65. アマゾネスに必要なもの
二つの研究に区切りを付けて、飛逆は潜行から浮上する。
まだ足跡を付けただけで、目的のコードはおろか、【吸血】自体の領域も見つかっていない。
それでもそろそろヒューリァへの給血の時間だ。
そう思って彼女用に設えた部屋に行ってみたのだが、案の定そこにはいなかった。
溜息が出た。
ためらいもせずに眷属顕現。
嗅覚特化を出してヒューリァの居場所を捜させる。
ヒューリァが不安定なのは自分が原因だ。その自覚はあった。
彼女の立場になって考えれば、彼女が怪物に成ったのは、飛逆のためだ。それなのに褒められるどころか冷たくされたわけで、不満を懐かないはずもない。
もちろん飛逆にも言い分はある。そんなことを飛逆は頼んでいないということだ。
尤も――今得られている材料からも、他に手段があったとは思わない。だから結果だけを見るなら、ヒューリァは正しい。
過程を見ても、その正しさを導くためには他に最善の手段もなかっただろう。彼女は正しい道を踏破した。目的に対して最短を行くことを正しさと呼ぶのであれば、の話ではあるが。
それでも、正しさだけでは割り切れないものがある。
(どっちが正しいって話じゃない、か)
ミリスがモモコとの関係について言った言葉だ。
まさしく。
飛逆は今、正誤ではないところで引っかかっている。その自覚もあった。
自覚はあるのに、ではどうするのかということが思い浮かばない。
これでヒューリァに対する関心というか、興味というか、いわゆる恋情? つまりは好意を失ったというのであれば、話は早い。すぐにでも割り切れた。いずれにせよ飛逆はここまで身内としてやってきた者に対して積極的な排斥を試みたりはしない。表面上は何も変わらないように振る舞えただろう。
そうできないから困っている。
赤毛狼はヒューリァをすぐに見つけた。
別に遠くへ行っていたわけでもないらしく、そこはゾッラとノムが生活できるようにと設えた部屋だった。
それなりに広いそこにはノムが料理できるようにと台所を誂えてある。ちょうど暖炉が使われているらしく、鶏肉(のような肉らしき物体)の脂が溶けて香草と混ざったときの香しい匂いが漂ってきていた。暖炉は炙り焼きができるようにと設けてある。囲炉裏にしてもよかったのだが、あれはこの構造の家屋だと室内が燻されてしまうので、煙突と暖炉のほうが使い勝手がいいのでそうした。
ヒューリァはそんな暖炉の前で、香草や根菜を包んだ鶏肉(と同じ食感の動物性タンパク質・脂質の塊)の串刺しをじっと眺めていた。
火の通り具合を見極めているらしく、その表情は真剣そのものだ。どれくらいかというと、火炎耐性を発現するために、その身に描かれた刻印を発動して、串を返すのを素手でやっているくらい真剣だ。
具体的にどこがどうとは言えないが、シュールな画面に正直、何やってんだろうこの娘、と飛逆は思った。
わざわざ暖炉なんか使わず自分の身体から出る炎で焼けばいいのに。そうすれば火力調節の訓練にもなる。表面を炙り焼きした後に【神旭】を使えば、内側からじんわり焼くという、鉄串の役割も十二分に果たせるのだが。
あるいは、自らが出した以外の火の加減というものを見極めるのが彼女なりの特訓なのだろうか。
イメージにかなりの部分が左右される異能は、現象への理解が深ければ深いほどより強力に発現できる。基底現実の修正力、つまりは『辻褄合わせ』にエネルギーを持って行かれないためだろう。ロスするエネルギーが少なければ異能の具現だけに注ぎ込める。省エネって素晴らしいという話だ。
その意味、あながち訓練として間違っていないが、間違っているのはおそらく飛逆の見方そのものだ。
なぜ飛逆がすぐには彼女が真面目に料理に勤しんでいるのだという発想に至らなかったのかといえば、それもイメージだ。ヒューリァはなんだかそういったことをしなさそうだと思い込んでいた。実際これまでも、彼女が料理をしているところを見たことがない。
異世界者組で実際的に食事が必要なのはヒューリァだけだったので、食べてはいたはずだ。
けれど飛逆はこれまでミリスに指摘され、ヒューリァを思い詰めさせるほどに忙しく動き回っていたため、食卓を共にした機会というのが実はごく少なかった。まるで家に金(この場合は原結晶とドロップ品)を入れるだけ入れて家庭を顧みない関白亭主の所業である。そのくせ自分が食べる分は自分で作っていたので、飛逆が振る舞うことはあっても彼女が作ったことはない。そして無駄に凝り性なところがある飛逆の作る料理は、雑なところはあっても味は保証済みであった。
(あれ? もしかして俺、ヒューリァの仕事、奪ってた?)
