが、何らかの理由により、器を失ってさえ生きながらえ、さらに魔術すら行使することができる、一般に”魔物”と呼ばれるもの達の事らしい。

彼らは、人に害をなす。

畑を荒らし、人を襲い、時には同胞さえも食い殺す。

一般的には、理性を持たないものばかりだ。

しかし、三百年ほど前に、”人型の魔物”が現れた。


魔族と呼ばれるようになった”彼ら”は理性を持ち、その中の特に膨大な魔力を持っていた魔族の一人が、その力を持ってして理性なき獣たちを従え、この世界とは別の空間を作り出し、そこへ移っていった。

人々が魔物達の消失に喜んだのもつかの間、彼らはあちこちにこの世界とあちらの世界ーー人々は”魔界”と呼んだーーをつなぐ扉を作り出し、頻繁にこちらの世界に訪れるようになった。


全くなくならない被害に困った人々は、この世界に存在する国々の王達に訴えた。

その中の一つ、魔術師のレベルが他の国よりも格段に高く、最も神の恩恵を受けているとされるこのアルデストリア国。

その国の最も権威の高い中央神殿で、当時の最高神官と国王が一週間祈りを捧げたところ神からの啓示がなされた。


その結果、”異世界から神に選ばれし神子を召喚し、魔物を滅してもらう”ということに決した。

この世界の住人と違って際限なく魔術を行使できる神子は、さらに特別な力を持っていた。


ーーそれは、”魔物を浄化する”力。


この世界に召喚された神子達は、力に若干の差異はあるものの、皆魔物を浄化する力を持っていた。

この世界の住人が持たないその力は、非常に重用された。


しかし、その力の行使には代償がついた。

その力を使うごとに、彼らの寿命が少しずつ減っていくのだ。

魔物が例年に比べて多く現れた二百年前に召喚された神子は、普通なら四十年くらいは力を行使できたのに、その時来た神子は、たったの二十年でその生を終えた。


焦った各国の王達は、再び集まった会議の場で、一つのことを決定した。

それはすなわち、”身代わり”をたてること。

いくら召喚の儀で神子を呼び寄せられても、使える浄化の力には限りがある。

神子の召喚には多大な魔力を使う。そう何度も召喚することは出来ない。損害を最小限にする為、ある方法を用いることにした。

神子と相性の良い人間を同時に召喚し、神子の負うはずだった代償をそのもう一人に肩代わりさせるのだ。

それにより、神子が浄化を行える時期が、今までよりも圧倒的に長くなった。

その有用性から、今日までその風習は続いている。


『神子と共に召喚される、代償を負う…この世界の住人達が贄と呼ぶ者達は、皆今までこの世界の住人だった』


器を持つこの世界の住人は神子が負うはずだった代償を背負い、神子の代わりにその命を削られ、死んでいったんだ。


美しい顔を悲しげに歪めた彼は、そう呟く。

そこで、私の頭に一つの疑問が生まれた。


私は、紛れもなくこの世界の住人ではない。では、神子として連れて行かれた彼女は、この世界の住人?

しかし、その疑問に彼は首を振った。

彼女もまた、この世界の住人ではないという。

ならば、神子とされなかった私は、今回召喚された神子の……、


代償を負う、”贄”?


約三ヶ月後に、この間召喚された神子と、この世界で魔術に特化した者数人で魔族討伐隊が組まれる。

目的は、魔族をまとめあげた、”魔王”と呼ばれる魔物の討伐。

それに、私も連れて行かれるのだそうだ。

神子の代償を背負う”贄”として、その為の術式を施されて。


…そんなの、いや。


呟いた私に、彼は悲しそうな顔をしながら、行かないことは許されないんだ、と言った。

逆らえば、無理やりにでも連れて行かれ、逃げないようにと鎖に繋がれる。今までに一度だけ、あったのだそうだ。負わされた運命に耐えられず逃げだそうとしたその人は、護衛と称された監視役に、首に付けられた輪からのびる鎖を持たれ、どれだけ叫んでも泣き喚いても、死ぬまで解放されなかったらしい。


