105. パラダイム・ミューティション
「変異情報感染媒介者――それを指してワタシの元の世界では~、【悪魔】って呼んでいました~」
情報の海に溺れることで基底現実での肉体が変異してしまい、ある種の超常能力を持つようになった者のことをして感染媒介者=【悪魔】と呼んでいたのだとミリスは言う。
「肉体が変質して超常能力を持っているのに、媒介者なのか?」
飛逆のそれは、当然の疑問だとミリスは頷いてから、
「ちょっとややこしいんですけどね~、肉体を変異させるほどの情報圧――変異情報源に溺れても尚生きている時点で~、その媒介者は~、元々特別な体質なんです~。因果が逆なんですね~。元々そういう素質を持っていて、それが開花しただけの超常能力なんです~」
媒介者は媒介者としてなるべくして生まれてきている。たまたまその開花が変異情報とかいうモノに触れることだっただけで、彼らは元々潜在的に超常能力者なのだ。
「そしてこの【悪魔】によって媒介されて、ある意味では劣化した――ヒトに最適化された――高密度の変異情報に感染した者を指して【悪魔憑き】と呼ぶわけです~……ワタシは元の世界では~、自分のことを【悪魔】か【悪魔憑き】のどちらかだと思っていました~」
彼女の元の世界でも、その【悪魔】や【悪魔憑き】は数も少なく、そもそも情報医療界の機密の扱いだったらしい。
「まあ違うのは調べていく内にわかりましたけどね~……」
自分のことを調べていく内にその機密を掘り出したミリスだが、それについて詳しく調べていく内に、似ているが違うモノであるという結論を得たという。
「因みにその過程で【悪魔憑き】に命を狙われたりとか色々~、酷い目に遭いました~」
どこか遠くを見ながら回顧するミリスだ。彼女は中々どうして波瀾万丈な人生を元の世界で歩んできたらしいが、余談である。
では本筋とは何か。
本拠シェルターの各地モニタールームの有機液晶画面には、その三割ほどで異様な光景が映し出されていた。
といっても、その異様さを理解できるのは、飛逆とその眷属に限る。
「見た目は大して変わりないのに、精気が極少量か、全くない……」
「ワタシたちの常識から言えば~……いわゆる哲学的ゾンビですね~……」
飛逆たち『精気を知覚できる者』にとって、生物であることの目安であり核となるべきは、精気を保有しているか否かだ。それが観測できない者は『生きていない』。にも拘わらず生物と同じ振る舞いをする者がいる。
たとえばある内紛の風景。
その中で、歪曲刀を振るいながら殺戮していく男がいる。
あくまでも飛逆たちにとって、その男ははっきりと異常だった。戦闘中の興奮では説明できない異様な膂力で、片手で振るった歪曲刀が相手の盾ごと切り裂いて胴を両断する。それだけならばまだしも、切られ、絶命する直前の男から精気がその切った男と歪曲刀へと流れ込んでいく。
その精気は男に流れ込んだところで、その反応が検出できなくなった。消失したのだ。
彼は哲学的ゾンビのまま、次の敵を殺すために突進を再開した。その勢いは衰えを知らず、敵を屠る度に力を増しているようでさえあり――おそらく事実その通りなのだ。同じく精気を吸っていた歪曲刀が、刃毀れさえもしていないことと同じように。
ただし、飛逆にはその膂力や強度を裏付ける根拠が確認できない。あれはどう視てもただの人間の身体に鋼の刀でしかない。
「……あの龍もどきと同じ性質、だよな」
あるいは、飛逆とあの龍の性質をそれぞれ合わせたかのような。
いや、もう少し穿って言ってしまおう。
飛逆があの龍もどきと邂逅した折に彼を解析した結果がそのまま投影されているかのようだ、と。
「あくまで仮説ですが~……第三の眼って、ただ観測するだけではなく~、視界内の法則を歪めているんですよね~。誤解を恐れずに言うならば~、ヒサカさんの世界観――変異情報を投射しているんです~。ヒサカさんがあの龍を観測し、認めた上で全能開放――変異情報を圧縮し、投射することで~、その性質がその時に各地の第三の眼の視界に居た者に感染したのだと思われます~」
