106. A Devil is in The Marginal -箱の中の仔猫-
わかってみれば単純な話だ。
飛逆は半人半魔。
ここでの『魔』が怪物のことを指すとしたら、残りは『人』だ。けれど飛逆は【悪魔】でもある。その『人』の中には【悪魔】となりえる者がいて、飛逆はつまりそれなのだ。変異情報を媒介して人へと感染させる者。
人であり、怪物であり、そして【悪魔】でもある。
ややこしい。単純であるはずなのにどうにもややこしい。
飛逆砦という個体が保有する属性が三つもあるせいでややこしくなっている。
これを単純にするため、飛逆砦が【悪魔】であるという属性を主体として考えてみよう。
そうすれば、怪物と【悪魔】であることとは競合しないのだという事実が浮かび上がる。【悪魔憑き】は、怪物と【悪魔】のどちらかしか宿すことはできないが、怪物であり且つ【悪魔】であることは成立しうるのだ。
従って、【悪魔】の素質を持つ者もまた、怪物に冒されていたとしても、その【悪魔】の素質を開花させることはできる。
ゾッラ・イージュン=パヴェルコバーは【悪魔】である。
超常的な固有能力を持ち、変異情報源に触れても生存することができて、且つその変異情報を他者に感染させる媒介者。
【悪魔】は怪物を宿しうる。
その彼女がヴァティによって【種】を植え付けられた挙げ句に発芽しても、【悪魔】という属性が目覚めることで同時に意思が甦生したと考えることはそれほど無理がある話ではない。
ゾッラが【悪魔】としての属性に目覚めたのがいつなのかは、はっきりとはしない。以前からその固有能力の片鱗は見えていた。だが、直接の契機は間違いなく飛逆が変異情報を投射したことだ。
「アカゲロウ演算システムの領域の一部がこの子に占有されています~。具体的には~、巨人兵に積むつもりだったオートマトンと開発用シミュレータ、それに意思甦生開発の蓄積データが乗っ取られていますね~」
気になることがあると言って、その場で端末を出してシステム中央のプログラムをモニターに映し出したミリスは、しばらくして、感嘆の息を吐いた。
「つまりこの子、ワタシに憑いていた『彼女』と似た存在になっています~」
だからゾッラはミリスしか繋げないはずの念話を使って飛逆に呼びかけることができた。【電子界幽霊】と類似の存在であり、同様のシステムを乗っ取ったために。
「起き上がれないのか?」
ゾッラの肉体は、その表情以外は相変わらずピクリとも動かない。
〈もう少し……かかりそうですの〉
「元々がアカゲロウちゃん参照の巨人兵用のオートマトンですから~、人体への最適化はほとんど進んでいないんです~。でも~……見る限りおっそろしい勢いで最適化……というかこれは最早改変ですね~……が進んでいるので~、あと半刻しない内に終了すると思いますよ~」
「ややこしいが、つまり……ゾッラは自分の身体を使って思考しているわけじゃなくて、演算システムの領域を使って思考して、そしてそのシステムで遠隔的に自分の身体を動かそうとしているが、元々の仕様が違うせいで最適化に手間取っている」
「そういうことですね~」
なんでそんなことになっているのか、と飛逆は眉をひそめる。
吸血鬼や赤毛狼憑きとは違い、器質的にはゾッラの肉体に問題はないはずだ。意思が目覚めたのなら、普通に身体を使えば良いではないか。
「それとも植物人間は結局、器質的に損壊しているのか?」
〈これが天使様のお求めになる答えかは存じませんけれど〉
と相変わらず堅苦しく、けれどゾッラらしからぬ怜悧な印象の口調で、
〈わたくしたちは、肉の身体が樹木であると認識しておりますの。言い換えますと、人の身体であったときのことを忘れていますの。わたくしの意識は肉体を離れることでようやく自己を思い出すことができましたの〉
これまでの意思甦生開発研究から得た仮説と大体同じだ。身体の記憶と精神の記憶は必ずしも一致せず、身体のほうに引っ張られて精神の記憶が沈められてしまうことがある、という仮説だ。
