101. ついの村
森火事を第三の眼で鎮火してから、飛逆たちは移動した。
もちろん徒歩で行くのはなんとなくバカバカしいので騎乗用赤毛狼を出して、更に北へ。
転移門は通り抜ける際には対象の体積は無視することはすでに明らかであり、おそらく通り抜けられる。よって今回の遠出の目的であるところの『どこまで離れれば転移門が開けなくなるのか』ということの検証を続行するという運びになったのだ。
火事を起こしたことについて、飛逆はヒューリァを咎めなかった。
無意味だし、実際のところ何について咎めるべきか、わからなかったのだ。
あの森から十㎞と離れていない位置に、往時の塔下街を越える規模の大きな港町がある。狩人が獲物を目的に入ることのあるあの森で、突然の出火を目撃した者がいるかもしれないし、もしかしたらあの火災が何らかの事件の端緒となる可能性はなきにしもあらず。
けれどそれがどうしたというのか。
今後の状況にもよるが、いずれあの港町を飛逆たちは占領することになるだろう。その時にその事件がなんらかの悪影響を与えるかもしれない。けれどどんな悪影響なら自分たちは困るだろうか、と考えたとき、困るほどの事態が全く思い付かなかった。人死にが出ていないならば大抵のことはどうにでもなる。素早い鎮火によって人死にの可能性は極小だ。
北大陸中にばらまいた【眼】から得た情報では、やはりこの世界には飛逆たちを脅かすほどの技術も技能もなさそうだった。尤も、数がありすぎてそのすべてを解析できたわけでもなければ、観察することも不十分であり、そもそもどこに要点を搾るべきかという検索をかけるプログラムもまだ未完成であって、その蓋然性の保証は未だにない。
かといって、天災にも伍する己(謙虚な言い方だ)を脅かす存在が、尋常の領域に存在することを想像しろと言われても、難しい。あるとすればミリスの出身世界に匹敵する文明による兵器であり、いるとすれば飛逆たちと同類。つまり怪物だ。
後者に関して実を言えば、それは見つかるかもしれないと思って、比較的その検索に力を入れるようにプログラマーとしてのミリスに頼んでいる。
その根拠は、それこそ怪物的な存在であろう、月光を操る者(あるいは塔の管理者)が、どう考えても召喚した者に力を付けさせるように仕組んでいることだ。
その辺り、違うと否定する根拠を見つけるほうが難しい。最初期の脆弱な吸血種であった飛逆でさえも倒せるクリーチャーが落とす原結晶は、あらゆる怪物に力を与えるものであり、そんなものを簡単に手に入れられるように仕組むことに、他にどんな意味があるというのか。
ミリスの推測が正しければヒューリァを初めとした他の被召喚者たちは飛逆のレベルアップのための生け贄であるわけだが、その推測が外れていたとしても、生き残る怪物は強力な存在であるわけで――ではその強力な存在を何のために召喚したのかと考えたとき、それに対する手駒とするためという可能性が浮かび上がる。
「――もしそんなのがいたら、ひさか、手を組んだりするの?」
ヒューリァの疑問は尤もだ。
「敵の敵は味方だっては思わない。というか、どっちがどっちなのか判断する材料が俺たちにはないから、手を組むっていうのは余程じゃないとありえない」
「どっちがどっちって、どういう?」
「仮に敵対勢力が存在する場合、どっちが俺たちを召喚したのか、確かめる方法がないだろ?」
「ああ、そういう」
「そもそも、月光ってわかりやすい影響があるが、そいつがいる場所が月って決まっている訳じゃないからな。地上で何気ない風に俺たちに『発見される』ことを目論んでいる可能性がある。俺たちを利用する気なら、正体を隠して身内に入って工作するのが、有効だ」
敵と思って撃滅したら、そいつは『飛逆の敵』の『敵』だったというオチが、ありえる。だから、本当に余程の確度の証拠が提示されない限り、信用しない。
「……」
「言いたいことはわかる」
何かに思い当たる様子を見せつつも沈黙するヒューリァの様子から察して、飛逆は溜息を吐きつつ彼女の頭に手を置いた。