神子と贄を術式で繋ぐには、それ相応の相性が必要で、誰でも良い訳ではないらしい。

だからって、と声を上げた私に、「大丈夫」と彼は私を安心させるように続けた。

その討伐には自分も参加するから。


だから、安心して。僕がそばにいるよ、と。

その言葉に驚いて、私は顔を跳ね上げた。


その後聞いたのだが、彼はこの国で二番目に地位の高い魔術師なのだそうだ。

だから、誰も雇う必要が無いのか、と納得する。魔力があるからこそ、なんでも出来るのか、と。

けれど、彼は笑って首を振った。

ーー人と関わるのが、苦手だから。


人より抜きん出た美貌と能力を持つ彼は、それ故に人から注目され、ある時は異常なほど慕われ、果ては疎まれる事さえあるのだそうだ。


今の地位に着いた頃から人の様々な欲望に満ちた視線にさらされ続けて来たせいで、いつの間にか人と関わる事を避けるようになっていたらしい。

ならば何故私を側に置いてくれたのか、と問うた私に、彼は言った。


ーー君だけは、特別なんだ、と。


その言葉に、鼓動が一つ跳ねた。




その後、私は彼に癒術(ヒール)と呼ばれる、主に治癒の魔術を学んだ。

浄化とは違う、人や植物、物までも癒す力。

怪我を治療することができ、病気以外ならなんでも治せると彼にお墨付きを貰った。

さらに、水属性の適性もあったらしく、色々な水に関する魔術を教わった。

筋がいいと褒められ、嬉しくて何度も練習し、魔術の腕はどんどん上達していった。

私は褒められると伸びるタイプだったらしい。


そんなこんなで、異世界に召喚されてから二ヶ月、彼の屋敷で穏やかな時間を過ごした。













「イサラ!」

「…アンナ?」


遠くから呼ばれ、川から水を汲んでいた手を止めて名前を呼びなから振り返る。

きっちりと結ばれた濃い水色の髪を上下に揺らしながら駆けてきたのは、膝丈のメイド服をきちんと着こなした、一人の少女だった。


異世界に来てから三ヶ月、慣れない暮らしに戸惑いながらも、優しくしてくれる周りの人達に助けられながら今まで過ごしてきた。

今走ってきている彼女は、その中で出来た友人の一人だ。


目の前で止まった少女ーーアンナは、軽く息を弾ませながら言った。


「神子様が、皆に集まってもらいたいって」


神子様ーー私と一緒に召喚された女性の事だ。彼女は神子とし神殿に迎え入れられ、日々魔物の浄化に努めている。


今は召喚された日から三ヶ月経過した、みちの月だ。満の月には、夜空に浮かぶ月が満月のまま、一月の間空に浮かび続ける。その輝きによって魔物の力が衰え、人を襲う魔物が減る。その間だけ、人々は少し安心して日々を過ごせるのだそうだ。


その魔物の頂点たる魔王を浄化する為、神子と数人の連れは神殿からかなり離れた深山へと向かいそこから魔界へと通じる門を通る。

その先に待つ魔王を見据え、神子は今日、士気を高める為に、皆を呼び寄せたのだろう。


「分かった。今行くよ」


そう言いながら水を汲んだ桶を持ち、呼びに来てくれたアンナの後について歩き出す。


私は今、魔王討伐の一行と共に、その道中にいた。


神子一行のメンバーは、神子であるユーリさん、そのユーリさんにベタ惚れだというこの国の第二王子アルフレッド殿下。

元第三騎士団副団長で、今は私の護衛兼監視役のオーディン様。彼は、一部だけが背中まで伸ばされた若葉色の髪と金色の瞳をもった優しげな風貌の青年だ。

彼は世話好きな性格の様で、私に何かと構ってくれた。普段から敬語で私の名前にも様をつけていたので、人前以外では様なしで呼んでくれる様に頼んだ。暫く悩んでいた彼だったが、続けてお願いすると呼んでくれる様になった。今では私の二人目の理解者だ。

