4. 折衷案
結局水が朝露を集めた少量しか飲めなかったことのせいか、出発するときにはヒューリァの顔色が若干悪くなっている気がした。
浴びるほどの水があるのに飲めないということで未練がましく泉を振り返ったりしていたから、眠っている間の発汗のせいもあってやはり喉が渇いているのだろう。何も食べていないのだから、それのせいもあるかもしれない。
(街から離れた住民を狙うとか悠長なこと言ってられんな、これは)
その下調べだけでどれだけ時間を食うことか。その間に動けなくなっては本末転倒である。
つくづく自分には先見がない。どうも自分を基準に考える癖が抜けない。精気を貯め込める吸血種であるためか、飛逆は元々肉体の維持と再生に関してどうやら人並み外れているらしいのだ。擦り傷などは水浴びの時点でとっくに快癒している。
ともあれ街の下見のために例の崖の上に戻ろうと足を進めていたのだが、不意に不審な音を耳が捉えた。だがそちらに意識を向けるより先に、
「ひさか、彼処→注目←要請」
ヒューリァが指したのは別の方向だった。
多少薄暗いとはいえ、夜よりは開けた視界で見たそこには、飛逆が付けたマーキングを見つけることが出来た。
「……ヒューリァ、隠れるぞ」
ヒューリァの気付いた方角とも、自分が不審な音を聞きつけた方向とも、これから進む予定だった方向とも、まして泉の方向とも違う方へと音をなるべく立てないように慎重に足を運ぶ。
「質問」
「小声で頼むな。……ここは君と邂逅した場所とかなり近い。つまり、俺たちは街と比較的近い場所であんな派手な戦闘を行ったって事だ」
迂闊だった。その可能性は当然考慮しておくべきだった。蔦が多く果物の成る樹の見当たらない……つまり植生が似通った森というだけで、充分に予想は出来たはずだったのだ。
「街の近くで火災が発生したら住民はどうすると思う?」
「……捜索→因果←火災」
「そうだ。鎮火が確認されたとしても、また火災が発生しないかどうかを調査するだろうな。昨日は雲一つ無い空だった。落雷は発生しない。森林の中で落雷が原因じゃない火災ってのはもうそれだけで人為的だって言ってるようなものだ。しかも現場を調査すればそれがたき火の不始末ってものじゃないってのは丸わかり。当然、犯人捜しってことになる。そして俺らの格好はいかにも火を喰らった感じときた。
さあ、捕まったらどうなるでしょうか?」
飛逆の口端が思わず皮肉げに持ち上がる。
「……尋問←必然」
「そう。よくても投獄だ。何せ俺らは彼らと言葉が通じない。拗れれば死刑もありえるし、どんなに良心的な扱いでも、かなり長い間拘禁されることは間違いない」
かといって無闇に抵抗すれば捕まった後が厄介だ。
「仮に捕捉されたら、無条件で投降する。それでいいか?」
「……抵抗→不可?」
「追っ手の数による。
……いや、というか進んで投降した方がいいくらいだ、こうなったら」
「……何故?」
「俺が考えていたのは、あの街の住民に俺らの存在が認知されていないっていう前提を基にしたものばっかりだし、返り討ちにしたら次の追っ手が来るだけだ。それも、俺たちが危険な存在だって認識を植え付けられた上で。
それくらいなら今のうちに投降して、俺らが二人とも『被害者』で押し通せる可能性が残るほうが合理的だ」
「……」
「納得できないか?」
「……同意←不可。追跡者→撃破。←←装備←鹵獲。然る後逃亡←遠方=我ら→認知者不在」
「薄々思ってはいたが、君はなかなかに過激だよな……」
つまりは追っ手を退けその装備を奪い、自分たちが知られていない別の土地に逃げ込めばいいというのがヒューリァのプランらしい。
盗賊化するといった似たようなことは考えていた飛逆だが、それでもヒューリァのように『この街に潜入することを諦める』という思い切った発想には至れなかった。
それは目の前の水を諦めることよりも辛い決断のはずなのに。
「ひさか←-→わたし同道。別→不要」
ボディランゲージを駆使して、最後にむん、と気合いを入れる。
一体いつの間にここまで彼女に信頼されてしまったのだろう。是が非でも別れたくないと主張するヒューリァの並みならぬ決意に、内心で首を傾げる。
(うぅむ……呪いを引き受けさせている罪悪感とか責任感とかだろうか……あとは曲がりなりにも意思疎通が可能な道連れと別れることへの不安? とか?)