彼女の元の世界に、男女に於ける家事や仕事の役割分担の概念があったかどうかは不明だが、基本身体能力が男性に準ずる女性が家事の大部分を担うのが自然的な発達だ。近代に於いては腕力の関係しない仕事が増えたために、必ずしもその分担が自然的とは言い切れなくなっていたが、あまり発達していない文明から訪れたと思しきヒューリァの元の世界では、やはり基本的には女性が家事を担うのが当然であると思われていただろう。その中でヒューリァは確実に特例であり、家事が得意で当然ということはないだろうが、女性が家事を担うことが当然であるという常識を彼女が備えている可能性は充分にあった。むしろジェンダーだの性差別だのという意識が発達していなかったということが考えられ、その常識は飛逆よりも強固に根付いている可能性が高い。常識に疑義を醸す背景がないかもしれない、と言った方が良いか。
従って、ヒューリァにとって飛逆は女性の領分に横槍を入れていた空気の読めない男だったということになる。草食系男子は異世界(異文化)に於いてはただのダメ男であるのみならず、テリトリーを侵す唾棄すべき侵略者である場合があるわけだ。
飛逆は草食系かというと、違うと自分では思っている。実際、街一つ消し飛ばして些かも己を呵責しない男が草食系とか言って誰が納得するかという話だ。
けれど飛逆が口では「お人形になってほしくない」と言いつつ、ヒューリァが思っている(かもしれない)男女間での役割分担のルールを侵していたのは否めない。つまりヒューリァが自分の役割を求めて怪物に変じるまでに躍起になったのは、飛逆の所為だった(可能性がある)ということだ。
ヒューリァが飛逆のために、というのであれば飛逆はやはり「頼んでいない」と、どうしても思ってしまう。
飛逆は無駄なところで無闇に責任感が強い。
自分の所為で、となると話が別なのだ。
単にヒューリァが料理らしきことをしているのを目撃しただけでここまでのことを一瞬で考えて飛逆は、蟠っていたものが溶けていくような感覚を覚えた。
あまりにも飛躍がありそうな納得の仕方だったが、元々彼女に冷たくしたいと努めて思っていたわけでもない。
飛逆はそういうことなのだと思うことにした。間違っていても別に構わないのである。
ヒューリァに逃げられる可能性を考慮して気配を絶っていた飛逆はそのままに、六人掛けられる卓に着く。
モモコの気配遮断スキルとは異なり、それはゾッラには通用しない。けれど飛逆が『気配を隠している』ことは彼女にもわかることだ。
ゾッラはさりげない調子でコンロのほうで調理しているノムのほうから移動して、飛逆の隣に腰掛けてきた。
何が楽しいのか、顔にはいつもの喜色が浮かんでいる。何も話さなくても飛逆の近くにいられることが嬉しいと言わんばかりだ。少しだけそわそわした様子で腰掛けから伸びた細い足をぶらぶらと揺らしている。顔がこちらに向いてはいないが、ビシビシと『視』られていることを感知するくらいの感覚が飛逆にある。
もっと近くに行っていいかな、でも畏れ多いよね、という態度に見えなくもない。
その足下に連れてきた赤毛狼を配置し、じゃれさせる。こちらから意識を逸らさせた。
根拠の不明な(理解できない)好意について飛逆は、ヒューリァからのそれで多少は慣れてきているが、やはりどうにも居心地が悪い。
というかゾッラはどうも、『天使』の中でも特に飛逆に好意を懐いている節がある。『精霊』ことミリスに対するそれとは微妙に色合いも異なる気がする。ミリスへのそれは友愛に近いのではないだろうか。
おそらくは飛逆が【全型】の中でも特に強力であり、実際的なリーダーであるためだろうとは思っている。
居心地が悪いのは、つまりはゾッラのそれが【全型魔生物】という属性に由来するものだからだ。立場と言い換えても良い。しかもその立場はすべて、飛逆が進んで得たものではなく、どちらかというと与えられたものだ。『前(々)回』の被召喚者がゾッラにとって『天使』ではなくなったように、いつかは必ず失われるものでもある。むしろ、その立場を捨てるために様々なことを試みている。いわばゾッラの好意を裏切ろうとしているわけだ。