「つまり……俺が媒介者。お前の言うところの【悪魔】か」
「はい~。そして彼ら哲学的ゾンビは~、【悪魔憑き】です~」
「念のために確認するが、【悪魔】は【悪魔憑き】を元に戻す方法を持ってたりは」
「ワタシの知る限りでは~、しませんでしたね~。というか~、たとえば両親が死んだところでその子供がすぐさま死ぬ訳じゃないですよね~。それと同じです~。起源がなんであれ~、その原因が消失したところで起きた現象・事象は~、変異・変節・変遷・変質することはあれ~、消えません~」
例えば世界の創造神がいたとして、その神が死んでもその世界が死ぬとは限らない、とも言い換えられる。
そこが怪物とその眷属の関係との最たる差異だ。ヴァティのような例外を除き、オリジンを亡くして眷属はその生命を維持できない。ヴァティの場合でも、それは結局主従という関係性からは逃れられていない。【悪魔】と【悪魔憑き】は、因果関係の前後はあっても上下はないのだ。【悪魔】と怪物は似て非なるモノであるというミリスの実感は正しい。
「だが上書きはできそうだが」
「そういう変異情報源をヒサカさんが観測し~、強固に認識して投射すればあるいは~、なかったことにはできるでしょうけど~……。問題なのは~、そのヒサカさんの世界観をいかにして得るかっていうこと、だけじゃないんです~」
「だけじゃない?」
「……実質的にこの惑星半球の砂漠地帯以外のほぼすべての地域を網羅していた第三の眼の視界内に~……ヒサカさん以外の【悪魔】がいなかったとは考えられないってことです~」
そういうことか、と飛逆は呻きと共にその問題の『取り返しのつかなさ』を胸裡に落とした。
【悪魔】の素質を持つ者は、元々が超常能力者なのであり、彼らは目覚めれば不可逆的に強力な存在であり続ける。のみならず、媒介者であるために、仮に飛逆が現在の【悪魔憑き】を消去したとしても、感染者を増やし続ける。
感染爆発が起こり、それは未だに拡大し続けているという状況だ。
「まるでヒサカさんのせいみたいに言ってますけど~……おそらくこの事態に陥ってしまったのはワタシのせいでもあるんです~。むしろワタシのせいです~。ワタシは【悪魔】じゃありませんけど~……ヒサカさんと思考領域を一部とはいえ共有していて~、しかも第三の眼の使用権限を持っている……つまりワタシがこの概念を持ち込んだことが一因なんだと思われます~。そもそも第三の眼の基はワタシに憑いてきたわけで~……」
懺悔するようにその理屈を述懐するミリスだが、飛逆はかぶりを振ってどうでもいいとした。
「原因を特定したところで解決しないって、お前が言ったんだ。それに明らかに一番の原因であるあの龍もどきの正体は、相変わらずまったくわからないんだからな」
ミリスの言うところの『変異情報源』であるあの炎龍ゾンビ(仮称)の正体は依然として不明だ。
「変異情報源については~、ワタシの元の世界でも謎でした~。いくつかの仮説はあったんですけどね~……。まあ完全な実体のあるアレとはそもそも違うわけで~。何より問題は~、世界の法則を一見して裏切ってしまうようにできているこの【悪魔】現象は~、観測者問題が極めて如実に表れるようにできているため~、『正解』が次の瞬間には『正解』じゃなくなっている場合が多々あるんですよね~」
――悪魔はその存在を証明されてはその存在を維持できない。
とは飛逆がヴァティの言説を敷衍した言葉だ。
この言葉に法って云うならば、『悪魔は証明される度に変節することでその存在を維持しようとする』となるだろう。
飛逆はこれから、あの炎龍ゾンビの正体の一端を掴みかけたが、あえてその思考が纏まる前に分解した。
ミリスの言うとおりならば、仮説によってその正体を特定しようとすれば尚更遠ざかるということになりかねないためだ。
