2. 剣鬼
怪物の断末魔が響く。
勝ったのはヒトのほうだった。
飛逆は死んだ怪物がこの迷宮(らしき場所)ではどのように処理されるのだろうということが気になりつつも、この予定調和の展開に安堵していた。
怪物よりはヒトのほうが与しやすい。
やがて飛逆たちのいる大広間に剣を構えながら慎重に足を踏み入れた彼が見た光景は――
「んーんぐー! んんっー!」
猿轡をされて必死に唸り声を上げる、後ろ手を縛られた少年と、大広間の中央で打ち捨てられたように横たわり、身動き一つしない少女の姿だ。
その少年と言えば必死に這いずって男のほうへと向かっている途中のようだった。
少年こと飛逆は、リアリティを少しでも演出するために本当に縛られて(ヒューリァに変態性欲を疑われた理由)からここまで這いずってきているために床で擦れて擦り傷だらけになり、多少出血していて、それが少女の位置からここまで見てわかるほど床に跡を残している。ところどころ衣服が焦げていたために血だけでなく、汗に溶けた煤が落ちたこともあってその痕跡は容易に発見できるだろう。
本当は足も縛ってもらいたかったのだが(あくまでも演出のために)、蔦を編んで作った即席ロープが途中で空間ごと切断されてしまったために長さが足りなかったのである。
演出の内容は『怪物にさらわれた少年と少女』。
あまりにもそのままだがそれがいい。わかりやすくなければ文化圏の違うヒトには伝わらない可能性があるからだ。少ないロープを猿轡にしたのは、言葉が通じないだろうから、そこからボロが出ないようにという必須の処置である。
ここが迷宮のどの程度の位置になるのかは不明だが、怪物がいるような場所に少年少女(そういえばヒューリァの年齢を飛逆は聞いていないが)がいたら、どう考えても怪しい。
どうしてこんなところにいるのかという疑問は無闇に男を警戒させるだろう。
そのため飛逆たちが『ここにいる理由』を言葉以外で明確に示す必要があったのだ。
飛逆は男を見上げ、必死に助けを求める演技をする。ただ唸り声を上げて懇願するのではなく、あたかも『自分よりもあの女の子を!』とばかりに首を後ろに捻りながらの迫真の演技だ。
(とはいえ、大丈夫かなー)
この男がここで怪物と対峙していた背景がわからないのが痛い。見た目ヒトという相手に男がどう対処するのか、はっきりとは読めないのだ。
どんな戦術も相手の情報に合わせて組み立てるものだ。ヒューリァのときはたまたま巧く運べたが、あれはちょっとできすぎだった。
彼女の特性が『炎熱を纏い』『火弾を放つ』ことから『近接戦の経験が少ない』ということが明らかだったためにああまで『嵌った』のだ。
ヒューリァが手加減、というか逡巡していたことが影響していたのももちろんだが。
(ロケーションも悪いし……せめて個室とかだったらいかにも囚われっぽくできたんだけど)
万が一、この戦士風の男が幼気な(笑)少年少女を、ただ怪しいというだけで斬り伏せるような精神性の持ち主であったなら……詰む。いざとなればヒューリァだけでも逃げられるように後方に無束縛で配置したのだが。
そして男は、飛逆が思ったよりもずっと慎重だった。
周囲に罠がないかを確かめるように視線を這わせながらもゆっくりと飛逆から距離を置いて、半円を描くようにして飛逆の斜め後ろへと回る。ヒューリァと飛逆を交互に見やりながら慎重な足運びで飛逆に近づく。
緊張が走る。男が口を開いた。
「■■■?」
さっぱり何を言っているのかわからない。ヒューリァのそれともまた違う異言語。わからないが飛逆は首だけを彼に向けて必死に何かを訴える。シチュエーション的に「しむら後ろ後ろ!」と叫んでみた。もちろん猿轡のおかげで言葉にはならなかったが。
首を傾げながらも男はゆっくりと近づいて……その剣の切っ先で蔦を切った。そして飛逆が自由を取り戻す前に即座に離れる。
(ちっ、やっぱ色々不自然すぎたか)
どうやら男の背景にはこのシチュエーションで少年少女を無条件に救い出す方向へと誘導できる要素はなかったようだ。
これで訴えたいことがあれば猿轡を自分で外して、まずは『会話』しなくてはならなくなった。自由になった手を傍目には嬉々として動かし、しっかりと結ばれた猿轡を外しにかかる。だがヒューリァの勘違いもあってか必要以上に硬く結ばれた蔦は絡まりまくっていて、中々外せない。そのことに業を煮やしたという感じで、飛逆は必死の形相でヒューリァの方向へと指を向けて――本気で唖然とした。
「古代術式伍の型――」
男が振り向くのが早いか、
「――【焔珠】」
いつのまにやら方陣らしき文様を空中に描いたヒューリァが火弾を放つのが早いか。
それらは同時だった。同時でも普通なら、重いプレートメイルに身を包んだ男が避けるには困難な速度で、バスケットボール大の火弾は飛来する。
(つか聞いてねぇぇぇえっ!!)