そして告白する。
「正直、この可能性に思い当たったとき真っ先に君を疑った。すでに俺の身内にそいつの手先が入り込んでいるかもしれない……って可能性だ」
それが最悪の場合だからだ。根拠もある。ヒューリァの言動は、これまで『結果的』にすべてが正解だった。それが偶然によるものではなく、仕組まれたことであったとしたなら、およそ大概の辻褄は合うのだ。
「もちろんミリスやモモコ、あるいはトーリ、イルスども、ウリオを筆頭にクランの連中……そいつらが自覚はないままそいつの尖兵とされているとか、疑い出せば限がない。けど、どれもこれも、否定しきるに足る根拠がまったく見当たらないっていうのも最悪だけどな」
けれど心理的に最悪なのは、飛逆が殺すと決めた敵が、ヒューリァであった場合だ。
「だけど……まあ、君が俺を操っていた場合っていうのを考えて、バカバカしくなった」
頭を撫でつつ飛逆が言うと、ヒューリァは振り返ってしかめっ面を見せる。
「意味わかんない」
「最悪かと思ったのが錯覚だったって話。この場合に限っては、君が俺を騙して敵を殺させようとしているんだとしたら、俺は喜んでそれを引き受ける。騙す意味がないだろ? 実にバカバカしい。騙されたことの溜飲はそれで下がるし、無問題だった」
騙されたがっている人間の心理が、この想定によって理解できる気がした飛逆である。
「なんか、口説かれてるのかカマかけされてるのかなんなのか、わかんなくてフクザツ……」
「俺は君が俺を騙していても俺から逃がさないっていう宣言だ。口説かれてくれるならありがたい」
実に俺様な宣言だった。
もちろんヒューリァはこれで頬を赤に染めるでもなかったが、しかめっ面が少しだけ柔和なそれになる。
「でも、わたしはともかくミリスとかがそうだったらってのも結構危ないと思うけど。あと、わたしが自覚ないで、操られている場合」
こうした話で、自分を突き放した仮定を考えることができるのは、ヒューリァの数ある美点の一つだと飛逆は思う。
「確かに、ミリスには俺の権能を色々と預けてるし、裏切られたらヒューリァを除いて一番危ないではある。ただ、いずれにせよ対策はするし、それでもこっちがどうにもできないなら俺の負けってだけの話だ。危ないだけなら、原結晶を無尽蔵に供給するような存在と敵対しているって時点でこれ以上はないわけで、同じ事だと思わないか? つまりこの可能性は、想定して警戒する価値はあるが、解決は保留にすべきなんだ。君のことも含めてな」
諜報関係にはよくある処置である。
「なんかモヤモヤする」
「気持ちはわかる。俺だってもっと問題を単純化したい。戦略は苦手なんだ。けど……」
言ったように、敵は原結晶を無尽蔵に供給するほどのエネルギーリソースを持っている。
その一事を取っても、実際の所、飛逆に勝算は全くないのだ。
小細工を弄するのはいつだって弱い側なのである。事態を複雑化させて、そこに活路を求めるしかない。敵に敵がいるならば、いてほしいほどに。
「わかってるけど、実感ないよね……今のひさかでも届かないって」
まったく同感であった。
北上するに当たり、人口密集地を避けるべきか否か。
これについては結論が出ていた。もし転移門を開けるようなら、手間を省くためにすでに目星を付けてある集落に誘致を持ちかける。時間を無駄にしないためだ。
事前調査で現地の言語フォーマットは取得している。
同じく事前調査で、眼を付けた植物の転送能力を利用して必要な物はくすねてある。
旅人を装うために外套を羽織り、バンダナを巻いて第三の眼を隠し、角の付け根を覆うことで飾りっぽくした。
角を完全に隠さないのは、こういうものは堂々としていれば気にされない物だからだ。正確には気になっても突っ込んでこない。
パートナーであるヒューリァにも頭の飾りを付けてもらう。こちらは羽根を模した髪飾りだ。
「で、これ飲んどいてくれ」
「何、これ」
本拠から転送させた小瓶を渡すと、ヒューリァは首を傾げる。
「この先にある村、結構感染力が強い伝染病に冒されてる。というかまあ、伝染病に罹った連中を隔離するための村なんだよな、最初から」
