72. 水着前夜
なんやかんやあったものの、やりかけていたことを再開するということで方針は落ち着いた。
解呪法の開発だ。
だがこれには問題が一つ生じている。
ミリスが紅巨人兵を作るために使用したのは屋敷だけではなく、飛逆がネリコン化して溜め込んでいた各種素材も含まれている。その紅巨人兵が蒸発してしまったので、また素材集めをしなければならない。
赤毛狼を遣ってのオートメーションとはいえ、充分な量が集まるまで手持ち無沙汰だった。 ちなみに屋敷に関しては、赤毛狼にそこらの壁や床を喰わせてから彼らを資材にして焼成すれば塔の自動修復に巻き込まれないことがわかっているので、これは割と簡単に再建できた。簡単すぎて時間が潰せず、やっぱり手持ち無沙汰なのだ。
クリーチャーの出現しない塔(出現するなり赤毛狼に喰われる)の中はなんとも退屈な場所である。
実質三人しかいないわけで、なんのイベントも起きない。
日長一日ヒューリァとイチャイチャしているのもどうかという話で。一回にかかる時間が短くはないので、時間は潰せてもヒューリァの身が保たないわけで。それに暇潰しのために行為に耽溺するというのも、なんだか退廃が過ぎるというか、ヒューリァに失礼な話というか。
実質三人しかいないのに一人だけハブられているミリスの精神衛生に配慮する意味もあり、なるべく控えることにした。
いっそのこと今や地階から千五百階層まで蔓延している赤毛狼の半数くらい(ワンフロアにつき約三百体)を引き連れて、ダークエルフを倒しにいくかということも考えた。
現状判明しているデータからどう試算しても負ける要素が見当たらない。いっそのこと飛逆が出張らず、ひたすら赤毛狼を放出するのでも、十分に勝てる見込みだ。
戦力の逐次投入は特定状況下を除いて愚策の筆頭なので、状況が変化したとき即応できる飛逆が行かないという選択肢は存在しない。ミリスは予備戦力として残りの赤毛狼を率いてもらうつもりだが、これは防衛のためであって投入する予定のない戦力だ。
万全を喫するなら、解呪法のための素材に加えて、きちんとそれ用に素材を集めた紅巨人兵を作るべきだ。あれならばミリスでも塔の中で起こりえる大抵のことには対処できるだろう。
というわけでこの空いた時間をダークエルフ討伐のために費やすという案は棄却された。
「とはいえ、言い訳だよな……」
自覚している飛逆は呟く。
確かに退屈だし、手持ち無沙汰ではある。だが、飛逆は今の状況に苦痛は感じていない。むしろ満足している部分を認めざるを得ない。
ダークエルフを打倒してしまえば、どうしたって状況が変わる。今に満足感を覚えている飛逆はその変化を、ほんの幽かに恐れているのかもしれない。この満足している気持ちが、損なわれるかもしれない未来をうっとうしく思っている。
それを耽溺というのだろう。行為に耽溺しているわけではなくとも、飛逆は退屈に自ら溺れていた。
動かなければ――今を動かさなければならないとわかっているのに、言い訳を見つけては引き延ばしている。
ヒューリァが寝静まり、彼女の頭を膝に乗せた飛逆は飽きもせず、その頭をゆっくりと撫で続ける。
ひどく退屈だった。
けれどそれがいい。
先のことがどうでもよくなるくらいだ。
けれどどうでもいいはずがない。今が愛おしいからこそ、懸念は潰しておくべきだ。
「やっぱり生かして捕らえるべきだよな……」
前述したように、ダークエルフをただ倒すだけなら、それほど難しくはない。
何があるかわからないし、これまで判明しているダークエルフの人物(?)像からして油断ならない相手であり、確実だとまでは断言できないが、まあ大抵の奇手には対抗できる。
けれど生かして捕らえるとなると、少々厄介だ。
モモコからこちらの情報はある程度伝わっていると考えていい。作戦の要となる赤毛狼についてはモモコも知らなかったため、ダークエルフも知らないだろう。懸念があるとすれば、あの樹液スライムがこちらの情報を外に発信していた可能性だ。この塔の中は、【全型】以外は自由に行き来できないが、外に出て行くことは可能なのだ。どういう仕組みかは判明していないが、何らかの信号を発する機能があったことは間違いないので、この可能性は比較的高い。故に、知られている可能性も考慮しておく。
それでも、苦戦はするかもしれないが、やはり負けることは考えられない。万が一毒に対する抵抗力を確保されたとしても、せいぜいデフォルトの毒一種のみだ。最低でも五十種類の有効な毒のすべてに抵抗される可能性は限りなく低い。赤毛狼の【能力】自体をキャンセルできるような【能力】をあちらが持っていない限りは。
あちらの攻撃手段が物量に飽かせた物理攻撃のみであれば、余程の密度の飽和攻撃でなくば赤毛狼にはほぼ効かない。数が拮抗している場合は飽和攻撃は実質的には不可能だ。