これを外部刺激で『人であったときの記憶』を思い出させることで意思甦生が果たされるのではないかという試みを、ハルドーが組織した医局では行っているわけだ。外部刺激と言っても脳に電極を刺して云々するというようなことはしておらず、最新の試みは脳波に干渉する音波によって意思を呼び覚まそうというものだ。
――どこからともなく音楽が響く。
が、すぐに止んだ。
「――ケホッ……。呼吸が難しいですの。ノムに起こしてもらおうと思いましたのに」
……もう驚くのも面倒臭い。
ゾッラはその声帯を使って声を出していた。一瞬の音楽は彼女の喉から出たものらしい。どう聞いても人の声帯から出るはずのない音だったのだが。
「この音律を使って疑似精神をインストールするという試みは、見込みがあると思いましたの。証明しようと思ったのですけど、この身体では少々難しいですの。よろしければ天使様、わたくしの身体を支えていくつか動作を行わせてほしいのですの。実際に動かすことのフィードバックがあればサブルーチンの構築が捗りますの」
「うん。それより聞きたいんだが、なんか君らしくないな?」
一瞬ミリスがゾッラの身体に乗り移ったのかと思ったくらいだ。明朗な発言はともかく、彼女にしては難しいというか、この世界の人間が持つはずのない概念で喋っている。
「プログラムにはライターの癖が出ますの。つまりこのわたくしの思考が、精霊様がビルドなさったオートマトンを基盤にしているからかと思いますの。論理回路や語彙、知識の参照元も精霊様の思念が多いため、影響を強く受けているものと推測されますの」
「つまりワタシのキャラパクリされます~!?」
愕然とするミリスは措いといて(念話の時点で何を今更の話だからだ)。
「パクリというより天使様と精霊様の合いの子と言えるかもしれませんの」
「あ、アアアアアアイの子ッ!? やることやってないのにできちゃいましたっ!? え、えっとぉ、背中支えればいいですか~? は~い、おっきしましょうね~。お手々挙げて~、わぁ、よくできました~。上手ですね~。さすがワタシとヒサカさんのアイの結晶です~」
無駄なところで頭の回転の速さを発揮し、一瞬にして絆されるミリスの様子で頭痛くなってきた飛逆である。ていうかその良妻賢母チラチラアピールウザい。こんな既成事実は認めるわけがないだろうが。
「というかゾッラ……なぜ参照先がミリスの思念なのに俺との合いの子なんだ?」
赤毛狼演算システムを作ったのは飛逆だし、内部構造のほとんどはミリスの働きによるものだ。その意味ではこのゾッラの思考を形作っているのは確かに二人の合作物ではあるのだが、何か含みがある言い方だったのが気になった。
「わたくしが主に参照しているのが精霊様のプライベートフォルダの――」
「は~い。お口チャックしましょうね~」
〈――天使様の映像付き言動記録だからですの〉
本人的にはさりげないつもりのミリスの口封じは無駄だった。
直通のこの念話はミリスには聞こえていないが、ゾッラの思念ですべてを察した飛逆が深々と溜息を吐くので、彼女も察したらしく顔を蒼白にした。
〈ちなみに精霊様による日記風注釈が付いていますの。参照記録の多いフォルダの中から具体例を挙げますと――〉
〈貴女ワタシになんか恨みでもあるんですかぁ!?〉
さすがミリスには仮想領域に於ける一日の長がある。致命的な何かを暴露される直前に念話に割り込みを掛けてきた。本調子でないこともあって、物理的ではないが直接的に頭痛くなる飛逆である。
〈いいえ? ただわたくしは精霊様がどれだけ天使様に思慕を寄せているのかということを天使様にお伝えしたいだけですの。いじらしい精霊様の想いをお知りになればきっと〉
〈だからって十八禁ですよっ!? 貴女はまだ見ちゃいけませんっ!〉
そっちの致命傷だとまでは察していなかった飛逆は、けれどそっちよりも、ミリスに「注意するのはそこでいいのか?」とツッコミ入れることを優先した。他にどう言えばいいのかわからなかったからだ。何も言わなければよかったかもしれない。
なんか収拾付かなくなりそうな気配を察した飛逆はとりあえず、二人を念話のラインから追い出す。