最初からというのは語弊があるだろうが、寛解が見込めない病人が集う集落であり、最早そのためだけに存在していると言って過言ではない。更に語弊があるだろうが、ホスピスのような村だ。
「俺たちには効かないだろうが、まあ念のためな」
事前調査でここを見つけた時に、死体となった村民の一部を転送して死因を解析し、そこから解毒薬を合成したのだ。
ヒューリァは納得した風に小瓶の蓋を外して中身を空ける。
その後に崖を降りて、その渓谷の間にある村の入り口に徒歩で向かった。
途中に関所のような簡易な構えの柵があり、その奥に兵士の詰め所らしき小屋がある。
こんなところに訪れる旅人は少ないのか、飛逆たちが近づくと、槍を持った兵士らしき男が慌てて飛び出してきた。
「兄さん方! 商人とかじゃねぇよな! ここがどういうところか知らねぇのか!?」
引き返せ、という身振り込みで叫ぶように言ってくる。
「平和っていうか……大分お人好しだよね」
「まあ、だから貧乏くじ引いてこんなところに追いやられてるんじゃないか?」
見たところその兵士は何かの病気を患っているわけではなさそうだ。
ここに病人を押し込めた都市からは、そう遠く離れているわけではないものの、明らかに辺地である。
隔離した病人たちがここから離れることを容認はできないわけで、無人にするわけにもいかない。よってある程度の距離がある位置に関所を設けなければならないわけだが、そんなところに詰めたがる健康な人間なんてそういるわけがない。
果たしてその髭面の男は、飛逆たちが無視して近づいてくるのを、呆れたように肩を落として迎える。
「兄さん方はなんだい? 念のために言っておくと、食料を分けてくれつっても無理だぜ。配給が来るのは明後日だ。ついでに言うと、ここまで来ちまった以上、発症しねえって確認が取れるまでここに拘留する決まりなんだが」
簡易的な柵を開いて招き入れながら、男は言う。特に逆らわずに入りながら、
「それなんだが、随分手厚いよな。そんなに余裕があるのか?」
「あん?」
「再起の見込みがない病人たちを養う余裕があるのがすごいなって話だ。ここらの領主は有能なんだろうな」
「兄さん方は他所から来た要人か何かかい?」
胡散臭そうな顔で思ってもいないだろうことを確認してくる。
「間違ってないのが困るな」
そんな立場になるつもりはなかったのだ。すべて本音である。
「へぇ、どこから来たんで?」
まるっきり信じていない顔だ。
「南の海を渡った先から」
男は出来の悪い冗談を聞いた、という顔で肩を竦める。
「そんなところの要人がこんなところになんの用だってんだ?」
「ここの病人たちを引き取ろうかと思ってな」
「おいおいおい……冗談にしても笑えないってか、意味がわかんねぇ。兄さんはあれか? そういう法螺吹いてばっかいるからここに追いやられたってクチかよ」
「近く、この国に帝国から侵攻がある。そうなったら病人を養う余裕なんかなくなる。慈善的な政策で求心力を得ている今の領主にとってここは頭の痛い問題になるはずだ」
すっかり狂人を見る眼になった男は、自然な動作で槍を引き上げ、飛逆に突きつけた。
「兄さんは、あれか。領主様がやってることが気に喰わないってんで、ここを焼き払いに来たって奴だな? 察するに雇われの筋モンかい?」
「まあ、そうなるよな」
飛逆は苦笑しながら槍の穂先を手刃で切り落とし、男に非常に軽い浸透勁を打ち込んで気絶させた。
男は何が起きたのかもわからないまま倒れる。
「えっと、ひさか、何がしたかったの?」
事前に打ち合わせていたわけでもないので、ヒューリァも疑問顔だ。本当は種航空機に乗っている間に話すつもりだったのだが、なんかそういう雰囲気ではなかったので。
「その説明の前に、こいつら、殺さないように」
詰め所から飛び出してくる数人の兵士たちを、全員沈黙させる。小屋に踏み込んで、討ち漏らしがいないことを確認してから、説明を開始した。
