ガールズサイド
金属の泣き声、炎の咽ぶ声、誰かの悲鳴。その悲鳴が自分のものだと知るまでに時間がかかった。そして、もう一人のうめき声。私の知っている人。とても大事な人。顔が爛れている。それでも、その人だと見間違えることなくわかる。嫌というほど見てきたから。
どこからか、私の顔に水が降り注ぐ、舐めるように降り注ぐ。そして獣のような臭いがする。
ゆっくりと目を開けた。ふわふわと舞う雪が目に映った。
嫌悪感で吐きそうになる。その嫌悪感は、顔への不快感ですぐに収まった。
本物の獣が私の顔を舐めていた。あまりのことに私は、上半身をゆっくりと起こし、その獣の姿を眺めた。犬だった。犬は、おそらくレトリバーだと思う。つぶらな瞳と凛々しい顔付き、だけどその子の放つ空気は穏やかだった。手を伸ばし、おでこに触れる。そっとすり寄せてくる。今までずっと荒んでいた気持ちが落ち着いた。
「風邪、ひくぞ」
怖々とした声が聞こえた。見上げる。そこには、感じのいい青年が立っていた。心配顔の彼の表情と声で、私は自分の現状を思い出した。
私は、もう何もかもがよくなって誰も知らない場所で死んでしまおうと考えたのだ。名前も知らない街にやってきて、死に場所を探して彷徨い歩いた。すると、樹林の先に人ひとりすっぽりと収まってしまう程に、大きな切り株があった。私は、冬だというのにそこで眠ってしまったのだ。いや、そのまま眠るように死んでしまおうと考えていたのだ。
だけど、死ねなかった。
「こんな季節にこんな場所で眠っていたようだけど、大丈夫」
なかなか言葉を発しようとしない私に痺れを切らしたのか、彼はもう一度声をかける。何も言わず去ってしまっても良かったのだけれど、私はもう少しだけ、鼻を擦りつけてくるこの子と触れ合っていたいと思ってしまった。
「あなたの名前は」
そう尋ねていた。突然の質問に彼は戸惑いを隠せず、目を泳がせてから
「僕の名前は白真。君は」
「私は、六花」
雪の別名。私は雪が嫌いだ。
「なんでこんなところで寝てたんだ」
不信感がなくなったのか、白真は砕けた調子で話しかけてきた。親しくなるために行う行為があの人に似ていた。それが嫌で、私はわざと質問に答えない。
今更になって、寒さで体が震えた。当たり前だ。上も下も一枚ずつしか服を着ていないのだから。自分で自分の肩を抱く。
「ねえ。連れて行って」
どこでもいいから。私が私を呪わなくていい場所に連れて行って欲しい。
これは紛れもない私の本心だった。
白真は、溜息を吐いた。話が通じないことに対してだろうか。
「その格好は寒そうだから、僕の上着でも着て」
そう言って私に自分の着ていたコートをかけてくれた。その優しさが痛かった。私は上着を握りしめ、いつの間にか傍らでお座りをしていた犬の頭を撫でた。
「そいつの名前はテンマ。僕は専らテンって呼んでる。そんなことより、六花はどこから来たの?」
「私は、遠いところから来たの」
「そうなんだ。じゃあ、荷物も持っていないみたいだし、着替えもないよね。雪も降ってきてるから温かい格好しないとダメだよ。僕の家に来てくれたら、何か着られるものがあるよ」
「連れて行って」
即答する。どうなろうと構わないから。何をされたって構わないから。
白真は、紳士だった。自暴自棄になった女を自分の家に連れ込んだのに、何もしなかった。むしろ、良くしてくれた。お風呂を用意してくれて着替えも用意してくれた。今の私にはその優しさは痛いものだったけど、同時に居心地よくもあった。
テンは私の気持ちがわかるのか、ずっと傍らに寄り添ってくれていた。
私は、白真の家に来る途中に見た街の賑わいが気になって訪ねてみた。
「街中が賑わっていたけれど、何かあるの」
すっかり、私という存在に慣れた彼は気軽に応える。
「ああ、今日はうちの街のお祭りなんだ」
「行きたい」
私は、何かを求めている。
「人が多いばっかりで、どこの祭りとも大差ないもんだぞ。疲れるだけだよ」
中身は面倒くさがりなんだろうか。ただ、そんなことは私にとってはどうでもいい。連れて行ってくれないなら、自分で行くだけだ。
「じゃあ、私ひとりで行ってくる」
そう言って立ち上がると、傍らにいたテンもすくっと立ち上がる。他人の犬なのに、今の私にはとても心強かった。何も言わずに味方をしてくる者がいることが。
「わかったよ。僕も行けばいいんだろう。このバカ犬」
溜息と罵声を吐きつつ白真は重い腰を上げた。
祭りの喧噪の中を二人と一匹で回った。祭りは白真が言っていた通り何の変哲もないものだった。活気が良くみんなが幸せそうに騒いでいた。雪が降っていることも、この寒さも周りの人の熱気と熱狂で掻き消されている。
私の心を映さないここは、幸せの場所だった。
お金をほとんど持っていなかった私は、白真に無理を言って色々買ってもらった。いや、むしろ白真は自ら進んで私に尽くしてくれていた。