そして神子付きのメイド兼護衛のアンナとリュシー。二人とも私の友人である。

さらに、彼女達を守る精鋭の護衛の人達が五人。

最後に、言わずもがな私と、なんとこの国の第二筆頭魔術師であるリュー。


因みにリューの本名は、”ルディウス・リュート・リルフェルタ”と言う。

けれど彼は普段、”ルディウス・リルフェルタ”と名乗っている。

”リュート”はこの世界では”真名”というくくりにあり、近しいものにしか明かさないものなのだそうだ。

それを教えてもらえた私は、少しは特別だと思ってもらえたということでいいのだろうか、と日々悩みつつも、直に尋ねることなど出来ず最近はもう考えることをやめた。



彼は善意で屋敷においてくれていただけであって、特別な感情などないだろうから。













約一週間後。

神子一行は、遂に山の奥にあった門を抜け、数々の魔物と戦いながら、魔王の居城へと辿り着いた。

護衛達が流石に疲れを見せ始めた頃に到達した、城の最奥にある大きな広間。その奥に階段が数段あり、その上に玉座があった。

私達は広間の大きな扉から入り、その広間の広さに驚く。周りを軽く見回すも、特に何もいない様だった。

その瞬間、ギギィ…と音がして、私達が入ってきた広間の大扉が閉じられた。

大きな音に神子たちは一斉に振り向き、それぞれ驚きに声をあげた。


私は、最奥に突如として現れた玉座と、そこに座る人物を視界の端に捉え、目が離せなくなった。


今私達が居る場所より数段高い位置に据えられた大きな黒い革張りの玉座。所々に金細工があしらわれたそれは、重厚な雰囲気を醸していた。

そこに座るのは、まぎれもなく。


ーその巨大な力をもってして、魔物達を統制した、この魔界の頂点たる魔王。


ここからでも分かる艶を放つ長い漆黒の髪を無造作に垂らし、瞳をすがめて何やら楽しそうにこちらを見ている。

眉はきりりと真っ直ぐで、その下の”涼しげ”というより”冷たい”と感じる目元は、明らかな知性と理性を感じさせた。

黒い軍服の様な身体に沿った形のかっちりとした衣装を纏い、肩には真っ白なファーのついた血の様に真っ赤なマントを羽織っている。

頬杖をつき、これまた黒いズボンとごついブーツに包まれた長い足を組んで、偉そうに座っていた。


その魔王が身体を起こし、声を発した。


「…よく来たな、異世界の神子」


その声は、広間によく響く低音だった。

身体に心地よく染みるそれは、何処か安らぎを与え、それと同時に畏怖の念も覚えさせる。

けれど、神子達はどうやら何も感じなかったらしい。

神子は、仲間を引き連れて広間の真ん中まで堂々とした足取りで進み出ると、言った。


「貴方が、魔王ですね」


その凛とした声は、がらんとした広間によく響く。若干見下した様な上から目線の声に、私は一瞬ひやりとするがしかし、魔王は軽く眉を上げただけで、反応は割と薄かった。


「そうだ。我こそこの魔界リールフェルを作り上げた者。まあ魔王はただの呼び名の一つだがな」


そう言うと、何処か面白そうに軽く唇の端を吊り上げる。


「早速、用件を言ってもらおうか。我はあまり暇では無いのでな。手短に願いたい。

まさか、遊びに来たわけではないだろう?」


そう言ってくっくっと笑う、その明らかに馬鹿にした様な笑い方に護衛達は気色けしきばむ。

神子はそんな彼らを片手で制すると、背を伸ばし当初からの目的を告げた。


「もちろん、貴方を浄化しに」


「これ以上私達の世界に干渉されては、国の民達が疲弊していってしまう。

そうなる前に、私が、私達が」


ーー貴方を、浄化する(倒す)



そして、神子はその細い両腕を魔王に向かって突き出し、浄化の為の呪文を唱え始めた。


「昼の大地を(あまね)く照らす赤熱の太陽。

夜の大地を(さや)かに浮かす白銀の月。

我らを守護せしアルディ神よ…」


同時に彼女の体が淡く発光しだし、周りを囲む様に眩い銀の光が足元から巻き起こる。

今まで見て来たものより格段に長い呪文は、それだけ魔王を浄化するのに必要だからなのだろう。


魔王を見やると、手を軽く上げて次々と魔物を生み出し放っていた。神子の詠唱を邪魔するつもりなのだろうとわかった。

表情は何処か楽しげで、今にも笑い出しそうに見える。


神子に襲いかかっていく魔物の前に出た護衛達は、神子を守る為にその剣を振るう。

選び抜かれた彼らの見せる剣技は、素人の私でも分かるくらい凄い。思わず見とれかけ、ハッと意識を戻した。

彼らを見ながら、邪魔にならない様に壁際までそっと下がる。背中についた壁の感触はひやりと冷たい。見回してみれば、さっき入ってきた大扉と広間の奥にある玉座の真ん中ぐらいの位置だった。


戦っている彼らに目をやると、中にいた一人の青年とふと目があった。

一部だけ伸ばされた鮮やかな若葉色の髪をなびかせ、浄化の力の込められた剣を振るっているのは、私の護衛兼監視役であるオーディン様だった。

彼の持つ浄化の力の篭った長剣は、国有数の剣の使い手として認められていることが一目で分かるほど、美しい軌跡を描く。

優しげな見た目からは分かりにくいその強さが、今回私の護衛兼監視役に抜擢された理由だった。

最初の頃はぎくしゃくしていた彼との関係は、共に時間を過ごすうちに少しずつ和やかになっていった。警戒を解きやすいその雰囲気に加え、彼は意外と面倒見がよかったからだ。

