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ある男の懺悔

作者: 倉田四朗

 最後の一撃を振り下ろして、男はその手を止めた。

 真夜中だった。月明かりのみがわずかに雲の隙間から覗く、星の無い夜だった。昼間に強い雨が降ったせいで地面はぬかるみ、そこから舞い上がる水蒸気が今夜を蒸し暑くしている。

 男はそのような夜であるも関わらず分厚い皮の、全身を包み込むような奇妙な服を身にまとい、頭をすっぽりと隠す覆面をしていた。しかしその覆面に空けられた穴から周囲を窺う目は異常者のそれではなく、透き通った理性の光が宿るものだった。そしてそのせいで、男はますます異常に見えた。

 男が立つ周囲には幾本もの粗末な十字架が突き立てられている。その前方の土がいちいち盛り上がっていること、それらが規則正しく整列していることから明らかなように、男がいる場所は近くにある村のための墓地だった。真夜中の墓地に男は立っている。

 男は警戒しながら周囲を見渡し、誰にも見られていないことを確認すると、手に持った大きな木槌を地面に放った。

 男はふりむいて、先ほどその木槌で最後の一撃を打ち込んだ杭を見下ろす。

 杭自体は村の裏の森の木から削り出しただけの、何のへんてつもないものだ。ただし、あまり普段日常で見かけないほどに太く、長い。

 男は心配だったのだ。その心配が杭の大きさに表れていた。

 そして今、その心配の原因は今、杭に胸を貫かれ、地面から土を掘り返されて半分ほど露出し、蓋を破壊された棺の中に横たわっている。

 人間の死体だった。

 その死体は若い女のもので、美しかった。男はシャベルで土を棺の上に戻す手を止め、彼女の顔を見た。

 彼女は優しかった。ある日突然に、ふらりと村にやってきた男ですらも温かく迎えてくれた。

 身元のわからない男にも村外れの丘にある空いた小屋を貸してくれ、毎日食事も作ってくれた。

 男は今までそんな親切を受けたことが無かった。行く先々の村でそこの人々は家の扉を締め切り、男に石を投げつけ、武器を手に村から追いたてた。

 男は人間に絶望していた。そんな中で現れたのが彼女だった。

 彼女は絶望の暗黒で満たされた男の心に火を持ち込んだ。男の世界を一変させ、大地を踏む足に力を与え、顔を上げて前を進ませるようにした。

 彼女は男の救世主だった。なのに……

 なぜ、彼女は死ななければならなかったのか。

 男は彼女を殺した者を知っている。

 それは男自身だった。

 男は自らを呪っていた。

 なぜ自分は彼女を殺したのか。男は分かっている。

 あれはまだ昨夜のことだった。



 その日、男は自らの行為を恥じていた。

 彼女の好意に甘え、ついつい村に長居をしてしまったことを悔いていた。迂闊だった。慣れてしまっていた。孤独ではなくなったために、自分を律する鎖がゆるんでしまったのだ。

 男はその日、今さら村を出ても間に合わないだろう、そう考えて小屋の中に閉じ籠ることにした。すべての出入口は勿論、煙突、窓、壁の節穴に至るまであらゆるものを板で塞いだ。彼女にも食事はいらない、と伝え、後はいよいよという時のために銀のナイフをひと振り握って、そうして夜を迎えた。

 太陽がその色を橙色に変え、緩やかにその姿を地平線に隠し始めたころ、男は苦しんでいた。

 ひと月に一度、確実にやってくるそれは衝動だった。飢えでもあった。渇きでもあった。男は食欲に支配されていた。男は腹と胸をを両手で押さえ、歯をくいしばり、口から泡を吹いているのも意に介さず床を蛇の様にのたうち回っている。爪を床板に食い込ませ、口元からだらだらと流れ落ち続ける涎の中に顔をつけ、しかしそれでもしっかりと目は見開いている。まるで何かを見逃すまいとでもしているようだ。男は月に一度、この苦しみと一晩中戦わねばならなかった。

 男はそれでも、まだ右腕がナイフを握っているうちは幸福だった。銀のナイフと脳裏に浮かぶ彼女の顔だけが彼を支えていた。

 そうして戦い続け、真夜中になったころだった。

 入り口の扉がノックされる。男はびくりとしてそっちを見た。内からも外からも絶対に開かないように念入りに板を打ち付けられたその扉をノックするのは一人しかいない。この村で男を訪ねてくるのは彼女だけだ。

 男は恐怖した。もし今、彼女と顔を合わせてしまったら――

 とっさに身を縮め、息を殺そうとした。だが沸き上がる衝動のせいで息は浅く、とても殺しきれない。しばらくして、再び扉が叩かれ、同時に男の名を呼ぶのが聞こえる。彼女だ、間違いない。きっと普段と違う自分の様子を心配してやってきて、小屋の外で自分がのたうちまわった時に出た大きな音を聞き、不審がったのだろう。どこまでも優しい人だと男は思った。

