24. 俺たちのチートはこれからだ!
意識が分割されたかのように感じられた。
頭の中は凄まじい勢いでこの状況の打破のために思考し、体はパズルを解くかのように関節を外して縄抜けを行いながら、視界の片隅でモモコの芳しくない戦況を把握し、口はヒューリァの意識に訴えながら、耳はヒューリァの言葉で停止していた。
この娘は今、なんと言ったのか。
わからないことにしたかった。
だけど、思い付けない。刻一刻と流れ出るヒューリァの血液を止める方法がまるで思い付かないのだ。
不幸中の幸いと言える要素はある。ヒューリァは背中側から切り裂かれたために、出血は多いといってもほぼ静脈血だ。色でわかる。例えば頸動脈なんかを切られていれば、ヒューリァはすでに息がないだろう。だから、少ないとはいえまだ猶予はあるのだ。
けれどその猶予を何に費やすのか。徒に死に行くに任せるというのだけはありえない。けれど同じくらい、ヒューリァを【吸血】する――兄と同じく、取り込むというのだってありえない選択だ。
頭をフル回転させる。むしろ、ヒューリァに『お願い』されたことで、思考が白熱化するまでに奮起した飛逆は決してそれをしないために考えることに集中した。
縄抜けにかかる時間は、手だけと考えてもあと三十秒はかかる――遅すぎる。
身をよじるくらいのことはできるから、出血部に覆い重なることで僅かにでも出血を抑える――これは即座に実行する。けれど本当に僅かな時間稼ぎだ。きつく縛るのでなければとても出血を抑えることはできない。
きつく縛る――で連想した。ミリスだ。彼女の髪なら皮膚の中の血管を狙って縛る、あるいは縫合さえ可能だ。彼女はここにいないが、その髪は原結晶に触れてさえいれば動かせる。けれど、それが入っていた人形は、ヒューリァとの戦闘で、焼けてしまっていたはずだった。
しかし、そう。おそらくモモコが持っている。またモモコだ。
ミリス人形を渡すくらいの余裕は、おそらく彼女ならば作り出せる。だが、飛逆がそれを指示しない限り、彼女がそれを思い付くことはないだろう。ミリスが気付いて、モモコにそれを囁いてくれることが最も望ましい――視界の隅で、紫電が走っているのが見えた。
埒が明かないと見たモモコが雷撃を剣鬼に見舞ったのだ――予想できるはずもないその攻撃を、剣鬼は『土石操作付加』の剣でアースを取ることで、つまり即席避雷針で逃れてしまっていたが。それでも剣を手放したことで隙ができたと見たモモコは即座に襲いかかるが、オリハルコン製のガントレットで防がれた挙げ句、それから発生した風の衝撃弾のカウンターをもらっている。
そして何より絶望的なことに、おそらくミリス人形は、少なくとも中の髪が使い物にならなくなっている。
今更かも知れない。電気抵抗で熱が発生するという知識が彼女にあったかどうかもわからないのだから、飛逆に雷撃を用いたときにはすでに中の髪は死んでいたかもしれない。
モモコもミリスも当てにならない――けれど何かが引っかかった。何かを見落としている。ミリスは当てにならない。けれど多分、彼女がとっかかりだ。モモコもそうだ。彼女たちの異能二つを合わせると、何が起こると?