あるいは単純に、生きてきた世界の違いかもしれない。いかに実戦訓練を積んできた飛逆とはいえ、結局は管理された環境での実戦だ。本物の――泥沼の命のやりとりをしてきたと推測されるヒューリァの思考形態との間に温度差が現れるのは当然と言えば当然なのだろう。だとしてもここまで飛逆に執着に近い感情を寄せる理由には説得力が不十分だが。
何にせよ、ここでヒューリァを頭ごなしに理屈で説き伏せても、彼女が剣鬼に際したときのようにまた先走ったり暴走したりする可能性を否定できない以上、無条件投降は避けた方がいい。
なし崩に勝ち目の見えない戦闘に突入するのはもう懲り懲りだった。
「そうすると……かなり危険だけど、折衷案で行くしかないな」
飛逆が採用した作戦は、やっぱりつくづく危険だと自分でも思う内容だった。
囮である。
ただし二人の内のどちらかが陽動というわけではない。それは剣鬼のときに懲りている。
単純な話、故意に火災を発生させたのだ。
生木を燃やすのはこれでなかなか難しいことなのだが、逆に言うと派手な火と煙が上がるのには時間がかかるということだ。途中で消えないように工夫するのは中々に骨が折れたが。
飛逆は地面に耳を付けて意識を澄ませる。
(方向としては、四……いや、三か?)
一応索敵訓練を受けている飛逆は地面の振動からおおよその方向くらいは探り出すことができた。
ただしあまり精度はよくない。
特に森の中では地中の木の根が音を拡散させてしまうせいで、慌ただしく動くように仕向けてさえ大ざっぱな距離と方向以外、人数ともなるとさっぱり見当が付けられない。けれど今回はこれで充分だ。
(全体的に、……よし、予想通り)
ヒューリァと邂逅した地点から彼らは捜索を展開していたようだと割り出せた。方向を脳内で平面図におこせば、その地点から扇状になっていたことがわかる。その扇が逆になるような形で収束しつつある。
なぜそれが重要なのかと言えば、飛逆たちのいる地点は、彼らが向かっている方向とは大きくズレた位置になるためだ。つまり火を熾し、じきに大量の煙を吐き出すように仕掛けた後すぐに飛逆は彼らが展開していると思しき位置を回り込むように移動していた。そして煙が自分たちにも確認できたところで索敵。予想通りの展開を確認できたところで、一番近い捜索隊をやり過ごして、彼らとは真逆の方向へと隠密ながら早急に移動を開始した。
(犬とかを使われてなくてマジ助かった……)
今の時分まで発見されていなかったことから、それも想定内だとはいえ、万が一『隠せない痕跡』を辿られていたらこんな作戦、この時点で失敗している。
(まあ、空間を『跳んで』るし、焼けたり水浴びしたりと色々あったから臭いに関してはごまかせたのかもしれんが)
油断は禁物である。
ともあれ目的の地点に辿り着く。
(……っし、ビンゴ)
位置取りは完璧だ。開けた例の原っぱ空間からは薄暗いこちらは見えづらく、逆にこちらからは観察しやすい。そんな条件なのに、彼らはそこで待機していた。軽い野営の準備らしきことをしている。
つまり飛逆の狙いは彼らである。人数にして二人と、とても狙い所だ。
連絡要員でもなんでも、人数に余裕のあるあちらの全員が全員捜索に直接関わるということはないという予想は大当たりだった。
奇襲を見越すとロケーションは最悪だが、この開けた場所は目印としてはとてもわかりやすい。それは集合地点としては適しているということ。遭難者の捜索でもなんでも、最も警戒すべきは二重遭難だ。なんらかの中継拠点を設けるのは必須と言っていい。
(……見た感じ、人間だな)
まあそんなことは今は重要ではなく――狙いは彼らの装備であって彼ら自身ではないため――彼らの格好が軽そうな材質のプロテクターと短剣と鉈程度の軽装備であることを確認してから、飛逆は注意深く周囲を観察する。
(……俺だったら奇襲に備えてどっかの木の上にでも哨戒・狙撃要員を置いてくけど……)
それらしい影は見当たらない。そこまで警戒されていないと見ていいのだろうか?