「この先にいる病人たちって、症状が軽い連中や、自己犠牲精神旺盛のトチ狂った、もとい、立派な医師や助士を入れてもせいぜい数十人しかいないんだよな」
「うん」
まず前提を確認する。
「そいつらを寛解させることは、俺の能力なら難しくない。別に眷属にするまでもない。けど、たったそれだけを引き込んでも無意味だろ。これは後々への布石だよ」
「えーっと、つまりここの領主に恩を売るためってこと?」
「ちょっと違う。この男を生かしておけば、こいつは上司なり領主なりに報告するよな?」
「うん。でも、信じないよね、フツー」
そう。普通に考えれば、この髭面が言ったように『領主への反抗』――テロルのためにこの村を滅ぼしに来たと解釈するだろう。病人を養うためには税収から割かなければならないため、その税制が気に入らない領民というのは必ず存在するのだ。忽然と村人が姿を消しても、殺してどこかに埋めたなどの、無理はあるが合理的な解釈に落ち着くに違いない。
つまりこの手段では領主に恩を売れるわけではない。むしろ喧嘩を売っていると思われるのが順当なところだ。
「まあ実際に帝国が侵攻を開始したら、恩に着てくれるかもしれないが。それより、市井に噂が流れることを俺は期待している」
「ああ、わかった。つまりひさか、この先の病人、全員を連れて行く気はないんだ?」
察したヒューリァに、肯く。
「帝国がここを侵攻する計画を立ててるのは間違いないし、戦力比で言っても高い確率でこの土地は占領される。そうしたとき、奴隷にされるのを免れた難民は、ここの元病人やこの兵士が流した噂を思い出すわけだ」
そんな時を狙って移民を持ちかければかなりの数が付いてくるだろう。
もちろんこんな未来予想図は当てにならないが、想定しうるどのパターンでもこの布石を打っておくことは、単純に村から人を拉致するよりもいい結果に繋がる見込みだ。
「気の長い話だね」
「もちろん、都合良くこんなことしてる土地があったからこうするだけで、他の所ではもっと直接的に移民を募るつもりだけどな。生まれ育った土地への愛着ってのはそう簡単に捨てられる物じゃないらしいし、愛着がない連中ってのは基本的に弱者だ。色々な不運があってその立場になったのだとしても、俺が欲しい移民の条件にはそぐわない。まあ、全員がそうである必要はないから、色々な連中を集めるつもりだ」
「なんか、わざと難しくしてない? あ、言ってることがわからないっていうんじゃなくて、色んな種類のヒトを集めたら、それだけ統治難しくなるんじゃないかってことだけど」
「実はその通りだ。おそらく単一の出身でまとめたほうが短期的に統治する分にはやりやすいと思うが、まあぶっちゃけ俺自身が真面目に統治する気はないからな。クランに丸投げだ」
ちっともささやかではないウリオたちへの嫌がらせであった。
〓〓
関所から優に一㎞は離れた位置にその村はある。
入り込んでから思うが、それほどに陰気な空気ではない。掘っ立て小屋ばかりではあるが、きちんと雨風を防げるようになっている作りの建物が並び、出歩いている伝染病の症状(湿疹と発熱と咳)が軽い者もいる。
あくまでも事前に予想したほどには、という但し書きが付くが、彼らはそう悲壮感を抱いているわけではないようだ。
その理由はおそらく、一際大きい建物とその中にある。
医者が詰めているのだ。
もちろんその医者も罹患しているが、彼はこの村の中でも長生きのほうである。それが彼ら病人たちにとっての希望となっているのだ。誰よりも病人と接触する機会が多いのに未だに死なず、軽い症状であるために、いつかはこの病気を克服してくれるのだと、皆は信じている。
「そんなことってある?」
「いや、おそらくその医者は他の連中に比べて栄養状態がいいから病気の素である細菌に抵抗できているだけだ。解析してみたが、その医者が調合している薬や、瀉血なんかの処置はこの細菌自体に効果はない。自己免疫系統を支援する成分が含まれている球根をベースに色々と調剤を試しているみたいだから、まるっきりそいつの処方が無意味ってわけでもないけどな」