現状で挙げられる不幸中の幸いが、あの炎龍ゾンビに匹敵するほどの不明存在の現出が確認できていないということだが、例えばその正体に近い仮説を立てることでその裏を搔くような存在が現出するという可能性さえある。
ただでさえ、現状は割と最悪に近い。
哲学的ゾンビには、すでにヒトの枠を超えた力を持っている者がいる。
そんな哲学的ゾンビの成長は、『生き物を殺すこと』によって成される。
その成長の限度は一体どこなのか、まるで明らかではない。検証できる材料が『未だにない』のだ。推測の材料さえない。
ともすれば飛逆をも超えるほどに成長しないという保証はどこにもない。
そして――砂漠で起こった天変地異は、北大陸の全土を脅かした。
砂の津波は砂漠の版図を広げ、舞い上がった砂塵は空を灰色にして寒冷地をますますの極寒に追い込み、酸性の雲は各地に広がってしまった。
把握しているだけでこれだ。天変地異に伴ってその数を激減させた【眼】はその視界を著しく狭めている。にも拘わらず、これだけの被害が確認できている。
飛逆は破滅を抑えきることができなかった。
先ほど例に挙げた内紛は、序章に過ぎない。
大戦が起きる。
これは不可避だ。
ヒトが大勢死ぬ。
ヒトを大勢殺す者が出る。
一人で数千人を殺す者が現れても不思議はない。なぜなら哲学的ゾンビたちはたかが数人を殺しただけでもヒトの枠を超えるほどに成長しているのだ。それが可能なまでに成長するのは疑うまでもない。
それは英雄の誕生だ。
彼は、あるいは彼らは飛逆といずれ対峙するだろう。
それは宿命的なまでに決まっていることだ。
【悪魔】現象が惑星の半球を覆った直後、塔は隠れんぼをやめてしまったのだから。
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飛逆が炎龍ゾンビの活動力を剥奪し、意識を失った後、その後を託されたミリスが選択したのは、飛逆が意図した通りのことではなかった。
まあ当然だ。すべてを圧殺する砂の津波をどうにかしようなんてこと、たとえ赤毛狼が一千体揃っていたところで却下する。せいぜい二百体前後では、ヒューリァを退避させた穴に飛逆を運び入れ、その穴を更に掘り進めつつ補強する他ない。人智を越えた衝突の被害をあそこだけで留めようなんて無謀もいいところだった。
むしろ塔が出現し、クラン全体が混乱する最中によくぞその冷静な判断ができたと賞賛すべきだろう。
ただ、その結果として飛逆たちは地下の大鍾乳洞に投げ出され、深海と繋がる穴から噴き出るメタンガスが何の因果か引火して大爆発を起こし、上から下からの衝撃によって地下洞窟を大崩落させてしまったために、飛逆とヒューリァはなんで死んでいないのかわからないことになってしまったのだが。死なないにしても生き埋めだっただろう。
途中で、動けない飛逆に代わってヒューリァが復帰していなければ未だに飛逆たちは地下に埋まっていたかも知れない。
自分たちの周囲に全力で炎を噴射することで、自分たちを圧殺しようとする何もかもを遮断したのだ。炎自体は効かない自分たちだからこその防御法である。当然、実体を持つほどの炎は猛烈な熱を放射し、伴って衝撃を生み出したため、地上からは噴火としか見えない現象っていうか噴火を引き起こし、地上に放出されなかったマグマがどこかの空洞へと流れ込むことでどこか別の水源が水蒸気爆発を起こしてその衝撃で地盤が更に緩んで比較的近隣の休火山が活性化することの一因っていうかほぼ原因になっただろうが……まあ今更だ。喩えその因果が予測できたとしても、世界の破滅と連れ合いの保身を秤にかけるまでもなく後者を選ぶのが飛逆たちの精神性である。
彼女自らが作り出した噴火口の傍らでヒューリァに見守られながら飛逆は眠り続けた。
何か夢を見ていた気がするが、その記憶は定かではない。