竜人としての力を『喰われて』もなお、こんな異能を使えるなど、聞いていない。
相変わらず反射的行動が素早い飛逆は即座に飛び退きながら内心で絶叫していた。
一方で納得もしている。こんな【力】があるから、飛逆にあの姿(呪い)を解いてもらえて感激していたのだ。
「ぁ――るらぁ!!」
だが男は振り向きざまに、刃を寝かせた剣を凄まじい勢いで振るい、火弾を掻き消した。
「っ――!?」
必殺のつもりで放ったらしいヒューリァがその光景に愕然としてしまう。それでも即座に魔方陣を練り直し、動きながら次々と火弾を生み出しては放っていく。けれどそれは牽制にしかならない。飛逆の見たところ、大きさこそ竜人のときよりも大きい火弾だが、その密度は薄いように思えた。実際、着弾したところで火柱を上げて炎上していたあの火弾とは別物のようだ。竜人のときのがナパーム弾だとしたら、今のは燐の塊を投げつけられている程度。
(あれだったら俺の拳圧でも数合は保つな……)
その数合で手は焼けただれて使い物にならなくなるだろうが、その間に間合いを詰めてしまえばいいだけの話だ。避けるしかなかった時と比べてヒューリァのそれは格段に弱体化している。連射性においてもそれは言えた。
(ダメだこりゃ、詰められる)
今でさえ、男がヒューリァを一気に仕留めようと間合いを潰さないのは、飛逆の動向に注意を払っているからだ。
その飛逆はといえば、猿轡を噛み切って外した後は、男の視線に捕らわれないように細かく位置を移動してその注意を割くざるをえないように振る舞っている。男の目には視界の端にいつまでも纏わり付く蠅のようにうっとおしいだろう。
(というかヒューリァ……まだなんとかなる余地があったのに先走りやがって)
どうも堪え性のない娘である。
きちんと打ち合わせをしなかった飛逆にも責任はあるだろうが。まあ、できなかったというのが正しい。
飛逆が考えた作戦は、確かに騙し討ちではあったが、それは彼がこちらを怪物と見なすかどうかを確かめるための窮余の策だった。仮に彼が、言葉も通じず奇妙な軽装で迷宮をうろつく少年少女を、疑いはしても傷害しないようであれば――別に【吸血】せずとも彼について行ってもよかったのである。まあ【吸血】できるようであればそちらのほうが確実なので、その隙があればやっていたが。
残念ながら、そういう細かいニュアンスがヒューリァには伝わっていなかったらしい。
意思疎通の手段をより確実にすることは急務と言えた。
(まあ、ここを切り抜けてからの話だがなっ!)
即かず離れずの移動を繰り返していた飛逆は一転、愚直に真横から男へ突っ込む。ヒューリァにあと二足もあれば踏み込まれるところだったからだ。
待っていた、とばかりに男は半身を入れ替え、袈裟懸けに振りかぶった剣を、火弾を一気に二つほど掻き消した勢いで飛逆に振り落としてくる。
剣の腹とはいえ、あんな鈍器に殴られれば体のどこであれ致命傷はほぼ間違いない。だが空気抵抗の関係で、どうしても剣速は鈍る。飛逆の反射神経なら避けるのは難しくない――のだが、躱した直後に、男は瞬間的に脱力し、その空気の反発に抗うことを止めた。
(やっぱ達人級かっ!)