唯一赤毛狼の攻撃時を狙われると厄介だが、これにもこちらも物量で対抗できるわけで、やはり問題というほどではない。
数で拮抗し、相性の優位性がこちらにある以上、やはり負ける要素のほうが圧倒的に少ない。
けれど生かして、となると途端に難易度が跳ね上がる。赤毛狼に攻撃対象の選別をさせなければならないためだ。
容姿の特徴で選別するよう設定するのは簡単だが、大規模な戦闘状況化で赤毛狼の視力で判別できる保証がない。赤毛狼は、飛逆のイメージ力の限界で、どうしてもイヌの視力のそれに準拠しており、色盲なのだ。映像は白黒のほうが記憶容量が少なく済むため、これを解決するつもりはない。よって容姿特徴の一つの褐色肌がはっきり判別できない。光の加減で簡単に見間違える。嗅覚で特徴が判別できればよかったのだが、神樹と峻別するためのサンプルがない。
生かして捕らえたい理由は、そのダークエルフが、一体何をどこまで知っているのか、それを聞き出さなければならないからだ。
【能力結晶】というよりルナコードの製法は、未だに飛逆たちにも不明であり、おそらく解呪法が確立しても再現できないだろう。だからこれも聞き出したいことの一つなのだが、一番重要なのは、ダークエルフの、『前回勝者』としての立場だ。
彼、あるいは彼女が生き残った後、果たして何があったのか。
あるいは何もなかったのか。
これは今後のためにも是非に知っておかなければならないことだ。
今回の被召喚者たちのサバイバルゲームを、終わらせて良いのかどうか――解呪法を飛逆たち自身に遣っても良いのか、ということを判断するために。
「先は長いな……」
本気で憂鬱な独り言が漏れた。
〓〓 † ◇ † 〓〓
「何か仕事したい……」
ヒューリァの呟きだ。
飛逆と違って彼女は退屈に倦んでいるらしい。ちょっとショックだ。
「あ、違うの。別にこうしてるのが嫌っていうんじゃないんだよ」
飛逆の胸を背もたれにしているヒューリァは、振り返りもせずに飛逆のショックを感じ取ったらしく、取り繕うように言った。
「でも、このままずっと浸ってると、溺れちゃいそうで恐いっていうか……いざ動かなきゃいけなくなったとき、何かやらかしちゃいそうで」
その危惧は飛逆にもある。ただ飛逆の耽溺のほうが重症で、そんな危機感さえもどうでもよくなりかけているというだけだった。ホント重症である。
けれど、言い訳をさせてほしい。
無意識に棚上げしていたとはいえ、記憶自体は存在していたわけで、そのストレスが全くなかったわけではなかったのだ。それを数年間。
蓄積されたストレスは訳もなく虚無に身を投げ出したくなるほどだった。
そんなものがカタルシスしたために、飛逆は酷い揺り戻しに見舞われている。飛逆だからこの程度で済んでいると言うべきだ。
「仕事というか……気分転換したいってことだよな?」
「うん……たぶん、そう、なのかな?」
どこか曖昧ながら肯定する。
「気分転換、ね……苦手分野だ」
文化文明がなくともできる娯楽といえば限られる。ピクニックだとかハイキングだとか、いわゆる行楽だ。
塔の中は探せば意外とバリエーションに富んでいるので、行楽しようと思えばできないことはない。けれど行楽に興を見いだせる育ち方をしていない飛逆にとっては、その類は娯楽ではない。
山といえば修験者さながら自分を追い込むための場所だし、海と言えば肺活量を鍛えるための場所だし、平原は瞬発的な走力を鍛えるための場所だ。ちなみに狩りとセットである。
とはいえ飛逆が楽しむことがこの場合の問題ではない。今の状況なら行楽デートしか選択肢はないだろう。
ヒューリァが楽しめそうな場所といえば、
「そういえばヒューリァは滝を見てないんだよな」
あの異様な光景は、もしかしたら一見の価値はあるかもしれない。
「ああ、なんかあるって言ってたね。正直、どういうのか想像できないけど」
天井以外はいかにも建造物である塔の中で滝というのも、ヒューリァの元の世界での文明レベルから察するに、確かに想像できないだろう。
かく言う飛逆も過去に実際に見たことはないのだが、テレビなどの映像で近い物は見たことがある。
超大型の流水型プールだ。作り物ならではの迫力があって、飛逆も印象に残っている。
遊楽にぴったりと言えば、そう。
「……水着、作って行くか?」
「水着って……水を着るの?」
自分で言っていて変なことを言っていると思ったのか、くりっと首が傾く。
「あー……」
ヒューリァの元の世界の文明はそこまでなのか、という驚きが、咄嗟の返しを忘れさせた。だが考えてみればいわゆる水着というものは比較的近代に台頭した衣装だったような気がする。そんな歴史に詳しいわけもないので曖昧なのだが。
ヒューリァが「蒼いのにそんなのがあったような……」とか呟いているのは、もしや【理】の種類にそういうのがあるのだろうか。流体操作系の【理】でウォーターアーマーみたいな。もしくは水の羽衣?