「――(あ、そうか)」
思わず唸り声にしかならない声を上げていた。
古今、緊急時の止血方法なんて決まっているのだった。
問題があるとすれば、それをするのと、縄抜けをするのとでどちらのほうが早いかということだが、飛逆の音速を分析できるほどの思考速度(クロツク数)ならば、おそらく問題にならない。
それに、おそらくそれは、意識に作った棚を降ろすだけで果たせるのだから。
〓〓 † ◇ † 〓〓
意識に棚を作る――これは兄に徹底的に叩き込まれた技術だ。
れっきとした技術。ともすれば視野狭窄に陥るだけのこれは、慣れてくれば逆に、意識の範囲を広げることができるようになる。有り体にいえばセルフマインドコントロールだ。
変性意識と呼ばれる状態を限定的に作り上げる。深層意識との接続を果たして、無意識の領域を獲得する。飛逆のリミットカットはこれを応用している。本来処理しきれないほど膨大な知覚情報を、あえて、無理矢理に意識の領域まで持ち上げてくるのだ。
当然、負担は半端なものではない。随意に身体機能を十全に操ろうというのは、表面的な意味の肉体だけでなく、内側、つまり脳を含む臓器を酷使することに他ならない。
いくら怪物たる飛逆の血族も、四六時中そんな自らの回路を灼くような行為を続けていられるわけもない。リミットカットのリミットとは伊達に付いているセーフティではないのだ。しかもそのセーフティは一度壊せば直らないのだから、別に作り直す必要がある。
故に、棚を作る。一度壊した意識の階層を、自ら作り直すのだ。
その棚には、「何」が仕舞われているのかは覚えていても、「どんなもの」が仕舞ってあるのかを普段は忘れている。
【紅く古きもの】
そんなタグが付いた棚を、飛逆は強烈な悪寒と引き替えに、降ろした。
〓〓 † ◇ † 〓〓
それは肩から始まった。
「痛み」だ。
痛覚に危険信号として以上の意味を付加していない飛逆が感じる「痛み」は、痛みを感じる回路を通そうとするそれそのものだ。
それ自体が「痛い」のに、それが通るともっと「痛い」。
甘かった。ねじ伏せられると思っていた。飛逆は「痛み」に馴れていないのだ。
否、ソレは意外にも協力的だ。欲しいものはくれるつもりのようだ。
ソレに意思と呼べるものはない。
けれどソレは確かに生きていた。
生きるというのが、方向性のある活動を示すことができる状態を意味するのであれば、の話ではあるが。
ウィルスか寄生虫のようなものだ。
増殖することこそないが、ひとさまの敷居でその「生存」圏を拡大しようとするところがそっくりだ。
なぜか左目が焼け付くように痛む。なぜ両目ではないのだろう。
おそらくソレが、一度表に出てきたときの名残だ。
やはり一度根が付いたところは浸潤しやすかったのだろう。右側の神経は左側の中枢神経に繋がっている。
不条理の塊のような存在の癖してそんなところは筋を通そうとする辺りが腹立たしい。
肉が焼ける臭気が鼻を刺す。
成功だ。
尤も、ここからが問題だ。焼き殺してしまっては元も子もない。ただでさえ首筋付近という、傷口を焼いて止血するには危険な場所を焼いているのだ――その熱を発する鱗で。
だがそんな精密な制御は元より諦めている。
転げ回ってどうにかヒューリァから離れる。
意外に簡単に離れることができたのは、その一瞬の「発火」で飛逆を縛る縄の一部が焼けて緩んでいたためだ。
(いや、というか変だろこれ)
「痛み」に見舞われた瞬間に覚悟した『失敗』が殆どないなんてことが、ありえるのだろうか?
もっと壮絶な何かがあると、大きく見積もりすぎていて、拍子抜けの感が否めない。
以前にかの存在が表出したときのほうがもっと「痛」かった。
(対象が元の寄生先だったからか?)
ここまで緩めばもう、単純な膂力だけで縄を引きちぎれる。自身を解放しながら、今考えるべきではないはずの思考につられてしまう。
(接触したことで制御の一部がヒューリァに委託された、とかなら、納得できる、か?)
だとしたら、初めから縄を焼いておけばわざわざヒューリァを焼くなんてことをせずに済んだとか、今更な反省点に後悔する必要がなくなる。だから納得いかないのだが。
今考察することではない。
ヒューリァの散らばった装備から『修復』の【能力結晶】を取り出して自らにインジェクトする。効果時間限界が迫っていた【言語基質体】を上書きするだけなので何も問題はなく使えた。
完全に昏倒してしまっているヒューリァを治療する。
火傷が跡形もなく消えてくれる。無駄に傷物にしてしまった事実は消えないが。
思考が混乱している。まだ「痛み」の違和感に慣れない。
何にせよ、まだ終わっていない。わかっているのにどうしても気が緩むのは、自責と安堵がないまぜになって、感情が飽和しているからだ。
モモコが小さく悲鳴を上げた。
どういう経緯か、彼女は地面から突き上げを喰らったかのように無防備に、足がかりのない空中に投げ出されていた。
飛逆はどこかぼんやりした思考で、さすがのモモコも危ないと、彼女を救うべく咄嗟に動き出し――
剣鬼がその剣を向けているのがヒューリァだと気付いた。




