62. 特訓1 .vsアカゲロウ
力量差が歴然としている相手にヒューリァの戦い方は、初級の詰め将棋のそれだ。
第一手に嵌ればあっという間に相手は詰んでしまう。
赤毛狼は、動きの速さでは拮抗しているにも関わらず、たった三手で詰められてしまった。
なぜ動物の動きから逸脱した赤毛狼のそれを完全に読み切って詰められるのか、飛逆は不思議でならない。
これでは訓練になりはしない。
飛逆が赤毛狼にもう少し複雑な行動ルーチンを組み込めれば少しはマシになるだろうが、初見で三手だ。あまりにも差が確然としている。飛逆たちにとってクリーチャーが戦闘訓練の要を為せないことと同じだった。
赤毛狼をより強化することは今後も継続していくとしても、クリーチャー相手にはできない訓練というものを考えてみる必要がある。
というわけでヒューリァの最大の攻撃力である火弾を封じるという縛りプレイを課した。
強みを伸ばすのではなく、苦手を減らす方向ならば、赤毛狼は適役だ。
ヒューリァを攻撃はしても殺傷はしないという飛逆の命令を組み込んだ赤毛狼は、クリーチャーと違って彼女の接近戦の相手をできる。同時にその訓練を見守ることで飛逆も赤毛狼の行動ルーチンを組み立てる参考にするというわけだ。
というかヒューリァ、本当に接近戦が苦手だった。
どうやら視角を広く取ることに特化しているせいで、相手が一定以上に近づくと軽いパニック――視野狭窄を引き起こされるらしい。だから訳のわからない反撃をしたりする。防御は初めから考えていないという辺り、根が深い。どこまで攻撃的なのか。
何度もヒューリァは赤毛狼にマウントを取られて喉元に牙を当てられた。そして飛逆はそんなヒューリァから怨みがましい顔を何度も向けられた。
なんだか冒涜的な感じで少しだけ興奮したのは秘密だ。ほんとうに、秘密だ。
一撃で確実に決められる場合はその限りではない。事実、勝率はイーブンだ。けれど一撃で決められなかった場合、赤毛狼にダメージを負わせることができたとしても確実に負ける。それは勝率以上に接近戦への脆弱性を示していた。
ちなみにヒューリァの接近戦での攻撃手段は【弧狐】なる指から炎の爪を出す術だ。これを初めて使ったとき、ヒューリァはカスタムガスバーナーを顔に向けたときのような羽目に遭った。具体的にはビームサーベルがごとき業火を顔に浴びて、ショックで一瞬失神していた。
訓練を始めてから『天才』ヒューリァのお茶目な面が多々明らかになった、などと笑い話にしたいところだが、もし彼女に火炎耐性がなかったら洒落にならない事態である。あっても、急激に生じた熱はそれだけで爆発と同じであり、衝撃波が生じる。彼女の頑丈さが上がっていなければ爆圧で首から上が吹き飛んでいたところだ。
天才というより天然なのかもしれない。
とまれ、出力を絞ったり、炎を凝縮したりといった訓練にもなるので、割と有益な特訓だったと言えるだろう。
回復が必要な飛逆は、そんな風にヒューリァの特訓にばかりかまけていたわけでもない。
赤毛狼は複数出すことができるので、彼らには原結晶を狩りに行かせていた。
実験の結果、出した後に原結晶を喰わせると、その体積が増えて、そして分裂が可能であることがわかったのだ。
つまりクリーチャーを狩れば狩るほど、彼らは強力になり、そして増える。
そして強力になった赤毛狼を飛逆が【吸血】することで、飛逆自身が原結晶を回収しているのと同じ事になるわけだ。
【吸血】で赤毛狼を回収するのに手間は全く要らない。触れるだけで溶けるように一瞬にして飛逆に吸収される。
ただし、回収効率は高くない。赤毛狼を一体作るのに必要な量の三割程度しか回収できない。原結晶を食べて分裂直前まで行っていれば六割ほどか。
けれど自動的に増えていく彼らを複数の階層に設置することで、結果的に収率は上がるというわけだ。すでにヒューリァの訓練のために複数の個体を生み出すまでに元は取れている。
〈使い魔って便利ですねぇ~。自動レベル上げとかWF5を思い出してワクテカします~。でもいずれバグが発生して~、独立した化け物とか生まれるとかありそうで怖くないですか~?〉