情報処理の外部的なアプローチではミリスに準じるが、単純に思念防壁を編むことに関して飛逆は人後に落ちない。伊達に幼年時から意識階層の恣意的構築をやっていない。自己を恣意的にするという矛盾はそれだけで強固な暗号プロテクトとして成立する。共有スケジューラにこっそりと上げられそうになったコラージュされた形跡のあるファイルも遮断する。
「……天使様、つれないですの」
「君は元々、他者の思念とかを感じ取る異能者だったのが、俺たちの組んだシステムと変異情報源に間接的に触れることで思念体とでも言うべき存在に昇華したっていう理解でいいな?」
無秩序な会話を嫌う飛逆はできるだけ簡素に纏めて方向を修正する。
「概ね違いはございませんの。尤も、以前のわたくしにはそのような自覚を持つことはできませんでしたけれど。おかしなことと思われるかもしれませんけれど、以前のわたくしは、自分が『異なる』なんて思いも寄らないことだったのですの」
それは飛逆にとっては不思議でも何でもない。子供が他者と自己の区別が付けられないことなどよくあることだからだ。
ただ、彼女が言うのには何か別のニュアンスが含まれているような気がした。ミリスの思念を参照することで得た知識によって他者の区別が付いたのだという意味だけではない。まるで構造的にそうすることができなかった、と言っているようだと飛逆は感じた。
「わたくしは『かくあるべし』という想いの集合体でしたから、わたくし自体が『異なる』ということがありえてはならなかったのですの」
こんな奇天烈な状態になっても、あるいはだからこそ、相変わらずゾッラの言うことは解釈が難しい。偶像の在り方としてそのように自己を規定していたというようにも取れるし、そのように規定されたために『異なる』という自己を認識できなかったというようにも解釈できる。能動か受動かが判然としない。それが彼女の個性の根本だったのだと、とりあえず飛逆は解釈した。内圧と外圧の釣り合いは『普通』と同じでも、客体と主体が逆転していた、と。
思念体として『外』から自分を眺めることでようやく彼女の自我は定まったのではないか。
あくまでも彼女にとって、意識が『外』にあることは正しい状態なのだ。
もしかしたら【悪魔】とは凡そそういう存在なのではないか。
飛逆もまた、中心に自分以外の精神を置き、その外側の、誤解を恐れず言うならば表面に『自己』を置いている。『飛逆砦』という枠組みの内側ではあるが、その中心の外側に飛逆という主体はあるのだ。
この構造こそが【悪魔】という属性の正体であるのかもしれない。
「まあそんなことはいい。今問題なのは――ミリス、ゾッラに喰われた領域を特定して隔離することは可能か?」
たった二つだけの例で決めつけるのは早計だった。再び逸れそうになった方向性を修正する。
【悪魔】現象は現状、飛逆たちにとって都合が悪いが、【悪魔】自体は別段忌避すべき存在ではない。飛逆自身が【悪魔】なのだからそれは明白だ。
だからこの現象が発生する以前から身内に抱えていたゾッラを、【悪魔】だからといって敵視する理由はない。
「ヒサカさん……まさか、ゾッラを疑っているんですか~?」
だが、ゾッラが以前から身内に潜り込んでいたということ自体が問題だった。飛逆の敵の手の者である可能性が、俄然高くなったのだ。
「まさかも何も、疑っているとかそういう段階ですらない」
彼女が本当の意味で身内であればいい。むしろ都合が良い。【悪魔】のサンプルが手に入るということだけでも現状では都合がよすぎるのに、ミリスに集中していた仕事を補助するどころかまとめて片付けてしまいかねない『能力』ときた。
飛逆はヒューリァに『身内にすでにスパイがいたとしても放置すべきだ』と言った。けれどゾッラはすでに、現状一つしかない塔下街運営中枢システムを浸食している。
これは歴然とした破壊工作だ。放置監視の段階を越えている。飛逆との念話ホットラインに割り込んできただけでもそのままにはしておけないというのに、これだ。
処置すべき段階だ。
「証拠は一切無いからそうだと決めつける訳じゃない。だが、ゾッラの思念体は隔離・拘禁処置だ。できないのなら中枢システムごと破棄する。つまり殺す。逆らった場合ももちろん同様だ。仮にゾッラが無害で俺の敵に何も関係がないとしても、そうしなければならない」