たった独りで迷宮に潜っていることから推測はしていたが。
剣先がブレる。木の葉でも紙でもいいから、それが地面に対して平行にして落ちる様を想像してみればいい。それらは風がなくても揺れながら落ちる。その細かい理屈は揚力やら重力やら空気抵抗やら摩擦力やらと小難しいのだが、感覚的にわかるように、ブレた木の葉はその後、傾いて空気に乗って滑るように斜めに落ちていく。男が勢いよく振り落としたことでその幅広の長剣は下から風を受けていることと同じ事になり、質量と空気抵抗との比率が、木の葉のそれと同レベルにまで釣り合った。男が調節しなくても勝手に、飛逆の脇に滑り込んでくる。
それの威力はそれほどでもないが、刃の鋭い剣なら、当たってから力を込めても充分に殺傷可能なのだ。それは、向きが逆だが、釘を当ててから打つことと似ている。まして男は脱力している。そこからまた瞬間的に力を込めれば、体幹に向けての引き締めに伴い、鋸のように引き切るという動作に繋がる。場合によってはそれは抉り斬るということになるだろう。
飛逆は一瞬後の自分が胴の半ばまで剣を埋めている光景を幻視した。
頭で考えていてはできないことを、神経伝達速度よりも早く、けれど精密に実現してしまうのが達人という化け物だ。怪物なんかよりもよっぽど恐ろしい。
飛逆は、達人ではない。だが種類は違えども達人の相手ならしたことがあり、これがどんな攻撃なのかということを理解する素地はあった。
条件反射の速度で肘を落とし、その滑り込んできた剣の腹を打つ。脱力している剣だ。それで充分に大きく軌道は逸れる、が、やっぱり軌道が逸れたところでそこはまだ飛逆の太腿だ。しかも脱力からの引き締めは男の意識によって行われるものではない(それはプログラムみたいなものだ。途中にバグが紛れ込んでも決められた終わりまでそれは継続する)ため、引き切られる運命は変わらない。だが飛逆が設定したこの対策は、可能な限り剣の位置を下へと落とすことが目的だ。
――ころで飛逆は袈裟切りを躱しざま半ば跳んでおり、ほとんどこれ以上は避ける動作に繋げられない代わりに、膝を胸まで引き上げることは比較的簡単な状態にあった。
実際、肘を落としたときにはもうその動作は完了している。
間一髪で、剣の腹に踵を乗せることに成功する。
その瞬間に、強力な引き締め。
その爆発的な引き切りは、剣の上に乗った飛逆を木っ端のように弾き飛ばした。
まかり間違って飛逆が肘と膝で真剣白刃取りを気取ろうとしていたら、間違いなく真っ二つだった。
傍目からは何がどうなっているのかわからないが、とにかく飛逆が躱したはずの斬戟を喰ったようにしか見えなかっただろう。というか飛逆もよくわかっていない。反射的行動だからだ。
ヒューリァの悲鳴が上がる。さもありなん。斬られた(ようにしか見えない)飛逆が恐ろしい勢いで回転しながら自分のところに降ってくるのだ。
飛逆も心胆が冷え切っている。最低でも足の一本くらいは持って行かれることをあの一瞬で覚悟していた。というか回転しているせいで見当識を失い、自分の体が五体満足であることがわかってもいない。
ものすごい幸運に助けられて足から地面に着地したものの、バランスを保てるはずもなく、ヒューリァにタックルするかのような勢いで抱きついて転がっていく。それが結果的に、爆発的な追い足によって斬り込んできた男の一振りを背中を浅く斬られるだけで済まさせた。
(どど、どんだけツイてんだ俺っ!?)
九回死んで十回生まれ変わったくらいの気分だった。ツイているというより憑いているレベル。何かが肩代わりしなければ自分の命は消し飛んでいたのではなかろうかと。
我に返った飛逆は今の一瞬の一幕があくまでもマグレであることをよく理解していた。
(あんな剣鬼に敵うわけねー!)
転がる勢いをそのままに、ヒューリァを肩に担ぎ上げながら全力疾走に転ずる。
「ヒューリァ、牽制!」
「――……っ、承知!」
さながら移動砲台のようにヒューリァは飛逆の後方の男に向けて火弾を放ち、牽制する。
その成果の如何に関わらず、飛逆は一瞬たりとも速度を緩めずに迷宮の奥へと走り去っていった。
迷宮の『奥』へ続く道なんて、男が訪れる前には見つからなかったことにも気付かずに。