「だから基本的に分裂元が違う奴で群れを作らせるようにしている。相互監視だな。今のところないが、突然変異があったらそいつを囲んで喰うようにした。で、分裂回数が十回に達する毎に俺のところに来るように設定した。今は斥候タイプというか、情報を伝達したり、俺に還元できる個体が作れないかって試行錯誤中」
様子見に接続してきて途中経過を知らないミリスにサボっているのではと突っ込まれたので、きちんと対策があることを説明した。
斥候タイプは、【吸血】の記憶搾取の側面を利用してみようという試みだ。
記憶搾取といっても、吸収したそれは飛逆の言語感覚で言うところの『情報素』でしかなく、記号としての意味しか持たせることができていなかった。
飛逆はこれまでに取り込んだ記憶は情報素に分解して、無意識の一角に雑多に溜め込んでいた。エピソードを伴わない記憶は知識であり、けれどその知識を引き出すための鍵がない。わかりやすく言えば連想できない。線が途切れているためだ。まれに既視感として表出することはあったが、いわゆるバグであるとして無視してきた。
意識に昇らせることのできない知識など無用の長物以外の何物でもなく、これまでは意識区画壁の暗号化に利用することで辛うじて役立ててきた。無用のそれのほうが圧倒的に多かったが。
この仕組みは自己同一性を見失わないためのある種のリミッターだったのだろうが、もしこれを初めから無制限に利用できたなら――たとえば最初にこの世界の人間の記憶と知識を参照できていれば、これまでの多くの紆余曲折は省けただろう。ただ、その場合、モモコやミリスが仲間になったかどうかは怪しい。ぶっちゃけ彼女らが仲間になったことが幸いであったと言い切れたものではないのだが。
閑話休題。
つまりは元々は同じ存在として分かれた赤毛狼の見聞きしたことなら、【吸血】によって取り込み、それを参照することができるのではないか、ということなのである。
すでに万の半分近くにまで達した赤毛狼のすべてからそれができてはいくらなんでもパンクする。だから特別な個体を作ることは必須だ。情報を持ち帰らなければならないからその個体は強力でなくてはならないし、分裂時に一方にだけ情報を残すようにも設定しなければならない。バケツリレーのように情報だけを移動させることができれば最善なのだが。
中々骨の折れるプログラミングだった。煙狼が元々備えていた能力の、いわばコンパイラとデバッガがあっても難しい。【紅く古きもの】との身体の主導権争いをしながらでは完成しないかも知れない。
〈な、なんかワタシの存在意義が薄れていく気配が~っ!?〉
「というか無毒化してお前の髪とリンクできるようにしたら面白いかもな。できるかどうかはわからんが」
必要最低限のコード以外を白紙化した個体の主導権をミリスに渡せば面白いことになりそうだ。プログラミングや操作に関してミリスのほうが一日の長がある。
原結晶さえあればハリボテを操れるミリスの能力なら可能性はある。情報を伝聞化できるならそちらのほうが飛逆の負担も少ないので思いつきにしては悪くない案に思えた。
〈ぉ、おぅ? ……ヒサカさんと直リン&アカシェアとか~……なんだか心がワクテカしますね~。やりましょおそれぇ〉
「……俺の血な、あくまで」
好意を明らかにしてからというもの、ミリスは時々こんなようなことを言ってくる。反応に困るのでできればやめてほしいのだが。特にそういうどことなくヘンタイチックなことを言うのは。というか想い人の身体の一部を愛でる趣味があるのはお前じゃねぇか。
〈ではヒントを~。ワタシだったら血液中の神経ペプチドと免疫グロブリンを利用しますね~。やっぱり元々ある物質のほうが弄りやすいでしょうから~。この場合はまっさらなそれに置き換える方向ですかね~〉
飛逆の言など意に介さない様子でその実現に向けてアドバイスしてくる。