別にゾッラの期待する立場である義理などどこにもないのだが、積極的に裏切りたくもない。そこはミリスが言っていたように『トーリとは微妙に違う』からだ。
(兄上もそういうこと、あったんかねぇ……)
内に向けて問いかけるように内心で呟く。
ゾッラのそれは肉親に対する親愛に近いものであると飛逆は思い、飛逆の兄としての立場を最期までブレさせなかった彼を回顧した。
だから自分より年下が苦手なのかもしれない。
兄を模倣することを心がけてきた飛逆は、彼が飛逆に対したように年下に接するべきなのかと思ってしまうから。過去の己と似通った部分を持つゾッラに対しては特に。
そんな内省をしながらヒューリァを眺めていると、さすがに視線を感じたのか不意に彼女は振り返る。
そして「ふぁ!?」とのけぞって串をいくつか倒してしまう。それに気付いて即座に火に直接手を突っ込んで回収するが、当然のように煤がこびり付いてしまっていた。
融けた脂に溶けているので、払ったところで焼け石に水だ。洗えば多少はマシになるだろうが、せっかくの香草の風味が逃げてしまう。
多少の煤を食ったくらいで腹を壊すような柔な生き物ではなくなっている飛逆だが(マグマ飲んでも平気です)、逆に言えば食事に精神的な意味しか見いだせない。あえて不味いものは食わないということだ。「こんなのなんでもない」とか言いつつ旨そうに食べるイケメン行動も一瞬脳裏を過ぎったが、まあ廃棄が順当だろう。赤毛狼のおかげで食料は潤沢にある。なんだったらその赤毛狼にでも食わせてやればいい。ウチのイヌは悪食なんで、なんだったら串まで食います。
「ぁあ……」
しょんぼりするヒューリァだ。
そこにノムがやってきて、下ごしらえの済ませた串を暖炉の傍に刺して、さりげなく空いた陶器を差し出した。回収するからこれに置けということなのだろう。
その気配りに、ヒューリァは一瞬だけ悔しそうな顔をして逡巡したが、大人しく促されるままに串を置いた。
「ノム、それ、こいつに食わせてくれ」
原結晶ほどダイレクトではないが、赤毛狼が食料からエネルギーを得られることは確認済みだ。熱/化学エネルギー換算でだいたい一割程度の変換率になるが、無駄ではないのだ。後で回収すれば間接的に飛逆が食べたことにもなる。何に対するフォローにもならないが。
実際ヒューリァは飛逆がそう指示するのを微妙な顔で聞いている。
ノムが赤毛狼の前に器ごと串焼きを置いて、赤毛狼が食べ始めたところで、
「後どれくらいかかる? ついでだから食事にしよう」
「ご一緒してくださるのですの?」
ぱぁっと顔を輝かせるのはゾッラだけだ。
ヒューリァは微妙に居心地が悪そうだ。何か他に目論見でもあったのか、それとも失敗したところを見られて恥ずかしいのか、明らかに飛逆の視線を避けて暖炉に向いてしまう。
ノムは元より反応が鈍い。どうせ自分は共に卓に着くことはないのだとでも思っているのだろう。取り皿を三人分並べて自分はまた料理に戻ってしまう。
飛逆も彼女を強いて同席させるつもりはない。いきなり使用人扱いはしないとか言っても、ノムのように自己を律することで正気を保っているタイプは、突然その扱いを辞められてしまうと逆に混乱してしまうのだ。
役割を奪わないでくれ、というのが、飛逆が彼女にお節介する度に暗に寄せられる嘆願である。度し難いことに、辛いことが好きなわけでもないのに、そうした扱いをされるほうが楽だと感じてしまう。いわゆる奴隷根性だった。
ノムは後で残飯を食べるつもりだろうが、それは後でこっそり止めることにして、相席は強制しない。
そうこうする内に支度が終わり、不承不承の体ながらヒューリァも席に着く。
ゾッラだけが食事前に祈りを捧げて、食事が始まった。
ヒューリァは飛逆の向かい側に腰掛けている。ゾッラのせいで隣が埋まっているのだ。