飛逆たちはクランの上位組織ではあるが、内部に明確なルールを制定していない。けれど、これは基本的な原則だ。主権に係わるシステムを乗っ取られたのだ。それが攻撃の意図でないにしても、罰則を科さなければならない。
ミリスは、納得はしていないが、その帰結の必然性を理解したという複雑な心情を顔に表す。
まさか自分たちの『子供』だとかいうゾッラの発言を真に受けたわけでもあるまいが、単純に、ゾッラに対して多少の愛着があったのだろう。なんだかんだでミリスとゾッラは付き合いが長い。
ミリスは両目を伏せるように閉じるのとは逆に前髪を開き、第三の眼を解放して端末に思念を投射する。ゾッラ及び中枢システムを破棄することを避けるために、ゾッラの思念を拘禁するべく対象領域へと潜ったのだ。
「ゾッラ、そういうことだ。今お前が主体を置いている領域から一切動くな。身体操作用オートマトンの改構築とやらも停止しろ」
「仰せのままにしますの」
ゾッラは疑いを否定するでも肯定するでもなく、弁明さえせずに飛逆の命令を聞き入れた。
赤毛狼演算システムのセキュリティは、飛逆やミリスの固有領域を除いてザルそのものだ。将来的には必要だとは思っていたが、そこまでは手が回っていなかった。故にゾッラはこれまでの蓄積記憶データを参照し放題だっただろう。しかも固有領域からでさえ参照していたゾッラが、自分にどのような疑いがかけられているのかを理解できないはずがない。そして赤毛狼を合成して作製されたこのシステム類はすべて、飛逆が任意にアポトーシスを発現させることであっさりと消去することができる。これはオペレーションシステムなどの中枢を組み上げたミリスでさえも回避できず、成り立ての【悪魔】であるゾッラなど何をか況んや。中枢システムの損失は痛いが、必要ならば飛逆は躊躇わず、彼女もろとも消去する。
理解しているからこそゾッラは唯々諾々としている。
この程度の揺さぶりで馬脚を現すとまでは期待していなかったが――
余裕であるようにも、ただ単に潔白を証明する術がないと弁えているようにも、どちらにも取れる。いずれにせよ怜悧な判断力だ。
あどけなく天使のような微笑みを浮かべるゾッラの顔が、不気味に見えた。
思念体となり、赤毛狼演算システムの一部領域に取り憑いたゾッラの完全な隔離は難しい、というのがミリスの見解だった。
「データとして隔離することはできるんですが~……」
元々赤毛狼演算システムは生体デバイスと呼んで過言ではない代物だ。というかそのものである。そのため、ゾッラという思念体をシステムと峻別することができない。それらしい挙動をしているプログラムから輪郭を抽出することはできるが、それが『ゾッラ』なのか、それとも彼女の一部でしかないのか判別が出来ないのだ。
「核みたいなものは存在しないのか?」
これはゾッラに訊いた。
「おそらくですが、わたくしは創発的な存在と化していますの。複雑系という自体がわたくしなのであり、核心と言えるものはわたくしがそう定義しなければ、そのときまで存在しないものと思われますの」
小難しいことを幼女の姿で淡々と言われると違和感しかないが、つまりは彼女にもわからないということだ。わかっていたら、『隔離拘禁できないならば消去する』と宣言している飛逆には正直に自分の核心を答えただろう。
精気を知覚できるために錯覚してしまいそうだが、実のところ飛逆たちは未だに【魂】の観測を成し得ていない。それは『無い』のではないか、というのが現在最も有力な仮説だった。意味軸は今し方ゾッラが述べたとおりだ。あらゆるパターンを含有する精気の循環によって象られる複雑系、それ自体が【魂】であるのではないか。
これに対して飛逆は『別位相空間』というものを仮定して、その観測不可能なレイヤーに【魂】があるかもしれないとした。そうでなければ複数の怪物の【魂】を保有するという自体の在り方を説明できないからだ。その在り方が錯覚でしかないと言われれば、反論の根拠はないが。
この一見して矛盾する二つの仮説を同時に成り立たせるための位相を、今ゾッラが入れた。