とはいえなるほどだった。これまで飛逆は精気の流れを操ってプログラミング(流れの合間に瘤を作るようなイメージだ)していたが、そうした既存の情報単位に上書きして、その単位を集めていくつかのコラムを作ればより複雑な思考性が実現できる。ブラウン運動のランダム性から情報を入出力するための演算やらなにやらが厄介だったが、そこは元々煙狼にはそのコードが備わっていたので拝借するだけでいい。
試しに眷属顕現。
三体の赤毛狼を降してドヤ顔のヒューリァに新生赤毛狼をけしかける。
赤毛狼の獣らしからぬ動きに赤毛娘は翻弄され、床へとうつぶせに叩き付けられて彼女は敗北した。
決まり手は柔術の概念を組み込まれた赤毛狼の、尻尾を利用した投げ技だった。
受け身も取らせてもらえなかった彼女は顔面から着地させられ、この程度は大したダメージにならないとはいえ、痛そうな素振りさえできないほどに痛そうだ。辛うじてプルプルと震えているのが素振りといえばそう。ただ、それは痛みの表現と言うより、怒りだろう。
「使えるな、これ」
鼻を押さえながらガチギレして飛び道具を勝手に解禁したヒューリァの乱発火弾をひょいひょいと、新生赤毛狼と共に避けながら、順調な運びに満足の呟きを漏らした。
〈というか応用できるの早すぎですよぉ~……〉
自らの存在意義を脅かされて戦々恐々としたミリスの呟きも漏れた。
というかその存在意義とやらを無くすために研究していることを、どうやらミリスは忘れているようだった。
ミリスの言うところの自動レベル上げのおかげで、千百階層にいてもクリーチャーの存在を無視できる。
これが意外と大きかった。
いくらクリーチャーが飛逆たちにとって取るに足らない雑魚だとしても、彼らが飛逆たちを殺傷できないわけではないし、何よりいちいち倒すのは面倒くさい。残り時間を気にすることも、そうだ。
落ち着いた環境というものが擬似的にせよ得られるのは、大きいのだ。飛逆と違って(文字通りの)吸血しても疲労感を拭えないヒューリァにとって
、特に。
それが理由というわけでもないが、赤毛狼たちは下層へと向かわせるように設定した。下層に行けば行くほど彼らの増殖率は下がるが、いずれはすべてが飛逆の支配域という状態になるだろう。まったくウィルスの所業である。
この所業に塔の意思が反応しかねないというネガティブな意見も、一応勘案してみたが、おそらく大丈夫だとする根拠があった。というのも、平時であればこの塔の中は採集者によって荒らされていたはずだからだ。
今となって観れば、塔下街というものは神樹の主の支配域であるという状態だったわけだし、採集者は塔にとって神樹主の眷属みたいなものである。
そんな採集者らを見逃して、赤毛狼を見逃さないというのはないだろう。断言はできないが、やらない理由にもならない。メリットのほうが大きいのだ。
そんなことを、ヒューリァに頚を噛みつかれながらつらつらと考える。
精気を視覚化した上で彼女の戦闘訓練を観てわかったのだが、彼女の術はあまり燃費がよくない。飛逆と比べると一割から二割余計な出力が必要のようだ。ヒューリァに確認したところ、これでも通常よりも遙かに効率的なのだという。術をそのままに使えば変換率が五割は違うんじゃないかと、感覚派のお言葉だった。
どうしてそんな『通常』がわかるのかといえば、彼女の元の世界には、今の飛逆のように精気を知覚できる者がいたのだそうだ。それができるのは血統なのだと元の世界では思われていたそうで、飛逆が精気視覚化ができるようになったことを明かすと大層驚かれた。
「もしかして……ゾッラを避けていたのはそれでか?」
今思い返せば、ヒューリァならばゾッラの感知力に気付いていても不思議はない。いや、不思議ではあるのだが、納得はできるという意味だ。そしてそうであったのに彼女が解呪法の研究にゾッラを利用しようと言い出さなかったのだとすれば、それはヒューリァがゾッラを避けていたのだと見るべきだろう。
考えてみればミリスに『飛逆のハーレム形成計画』を持ちかけるまでに積極的に動いていた彼女が、ゾッラに関してまったくなんのアプローチも取らなかったのも不自然だ。
その『特殊な血統』に対してヒューリァがどう思っているのかは、彼女の無言の微笑を見て突っ込んで聞くことを取りやめた。