「水を吸った服のまま泳ぐのが相当きついのは、わかるよな?」
「ん。っと、つまり水垢離の行衣のこと?」
「うん。どうツッコミ入れたらいいのかわからんが、とりあえず違う。それはどっちかっていうと低体温対策だ」
おそらく滝という言葉から推測したのだろうが、泳ぐという言葉からの連想からは外れている。
この返しも何かズレているという気もするが。
「まあ要するに泳ぎやすい衣料のことだな。もちろん低体温対策も兼ねているってことで、行衣っていうのも惜しいか?」
海女が着るようなのも水着に数えるならば、類似性が見られると言えばそう。
ヒューリァはイメージが湧かないらしく、首を捻っている。
まあ、行衣が惜しいというので余計に繋がらないのかもしれない。飛逆がイメージしている水着はもちろん現代的なそれだ。
「吸湿性が低い生地くらい余計な素材から数分で作れるし……うん。行くか。なんか悪くない気がしてきた」
いざ行くと決めたら、飛逆は無駄なところで凝り性だ。
ヒューリァの水着をどういうデザインにするべきかを考える。しかし自分にこうしたセンスがないのは自覚していた。
水着の概念を機能面から説明するような思考回路の飛逆だ。凝った水着と言えば競泳水着(膝まであるやつ)しか頭に浮かんでこない時点でそれは自明に過ぎた。現代的すぎる。
一説には水着は女性の戦闘服であるとか。その意味は飛逆にはよくわからない。
しかしつまりはそれくらいの気構えで臨むべきという暗喩なのだろうと、推測する。女性が気合いを入れることには大概、美的観点が含まれていることは弁えていた。まさかビキニアーマーが最強だとかそういう意味かと一瞬だけ思ったのは秘密だ。
従ってなあなあのデザインの戦闘服なんてヒューリァに着せるわけにはいかないと飛逆は思考する。
というわけで、ミリスの出番である。
ちなみにミリスが受けたヒューリァからのお仕置きは、縛り付けられて身動きできない状態で、髪をまるで導火線のように端っこから燃やされていくというものだったらしい。
最初は一本、次は二本、三本……と増やされていくのは、実際は大したことがないのになにやら恐怖を煽られたとか。
だが真に恐ろしかったのは、五本を束ねて火を付けられたときからだった。一本のときはすぐに燃え尽きて、根本から遠いところで鎮火したのが、目に見えて火が近づいてくる。
ヒューリァはミリスが髪を伸ばすことは禁じていなかったが、伸ばすということは五感よりも繊細な感覚を通すということだ。【能力】を使用するとはそういうことで、今のところミリスには伸ばすことと感覚を通すことは不可分。つまり燃やされる感覚を、ミリスは味わわなくてはならない。一瞬で燃え尽きるのなら耐えられるが、徐々に燃えていくためとても実行する気にはなれない。ヒトが想像しやすいように言うなら、皮膚の上を少しずつ焦がしていくようなものだ。しかも炭化した部分をその都度剥がされていくような、そんな……。
だが十本も束ねれば、根本には届かなくとも、近くの髪に引火してしまう。そうなればもうお終いだ。字義通りの炎髪になってしまう。
うっかり半笑いで〈そうなったら一瞬だけヒューリァさんとおそろいですね~〉とか漏らしてしまうまでミリスの精神は追い詰められたそうだ。
ヒューリァはにっこりと笑って「嬉しいでしょ?」と。
〈その笑顔を見たとき、恥ずかしながら粗相しかけました~……〉
拷問とはこういうものだ。痛い未来を想像させることで精神的に追い詰めていく。
不自由な二択を迫られたミリスの精神は最早半狂乱だった。粗相、しかけたのではなく、したのだろう。
お手柔らかにやってこれなのだ。さすがはヒューリァ先生である。飛逆にはとても思い付けない。
腐っても怪物のミリスは、まあお察しなところまでやられても、なんとか復帰できているが、新たにトラウマを植え付けられた精神のほうは未だに復帰できていない。
というわけでヒューリァには控えてもらってミリスにデザインの依頼に行ったところ、
〈水着デートとかリア充氏ねと思いますです~〉
意外と余裕がありそうな言葉が返ってきた。
「お前も行くか?」
お留守番は赤毛狼に任せればいいので、別にミリスが付いて来ても問題はない。
退屈で寝惚けている飛逆はヒューリァが怒るかもしれないとは考えなかった。しかもそもそもミリスがヒューリァの前に出られない。