心配性でもあったようで、この討伐の道中でも何かと気遣ってくれた。


そんな彼が、神子を守る為に他の護衛と一緒に剣を振るいながら、私を振り向いた。

心配げな色をした金色の瞳に、大丈夫と言うように軽く頷き返すと、少し安心したようにホッと頬を緩めた。

しかし次の瞬間、その瞳が見開かれた。


訳が分からなくて首をかしげると、彼は近くにいた魔物を袈裟斬りに一気に切り捨てて倒し、私の方へ走ってきた。


「イサラっ、危ない!!」


その時、視界の端に黒いものが映り、次の瞬間私の体が何かに拘束された。


「え…、きゃあっっ!?」


私の体に巻きついてきたのは、魔力でできているらしい黒い蔦だった。

それに引っ張られた私は、なす術なく何処かへと一直線に運ばれる。

その途中、私の視界の端にオーディン様の必死な表情が映った。その後、引っ張られる私を見て眉を顰め忌々しげな顔をした護衛の彼らも。

心臓が何かに掴まれたような痛みが走った。


ーードサッ。


「うわあっ!」


急に拘束が解かれ、床の上に投げ出され、驚きに声が漏れる。


「大丈夫か」


上から降ってきたのは、低い声。

ハッと身を強張らせ上を見上げれば、そこには漆黒の髪に縁取られた秀麗な美貌。


その瞳は、魔物特有の真紅色だった。


「…本当に、大丈夫か?」


いつの間にか見とれていた事に気づき、反射的にコクコクと頷く。

そして、今まさにかけられた言葉の意味を理解した瞬間、彼の顔を目を見張って見直した。

今彼は、『大丈夫か』と言った。魔物である彼が、人間である私に、安否を尋ねた。

それだけでなく、言葉通りに彼は、何処か心配げな表情を私に向けていた。

その表情が、正反対の髪色を持つ”彼”と一瞬被って見えたが、すぐにそれを打ち消した。


「ありがとう、ございます。大丈夫です」


そう言ってしっかりと魔王()の目を見つめれば、驚いたように目を見張られた。

しかしすぐに顔を戻し、今度は真剣な顔でこちらを見た。

たじろぎそうになるも、真面目なその雰囲気に私もしっかりとその赤眼を見返す。


「お前、名前は?」


少し身構えた私に言われたのは、思いもしなかった問い。

唖然として見上げると、魔王は何やらぽりぽりと頭をかき、困った様に私を見下ろした。

一瞬だけ私の首元を見やって、思い出した様にぽんと手を打った。


「お前は、イサラ・コハク、であってるか」


その口から出た私の名前に、今度こそ驚きに声が出た。


「…な、なんで…」


ポツリと呟いた声に返ってきたのは、予想もしなかった答え。


「アイツが、言ってたんだ」

「アイツ…?」


問い返した私に、何故か彼は俯いて唸り出した。『言うなって言ってたしなー』とか、『アイツが言ってたのはこの子かー、上玉捕まえやがって』とか小声でブツブツ言っていた。本気で悩んでいるらしいその様子に、「あ、あの、もういいです…」と言わざるをえなかった。


「そうか?すまんな」


まあどうせ後で分かるだろ、と言った彼は、たった今気づきましたとでも言う様に、ぽんと手を打ち合わせた。

そして神子に対していた時とは全く違う屈託の無い表情でにっと笑うと、


「俺の名前はフェランだ。宜しくな」


と言った。

フェランって呼んでくれな、とその笑顔は年若い少年のように輝いている。


思わず見とれ、ここがどこかかも一瞬忘れた次の瞬間。

彼の笑顔がふと消え、背をスッと伸ばしてある方向を見やった。その皮肉げな表情に、得体の知れない何かが背を這い上った。

その時、凛とした声が空気を裂いた。


「ーー穢れし魂を洗い清めよ。浄化!!」


真っ白い目を灼く光が爆発する。

神子が放った、浄化の光。

それに魔王は手の平を軽くそちらに向けると、馬鹿にする様に嘲笑わらった。

そして。


ーーパァンッッ!!