元の世界に執着がない、とは飛逆が全員に対して言ったことだったが、過去に執着していない者もまた、いないのだ。
この辺りがややこしい。そして厄介だった。彼女の元の世界のことを知らなければ、その過去にどれほどの重みがあるのか、浅くしか理解できない。上っ面の理解ならないほうがいい。多くの重い過去など、他人にとってはそう大した物ではないのだから。
彼女は元の世界には執着していないから、ほじくり返してまで聞くことかどうか、飛逆にはわからないのだ。
共有できない過去のことに触れることにためらいがある。
言ってしまえばそれだけのことなのだが。
飛逆と違って(文字通りの)吸血では疲労感までは回復できないらしいヒューリァは、五度目の事が終えるとそのまま崩れ落ちるように眠った。
たった三十時間ほどで、飛逆が行動ルーチンを進化させていく赤毛狼を接近戦で同時に三体まで相手取れるようになったことの代償としては、あまりにも軽い疲労だろう。これも気絶ではなく、満腹感からの睡眠惹起だ。
膝の上ですぅすぅと眠る彼女の顔を撫でる。
こういうまるで人間みたいなところを、少し前の飛逆なら愛しく思ったかも知れない。それは彼女が怪物であることから解放されたことの証明だと思っていたからだ。彼女のために何かできたことの証拠が得られることが、誇らしかった。
けれどヒューリァは、別に怪物であることそのものを嫌悪しているのではなかった。もしそうであれば、限定的かつ軽度とはいえ異形の怪物へと自ら変じるような真似はしない。
飛逆は誤解していたのだ。自分の不明が腹立たしい。
全部ではないが、結構な割合、それがヒューリァへの怒りの原因だ。自分へのそれを転換していたというわけだ。なんとも情けないことだが。
内省によってそれを自覚した飛逆は、ついでに他の怒りまで冷めてしまっていた。なんとも甘いことである。まあ、散々赤毛狼に叩きのめされる彼女を見て溜飲を下げたというところもないではなかったのだが。
飛逆は陰険だった。
これからのことを考える。
煙狼の能力の使い道が決まった今、無理をしてまで地階に戻る必要はない。最優先がこの能力の発展と、ヒューリァの順応だ。そのためには比較的高い階層であるここから動くのはよろしくない。
斥候タイプの赤毛狼は、まだまだ改善の余地はあるが、プロトタイプならば生み出すことに成功している。今塔の中に蔓延している赤毛狼の二割程度がそれだ。フィードバックを得ながら順次アップデートを送り出している。赤毛狼が地階に辿り着くまでには完成するだろう。
他のすべてを捨てて敏捷に極振りしたタイプも平行して開発している。戦闘能力は碌にないが、言ってみれば神経伝達物質の役にするつもりなのだ。赤毛狼同士の間で情報交換ができるように。ルーチンとネットワークが複雑になれば転写エラーやバグの発生率が上がることが懸念されるが、そこは複数の自壊因子を組み込むことで抑制する。このアポトーシスは飛逆の設定した階層毎の最大数を超えたときにも古いモノから順次自壊させるためにも利用する。ここまで広がってしまうといちいち回収させるほうが面倒だからだ。
あとは時間の問題だけなのだ。けれど最短速度で考えても赤毛狼が地階に辿り着くには、モモコが戻ってくる予定の時間に間に合わない。届いて残り三百階層というところだろう。
だから懸念があるとすれば、モモコだ。
彼女は今どうしているだろうか。
誰かのために何かをしようとすると必ず何かを間違えると、そう言っていた彼女は、すでに間違いを犯している。
トーリを飛逆たちに預けてしまった。
飛逆は消極的に、ミリスが積極的に彼を陥れた。こうなることがわからなかったのだろうか。機微に聡いようで疎い彼女には、わからなかったのだろう。
ミリスのトーリへの嫌悪に気付かなかった飛逆の言えたことでもないが、
それはやはり致命的な間違いだったのだ。
そしてその彼女の間違いが、一つであるとも限らない。むしろ、間違いとは連鎖するから恐ろしいのだ。
考えられるだけの事態を想定し、それらの対処を構築するべく飛逆はまた深く潜っていった。