通常の意識レベルに回復するまで、どうやら丸三日を要したらしいから、僅かながら意識を残していたとしてもそれは随分と曖昧なものだった。深層にてヴァティや兄などとの邂逅があったような気もするが、その記憶は彼らが再封印されると同時に閉じ込められてしまったのだろう。全能開放するとどうしても封印が綻ぶので、彼らと邂逅したこと自体に疑問はない。
ヒューリァに噛み付かれたっていうか噛み付かれ続けていた記憶もあるが、それだけの大出力を続けていた彼女が補給するのはまったくの必然だ。おそらく飛逆の丸三日の昏睡の一因だが、彼女の判断に誤りはない。
そしてその三日後、ヒューリァは飛逆が目覚めると同時に意識を失った。何者からも飛逆を護ると、彼女はそんな悲壮なまでの決意で三日三晩眠らず、一瞬たりとも気を緩めず不寝番をしていたのだ。
目覚めたばかりで記憶が散逸していた飛逆は、ヒューリァがただ眠っているだけであることを確認して、安心した後、しばらくの間唖然としていた。
思い出したからだ。
だが前後の記憶が繋がらなかった。最後の地点からかなり移動してしまっていたし、傍らには轟々と音を立てる巨大な縦穴が空いているという異様な光景。小高い丘の上で目覚めた飛逆は見当識を失ってしまっていた。あの最後の光景からすると違和感のない有様ではあったが、あの光景から何をどうしたらこうなるのかということが繋がらなかったのだ。
頭の中に響く『声』のおかげでようやく飛逆は冷静さを取り戻し、ミリスのその『声』に応じた。
飛逆が死んだはずはないことは、この念話の送信先が健在であることから明らかだったし、そもそも本拠シェルターとのエネルギーラインが動き続けていることで確かめられた。そこから辿り飛逆の衣服の反応を見つけてそれが稼働していることもわかったが、飛逆が直接に着るそれには【眼】が付いていないせいで状況は相変わらずわからない。故に無事は疑っていなかったが、飛逆の側の状況がわからないのは非常に不安で心配だった。それ以前に記憶や自己同一性などは無事なのかを案じている。全能開放した後遺症はどうなのか。現状がどうなっているのか。飛逆が気絶した後にはおそらくこんなことがあった――等々。
ミリスは弾幕のように思念で一頻り捲し立てた後に、これからの指針を決めかねていた飛逆に塔下街に戻ってくるようにと提案した。
飛逆は今からでも炎龍ゾンビの正体を探りに行こうかと思案していたところだったから、その提案をすぐには受け容れなかった。
火成岩と化したあの残骸を調べることで何かしら見つかる可能性がある。見つからないならばアレが飛び出してきた噴火口に身を投じてでも調べるべきだ。
飛逆はそれほど炎龍ゾンビの正体に執着していた。なぜなら、活動力を奪うことこそできたが、あんな存在がほいほい現出されては困るからだ。毎回毎回全能開放してばかりはいられないし、今回はたまたま上手く行っただけで、その最善の行動結果にも拘わらず予想以上の被害が出ている。正体を知ることができなくとも、せめて出現条件や生態(活きているかもしれないが生きていないが)の一端だけでも掴めないだろうか。否、掴まなくてはいけない。そうでなければヒューリァとミリス、あとついでにモモコやゾッラやノム、とんでトーリやクラン・元トップランカーを護れない(優先順、トップファイブ以下はお察し)。
そんな飛逆にミリスは意外なことに、『そのものではないが、近いモノに心当たりがある』ということを言って――
〈それより、……モモコさん無事なのに、塔が出現しているんです~〉
飛逆の無事を疑っていなかったにも拘わらず、飛逆が喪われたかもしれないという不安を拭いきれなかった理由を述べた。
彼女がどれだけの混乱と焦燥、不安に見舞われていたのか、飛逆は察した。
見れば共有スケジューラは彼女からの安否を窺う思念で、確保した容量を埋め尽くしかねないほどだった。最後の辺りに『あと二刻中に返信なかったらワタシが直に捜索に出ます』と書かれていたことに絆されたというのではないが、
飛逆は転移門を使って塔下街へと戻った。