「…なっ!」


掌をくるりと返し、あっさりと光を弾いた。

弾かれた光は、細かい光をきらきらと撒き散らしながら霧散していった。


呆気なかった。

神子の渾身の一撃を歯牙にも掛けず、魔王は神子に勝利した。


軽く手を振り「この程度か」と呟く。

予想もしなかった結果に唖然としていた神子は、声を上げた。


「…っ、どうして!?」


その悲痛な声に、しかし魔王は馬鹿にした様に笑うだけ。


「お前が弱かった。ただそれだけだ」


そして掌を神子達に向けると、彼らの足元に紫色の光を放つ大きな魔法陣が現れた。


「…っ、あれはっ?」


私は慌てて魔王に尋ねた。

神子達には冷たく振る舞う魔王だが、何故か私にだけは優しくしてくれる。

理由は分からないが、その好意を使わないわけにはいかなかった。

だって、あの中には、私の事を心配していてくれた人がいるのだから。

彼を殺すと言うのなら、私は全力で止めなければならない。


「平気だ。あれはただの転移用の陣だからな」


あいつらの世界に返す為のな、と魔王は言う。その返答に安心した私は、彼らの元へ行こうとして、立ち上が…れなかった。

神子が放った光のせいだろうか。術によって縛られた私の体は、体力がもう無いらしい。

腕に力を入れることすら出来なかった。

今や私を支えているのは、私をここまで連れてきたあの黒い蔦だけだった。

きつくも緩くも無く、ぴったりと添う様に巻きつくそれは、その魔法の使用者の意思をしっかり反映している様だった。


私は動けないまま、魔法陣の中で慌てふためく彼らを見つめる。


置いていかれる、と思った。けれど、悲しくは無かった。広間の真ん中で声を交わす彼らの中に、私が心から求める”彼”はいないのだから。


彼はいつの間にか居なくなっていた。広間に入る直前には確かに手を強く握ってくれていたから、広間に入るまで一緒だったのは確かだ。

その後、彼は人知れず姿を消した。誰にも知られず、誰にも言わず、たった一人で。

”彼”が何をしようとしたのか、私には分からない。あるいは、”何もしようとしなかった”のかも知れない。

私の考えを断ち切る様に、魔王の声が隣で響く。


「そろそろお引き取り願おうか、神子」


彼がそう言うと、魔法陣の輝きを増した。慌てふためき効果の分からない魔法陣に怯える彼らは、動けない様だった。

でも声は出るらしい。神子が叫んだ。


「私達をどうしようと言うのですか!」


今にも泣きそうな甲高い声に、魔王はただ、


「返すだけだ。


ーーお前達の世界に」


そして、この世界と断絶する。

とだけ言った。

その言葉に若干ホッとした顔をした彼らは、真偽を確かめようと辺りを見回して”彼”を探した。しかし彼はここにいない。見つけることが出来る筈も無く、彼らは再び騒ぎ出した。


「第二筆頭魔術師殿は、どこへ行った?」

「そういえば、さっきからいない」

「何てことだ!!」

「あの方は、いや、あいつは、俺たちを裏切ったんだ!」

「魔王に会うことが怖くなって逃げ出したんだ!」

「見つけたら、ただじゃ置かない!」

「そんな、彼にも事情があったのかも知れないもの、そんな事言っては駄目よ!」

「「「「「「神子!!」」」」」」


そんな会話に、魔王はポツリと「アホか、あいつら」と呆れた様に呟いた。


私はそんな風に彼の事を悪く言う彼らに、怒りを感じていた。

彼の事を何も知らないくせに、と。

彼は、とても優しい人だ。

関係なんて無かったはずの私を、二ヶ月もの間面倒を見てくれた。

彼のお陰で、今の私はある。


たとえこの身が、あと数年も保たないだろうとわかっていても。


側に、居たい。


ーー彼の、隣に。




「もういいか?」


魔王の声が聞こえる。会話を延々とループさせていた彼らに痺れを切らしたのだろう。

うっすらと霞んで行く視界の中で紫色の光が一際強まり、転移の術が発動した。


「お前達の世界は、つまらないのだな」


「それに、お前達は気づいてすらいなかったのだろう?」


魔物を生み出していたのは、自分達人間の、醜い心の闇だったのだということを。


最後に発された魔王の低い声。

聞き取った神子達は、憤りの声を上げようと口を開く。

しかしその声は発される間際、紫の光ごと、彼らの姿はかき消えた。


消える直前にその中から飛び出した、一つの影を残して。













静寂の戻った広間の中。

糸がプツリと途切れる様に気を失った黒髪の少女を視界の端におさめながら、魔王フェランは視線を黒い影にやる。

それは、若葉色の長い髪をもった、一人の”魔物”だった。

魔物の頂点たる魔王は、その人間そのものの姿にどこか嬉しそうに笑う。


魔王の視線を意にも介さず、少女に近づき視線をやった青年は、心配げな顔をした。


それを横目に見つつ、魔王は少女の拘束を解き、床に倒れこむ寸前に、少女の軽い体を抱え上げて歩き出した。


「お前はそこで待ってろ」


青年は、少女に向けていた気遣わしげな視線を引き剥がし、魔王を見やる。

瞳の色が、金から鮮やかな赤へと一瞬だけ代わり、真意を確かめた後に軽く頷くのを確認した魔王は、少女を連れて歩き出す。


ーー”魔物への覚醒”を済ませ、少女の訪れを今か今かと待っている、琥珀の瞳を持った青年リューの待つ部屋へ向かって。













「コハク」


霞がかった意識の中、低いテノールが鼓膜を優しく震わせる。


静かな空間に響くゆっくりとした足音。国の第二筆頭魔術師だった”彼”は、いつも忙しい筈だったのに、そんな素振りは微塵も他人に見せなかった。


私の近くに来る時は少し速くなる足音。私に早く声をかけたかったんだ、と照れた様に笑った顔は、誰よりも何よりも可愛いと思った。…そう言ったら、不満そうに拗ねられてしまったけど。

頬を少し膨らませたそれさえも可愛いとは、流石に言わなかった。

彼が書類仕事をしている隣でこの世界の勉強をしていた私は、いつもどきどきしていた。


陽に透けて透明にさえ見える白銀の髪。頬に影を落とすけぶる様な睫毛は、世の女性が嫉妬するだろう程に長い。

憂う様に伏せられる瞳は、それだけで卒倒ものの色気を放っていた。

姿勢はとても綺麗で、たまにムムム、と寄せられる眉が子供の様でとても愛らしかった。


一緒に過ごした二ヶ月の間に成長期が来た彼は、最終的には愛らしさが微かに残る凛々しい青年に成長していた。


背も、最初は私より少し低い位だったのに、今はもう十センチ位私より高くなった。

それが嬉しかった様で、身長差を確かめたい、と言ってギュウウッと抱きしめられた時には、心臓が苦しくて苦しくて仕方が無かった。彼に、私の心臓の音が聞こえてしまうのでは無いかとずっとびくびくしていた。