ノムは案の定、ひっそり飛逆たちの後ろに控えている。
メニューは串焼きをメインに、ナンのようなパン(竈焼きだ)、生野菜――飛逆が以前予想したとおり、ブロック状だったので、スライスしてそれっぽくしている――の付け合わせだ。 果実ベースのタレを付けた串焼きを生野菜スライスに包みながら串から外し、食べるものらしい。ナンはお好みでタレを付けて食べるか、そのままだ。もしくはお好みで串焼き肉と野菜を挟んで食べる。
タレはまだ作ってそう日が経っていないので熟成が足りないかと思いきや、素焼きの土器に入れた上で、水桶に浸し、『流体操作』の【能力結晶】を使って擬似的に超音波振動を作り出して熟成を早めてある。割と反則なタレなのだった。
つまり割とコクもあって旨い。串焼きあってのタレなのか、タレあっての串焼きなのか、微妙に判断が難しい程度には。
まあ大事なのは調和である。旨いことに変わりはない。
けれど串焼きの火加減を担当したヒューリァにとっては、あくまでタレが引き立て役であってほしいところであろう。
ヒューリァは難しい顔をしていた。むつかしい顔って感じだ。
確かに内部までよく火が通っていて、余分な脂は抜けていて、それでいて固くない。けれどむしろそれがタレとの調和を進めている。
なるほど、複雑だった。
ちなみに、タレを作ったのは飛逆である。ノムは付け足してはいるが、ベースを作ったのは飛逆だ。だからどうしたって話でもないが。
ゾッラだけが屈託無く食べている。料理人の機微が共感覚によって味わいになっていると思うのだが、そこに引っかかりはないのかと少し疑問に思った。まあ、決して無感動ではないノムの料理をいつも食べているので、今更なのかもしれない。
三者三様に黙っているのもつまらないので、話題を探す。
「ヒューリァ、君の装備を作るつもりなんだが、何か要望あるか?」
「装備?」
香味野菜肉包みの味と格闘するように食べていたヒューリァに話しかけると、きょとんとして問い返してくる。
確かに突然すぎた。
装備を作ることの趣旨を話して、納得してもらう。
「でも、半月刀はともかく、ガチャガチャ防具はちょっと邪魔」
「やっぱりか?」
過保護な飛逆は防具にできる限りの機能と防御力を備える方向で考えていた。
「うん。確かに替えの服はちょっと欲しいんだけど……」
そりゃそうだ。飛逆の感覚的にもやや前衛的なデザインである踊り子の服のようなものを始終着ているのだ。炎を浴びる機会が多いために臭いはあまり気にならない(ちょっと焦げ臭い)が、一着しかないのは実に問題だ。
それに、飛逆の中で彼女は露出狂的な印象があるが、実は飛逆の前以外ではむしろ肌を晒したがらない。ここ最近の特訓によって少しずつその露出範囲が広がってきてもいる。
「どんなデザインがいい? この際、耐熱性さえあれば防御力とか機能は無視でいいぞ」
「ぁ――っと、えっと、ね。デザインとかわたしよくわかんないんだけど、一つどうしても欲しいのがあるんだけど、……ひさかのヘンタイ」
「なぜ俺は突然に蔑まれているのだろうか」
本気で唐突すぎた。
「ヒューリァさまは、下着をご所望なのですの」
本気で困惑していると、横合いからゾッラが口を挟む。
ヒューリァは自分の胸を庇うように掻き抱いている。
ゾッラが言い当てるのには、誰も疑問を抱かない。
「ああ、そういえば、今はそれが下着としても機能するようにってデザインしたんだっけか」
得心行った。
今の服を作る際、寸法を測る段であった悶着の一つだ。
ミリスは自分が必要ない(ありますよぉ、ちょっとはぁ!)くせにブラジャーの機能について滔々と飛逆に語り出すほどにこだわりがあったのだ。形崩れがどうのとわけのわからないことを言っていたが、飛逆は今の幻聴と同じく聞き流していた。