ゾッラ・イージュン=パヴェルコバーという【魂】は『未だに存在しない』。観測されることで事象は確定されるという牽強付会。
「つまり君は、すでに存在している自我によって観測されることで初めて【魂】が生まれるって言いたい訳か」
因果の逆転は起きるが、撞着は回避される。
「わたくしの思考力は天使様と精霊様、お二人の知識と文脈からなる論理回路を基盤としておりますの」
「何が言いたい」
「わたくしの発想は常にお二人の思考を越えることはないということですの」
つまり、ゾッラはこう言っていた。
飛逆はとっくにその牽強付会にも程がある理屈を『識って』いただろう、と。だからこそゾッラはそれを発想できたのだと。
「オリジンを創造するという試みに、わたくしというサンプルは非常に有意義だと思われますの」
これはゾッラなりの命乞いだ。すでに九割方、飛逆は全システムごとゾッラを消去することを決定していることを察することができる『仕組み』であるために。
命乞いというよりも自己保存の本能に従っただけだろうが。ゾッラは現在、そういう『仕組み』を持った現象なのだ。
さすがに、飛逆と同等かそれ以上の知能の持ち主のミリスとの合いの子だった。飛逆が食い付くところをよく心得た交渉。
内心舌打ちしながらも、飛逆はアポトーシスの発現を一旦、思い留まった。
ミリスは『オリジンの創造』というものを、単に意思甦生開発のことだと解釈したらしい。
「あの~、つまり、【悪魔】は~、怪物の雛だってことですか~?」
「厳密には違うかと考えられますの。ですが、概ねその解釈でいいと思いますの」
「極めて相似ではあるが、同一ではない~、と」
ふむ、とミリスは何やら納得した風情で頷く。
「そして貴女自身が~、自分がどのような存在であるのかという定義を持っていない~」
「強いて今のわたくしを語るならば、ヒトであるわたくしが見ている夢のようなものと言えるかも知れませんの。わたくしの身体を動かすことができて、身体が『ヒト』であることを思い出したならば、おそらく同時に以前のわたくしへと回帰することになりますの」
それがゾッラの要求であり、飛逆への説得だ。要はそのための時間がほしいと。
「俺も君を消去したいわけじゃない。むしろ、デメリットが大きすぎるからできれば避けたいのが本音だ。だが、さっきも言ったようにこれは『そうしなければならない』。君という前例を認めるわけにはいかないんだ」
ゾッラの言うとおりならば、この塔下街全体の木々を含むすべてを初期化しなければならないだろう。
これまで蓄えた全データを破棄するということだ。本当、できれば避けたいが、主要なバックアップは飛逆とミリスがそれぞれ保有しているし、塔内の赤毛狼にフラグメント化(それぞれの単体では無意味なデータと)して保存してある。こんなこともあろうかと、とは言わないが、スタンドアローンのバックアップは必須だというミリスの意見を取り入れた結果だ。
それでも最新のデータの破棄は厄介だし、復旧に時間がかかるというのは現状では相当のデメリットではある。
けれどもやはり、【悪魔】や【悪魔憑き】という脅威の台頭が為された今、ゾッラのような現象が他に発生しないとも限らず、未必の故意であったとしても彼女の行為を認める前例を作るわけにはいかなかった。
「あの~、ヒサカさん~。時間をくれませんか~?」
「わかるけどな、ミリス。それができないって話を今」
「違うんです~。ヒサカさんの決定は~、ワタシも妥当だと思います~」
異議を唱えるわけではないのに、ゾッラの要求を通せと言う。
飛逆の首が怪訝で傾ぐ。意味がわからない。
「厳密には違うけれども怪物に非常に類似する【悪魔】は~、おそらく怪物の【象形】に類する何かに宿ることができます~。それを試すだけの時間が~欲しいんです~」
「つまりゾッラに第三の眼を植えて俺の支配下に置けってことか?」
確かに、ゾッラの身体に第三の眼を植えてしまえば、飛逆の眷属と化して、掌握することが可能になるかもしれない。ただ、その場合それこそ作りたくない『前例』が出来上がってしまう。ゾッラならまだしも、他の【悪魔】をどんどん眷属にしていく、という手段は避けたいのだ。