〈わかってて言ってますね~。というかワタシが水着なんて着れるわけないじゃないですか~〉
言われて想像してみる。
幼児体型からほんのり外れたミリスがビキニタイプの水着を着ているところは……色は当然黒で、縫合糸を飾りのようデザインしたそれはそれで味がありそうなイメージだ。
「ちょっと見てみたいな」
飛逆は寝惚けている。
〈わかってるのにっ!〉
ミリスは突然に叫ぶ。
〈どーせ鈍感系主人公のお約束のアレだってわかってるのにっ! ノリツッコミする余裕さえないほどぐらっと来てしまった自分が憎いぃっ! ポロリもあるよっ! ただし鈍感系主人公の天然ジゴロ発言に限るっ! みたいなっ!〉
「お前やっすいな」
寝惚けているので飛逆はとにかくストレートだ。
〈こ~んなちょろイン他にいませんよ~。ど~ですお一つ~〉
「立ち直り早いし」
〈自虐ですから~。こんなアプローチでヒサカさんがなびくわけないことくらい~、はじめっからわかってるんです~〉
してみるとミリスは、飛逆に特攻告白を仕掛けて自爆してからこちら、ずっと自虐を続けてきたということだ。
「お前マゾなんだな、ホントに」
〈やってることを顧みると否定はできませんが~、ネタにでもしないとやってらんないってことですよぅ。身体張った黒歴史作りはおひとりさまの標準搭載スキルですから~〉
どうやら飛逆が思っている以上にミリスには自虐癖があるようだ。自傷癖と言うべきか。
引っかかりを覚えて、直観像記憶力によってミリスの全裸を見たときの映像を呼び起こす。
他の部分は幾何学的で規則性のある模様だったのに、手首から肘にかけては妙に歪だった。
ミリスに憑いている化生のルーツは都市伝説の類ではないかと推考したことがあるが、存外外れていないかもしれない。まあ都市伝説の類には全く疎いので、心当たりがあるわけではないのだが。
〈行きませんけどね。今度こそ殺されます〉
素に戻ったような口調で言って、ガタガタと震えだす。
「うんまあ……じゃあ、ヒューリァのデザインだけ頼む」
ようやくヒューリァが怒ったとき、基本的にその対象は飛逆ではなく周りに行くのだと思い出した飛逆である。
〈というかデザインも何も~、ヒューリァさんならスカーレットピンクのシンプルビキニ一択だと思うんですけど~。お好みでフリルとかリボンでもあしらって~、パレオとか付けたらいいだけでは~?〉
「いや、俺もそれは考えたんだ」
さすがにそれくらいは飛逆も知っていた。ビキニタイプの水着のことだ。
色はともかく。
スカーレットピンクって何ソレ?
「それはともかく……ヒューリァのことだから、これだと今着ている下着と何が違うの? とか言われそうでな」
かく言う飛逆も違いがわからない。その程度だった。
〈水着までシースルーで作る気なんです~?〉
「そこは素材を変えたり分子間を狭くしたりしてどうにかするつもりだ。単分子膜で作るのが摩擦抵抗軽減とか、機能的に最も適しているから、……今度は、なんで下着をそれで作らなかったのかって言われそうだ」
言われても、答えることはできる。通気性の問題である。着心地や蒸れという問題だけでなく、自身が発熱するヒューリァの場合はどうしても入り込む衣類との間の空気などが逃げ道のない局部で急膨張し、急激な圧迫が起きる危険がある。だから空気や水の逃げ道を作ってやらなければならなかったのだ。
しかしそんな理屈をヒューリァに説明するのもなんだかなぁ、という感じなのである。
〈あ~、つまりは~、ヒサカさんは~、デザインできないんじゃなくて~、自分で作ったそれをプレゼントするのに抵抗があるってだけなんですね~〉
「言われてみれば、そうなのかもしらん」
深くは考えていなかったが。
自分の手作りを自分の彼女に贈るというのは、何かしらの意味が暗示されていることになってしまう。平たく言えば飛逆がヒューリァに求めているものがストレートに表れてしまう。少なくともそう受け取られてしまう。
下着の生地を作ったときにもこの抵抗感はあったので、ノムに仕立てやらを任せたのも、自覚していなかったがそういうことだったのだろう。
〈わかりました~。そういうことなら~、こうしましょ~。ワタシアカウントのアカゲロウちゃんでその単分子膜を作って仕立てまでやりますので~、その辺のコードとかコンパイルしたのをくださいな~〉
相変わらず変なところだけは気が回るミリスの提案に、飛逆は乗ることにした。