…実際には固まっていただけだったけど。


彼は私より一つ年下の十七歳で、年上の私なんて眼中にも無かっただろう。

けど、そんなことを何度もされていれば、希望なんて無いと思っていても、少しずつ気持ちが彼に向いて行くのが嫌でも分かってしまった。


そんな気持ちを持て余していた時、私は神殿に居を移した。

その直後に施されたのは、代償を肩代わりする為の術式。

術式を込めた銀の”首輪”を私に嵌めたのは、この世界で誰よりも信頼していた、”彼”だった。

せめてもの救いは、彼がとても辛そうな顔をしていた事だろうか。


私を見るたびに、”彼”は痛ましそうな顔をする。私はそれでも満足だった。憐れみでも何でもいい。私の事を意識してくれるなら。

そんな浅ましい思いを抱きながら、私は彼に大丈夫と微笑み続けた。


しかしそんなある日、彼の琥珀色をした美しい瞳から、ぽろぽろと大粒の透明な雫が幾つも頬を伝い落ちた。

呆然とした私をギュッと抱きしめ、彼は言った。


『僕が、君を守る。だから、大丈夫』


ーー大丈夫だから。泣かないで、コハク。


チュ、と私の頭にキスを落とし、いつの間にか私の頬を滑っていた涙を少し骨ばった人差し指で優しく拭いながら。




その次の日、彼は肩まであった後ろ髪をバッサリ切って現れた。

以前よりも凛々しくなった彼に、心の中でどぎまぎする私をしばらく観察する様に見た彼は、どこか満ち足りた様子で屋敷に帰って行った。


その一月後。魔王討伐の出立の朝まで、私は彼に会うことは無かった。


やっと会えた彼はさらにか格好良くなっていて、正直もういっそ今死んでもいいかな、なんて何度か思ってしまったりもした。

大抵、そんな考えを見透かしたかの様に彼に軽く睨まれたので、すぐに考えるのをやめたけれど。




会いたいな、と思った。

だからこれは、私の願望が見せる幻なのだろうか。

それとも、目を覚ましても消えない現実なのだろうか。


「眠っているの?」


喋り方はずっと変わらない彼。

人前での一人称は「私」だけど、私の前だと「僕」になる。

年齢のわりに少し幼かった口調は、少しだけ名残を残して、いつの間にか大人っぽくなっていた。

けど、私といる時だけ以前の喋り方に全てでは無いが戻る。それが嬉しくて仕方なかった。


年齢相応になった大人っぽい見た目にあう低いテノール。温かさを滲ませるその声音は、私のお気に入りだ。



その声が、間近で聞こえる。

けれど、目を開くことが出来ない。

(にかわ)で貼り付けられた様に固く閉じた瞼は、意思に反して動こうとしてくれない。


もどかしくて燻った不満は、温かなものが髪に触れたことであっさり消えていった。

この手の感触は見ずとももう分かっている。


ゆっくり髪を梳いていく指の感触を頭に感じながら、私は再び意識を手放した。













「…お前、魔物だろう?」


広間に、低い声が響く。

黒髪の少女を、”彼”の用意した部屋に送ってきた魔王フェランは、あの時一行が消える直前にその中から抜け出した青年を、目を眇めて見やった。


「はい」


その言葉に、青年ーーオーディンは、あっさりと頷いた。

魔王の元まで歩いてきて、ゆっくり右手を左胸に当てて礼を取る。恭しく顔を上げた彼の瞳は、赤い光を時々ちらつかせる、鮮やかな金色だった。


「いつ頃から?」


フェランが尋ねる。

その問いは、誤魔化しを許さない響きが篭る。


「イサラ様が現れてから」


オーディンは、そう答えた。

それは事実だ。彼女が”この世界に現れた”日から、日々魔物としてのさがに目覚め始めた。

それがはっきりと形を成したのは、剣技の実力を買われて、召喚された”贄”の護衛兼監視役に選ばれ、顔合わせをする為に彼女と会った時だった。

彼女の姿を見た瞬間、何かが自分の中を駆け巡った。それは、平たく言えば「よくわからない」感情だった。

彼女を見つめていたい、話したい、あらゆるものから守りたい。

それは”恋”とは違う、と断言できる感情で、けれどそれに限りなく近い感情だった。

近い言葉を当てはめるなら、”庇護欲”、だ。


その感情がいざなうまま、彼女と関わった。

そのうち、彼女の事を少しずつ知った。

この世界には殆ど持つ者の居ない黒い髪が、とても指通り良く艶やかなこと。

くるくると表情を変える大きな漆黒の瞳が、美しいこと。

ソプラノの声が、柔らかい響きなこと。

小柄な身体が温かいこと。

笑顔が、花のように愛らしいこと。


彼女と過ごした日々は、色鮮やかだった。

共に時間を過ごす度に少しずつ変わる表情は、見ていて飽きなかった。