「いいえ~。それは、ワタシの考えるとおりなら非常に危険です~」
「危険?」
「ゾッラはすでに~、ヴァティの眷属なんです~。それは現在のところ~、ヒサカさんの眷属でもあるってことです~。その状態なのに~、ヒサカさんの支配・制御下にないんですよ~?」
「クランの連中と似たようなもんだろ。何が問題なんだ?」
あくまでもクランはヴァティの眷属であり、飛逆は彼らを便宜上の意味でしか支配していない。
「それは制御可能なのに~、していないってだけじゃないですか~。ワタシだってヒサカさんがその気になれば~、自由意志のない操り人形になっちゃうんですし~」
「……」
あえて直視したくないことだが、事実だ。完全に発芽させなくても、ミリスから自由意志を奪ってその行動を操ることは可能だ。言ってしまえばミリスは端末なのだから。
「それが今のゾッラには適用できない~。そもそもヒサカさんの異能の制御下にあるシステムを乗っ取るなんて~、権限を与えられていないゾッラには原理的に不可能なはずなんです~。この上に第三の眼なんていう【力】の塊を与えたら~、ますます制御不可能になる危険性があるんです~」
「ますます今のうちに始末すべきって結論が近づいたんだが」
九割だったのが九割九分九厘になった。想定よりも事態が深刻であるということだからだ。そりゃあミリスも飛逆の決定を妥当だと思うわけである。
言うなれば眷属が飛逆の手から離れて暴走しているという状態だ。しかも自己改変する能力まで保有している。
この事態に危機感を覚えないほうがどうかしていた。
それなのに、早急に対処しようとする飛逆に時間が欲しいとミリスは言う。
「重ねてお願いなんですが~、アカゲロウちゃんを新規に一体、デザインしてください~。インターフェイスはない完全なスタンドアローンの人工無能を搭載したタイプです~」
「それはつまり、ゾッラの思念体を移し替えるってことだよな? それって第三の眼を植えるのと何が違うんだ?」
「ゾッラの肉体に直接植えるのではなく~、あくまでも外部装置として~、です。そして移し替えたという事実をゾッラに観測させて~、そこで彼女の【魂】を確定させるんです~」
「肉体に直接植えるのはリスクが高いが、外部装置としてならそのリスクがない、っていう理屈が俺には受け容れがたいんだが?」
「だから時間が欲しい、なんです~。現状問題なのは~、ゾッラが演算システムという中枢機構に取り憑いていることであって~、それさえ凌げれば執行猶予を与えてもいいと思うんです~。もちろん演算システムからゾッラがいなくなったということを証明できないわけですが~、だからこそ~、彼女はまだ確定していない~……今なら『ワタシたちが組み上げたプログラムの一部に端末からの外乱でたまたまバグが発生した』っていう事実に確定させることができるんです~」
実にややこしい。
正直言って飛逆には理解しがたい論理だ。これを論理と呼ぶのもおこがましいと感じる。
「バグ取りなら尋常の手段で可能です~。これを教訓にしてセキュリティの強化の参考にすることもできます~。そして~、オートマトンと意思甦生開発データをドッキングさせた結果、たまたま【魂】を持った人工知能ができてしまった、という事実を獲得することができちゃうんです~」
これまでの様々な研究開発の延長線上にゾッラという人工知能はあり、従ってそれを生み出したのは自分たちである。
そういう論理にこの【悪魔】現象を落とし込む――観測者問題を逆手に取る。
「……まるで頓智だな……」
なんとなくそれで上手く行きそうな気がしてしまう。明らかに騙されているのだが、それは『誰』が騙されているのだろうか。
すでに浸食されている。今のところ害はない。執行猶予を与える。以上のことは飛逆にも納得できる論理だ。摺り合わせて妥協を受け容れるのも吝かではない。
矛盾した論理回路はそれだけで強固なプロテクトとなる。ゾッラという【悪魔】を封じ込めうる――飛逆は騙されてみることにした。
久しく感じていなかった『面白い』という感情が、その試みによって喚起されたからだ。




