56. 吸血鬼といえばやっぱり
トーリという少年を監視することはミリスにとって非常に容易い。片手間という言葉さえも軽い、文字通り髪一本分の労力を割けば良いだけだからだ。
とはいえ精神的にちょっとミリスはキツイものがあったそうだ。というのも、ヒキコモリを客観的に観なければならないわけで、後はお察しだ。誰だってかつての自分を直視したくはない。
けれど実際に監視を始めてみたら、トーリは愉快なことにヒキコモリなりに精力的に動いていたそうだ。
具体的には身体を鍛えていた。腕立て腹筋などはもちろん、シャドー組み手っぽいこともやっていたそうだ。モデルは飛逆で、どうやら相手はノムだというのがミリスの見立てだ。
飛逆はそれを聞いて、やっぱりアイツはズレてんなぁ、と思った。
普通だったら、飛逆たちのような怪物に囲まれながら、地道に努力して強くなろうなどという発想には、どれだけ追い詰めたとしても至らないと思うのだ。どれだけ順当な努力しても飛逆たちに及ぶことはありえないのだから。
方向性もおかしい。なぜ仮想組み手相手がノムなのか。まあただのヒトであり、しかも女にあっさり畳まれてしまったことが何か影響しているのだと思うが。
それにしたってせめて【能力結晶】をかっぱらい、そして低層のクリーチャーと実戦訓練を積むところに行くべきではなかろうか。
まあ要するにトーリはちょっと頭がイっちゃっているのだろう。引きこもっているために、モモコがいなくなっていることにも気付いていないのかも知れない。
〈いえまぁ~……ヒサカさんには想像もできないんでしょうけど~……強くなるために身体を鍛えているんじゃないと思いますよ~。もちろん強くなってワタシたちに物申せるようになりたいって願望みたいのはあると思いますが~、それとこれとは別っていうか~おそらく~〉
ミリスの見解では、彼がノムを仮想相手にしているのは、単に生身でやりあった(一方的だったとはいえ)相手が彼女しかいないためで、他意は特にないのではないかという。
〈ちょっとネジが緩んじゃっている~っていうのは~、まあその通りだと思いますけど~〉
何も考えていないというより、むしろ何も考えないために身体を鍛えているのではないかというのは鋭い意見だ。
つまりはやることがない上にノムが食事を持ってくる以外に誰も構ってくれないので発狂しそうな所が逃避的に運動に結びついているとのこと。
まだ独り言は少ないが、そろそろ何もないのにケタケタ笑い出すんじゃないかとミリスは見ているそうだ。
「そこまでか?」
〈いぇ~、まぁ~……運動ばっかり~しているわけでは~ない~ので~?〉
彼の様子をあまり多くは語りたがらないミリスはたぶん色々隠したいことがあるのだろう。トーリのためというより自分のために。
さておきそんな彼も完全に引きこもっているというわけではない。身体を動かすということは汗を搔くと言うことで、喉も渇くだろうし、単純に臭いし気持ち悪いのだろう。だから人目を忍んでシャワーを浴びることはしている。
ミリスが面白い動きといったのは、実はここからだ。
これまでは、バレバレであったとはいえ直接誰かと対面するという事態は避けられていたが、ヒューリァの看病のために習慣がちょっと狂ってしまったノムとゾッラの沐浴にバッティングしてしまったのだとか。
トーリも男の子である。仕切りがあって直接は見えないとしても、ついついその辺りをうろうろとしていたそうだ。
問題なのは、ゾッラとノムの会話――といってもゾッラが一方的に話しかけるだけなのだが、それをトーリが聞いたことだ。
その話の内容は、ヒューリァのことが心配だとか、そういうことだったらしい。その時、トーリはどう見ても覗きですというほどしっかり仕切りに耳を付けていたそうだ。
ちなみに間違いなくゾッラはトーリに気付いていたし、ノムもあるいは気付いていただろうが、二人ともその辺りのことが酷く無頓着なので騒ぎになることはなかったそうだ。