病状の進行を遅らせる効果はある、ということだ。症状の軽い者ならそれで寛解することもありえる。
見慣れない侵入者に怪訝を示しながらも話しかけてこない村人たちを無視して、その大きな建物の中に入る。
蚊帳のようなカーテンで仕切られているそこでは、ちょうど今息を引き取ろうとしている患者が簡易的な木のベッドの上で横になっていた。その横ではその患者の手を握りながら、囁くような、けれど強い声で「大丈夫だ! これを飲めば治る! 生きられるぞ! 君はまだ死なない!」とさかんに呼びかけながら、件の調剤を飲ませている医者がいる。
その横にはすでに息を引き取った患者がいる。あまりにもその医者の言っていることは説得力がなかったが、まあ気力を呼び覚ますことが死に間際で留めるには何より重要なので間違った処方ではないのだろう。説得力がないことを、医者は自分自身で誰よりもわかっていながら、自分を騙して声を出しているのだ。
あまりにも自然体で侵入してきたからか、飛逆たちを認めた助士も誰何の声を発しない。
カーテンを手で避けて、その死体の様子を観察する。
「ダメだな。もう脳が死んでる」
死後数分しか経っていないなら甦生させようかと思ったが、そうそういいタイミングに訪れることはできなかったらしい。
仕方ないので医者が今診ている患者を助けることにする。
おもむろに医者が握っていないほうの腕を取って静脈に当たりを付けて手早く注射器を打ち込む。そして『運動能力強化』の【能力結晶】を首筋からインジェクトしてやり、体力を補助してやることで峠を越えさせる。
さすがにほとんど体力が残っていない状態から回復させるのは異能に頼らざるを得ない。まあ今打ち込んだ薬効成分も異能による賜物なのだが。
途端に患者は喘鳴を止めて、やや苦しそうにしながらも通常の寝息に移行する。
一時凌ぎなので、栄養剤入りの点滴を用意しながら、
「もう消化器がやられてるから、それ飲ませたところで無意味だぞ」
呆気に取られて飛逆を見上げる医者に向かって言う。
この病気で厄介なところは、細菌自体が直接的な致死性を持たないというところだ。そのため感染性が高くなる。宿主が死ねば細菌も死んでしまうが、生きている間はその細菌は繁殖を続けてしまうためだ。
胃壁を含む皮膚を浸食する類の細菌であり、そのため最初の症状は湿疹となる。それが食道や胃壁まで侵すと、消化吸収阻害が起きてしまい、栄養を吸収できない上に下痢や嘔吐などの症状で体力が奪われていく。体力が奪われれば免疫力も下がってしまい、そもそも吸収できないために医者の調合薬の効果もなくなる。加速度的に病状が進行するわけだ。そこまで達するともう単純に細菌を殺せば助かるというわけではなくなる。消化器に依らない栄養供給が必要になるが、今回は喫緊だったので『運動能力強化』で一時的に体力を引き上げたというわけである。『自己治癒力強化』では本人の体力を使って回復しようとするため、トドメを刺すつもりでなければこの場合は使えない。
とはいえここまで進行してしまうといずれ体力が回復したら『自己治癒力強化』しなければならないだろう。胃を全摘出しない限り永遠に消化吸収不良を患うことになってしまうレベルにまで進行している。そんな外科的処置をするのも面倒臭いので、飲み薬で細菌を完全に駆除したら、自己治癒で回復できるかどうか、試してみなければならない。
つまり予後を診るためにも、この患者は否応なく連れ帰ることになるわけだ。
「君は……いったい……」
「あんまり時間取りたくないから、危ない患者のところに案内してくれ。説明はそれからだ」
とりあえず治すシーンを見せることができたのはラッキーだった。勝手に誤解してくれることを期待しつつ、少々高圧的に促す。
混乱の様子を見せつつも、医者は従ってくれた。
それからはあっという間だ。
危篤状態にあった患者はすべて処置を終えて、医者の住処に戻る。
未だに整理できていないという様子の医師は、首筋の湿疹を撫でながら溜息を吐く。
「どう言っていいのか……何を聞けばいいのか……わからないが、ありがとう」