そして手間を省くために、飛逆だけが塔内のどこでも開ける転移門を潜って外に出てみれば、本当に出現していた。
まるで立体映像みたいに半透明の、大神樹の断面半径を超える巨大な白亜の塔。
塔下街の人間たちはこんなものの傍らに住んでいたのかと、驚くよりも呆れたものだ。あれは見ているだけで各人が持つ『世界観』を歪めかねないほどに現実感がない。
塔の出現にそれなりの混乱を見せていたクランの中からウリオを引っ張り出して、確認したところ、半透明なのは以前と違うそうだ。
つまりこれはイレギュラーな現象である可能性が高い。モモコが健在でありながら出現しているという時点でそれは明らかなことだったが、そのことからは逆に、塔にとっても不本意な形での出現であるという予測が立つ。
状況の説明を求めてくるウリオに返答するためにも、その予測についてミリスと話し合おうとしたら、帰ってきたならまず自分のところに顔を出すのがお約束だろうとミリスに詰られた。真っ先にウリオなんかに顔を見せている場合じゃないだろう、と。
もちろん飛逆は、すでに念話や【眼】によって彼女にはその姿を確認できているだろうから、ということでそのお約束を無視したのだが。
泣き腫れた二つの目からまた涙が零れるので、さすがに悪いことをした気分になった。
昏々と眠るヒューリァを抱えていなければハグして頭を撫でるくらいはしたかもしれない。
ヒューリァを部屋のベッドに横たえるときに、付いてきていたミリスに背中から抱きつかれたが、剥がすことはできなかった。背中からなので頭を撫でることはできなかったわけだが。
飛逆とヒューリァの部屋は共有だ。
すぐにでも実務ができるようにこの部屋はミリスのオペレータールームに準じる設備がある。
ヒューリァが眠っているところに悪いと思ったが、彼女の傍から離れる気はなかったし、けれど同時にミリスの言う『火山口から出現したアレの正体の心当たり』は非常に気になっていたので、ここで話し合いをする運びになった。
そしてミリスに言われるままに、現存する各地の【眼】の視界をモニターに投影し……アレが【悪魔】現象の大本となり得る何かである、ということを聞かされた。
未だ本調子でこそないものの、飛逆はこの【悪魔】現象が引き起こす未来予想図が酷く凄惨であることを即座に察した。それはきっと、この世界に住む誰にとっても。
どう考えても塔の現出と何らかの因果関係があるが、それがあの炎龍ゾンビなのか、それとも【悪魔】現象との関係なのか、あるいは両方なのか――おそらく最後であろうが――それは確然とはしていない。
消極的にではあるが、望んだ状態だ。
混沌としていて、その混迷具合は加速度的に上昇している。おそらく飛逆たちを召喚した何モノかの思惑からも外れている。
けれど、ここまでアンコントローラブルな環境に陥るとは予想していなかった。
おそらくいると目星を付けた第三勢力を台頭させる。そこまではよかったが、それをある程度自分たちに都合のいいようにするための布石を打ってきたつもりが、凡そ裏目に出た。
飛逆は失敗したのだ。
実際の所、【悪魔】や【悪魔憑き】が出現したせいでここまで衝撃を受けているのではない。
その『失敗した』という現実に飛逆は打ちのめされた。
モモコの気持ちがわかる。よかれと思って、という奴だ。
裏目に出たことが、これまでなかったわけではないが、結果論で言えば悪くはないものが多かった。
これは明らかに悪い。
途轍もない徒労感だった。
しかも、これには一つ、受け容れがたい原因が考えられる。
月光によるコントロールを明確に拒絶した矢先に陥った陥穽だということだ。
召喚されてからこれまで、自分たちが積み上げてきたものが否定されたかのようだ。
きっとそれは錯覚だろう。必ずしも手を振り払ったからこの事態に陥ったわけではない。
ただ、どこからどこまでが錯覚なのかが判然としない。
気持ちが悪かった。
本調子ではないこともあって、飛逆は気分が沈むのをどうしても抑えられなかった。