トーリはその話を聞いてからというもの、こそこそとヒューリァのいる辺りを探っている。
〈さすがに、ヒューリァさんを暗殺しようとか~、そういうことではなさそうなので~……〉
ミリスがそれを聞いた瞬間に転移門を開こうとした飛逆を引き留める。
「……念のため、ノムに警護させられるか?」
〈トーリくんを無力化するくらいだったら~、ワタシでも髪十本あれば充分ですよ~?〉
腐ってもミリスも怪物だ。忘れかけていたが、普通の人間くらいだったら倒すのはそれほど難しくないのだった。髪十本は言い過ぎだと思うが。
本当のところ、ミリスに任せるのは、彼女の感情的な面で不安だったが、ノムにこれ以上の負担を強いるのもどうかと思い、ぐっと堪える。
「というか、それのどこが面白い動きなんだ?」
〈いえ~、ゾッラはさすがの感覚と言いますか~、どうもヒューリァさんに関して~、ヒサカさんと同じ見解みたいなんですよ~〉
「話が見えん……」
〈ゾッラがこう言ったのを~、トーリくんは聞いたんですね~。『あんなに【力】が駆け巡っていて大丈夫ですの?』って~。『ヒトの身でありながら』とか~、まあそういう文脈でしたので~〉
「つまりトーリはヒューリァが『怪物化』しようとしているってことに興味を示しているってことか?」
トーリはズレているが、頭の巡りはそれほど悪くなかったはずだ。ゾッラの漏らした僅かな情報からそこに辿り着いても不思議はない。
〈おそらくは~〉
「で、お前はトーリを唆して、俺の血を飲ませたらどうか、って言ってるんだよな」
〈そゆこと~、です。モモコさん、戻ってくるかどうかもわかりませんし~、仮に戻ってきて~、露見しても~、こっちはヒューリァさんのことで余裕がなかったとかなんとか~、誤魔化せると思うんですよ~〉
「だが、意味はあるか?」
〈もうワタシの中では~、ヒサカさんの血は眷属化の効能があるってことで結論されているんですけど~、このまま人狼でしたっけ~? その死体が見つからなかった場合~、実験体がどうしても必要になるわけで~……二つの意味で~、彼を『怪物』にする実験は価値がある~、と思うんですけどいかがです~?〉
一つは、飛逆の血が本当にそのような効果があるのかどうかを確かめる意味があり、二つ目は実験体の確保ということらしい。
前者はともかく、確かに後者はヒューリァのことに関わらず必要不可欠だ。ヒューリァをそれにするという選択肢は初めから存在しないわけで、言っては何だが穀潰しでしかないトーリをそれにするのは理に適っている。
「そう、だな……本当に俺の血にそんな効能があるんだったら……トーリだけじゃなく、トップランカーたちをそれにしてもいいわけで……」
イルスらは使い潰すのはさすがにあんまりだが、彼から離反した連中を捕らえていくのは悪くない案に思える。ただ、彼らを連れて行くには外のアレが邪魔だし、だからといって千五百層付近でそんな実験をしたら結果が出る前にクリーチャーに喰われて終わるだろう。飛逆がずっと見守っているなら話は別だが、そこまでする時間はないし、その価値もない。
〈問題があるとすれば~、ヒューリァさんがただ飲んだだけじゃなさそうだってことなんですが~……〉
「難しいところだな。ヒューリァが目覚めてからやるべきなんだろうが」
何もせずとも彼女が目覚めるのであれば、やる意味は半減する。
〈まぁ、死んだら死んだで~、ワタシが彼の死体を精査することで~、ヒューリァさんに何が起きているのか~、少しは具体的なことがわかるはずなので~、やっぱり損はないですよ~〉
「なるほど」
納得する飛逆だ。トーリが死のうがどうしようが、すでに飛逆の関心の外である。役に立たなくてもそもそも損がない。
つくづく人でなしである。飛逆はおろか、ミリスも。
〈じゃ、ゾッラに協力してもらって~、彼に自発的に飲んでもらいますか~〉