彼は、私に何を期待しているだろう。いや、私はいったい彼に何を期待しているんだろう。
祭りは最高潮を迎えていた。さすがに白真は疲れたのか、私の手を引いて街の喧噪から離れていった。
どこかで休むのかと思ったのだが、そのままどんどん歩いて行く。
「ねぇ、どこに行くの」
「いいところ。ちょっとの間、黙ってついてきて。」
心の中で私は溜息をついた。彼の本心が垣間見えた気がした。私はこれから彼に酷いことをされてしまうのだろう。
傍らに居たテンは、いつの間にかいなくなっていた。束の間だけれど、心が通じていたなんて思ったのは空想だったのだと悲しくなる。いや、いろんなものに期待しすぎていたことが、今更になってわかっただけだ。やっと見えてきたと思っていた何かが、元々そうであったと言わんばかりに、バラバラと崩れていく。
今度こそ自分のことがどうでもよくなって、逃げるでもなく怯えるでもなく、私は大人しく彼に引かれるがまま歩いて行く。
暗い茂みに連れられて行く。獣道ではないけれど、人気はない。
疑念は確信に変わりつつあった。その時、目の前が急に開けた。息が切れていた。それもその筈だ。急な上り道をずっと歩いていたのだから。白真も同じように息が切れていた。
開けた場所は丘の頂上。街が一望出来る場所だった。下では小さく蠢く人の姿が分かる。まだまだ祭りを謳歌している人々のごった返す姿が見える。下ではあんなにも楽しそうなのに、私はこんなにも辛い。なんて理不尽なんだろう。
姿が見えなかったテンは、ここは自分の場所だと言わんばかりに、私たちの前でお座りの姿勢を崩さない。そんな後ろ姿を私は、無気力に眺める。何故ここにテンがいるんだろうという疑問さえ抱かずに。白真は、お互いの息が整うのを待って私に笑いかけた。
「よし、間に合った。出会った時からずっと暗かったから、僕のとっておきを見せてあげたいって思ったんだ。だから、嫌いな人混みも頑張った。もう少しだけ、待ってて」
それだけ言って、白真は街の方を見つめている。彼の言葉の意味がわからなくて、私も倣って街の方を眺める。しんしんと降り続く雪は、すっかり辺りを銀世界にしていた。そんな大きな変化さえも気づかないほど私は、心を閉ざしていたのだ。
ただ、この景色は嫌いだ。否が応でもあの時を思い出してしまう。私のせいで、大切な人を失ってしまったあの時を。私はあの時の自分の判断を。いや私自身を呪う。雪の名が付いた自分の名を呪う。
外からの衝撃で体が震えた。意識の底に沈んでいた私が、驚きで浮上する。それと同時に、目の前が眩く輝いた。花火だった。雪が積もり、いまだに降り続く冬の世界に、花火が轟いている。極彩色の光のシャワーは、降り続く雪さえも色付けている。
「すごいだろ。冬だっていうのに、うちの街は花火を上げるんだ。季節はずれも甚だしいけど。掛け値なしに綺麗なんだよな。詳しいことはほとんど知らないけれど、この祭りって冬を祝う。雪を祝う祭りらしいんだよ。この地域では雪の積もった翌年は豊作になるとかなんとか言ってさ。バカみたいだろ」
白真は、熱に浮かされたみたいに、さっきまでとは打って変わって饒舌に喋っている。目の前にある光景は、私にとって劇薬だった。彼の話と相まって、私の心は激しく揺さぶられる。
色取りどりの銀世界。一秒ごとに目まぐるしく入れ替わる世界。それは、すべての存在を許しているように思える。疎まれるべきである雪でさえも温かく。雪を祝うところがあるなんて思ってもみなかった。
私も同じように許される場所があるんじゃないだろうか。そんな希望が、頭を掠める。そんな雑念さえも、瑣末だと目の前の花火と雪は奪っていく。無作為に無造作に投げやりに、その美しさを私にぶつけてくる。
いつの間にか何も考えることができなくなって、その光の本流を見つめ続けていた。けど、それももう終わる。街から聞こえる歓声が、一際大きくなる。それは、終わりを予期するのには十分過ぎる合図だ。十秒程の間が空いて、そこから数十発の花火が昇っていく。降り続く雪に逆らうように、仲間に入れて欲しそうに。そして、爆ぜた。光の粒は柳のように枝垂れ、ゆっくりと落ちてくる。いつか聞いたことがある。この花火のことを。そう、名前を雪柳。白真の言ったように、この祭りは雪を祝っていることを実感した。
街中に響く拍手が巻き起こった。私の中で色々なものが洗い流されていた。そんな私に、追い打ちをかけるように、白真が言う。
「六花が、何をそんなに苦しんでるのか、僕にはわからないけどさ。もっと気楽に行こうよ。周りに悪態吐くくらいしてさ」
彼の言葉に抗議するように、今まで静観していたテンが、一声吠えた。私は、二人のやり取りが妙におかしくなって、くすりと笑ってしまっていた。