〈で、手が空いているヒサカさんは~、せっかくですからデートプランを編んだらいいんじゃないですかね~〉
「デートプランとか……塔の中で滝に行く以外に何ができるってんだ」
〈目的地は一つでいいんですよぉ~。要はそこに行くまでと~、行ってから何をするか~、帰りはどうするのか~、なんてことを具体的に詰めるのがイベントの演出ってものです~。ヒサカさん、そういうのは案外嫌いじゃないですよね~?〉
余計なところに気が回るミリスの提案に、飛逆は乗せられてしまった。
とはいえ――
デートプランとか、飛逆が組むのはあまりにもハードルが高すぎる。
わざわざ苦手分野で頑張るなど、一体なんのための気分転換なのだか。
元々仕事を欲しがっていたのはヒューリァなわけで、だから飛逆はミリスにそのまま乗せられるのも癪だということでヒューリァを誘ってお弁当作りに勤しんでいた。
手が空いているのは何も飛逆だけではないので、二人で決めればいいという話だ。
そうしたら、いわゆるピクニックに行くということなので、何はなくともお弁当は作らないと話にならないだろうという結論が二人の間で導き出された。
準備のことをひっくるめてイベントである。
というか迂闊だった。
気分転換といえば最も身近にできるのが料理ではないか。
食事が必須であるヒトがいなくなってしまったので、ヒューリァに複雑な思いをさせないために自身に料理を禁じていた飛逆はすっかり忘れていたのである。
というわけでヒューリァと二人でそれぞれ料理する。
お弁当をそれぞれ作って交換しようという話になったのだ。これはこれでなにやらイベントっぽいので、男子厨房に入らずの趣旨を曲げてもいいと飛逆も承諾した。
ヒューリァはなにやら気合い入っていた。多分飛逆よりも旨い物を作ってやろうと意気込んでいるのだろう。存外、彼女が家庭的なことに対してコンプレックスがあるという飛逆の憶測は正鵠を射ているのかもしれない。
つまりはある意味勝負なのである。
だからそれぞれ離れたところで料理することになった。
よって、飛逆は一人で肉を焼いている。
飛逆は肉をいかにして旨くするかが料理だと思っている。ぶっちゃけ野菜とか果物とか、ビタミン(特にアスコルビン酸)以外に栄養学的に無価値(殆どの植物性タンパク質は必須アミノ酸が足りないため吸収されない)な要素が多いばかりか、糖質の比率が高く、いわゆる生活習慣病の原因にしかならない物を普段から食べる意味がわからない。そもそも食物繊維とか、消化・吸収できないものを身体の中に入れるのは紙を食っているのと何が違うのだろうか。胃腸壁に繊維がこびりつくことでその他の栄養素の消化・吸収阻害が起きるし、その癖して分子量がその他の栄養素よりも小さいグルコースは問題なく吸収されるため、血糖値が上昇する。当然タンパク質などの吸収が阻害された結果、全体的な筋肉量が減り、基礎代謝力が低下する。活動によって糖を細胞に取り込む筋肉での消費が少なくなると、脂肪細胞以外の細胞内にグリコーゲンやトリグリセリドなど(いわゆる異所脂肪)が溜まってしまい、それ以上糖を取り込まなくなってしまう。すると血糖値が下がりにくくなり、細胞に糖を取り込ませるためのホルモン、インスリンを分泌する膵臓が活発化しすぎて疲弊し、やがてインスリンを分泌する機能が基から損なわれてしまう。二型糖尿病のできあがりだ。
ちなみに細胞によってはインスリン受容体が少ないことがあり、その場合インスリンがあっても細胞内に糖を取り込みづらい。代表は脳細胞だ。より正確には神経細胞。これらの細胞は主に濃度勾配によって糖を取り込んでいる。
脳細胞は身体の各部位に比べても糖の消費が大きいのだが(全体の約二十%)、インスリンが過剰に分泌していると他のインスリン受容体が多い細胞に糖を取られてしまい、神経細胞が正常に働かなくなってしまう。糖尿病の合併症として発症する神経障害の一因である。
充分な筋肉量が元々あるヒトが瞬間的なエネルギーを得るために活動の直前直後に摂取するのは理に適っているが、平均的なヒトが普段からそんな食事をしていたら健康が害されるのは至極当然の帰結である。ちなみにいわゆる野菜というのは、人間用に改良されているため、その殆どは糖質がやたら多く含有されている。
肉と発酵乳製品などを食べていればビタミンC以外の栄養素はほぼ賄えるし、やはりどう考えても野菜(特に炭水化物系)と果物の意味がわからない。