なぜかノリノリのミリスはウキウキとトーリを嵌める作業に取りかかった。
それも大して手の込んだ策でもない。単にゾッラ経由でヒューリァが変質しているのは飛逆の血が原因であることを伝えて、ミリスがわざわざ小分けにした飛逆の血を手に入れやすいところに置いて、タイミングを見計らってミリスはお花摘みに行くフリをするだけだ。
そしてその策が成功したとの報が入ったのは、飛逆が途中まで捜査済みのワンフロアを調べ終えるまでの僅かな時間の後だった。
トーリはちょろすぎた。
頭の巡りは悪くない癖に、致命的に想像力が欠けている。
飛逆の血を飲んだトーリは全身の穴という穴から血を噴き出して、それでも死んでいない。そんな状態らしい。
ヒューリァの様子と随分違う。
〈まぁ想定内です~〉
暴れ回る彼をミリスは髪を使って四肢を拘束し、台の上に縛り付けて観察しているのだそうだ。ロープがあるのになぜ髪を使ってなのかといえば、彼の腕力を時間経過で測るためだという。仮に飛逆の眷属となるのであれば、強化されるとしたら腕力が最もわかりやすいからだ。
〈というか~、これだけの出血量で死んでいない時点で~、間違いなくそういう方向に『変質』してますね~。って……ふむ~……よくよく解析してみると~、血というより~、ミオグロビンが溶けた細胞質や細胞間質液が汗線から出てきてるんですね~。細胞が入れ替わっているってことですかね~。『自己治癒力強化』の暴走に近い~? んですかね~?〉
「なるほど。じゃあ『自己治癒力強化』を入れたら結果が早く出るってことだな?」
要は代謝を上げるのが自己治癒力強化だ。新しく『変質』した細胞が元の細胞を押し出そうとしているのなら、代謝を上げることでその入れ替えが早まる可能性が考えられた。
〈ヒサカさん~……さすがですね~〉
外道二人はトーリが想像を絶する苦痛の中にいるであろうことをまったく斟酌しない。
飛逆としては結果がどちらに転ぼうと構わないし、早く出れば出るだけヒューリァのためにその結果を使えるので急ぎたいわけだ。
〈インジェクト、と~……おっとぉ~、発熱が始まりました~。この辺りはヒューリァさんと同じですか~?〉
「ロープ拘束に切り替えろ」
〈言われなくても~もうやりました~……って、明らかにタンパク質の変性温度を超えました~……ん~、これは代謝が過剰なことによる発熱ですね~。どうもヒューリァさんのとは違う感じがします~。なんていうか、荒い発熱です~。明らかに組織壊れてますし~。ちょっとグズグズに崩れてきましたよ~。これは熱による細胞壊死ですかね~〉
なぜ実況風でしかも生き生きとしているのかとツッコミたいが、ミリスとしては真剣なつもりらしい。
〈困りました~。この熱だとワタシの髪じゃ機能しません~〉
「棒か何かで組織を刮ぎ採って冷ましてから解析したらどうだ?」
〈それいただきです~。なんて言っちゃったりして~、こんなこともあろうかと~、てってれ~。マジックハンド~。ふふっふ~、実験には熱を使うものも多数あるので備えは万全ですよぉ~〉
どうやらミリスは実験オタクというヤツらしい。器具で肉を毟るような人体実験でなければ微笑ましいと言えたかも知れない。
〈きゃははぁ! すごい~、です! なんでこれで生きてるんですか~!? 完、全に~壊死ってますしぃ! 熱で固まってなかったら肉が溶けて骨まで見えてますよぉ、これぇ!〉
にしたってはしゃぎすぎなミリスとは裏腹に、飛逆は少し気分が悪くなった。
というのも、別にトーリがそうなっているということを想像したからではない。もしヒューリァが何の対策もなしに飛逆の血を飲んでいたら、まさにそんな有様に彼女が陥っていたのだと、想像して気分が悪くなった。
同時に、彼女を抱かなくてよかったと、心底から思う。
どうしてヒューリァがこんな強硬な手段で『怪物化』しようとしたのか、最後のピースが嵌ったのだ。