 そして一瞬気を抜いたとき、一際大きな衝動が男を襲った。思わず苦悶の声をあげ、銀のナイフを取り落とす。途端にノックが激しくなり、彼女の声の色が悲痛なものに変わる。異常なことが起こっていると彼女に感づかれてしまったことを気にする余裕がもう男には無い。男が感じるのは、腹の中を何かが蠢くような激しく拭いがたい恐怖だけだった。

 そのうち、扉が強い力で何度も叩かれ始め、やがて木片を撒き散らして破壊される。小屋の裏手の物置から持ち出してきたらしい斧を持った彼女は小屋の中に踏み込み、暗闇の中に苦悶する男を認めて悲鳴を上げ、斧を取り落とす。恐怖に悶えていた男はその音で頭をもたげた。

 男の怪しい輝きを帯び始めた瞳に彼女の姿が映る。

 そして男は抗うのを止めた。

 そこから先は覚えていない。太陽が再び大地から顔を覗かせた頃、気づいたら足元には彼女が倒れていた。

 彼女の顔面の筋肉は弛緩している。体にも四肢にも力が無く、皮膚は青白くなり、体温は消え失せていた。何より決定的なのは首筋を挟むように穿たれた四つの小さな穴で、そこからは零れ出た血液が床へ向けての筋を描いている。

 男は自分が何をしたのかを知った。自分が衝動に屈したことを知った。彼女の身に起こったこと、彼女の身にこれから起こることを知った。

 男は床にへたりこみ、声を上げて泣いた。泣きながら這うように小屋を出て、太陽に自らの体を焼いてくれることを願った。しかし太陽はいつものように男を裏切る。

 男はその時足音を聞いた。1人ではなく複数人の。きっと夜が明けても帰ってこない彼女を心配し、誰かが探しにきたのだ。足音は確実にこちらに向かっている。このままではすぐに男と鉢合わせるだろう。そして彼女の死体が見つかる――そうなったら。

 男は恐ろしくなり、逃げ出した。

 太陽に背を向けたのは無意識だった。暗い森に向かって逃げたのも無意識だった。彼は光から逃げていた。それは本能だったのかもしれない。

 彼は時々、自分が人間なのかそうでないのか判らなくなる。

 自分がまともな人間ではないことは確実だろう、しかしあの衝動が襲いくるのは月に一度、一晩だけなのだ。さらに自分はその衝動を忌み、押さえ込もうともしている。それでも自分は人間ではないのか?

 森の奥深くへ逃げ込んだ彼はそんなことを考えていた。しかし気分が落ち着くと、男は思考の連鎖を断ち切ることにした。

 やるべきことがあるからだ。

 そう、彼女が埋葬されて一晩が経つ前に、胸に杭を打ち込んでやらなければ、彼女は――



 男は見るに耐えなくなり、彼女の顔から目を離す。

 再びシャベルを手にとって、作業を再開した。

 彼女は土に埋もれていく。美しい顔が土に汚れたが、男にはそれがますます美しく見えた。

 墓が完全に元通りになると、男は覆面をとる。もう杭を打つのが遅れて、目覚めた彼女に襲いかかられる心配も無い。

 そこで男は、彼女をすでに人間ではないとみなしている自分に気づいて、己を罵った。だがその罵る自分を少し離れた場所から冷めた目で見る自分もさらに存在する。男には自分に酔っているのだ、という自覚があった。

 愛する者を失った、悲劇の男。それを演じる自分が汚らわしく、いとおしい。だから男は自分の、この呪われた生を自ら終わらそうとはしない。彼は悲劇を己の上に積むために生きているのだ。そしてそれこそがある意味本当の呪いなのかもしれない。

 世界を放浪し、行く先々で必死の抵抗虚しく愛する人々をその手にかける。ああ、なんて可哀想!

 自分のためならば、他人なんてどうでもいい。結局はそういうことだった。男はその意味で確実に悪で、同時にひどく人間らしかった。

 そうして考えて、男は気づく。

 そもそもなぜ自分は自分を哀れみたがるのだ?人を手にかけるのが心苦しいのは事実だし、今こらえている涙は自己愛からくるものではない、本物だ。なぜ――男は思いつかなかった。

 男は人間ではない。それは紛れもない事実だ。その事実が男を孤独にしている。孤独のままに世界を歩いてきた彼は、飢えていたのだ。人の愛に、世界を共に歩いてくれる存在に。しかし男はそれに気づかないまま、木槌とシャベルを放って、西へと歩み始める。

 男は化け物だった。



 おわり

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