それでも飛逆は動かなければならない。
不幸中の幸いの要素を寄せ集めて自分を奮い立たせようとする。
例えば塔下街では【眼】の監視下にあっても【悪魔憑き】の存在が確認できていないこと。
十万にも及ぶ文字通りの植物人間たちは、相変わらず寝たきりであり、そして精気は確認できる。【悪魔】は憑いていない。
これはおそらく、ヴァティの【種】に寄生され、準眷属とでも呼ぶべき存在であるためだ。つまり怪物や眷属が【悪魔】に冒されることはないということが示唆される。実際、誘致した者も、【能力結晶】を用いたことのある者には【悪魔】は感染していない。その程度でも、怪物が『先に唾を付けて』いればいいようなのだ。『感染力』に関して言えば、競合したとき【悪魔】に対して怪物のほうに軍配が上がるようだ。後出しでもそうなのかはこれから検証してみなければならないが。
〈――ま〉
誘致してきた者の中に【悪魔憑き】は確認されたが、彼らはコントロールできる。【悪魔憑き】について解析するためにも彼らは要注意のラベルを貼って監視下におくべきだ。
〈て――〉
そしてこの示唆は、南大陸、つまり塔のあるこの大陸上では必然的に【悪魔憑き】の発生率が小さくなることも同時に示している。
この大陸は長くヴァティの支配下にあった。正確には【能力結晶】というヴァティの【種】が張り巡らされているのだ。従って【悪魔】は感染しない。いたとしても、それは【能力結晶】という兵器を使用したことのない者ばかりなのであり、彼らが大勢に影響する可能性は小さいということになる。少なくとも台頭するまでに相応の時間が掛かる。
従ってこの世界の技術水準では往復が困難な北大陸が脅威なのであり、その影響がこちらまで及ぶのは最短でも三ヶ月後だ。何が起こるかわからない以上、その半分としても一月以上。
〈――様〉
つまり猶予はある。
逆に言えば対策を打つならば今だ。失敗に対して凹んで徒に座しているわけにはいかない。
「……ところでミリス、何か言ったか?」
奮起するまでには至らないが、前を向く余裕は確保した飛逆は空耳を感じてミリスを窺う。
「へ? いいえ~?」
飛逆が苦悩する様子を、もどかしそうに、けれどどこか恍惚とした表情で見守っていたミリスは窺われて、ちょっと慌てたように否定した。
「……」
違和感。彼女の微妙な態度がそうだというのでは、もちろんない。ミリスに自分の被虐趣味を飛逆に投影して悦に入る趣味があることは、彼女が『本気』を見せたときにすでに明らかである。マゾヒストが潜在的にはサディストであることなど飛逆にとっては自明のことだ。知りたくもないが知っていることだ。というか彼女のそんな反応で飛逆は自分が傍目にも明らかなほど落ち込んでいたのだと自覚できたがやっぱイロモノじゃねぇかよこの自称正統派ヒロインと胸中に生じたツッコミを飲み込んだ。
ともあれ念話を繋ぐことができるのは現状ではミリスだけだ。そのミリスは、確かに違う。この『声』は、今や聞き慣れた彼女の『声』ではない。
先ほどからノイズのように混じってくるこの思念は――
〈――天使様〉
意識してチャネルを合わせようとするなり、はっきりと、それは飛逆の頭の中に響いた。
「――」
すべてを察した飛逆は、唖然として、思わず漏らしそうになった声を飲み込んで立ち上がる。
ヒューリァが目覚めるまで傍にいようと決めていたことも忘れてツカツカと足早にそこへ向かった。
後ろにミリスは付いてきていたが、彼女も何か予感することがあったのかもしれない。飛逆に疑問を呈することはなかった。
「考えてみれば、当然だな。君がただの人間であるはずがない。共感覚だけじゃ説明できないことが多すぎた」
彼女の前に立ち、飛逆は自分の不明を恥じるようにかぶりを振って嘆息する。
〈お久しぶりですの、天使様〉
「ゾッラ・イージュン=パヴェルコバー……。君は、【悪魔】だったんだな」
未だ横たわったままの彼女は、その癖してその顔に天使のような微笑みを浮かべた。