飛逆という怪物と交わるためには、それに耐えうる身体が必要なのだ。まして子供を授かり、産み育てるためには、同じ化生へと変じなければならない。
――わたしは、ひさかに傷つけて欲しいんだよ。
傷つきたかったのだ。彼女はこれまで、飛逆と交わりながらその度に、おそらく痛みを覚えていた。傷ついていたのだ。心理的な意味ではなく、身体的な意味であり、けれどおそらくは【魂】とでも呼べるモノも、傷ついてた。
知らず、飛逆は傷つけていたのだ。
〈あはっ、アハハぁ~。……通常の意味での生命反応は~、半分以上~なし。けど動いている~、と……。つまり~、こういうことですね~。準備や適正のない者がヒサカさんの血を飲めば~……生ける屍と化してしまう~、と。……いい気味です~〉
「いい気味?」
ミリスの様子とちっとも関係ないところに思考が飛んでいた飛逆は、けれど違和感のあるセリフに引き戻される。
〈ぁ〉
ミリスはうっかりと言った風情の声を出した。けれどすぐに開き直ったように、
〈――だって、キライなんです~。こういう、コドモって~〉
「苦手というなら、まあわかるけど……陥れたいくらいにトーリのことを嫌ってるとは、ちょっと思ってなかったな」
明確な害意を抱くほどに、言ってはなんだがトーリのことを意識しているとは思わなかった。
徹夜でアッパー入ってるとか、実験大好きとかではなく、ミリスはどうやらトーリを陥れて貶めることが、気分の乗ることだったという見方が浮上した。
〈うまくは~、言えないんですけどね~……。なんというか~……ワタシが否定したモノ、忌み嫌うモノ、それを違うトコロから『肯定』されたら~……ワタシはソイツを徹底的に『否定』してやらなきゃいけない~……っていうんですかね~。まあなんか格好付けた言い方になっちゃいましたけど~、……単純に、気に入らないんですよ~。ソレを肯定するなら~、ソレに一度なってみたら~? ってのは~……正直ずっと前から思ってました~〉
訥々と、実は結構溜め込んでいたらしく、ミリスは溜息混じりに、それでも隠すようなことはなくその動機を語る。
「わからんでもないな、それ」
あまり認めたいことではないのだが、わかってしまった。
それは承認欲求の延長線上に存在する感情だ。あるいは裏表とも。
「でもそれを言うならゾッラとかも?」
〈……あの子はなんか、微妙に違いませんか~? 苦手ではあるんですが~、キライではない、です~〉
ヒューリァにも似たような感想を持っていると前言っていた気がするのだが……。
まあ藪蛇っぽいので突っ込まない飛逆だ。
それに、それを言えば、ミリスに苦手でない相手(怪物含む)がそもそもいるのかという話である。
〈まぁ、なんにせよ~、実験体は手に入りました~。『治療』の名目で~、色々試しますね~〉
「……ああ、頼む」
思いの外あっさりと、実験体は手に入った。しかもヒューリァの『治療』目的ならば、おそらくは【全型】の死体よりも適切な材料だ。
元々建前でしかなかったとはいえ、本格的に死体を捜す理由がなくなってしまった。
ギィの足跡を辿りながらでも、あと十五時間ほどで千百階層に着くだろう。ギィの移動速度から考えて、最短距離を移動していたに違いないから、調べるべき範囲はそれほど広くはないためだ。
だが、徒労に終わる可能性がごく高いことを後十五時間も続けるのかと思うと、あまりの馬鹿馬鹿しさにすでに疲労感を誤魔化せなくなってきている。
他に実験体が見つかった(作れた)というこれは、もうトドメだ。
どう考えても飛逆はミリスと合流し、研究に協力すべきだ。ミリスの髪ほど精密ではないが手先が器用で、ミリスの髪よりもずっと頑丈な飛逆がいれば、実験は捗ること疑いない。
しかも――
「なんだ、そりゃ……」
それは千百六十八層でのことだった。
何の気なしに倒したクリーチャーが、ミリスカプセルをドロップした。
トドメの上塗りだった。