油断は禁物とは言え、あまり考えすぎても機を失ってしまう。
「(じゃ、手筈通りに)」
と声に出さずにヒューリァに合図を送り、彼女を抱え上げて肩に乗らせ、手頃な樹上へ一気に登らせる。身軽に枝に乗り移ったヒューリァと、彼らがこちらに気付いていないことを確認した後、大きく回り込んで移動する。気休めだがその際、周囲に余計な人員がないかどうかを確認した。同時に鳴子のような仕掛けがないかも充分に確認し――これは見つけていた。不自然な枯れ枝がそこらに敷かれている。踏めば音が鳴り、敵襲を知らせるというわけだ。
(とはいえ気休めレベル。やはりそこまで警戒してないっぽいな。午前中にこの辺りは念入りに調べ終わったってところか?)
念のため糸や蔦などを使ったブービートラップも警戒しながら、奇襲を掛ける位置取りを整えた。
ヒューリァの魔術――【古きものの理】とやらは空中に魔方陣を描き、自分の掌に固定することで発動する。その文様は蛍光するため――それを目印にして飛逆は一気に飛び出した。
「――■■■!?」
最寄りの男が振り返りかけて誰何と思しき声を上げるときにはもう間合いは詰めてある。低くした体勢からすれ違いざまに手で足を掬って転倒させる。それで充分。もう一人が振り返りきって短剣を抜き、構え――その瞬間に彼の背後のすぐそこにヒューリァの放った火弾が着弾し、彼はどうしてもそれを無視できずに視線が泳ぎ、首が一瞬背後を振り返る。その瞬間を狙って完全に間合いを詰めて、それでも短剣を繰り出してくる彼のそれを躱してその腕を取り、懐に入り込んで掌底の一撃を斜め下からすくい上げるように顎へと叩き込んだ。
(――浅い!)
内心で舌打ち。なるべく傷を残さないようにと手加減してしまったのと、思った以上に反応がよかったせいで力加減を誤った。軽い脳震盪くらいは起こせただろうが、気絶させるには至らない。
だが、飛逆の背後で着弾音がした。ヒューリァの牽制だと振り返りもせずに確信し、体勢を立て直した先の男の存在を無視して、取った腕から脇へと肩を入れて一本背負いで投げて、地面に叩き付ける。
(ああったく、プロテクターなんざ付けてっからっ!)
本当ならトドメに鳩尾に当て身を入れるところだが、残念ながらそれができない。仕方ないので踵で顎を砕く寸前の勢いで踏みつぶす。
白目を剥いたことで戦闘不能を確認。
ようやくもう一人と対峙する。
ヒューリァから散発的に撃ち出される火弾を避けつつも残りの彼はすっかり戦闘態勢が整っているという風情だ。ちなみに飛逆も短剣を倒したほうの彼から奪っている。
(……なんだあれ)
腰のポーチから彼は何かプラグを思わせる黒い筒状の何かを取り出してそれを自分の首に、
(よくわからんことはさせないのが一番!)
ヒューリァの火弾の飛来にタイミングを合わせて短剣を投擲。
慌てた彼は火弾を避けて、短剣を短剣で弾くので精一杯で、筒状の何かを取り落とす。
飛逆に変身ヒーローの変身やかけ声を待つような精神性は備わっていない。仮に備わっていたとしても場合による。
その筒状の何かはおそらく切り札の類だったのだろう。それを取り落としたことで彼の意識は完全にそこへ行ってしまい、飛逆が間合いを詰めて立ち関節技で腕を極めてから【吸血】するのを彼が防ぐ術などなかった。
実のところ打撃からのサブミッションが飛逆の得意分野である。系統的には柔術らしい。
彼の無意識が発する叫びを極力抑えさせながら、命に障らないところで【吸血】を終えた。
(やっぱりあれは【紅く古きもの】のせいの暴走だったか)
内心ほっとしている。きちんと【吸血】の制御が利いたからだ。
ヒューリァがこちらに駆けつけてくる頃にはもう一人のほうの【吸血】も終えている。
【吸血】は直近の記憶を奪うこともできるため、彼らはどうして気絶したのかを忘れているだろう。そのための処置だった。まあ、めぼしい装備は奪っていくので隠蔽という側面では大して意味はないが、これから先にまたも同じ隊から追撃を受ける可能性があり、そうすると禍根を残すのは巧くない。傷害の程度が小さく、かつその記憶が無ければ恨みは少ないだろう。まあつまりは予防線であった。
他に仲間が来ないとも限らないため、なるべく早めに撤収する。先述したが、この場所は森の中からはいい的なのだ。
持てるだけの荷物を背負ってさっさと逃げ出した。