タンパク質分解酵素などを抽出して肉を柔らかくしたり、味を調えるためにエキスを加えたり、ビタミンCや不飽和脂肪酸を添加するなどの調理的な意味はあるだろうが、何も加工しない生野菜だけは本気で意味がわからない。ビタミンCは壊れやすいため、それを最も効率よく吸収するためには生野菜が一番なことはわかる。だがデメリットが大きすぎる。
ビタミンCは水溶性で流れやすいため、ある程度の即効性がある(ビタミンEと相助的に働くため、ビタミンEが存在しない場合は効果を発揮しない)反面、持続しない。つまり定期的に摂る必要がある。メインで野菜を食べろというのは、ビタミンCのためにその他を犠牲にしろと言っているのと同じだ。
やはり飛逆は野菜・果物は調味料以上のものとして必要だとは思えない。
断っておくと、野菜(米含む)だけを食べるのも、別に飛逆は嫌いではないのだ。ただそれが健康的な献立だとか言われる意味がわからないということで。
おそらくイネ科の植物が最も食料配給効率が高いため、経済・政治的な理由ででっちあげられたのだと飛逆は睨んでいる。あるいは糖質中毒とでも言うべき症状に現代人が皆罹患しているため、揃って目を反らしているのか。
両方か。
まあとにかく、飛逆の偏食が、この弁当の内容の理由ではないということだ。
必須ではないとはいえ、食事が全くの無意味というわけではないので、ヒューリァにはきちんとした食事をしてほしいということでこの献立なのである。
あえて硬いすじ肉(らしきタンパク質)を選んで酵素に付けた上で圧力鍋(自作)で少量のペースト状の野菜と煮込んだポトフ風の煮物。
シンプルに、表面だけを大量のバターでカリッカリに焼いた、レアステーキ。
各種の肉を挽肉にして、大量の卵と、少量のパン粉、タマネギのような根菜風野菜のみじん切りの少量を混ぜ合わせてよく捏ねて焼いた、チーズ入りハンバーグ。
小麦らしき塊を砕いた粉末を、溶き卵に浸した各種の下ごしらえ済み肉塊にまぶして、粉末をよく叩き落としたそれをラードらしき油で揚げた唐揚げ類。
よく濾した穀物酢と卵黄と不飽和脂肪酸を混ぜ合わせて乳化させ、後でメレンゲを足し、ゆっくりと混ぜたマヨネーズ風のふわふわタレ。
各種果汁を濾して、ソースやタレと組み合わせて調味料にして、完成だ。
見るだけで胸焼けしそうだという向きもあろうが、さに非ず。食物繊維や糖質を抑えていれば、これくらい人間の身体は余裕で消化する。胸焼けの原因の殆どは炭水化物(糖質)の摂りすぎだ。
旨味成分がイノシン酸ばかりで欲を言えばグルタミン酸が欲しいところだが、塔内で手に入る食材ではこのくらいしかできない。
【理】を駆使しての調理時間はかなり短縮されている。そのためもっと旨くできないかと諦められない飛逆は色々と試作して、せっかくなのでミリスに差し入れしてみる。
〈嫌がらせですか~……この脂と肉尽くし……〉
すると案の定、ミリスは嫌そうな顔をした。
「肥る原因の九割は脂を摂ってることじゃなくて糖質の摂り過ぎなんだよ。内臓の筋肉の殆どは平滑筋で、平滑筋はいわゆる遅筋、赤筋だ。好気呼吸によるATP(アデノシン三リン酸:神経活動を含む動物の運動エネルギー源)産生は主にミトコンドリアって俺の世界では呼ばれている細胞内小器官で行われるわけだが、赤筋のほうが白筋よりも圧倒的にこの細胞内小器官の数が多い。そして好気呼吸によるATP産生は主に脂肪酸を原料にしている。つまり基礎代謝力を、いわゆる運動筋肉で上げるのでなければ、内臓機能を高める意味で平滑筋の燃料と原料を摂ったほうがずっと効率がいいんだ。DHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)に代表される高級脂肪酸と呼ばれる多価不飽和脂肪酸の各種には細胞に脂肪酸をATP産生の原料にするように促すリガントとなる種類も存在するから、細胞内シグナルの基でもあるタンパク質と平行して脂肪酸を摂ることで内臓機能が向上し、そして異所脂肪が消費されることで細胞が血糖を取り込む機能も回復して、総合的に基礎代謝力も向上する。肥りたくないならこれらの消化・吸収を妨げる上に糖質の高い野菜なんてむしろ絶つべき代物なんだぞ?」
〈え~……っと、正直~、言ってることの半分もわかんないんですが~……〉
「お前にわかりやすく言うと、お前の発育が悪いのは肉と脂を食わなかったからだ」