今の服がこのデザインになったのは、素材が足りなかったというのもあるが、その素材が足りなくなった理由が、胸の辺りに二枚とパット用に三枚分を使用したためというのが大きい。スポーツブラに近い機能を持たせたのだとミリスは自信満々に言っていた。だがおかげで露出部位が増えた上にボディラインがやたら強調されている。しかも言い方を変えればヒューリァは常に下着を晒しているようなものだ。
当のヒューリァと言えば、そもそも胸の形がどうのという下着に対する観念を持ち合わせていなかった。胸バンドとか、動くときに邪魔にならないようにする工夫については理解があったのだが、それが発育に関係するという発想自体がなかったそうだ。
男には無縁の観点ということもあって(男性用ブラとかあるらしいが少なくとも飛逆には無縁だった)、飛逆は実際に寸法を測るところには立ち会っていないのだが、この分だとミリスが何かしたか、言ったっぽい。胸(の大きさ)に何か妄念を抱いているミリスのこと、ただ寸法を測っただけで済ませたとも思えない。
ヒューリァは飛逆がデザインとか言い出したことで、ミリスが不在の今、寸法とか云々を飛逆がやるのだと思って「ヘンタイ」発言に繋がったのだろう。下着を作るのには必ずそのあれこれをしなければならないとでも勘違いしているのだ。
そして実際そのつもりだった。もちろん単に寸法を測るだけで、あれこれするつもりはないのだが、最前のノムへの嫉妬? らしき反応を見てノムにさせるよりはいいとの判断だった。
「ノム、なんかヒューリァが君に測って欲しいんだと」
軽く振り返って言う。
少し間があって、ノムはこくりと頷いた。
「――ちょっと」
少し遅れてヒューリァが口を尖らせるのは無視した。
「どっちみち細かい仕立てはノムに任せるつもりだったからな」
家事系統万能のノムは当然のように服の仕立ても心得ている。飛逆は彼女のために裁縫道具一式をオリハルコンで作って与えているくらいだ。おかげでゾッラの服装は、大抵がワンピースではあるものの、毎日違っている。ノムは最初から着ていた地味なメイド用の衣装から替わっていないが、あれは同じ服を自分で仕立てているのだ。
ヒューリァはあれこれを飛逆にやられるかノムにやられるのがマシか、葛藤している。
「わかった。……おねがい」
ノムに天秤が傾いたようだ。性的な行為にむしろ積極的なヒューリァだったはずだが、それとは何か違うらしい。
ノムはやっぱり間を空けたが、こくりと頷いた。
〓〓 † ◇ † 〓〓
赤毛狼に粘性のある物質と木材チップを飲ませて、彼自体をゲル状にしてから紡ぎ、強靱且つ耐熱を付加した紡錘糸を作っていたときのこと。
「なにこれ!? おっきい!」
ウブな女性が初めて屹立した男性そのものを目の当たりにしたときのような悲鳴が、飛逆のいる実験室にまで届いた。
その喩えはどうなのか。
我ながらどうかと思う耳を諫めながら、万が一に備えて声の元へと駆ける。
万が一とは、ヒューリァに危害が及ぶ可能性のことだが、まずそれはない。絹を裂くような悲鳴でも続いていれば、ノムが実は男の娘だったとかいう超展開を連想していたところだが、超展開にも程がある。そもそも飛逆の嗅覚には彼女が彼女であるということは明らかなのだ。
むしろロクでもないことに違いない(先述の妄想よりもロクでもないことというのも思い付かないが)と確信していたので、飛逆はきちんとドア(引き戸)の前で止まり、ノックしながら「何かあったか?」と声を掛ける。
「あっ! ひさか! ちょっとこれ、見て!?」
飛逆がせっかく気遣ったのに、ヒューリァは中に這入って見るようにと促してくる。
嫌な予感しかしないが、飛逆は這入る。躊躇してもどのみち何が起こっているのか確かめなければならないのだ。
すると、半裸のノムがヒューリァに後ろから胸を揉まれていた。「ほらこれぇ!」と言わんばかりにノムのそれをヒューリァは掲げるように持ち上げてタプンと揺らし、強調する。
ちなみに、半裸というのは下着の状態のことをこの場合は言っている。その意味、ヒューリァは四分の三裸だ。もともと肌着なども着ていないところに上を全部はだけている。
なぜ半裸だ?