「複雑、って顔だけどな?」
素直な謝礼の言葉には聞こえなかった。重篤だった連中を一カ所に集めてもらうように頼んだヒューリァがここにいれば突っかかっていたかもしれない。
「混乱しているのさ」
苦笑する医者だが、本当のところは違うだろう。突然現れた素性の知れない者に、今まで自分がやってきたことが無価値にされた、という気分が奥底にあるのだ。自身でもそれが自覚できず、釈然としないのだろう。患者が救われたことは素直に喜ばしいことのはずなのに、素直に感じることができないのはなぜなのだろう、と。
阿るような視線は、飛逆たちの素性が自分にとって納得の行くものであってほしいという色を含んでいた。
その視線に気付いていないという顔で、飛逆は懐か薬瓶とチューブを出してテーブルに置く。
「とりあえず、これとこれ」
「これは……?」
「一つは飲み薬で、もう一つは塗り薬だ。塗り薬のほうは患部に限らず、なるべく全身に塗ったほうが効果が高い。身体を一度清潔な布……煮沸した程度で良いからそれで拭いてから塗ること。一度塗ったら最低でも一日は間隔を空けるように。飲み薬は、あんたくらいならおそらく一回の服用で根治する。不安だったら朝昼夜服用、四日続けることをお勧めする」
「……これは……何でできているんだ?」
樹脂製のチューブを手にとって、飛逆の説明を聞いているのかもわからない風に混乱の様子を見せる。
「ゴムみたいなものって思っとけばいい。加工方法は秘密だ。で、まあ驚いてくれたように、俺はあんたらの知らない技術を色々持ってる」
「……」
「俺がここに来たのは、あんたらの病気を治すためじゃない。あんたは当然、この村の住人に顔が利くよな?」
「待て、待ってくれ」
「一応断っておくと、俺の提案を呑まなければ薬を渡さないなんてことは言わないからな」
「――言わない?」
耳を疑うように復唱する。
「あくまで希望者だけだ。俺たちに付いてきて、遠い異国で新しく人生を始める気がある奴は……そうだな。半刻後までにこの建物の前に集合しろって周知してくれ。もちろんどっちを選んでも病気のほうは治しておくし、必要な量の薬は余分を見た上で渡しておく。ああ、ただし、重篤だった奴らはどうしても連れて行くから、そこも含めてくれ」
「ちょっと、いや、少し、ああ、すまない。待ってくれ。そう。どうやって、だ。君の素性はともかく、そんなことをどうやって実行する気なんだ」
ひたすらに混乱しながらもどうにか疑問を捻り出した医者に、飛逆はバンダナを外して第三の眼を見せる。
ぎょっとする医者だが、すでに混乱している彼はそれ以上の反応は見せなかった。
(〈ミリス〉)
(〈はいは~い。あ、転送ですね~。了解で~す〉)
一瞬で本拠のミリスに意思伝達して、彼女の操作で予め用意しておいた薬品類の入った箱を、飛逆の第三の眼の視界に転送する。
ミリスにやらせたのは、情報処理タスクを軽減するためだ。彼女の組んだ赤毛狼演算器でタスクの大部分を代替させることで、飛逆や彼女自身が異能を使うよりもずっと負担を掛けずに済む。本来この大きさの中身が詰まった箱を転送するのは割と難しいのだ。
「これがどうやって、の答えだ」
テーブルの上に唐突に出現した箱を開いて、先ほど見せた飲み薬の瓶と塗り薬のチューブをそれぞれ見せる。
医者は卒倒しかねないほど仰天している。もう一押ししたら本当に倒れかねないので、しばらく待った。
「ひさか、終わったよ」
そうする内にヒューリァが戻ってきて、一纏めにしておいたと報告しながら顔を出す。
「お疲れさん。なんかこいつフリズっちまったから、予定変更だ」
顔を覆って俯き、結局身動きしなくなった医者を放置してヒューリァを伴い外に出る。
助士はバンダナを取った飛逆の様相にぎょっとしたようだが、何も言わずに道を空けた。
村の中央の広場に、またミリスに頼んで色々と転送させる。
具体的にはコンロ付きの調理台と食材だ。
炊き出しであった。
メニューは滋養もあり消化にもやさしい、卵入りフカヒレスープである。