女性の乳房は平滑筋によって支えられている。脂肪酸やタンパク質を燃料にしたほうが平滑筋の発達が促されるという理屈は前述した通りだが、その理屈で行くと、いわゆるバストが発達していないのはタンパク質と脂肪酸の摂取不足ということになる。糖質を摂ってばかりいれば贅肉という意味で膨らみはするだろうが、他も膨らむ上に垂れることを覚悟せねばならない。更には土台がしっかりしていれば相応に付くように、人間の身体はできているのだ。
〈カハッ!〉
吐血したような音声を出しながら、ミリスは撃沈した。まるで衝撃波を受けたように繭の表面を波立たせて崩れ落ちるという芸の細かさだ。
理屈をすっとばしてその結論には心当たりがあったのだろう。ダイエットとか、いかにもミリスは嵌っていそうだ。原料と燃料があれば女性ホルモンが胸を膨らませていっただろうに、おそらくはそんな大事な二次性徴の時期に食事制限とかをやらかしたのに違いなかった。
思春期の女性がよく陥る罠である。
痩せているのに出るところは出ている身体を作りたいなら、体内で合成できない必須アミノ酸及び脂肪酸はきちんと食事で摂らなければならないのだ。
〈で、でも~……やっぱり見た感じが~……女の子に奨めるものじゃ~ない~ですよぉ。結構見た目も凝ってますけど~、ヴァイキングが紳士的なことをしている違和感バリバリです~〉
さりげなく自分は『女の子』なのだと言う主張をしながらミリスが這い上がってくる。
「ふむ……効率の良い栄養吸収には気持ちも大事な要素だからな。無視はできない意見だ。そこは彩りソースとタレで誤魔化そうと思ってたんだが、ダメか?」
一応あくまでヒューリァを喜ばせるためのお弁当である。その目的に対してミリスの意見には一理あった。
〈スイーツの魅力は~、味はもちろんですが~、可愛いってことなんですよね~〉
「オレンジソースの照り焼きとかは、どうだ?」
〈悪くないですけど~、ええまあ~、ヒサカさんの理屈が正しいかどうかは~ワタシにはわからないのでお肉から離れろとは言いません~。ワタシが言いたいのは~、お肉以外の彩りがあったほうがいいってことで~〉
「スイーツを作れと……」
〈ヒサカさんは~、せっかく器用なんですから~〉
「わかった。ちょっと作ってくる」
〈え? わかったんですか~!?〉
なぜだか驚愕するミリスを他所に、飛逆は再び厨房に籠もる。
ドロップ品にあった固化した生クリームのような塊とバター、卵、水飴を用意する。いくつかの果物の果汁で各種材料に着色する。小麦粉のような粉末はとにかく捏ねてグルテン化させ、それだけを分離する。
そうして用意した材料でケーキを作った。
骨組みにも使った水飴でデコって見た目も悪くない物に仕上がったはずだ。中のスポンジや生クリームの味のほうも何かの果実から天然甘味料が抽出できたので、十分に甘い。
〈わっ、ファイヤーワークス、ですか~……意外と派手~な趣味なんですね~〉
「ヒューリァにって思ったら、あの【神旭】の翼のイメージが湧いたからそれを表現してみた」
熱の加減について最早スペシャリストと言って過言ではない飛逆は、土台のスポンジなどを、普通だったらありえない形状で作っている。少し具体的には滝のような傾斜から翼が降りているような感じだ。
〈各部で色合いまで変えてある~……波打ってるように見えるの、実はこれ、ストレートなのに光沢が違うからそう見えるだけ!?〉
「元の色は一緒なんだが、熱の加減で光沢と色が変わるからな。そこを利用した」
しょぼいがトリックアートである。
〈ヒサカさん〉
一口分、繭の中に取り込んだミリスは、幽かな咀嚼音の後、急に神妙な音声を出した。
「なんだ?」
〈隠れ二号でいいので結婚してください。っていうかお婿になってください〉
「お前、懲りないな……」
あんな拷問を受けてもまだその気が潰えていないとは。
〈諦めないためにあんな演出をしたんです~。どうあってもヒューリァさんへのカミングアウトは避けられませんし~、あの機会を除いたら~、ヒサカさんに庇ってもらえるのは他になかったですよね~? ヒサカさんがいないところでうっかりバレてたら~、多分ワタシ、こっそり消されてましたから~〉
思った以上に計算尽くだったようだ。
「まあ俺からの答えは変わらんけど」
〈養い甲斐のある女アピールもダメ~ですか~。というか本気で~、ヒサカさんはどう攻略すればいいのかわかんないんですよね~〉