二ヶ月共に過ごしたと言う魔術師ルディウスを想って泣く姿は、思わずこちらも顔を歪めてしまうくらい、悲しげだった。


そんな彼女をそばで見てきたからこそ、理解した。自分のいた世界が、どれだけ狭く閉ざされていたか。


だから、ここ(リールフェル)に残った。

彼女と離れることが、どうしても嫌だったのだ。


ーー今までの自分を、捨ててもいいと思えるほど。


「話はそれだけですか」


魔王に対して無礼だろうとは思ったけれど、彼の放つ親しげな雰囲気は警戒を解かせるに十分だった。

彼女を大切に扱っているようにも見えたのも一つの要因だったが。


「ああ」


そう言って魔王は、あっさりと姿を消す。

先程言った”あちらの世界とこちらの世界を切り離す”という事を実行する為だろう。


「…イサラ様…」


彼の脳裏を、汚れの無い真っ白なローブが過った。

黒髪の少女が最も心を傾けていた魔術師リュー

傍目から見れば、お互いに想いあっているのだろうと安易に分かるのだが、本人達は互いの気持ちに気づいていない。

その近くも遠い関係に、悔しくなった記憶があった。

それを振り切り、オーディンは踵を返して扉の方へ向かう。



ーー振り返る瞬間見えた”黒”に、憧憬と嫉妬を微かに覚えながら。



『コハク』



愛しげなその声を、どこか遠くで聞いた気がした。













その青年は、柔らかなベッドに横たわる少女の元へゆっくりとした足取りで歩み寄る。

枕元に立ち見下ろしたその瞼は、固く閉じられていた。

瞼に閉ざされた瞳を見透かすように覗き込み、真っ白なシーツに散らされた漆黒の髪を優しく持ち上げて梳く。

さらさらとした髪は、指を通したそばからすり抜けていく。


「コハク」


”彼”しか知らない、彼女の名を紡ぐ。

その声に、彼女の瞼がピクリと反応した。


青年は愛しい少女の髪に触れながら、そっと笑みを浮かべた。













ふと何かに呼ばれた様な気がして、私は目を覚ました。


視界に映ったのは、豪奢な装飾の施された天井。そこから垂れ下がる幾重もの薄い紗幕が、ベッドと外界を隔てていた。


何故こんな所に居るのだろうと疑問に思った。けど思い出せなかったので、早々に諦めた。


右手が何故か温かい気がしてそっと見やると、私の手を大きな手が優しく包み込んでいた。その先を辿ると、何処かで見た白い服、白いローブ。


けれどその先は、見たことが無かった。


ーー黒。


見紛うことなどありえないほどの、漆黒。


けれどその隙間から覗く瞳は、私が焦がれてやまなかった、透き通る様な琥珀色のまま。


「おはよう、コハク」

「リュー…」


にっこりと笑ったその表情かおは、屋敷にいた頃と同じ、屈託の無い輝くような笑顔だった。


「随分と寝ていたね、コハク?」


くすくすと笑った彼。繋いだままの手をキュッと握って、彼は不意に真剣な瞳を私に向けた。

少し身構えた私に、実は、と彼は少し言い辛そうに口籠って、そして決意した様に表情を引き締めて言った。


「ーー僕は。僕の本性は、」


ーー魔物なんだ。


「…え?」


その、突拍子もない衝撃のカミングアウトに、私は唖然と彼を見やった。

しかし、彼の滑らかな頬にかかる”黒”が目に入った瞬間、すとん、と理解した。


そうか、そうだったのか。


だから”彼”は、魔物達(同族)と戦う事をしなかった。

彼は、怖くて逃げ出した訳では勿論無かったのだろう。


私には、それだけで十分だった。


「そうなんだ」


あっさりと納得した様子でそれだけ言った私に、自分の方が納得出来ないと言うかの様に彼は眉を顰めた。


「本当に、それで分かったの?」


僕が、恐ろしく無いの?、と。

怯えた子供の様に身体を震わせる彼に、私は精一杯微笑みかけた。


「だって、リューはリューだもの」


例え姿が変わろうと、名称が変わろうと、その中身は変わらない。

彼が優しいという事実も、私が彼を好きだという事実も、何も変わりはしないのだ。


ーー私は、”人間であるリュー”を好きになったわけじゃ無い。”私に優しくしてくれた優しいリュー”を好きになったのだ。


それを余すことなくはっきりと伝えれば、彼は顔を歪めて一瞬泣きそうな顔をし、でもすぐにその表情は笑顔へと変わった。

その変わり様に、私は驚いた。


「それ、本当に?」


嬉しそうに弾んだ声で、彼は言う。

どの事か分からなくて首を傾げれば、「その…、」と言葉にならない返事が返ってきた。


少女の様に頬を赤く染めて暫くもじもじとした彼は、やがてぐっと拳を握り、私の右手を自分の左手で握ったまま、右手を肩にかけた。