飛逆が真っ先に思ったのはそんなことだ。
ヒューリァはわかる。下着に合わせて寸法を測ろうと思えば素肌を晒すのは当然だろう。けれどノムが半裸になる理由が不明だ。
確かにノムは細い腰の上に見合わないくらいに立派なものをお持ちだが――
手先と足の筋肉や脂肪の配分と動きの重心を観れば大まかな体型を透視できる飛逆は、彼女が着やせしていることくらいとっくにお見通しだった。ヒューリァが求めているような感動の反応は示せない。
ところでノムはさすがに無表情ではいられないらしく、眉尻が下がって困ったような顔になている。けれど羞恥は特に観られない。根本的に、自分に何かの価値があると思っていないのだろう。たとえば男の劣情の対象になるとさえも露とも考えていない。
そして飛逆はある程度は覚悟していたので、そのたわわな胸よりもノムの困惑の表情に注目した。
「どうしたんだ、いったい」
「え? ええっと……」
問い質すと、ヒューリァはノムの胸をタポタポと揺らしてから、答えを絞りだそうとしてか、もぎゅもぎゅと指を動かしながら口ごもる。
ノムはますます困惑している。多分、与えられた役割を果たせないこの状況の対処に困っている。ただし、刺激に若干感じるところがないわけではないらしく、羞恥ではない赤がその頬に、ほんの幽かに浮かぶ。
「その、この女が本当に下着を作れるのかってことわたし、言ったら……」
実際に自分の作った下着を見せたということらしい。喋ることができないノムは実際にそうするしか示す術がないのだ。だからってなぜ全身脱いだのかはよくわからないが、きっとヒューリァはオブラートに包んでいるだけで、実際には彼女を剥いたのだろう。
そしたらなんかヒューリァは下着とかそっちのけでノムの幻想的なまでの着やせに驚愕し、例の叫びを発したと言うことだ。
そしてその驚きを飛逆と共有したくて部屋にまで呼び入れた、と。
思った以上にくだらない経緯だった。
話す内にその益体のなさを自覚したらしいヒューリァは、相変わらずもぎゅもぎゅとやりながらも所在なげだ。そろそろノムの吐息が熱を帯び始めているのでやめたほうがいいと思うのだが。心なしノムは内股になってきているし、声を漏らさないようにと懸命な様子だ。
というかヒューリァは、ここで飛逆が年相応の思春期を発露してしまうとか、そういうことは考えなかったのだろうか。飛逆が「おお、すげー」とか感動してヒューリァと前後からノムの胸を攻めるとかいうシチューション、どう想定しても飛逆は嫌だ。
頭に幻痛を覚えた飛逆は溜息を吐いて、「まあ、ほどほどにな」と言い置いてその場を辞した。
背後でついにノムが声を漏らしていたが、飛逆は聞かなかったことにした。