「攻略とか言ってるからじゃないか?」
〈言葉の綾ですよぅ。ストレートに言っても振られたっていうのに他にどうしろって言うんですか~〉
ストレートに言われた覚えはないが、それはともかく飛逆も少し考える。
「どうしようもないんじゃないんか?」
〈他人事のように~……〉
「というか、別に恋人的なことをしなくても俺は結局お前を養うと思うし、それ以上の何が必要だって言うんだ?」
〈…………………………………………………〉
長い、長い沈黙だった。
〈……はっ!? 一瞬、ならそれでいいじゃん!? って思ったけど、よく考えたら生殺しだソレっ!?〉
ちっとも一瞬じゃなかったが、まあそこはいい。
〈というかこんなこと言うってヒサカさん、まさかワタシがあくまで『自分を保護してくれる誰か』であれば誰でもいいとかって思ってるとか思ってますか!?〉
「……違うのか?」
〈実は一切気持ちが届いてなかったことにワタシ、驚愕、ですっ!〉
どうやら違うとミリスは主張したいらしい。
「まあ他に誰かいるわけでもないし、仕方ないのか」
〈ぅわ~、マジですねコレ。わかってたつもりでしたけどぜんっぜん甘かったんですね~。鈍感系主人公恐るべきですね~〉
まるで怯えるように繭をひたすらに震わせてブツブツと言い募るミリスだが、彼女は勘違いしている。
「いや、お前の言いたいこともわかっちゃいるんだ。理屈というか、言葉の上では」
〈はい~?〉
「ただ、顔も滅多に見せない奴に、そんなこと言われてもどう納得しろっていうんだ?」
〈……〉
「今の姿を見せたくないっていうのはわかる。でも、お前ってたとえば解呪されても結局、面と向かって俺に好きとかそういうこと、言えないんじゃないか? 本気で浮気を認める女なんていないとか言いながら二号でもいいとか言い出すし――むしろ二番目に、一番目になりたくないって風にさえ見える。
基本的にお前のやってることも言ってることもお前自身が軽くしてるし、軽くしたいんだなって俺は思ってしまうわけだ。実際そうだろ? 気持ちが本当だったとしても、お前は最初のとき以外、全部、本気じゃないように俺に思わせようとしている。自覚的かどうかは、正直わからんが。わからないから、それに乗ったんだけどな。
お前にはお前なりの事情があって、他人と物理的な壁や距離みたいのを設けないと、上手く自分の言葉を喋れないってことなんだよな。それ自体を責めてるわけじゃないし、例えば繭を解いてお前自身をさらけだしたところで、やっぱり俺の答えは変わらない。けど、心根からお前の気持ちを受け止めろっていうのは、実際問題難しいぞ」
せめて誠実に対応しようと、飛逆はミリスに最初に告白(?)されたときには思っていた。けれど以降の態度が、『軽』かったものだから、結局ミリスは『冗談』にしてほしいのだと飛逆は受け止めた。
実際先述でもミリスはそれを肯定している。『本気』ではなかったのだと、そういう含意で話をしていた。
そんな『冗談』の枠を自ら踏み越えてきたなら、飛逆としてはこうやって返すしかない。誠実に素直に、自分の感じたこと、思っていることを述べるのみだ。
こうは言っても、ミリスが『電話口だと声が大きい』タイプであることを責めているわけではない。単に、そうした薄皮一枚を隔てた関係をあえて望んでいるような彼女と触れあうようなことになるイメージが全く湧かないのだ。
それは彼女の呪われた容姿が問題なのではなく、実際に口に出したように、例えば呪いが解消されたとしても、ミリスのその薄皮は、剥がれないに違いないからだ。
意味軸は彼女自身がトーリに対して言っていたことだ。
――自分が否定した自分自身を見当違いの所から肯定されたら、その相手を徹底的に否定してやらなきゃいけない。
だったか。飛逆なりに言葉を補完すると。
ミリスを受け容れることは、ミリスを肯定することだ。
そんな肯定を受けたなら、ミリスは飛逆に対する愛情と、本人が主張するそれを、憎悪に裏返すことだろう。
結局の所、そうした背景から導き出されるのは――ミリスが飛逆に求めているのは、穏やかな虐待だ。
緩やかに、自分を否定して欲しいのだ。
自分を否定することを肯定して欲しい。
傷付かないように疵付けて欲しいのだ。
そんな一見すると矛盾した自傷癖に付き合わされるのは正直御免なのである。
そんな『否定』の言葉を投げられたミリスは果たして――