真剣な瞳で、私を見つめる彼。

私も、彼の瞳を見つめ返す。


肩に乗った彼の掌は、大きく温かい。

その温もりに、眠気が訪れかけた頃。

長い沈黙を破って、やっと彼は声を発した。


「コハクは、僕の事、好き?」


真っ赤に顔を染め上げ、けれど瞳は何処までも真剣な色で私を注視する。

こくん、と頷くと「どう言う好き?」と聞かれた。


そこで私は気づいた。

彼は、私の「好き」が、家族や友達に対しての”好き(Like)”か、男女に関しての”好き(Love)”かを尋ねたかったのだ。


私は、頬が熱くなるのを感じながら、もうやけで暴露してしまう事にした。


「…男の人として、だよ。ずっとそばに居て欲しい。ずっとそばに居たい。元の世界に戻れなくても、リューの側にいられるなら、もうそれだけで良いくらいに、」


ーーリューが好き。大好き。


出会ったあの日から。


例え引かれてしまってもいい。この思いが、欠片でも彼に届いてくれたなら。


この想いが届くなんて予想もしていなかった私は、その声を聞き逃しそうになった。


「僕も、だよ。コハク」


ーー何よりも、誰よりも、愛してる。


そのあまりにも優しい声に、私の目から涙が一筋零れ落ちた。

それを長くしなやかな指がすくい取っていき、涙に濡れた指先を彼はペロリと舐めた。

唇から覗いた真っ赤な舌が白い指と鮮やかに対比して、やけに扇情的な光景だった。


こちらをちらりと見た彼は妖しげに微笑むと、そっと顔を近づけてきた。

思わず閉じた目。

ふふっと柔らかく空気が震える。


小さな衝撃は、額に来た。


コツン、とそっと触れ合わされた額。目を開いたすぐ目の前にあった琥珀色は、穏やかな、それでいて艶かしく、けれど清らかな光を灯していた。


「愛してるよ、コハク」


表情と同じく艶やかな声で言われた台詞は、私の胸を容易く撃ち抜いた。

私は真っ赤になるのを自覚しながら、早すぎる鼓動を刻む心臓を必死に宥めようとして失敗し、諦めた。

けれど、これだけは伝えようと、震える声で告げた。


「私も、愛してる、リュー」


肩に置かれた彼の掌を握って言う。

すぐに解かれ握り直された手は、互いの指が絡み合う、所謂いわゆる”恋人繋ぎ”だった。


握ったままの手を下ろした彼は少し私から離れた。

そして再び顔を近づけてくる。

自然と私は、目をつむった。


唇に触れたのは、柔らかい感触。

軽く触れ合うだけのそれは、それでも飛び上がりたくなるほどの喜びを与えてくれた。

一度離れた二人の距離が、再び近づく。


何度も唇を啄ばまれ、次第に息が上がってきた。


手を握りしめると、気づいたのか彼は顔を離した。

私の下唇をペロリと舐めて。


顔を真っ赤にして、恥ずかしさから涙目になった私の顔をどこか嬉しそうに眺め、不意に首元に視線を落とした。


片方の手を無言でスルリと解くと、私の首に手をやった。

パキンッ…と音がして、膝に銀色の二つの半月型になった”首輪”が落ちた。

それを彼の指が摘み上げると、それは音も無く形を崩し、後には何も残らなかった。


ぼうっと首の辺りを無意識に触った私の手を

、彼は今度は下から掬う様に取った。


彼の手にすっぽり収まった私の手に目を落とし、少し迷った後で、掌にキスをそっと落とす。そしてちょっと恥ずかしそうに頬を染めて私の目を見据え、蕩ける様な微笑みを浮かべた。


「コハク」


「…ずっと、言いたかった」


「君のことがずっと前から好きでした。勿論これからもずっと、ずっと」




「ーー君だけを、愛してる」













愛しい(あなた)に、永遠の愛を誓いましょう。


この体が朽ち果てるまで。


この命が尽きるまで。




ーー琥珀の名を持った貴女に。


ーー琥珀の瞳を持った貴方に。






ーーーーーー琥珀の君に、永遠の愛を。







この最後の台詞?を言いたかったが為に作った小説です。

細かい設定は作ったけど、あまりでませんでした。


王子様は空気。神子もメイドも大体空気。


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― 新着の感想 ―
[一言]  はじめまして。『琥珀の君に。』拝見させていただきました。  主人公の想いと彼の想いが互いに伝わって実を結んだ事が、何より嬉しく思いました。一途な人が報われる話は、やはり良いものですね。  …
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