96. 冴えたやり方は一つだけしか
月にいる何者か――あるいは月そのものを殺す。
それは決定した。
しかし問題はどのようにしてそれを行うかということだ。
ヴァティが試したように、地上からいくら伸ばしても届かない。
ではどうするかといえば――
飛逆は、地上に樹をとにかく植えた。戦闘力はゼロだが生産に特化した改造樹だ。
広大とは言えないが、かつて塔下街があった範囲からも外れてとにかくその勢力を伸ばさせた。赤毛狼の化合物合成能力のおかげで土壌が枯れることはない。
エネルギーリソースの確保のためだ。原結晶には頼らないエネルギーが必要だった。自分たちを召喚した何者かに反逆を決めた今、その制御下にあるかもしれない塔をいつまでも頼りにできると考えるのは馬鹿げている。
そうした上でまず行ったのは赤毛狼の改良だ。
ヴァティの【能力】を引き継いだ飛逆は、彼女がルナコードの生成用に保存していた怪物の死体から、その怪物の【能力】のコードを引っ張ってくることができるようになっていた。
そのコードを赤毛狼にコンパイルする。
そうすることで出来上がった赤毛狼は、燃費の悪さと引き替えに流体・土石を操作できる幅広い能力を獲得した。その他の【能力】を付加することもできたが、元々の赤毛狼のそれと相似するものが多く、あえてタスクを圧迫する必要もないとして除外した。
そうした新生赤毛狼は、それでもやたらと燃費が悪くなった。今まで千階層以上のクリーチャー一体から手に入る原結晶で、五~八体に分裂できたところが、一体に分裂するのがせいぜいというレベルである。
この赤毛狼で塔を登らせる。
それが第一案だ。
ただの赤毛狼でもあと千階層を登らせるのは可能だろう。けれどそれでも推定で残り七千五百階層。あるいはもっとあるかもしれないのだから、赤毛狼の増強は必須だった。
ミリスによって計測されたクリーチャーのステータスパラメーターの上昇率は三千階層を超えた辺りで頭打ちになる。ほぼ近似線を描くのだ。だからこの法則が狂わない限り赤毛狼だけで突破できる見込みではあるのだが、そう甘くはないと考えられる。推定でも一万階層以上であれば、三千階層は漸く中層に差し掛かった程度だ。そこからはおそらくこの法則が通用しなくなる。具体的には、炎を吐いたり、水を高圧で吐き出したり、爆発したり、そうした能力を持つようになるのではないかというのが飛逆とミリスの推測だ。ドロップ品から鑑みても、燐や火薬、可燃性ガスを塔が手に入れることができるのは明らかだ。高圧水鉄砲なんてのは、千階層のクリーチャーでさえやろうと思えばできるに違いない。異能に頼らずともそうした単純物理以外の攻撃手段はいくらだってクリーチャーにさせることができる。そうしたとき、流体・土石操作がなければ赤毛狼とても行き詰まる可能性が考えられた。
そのための赤毛狼強化である。
飛逆が自分で赴くという案は、少なくとも新生赤毛狼が行き詰まってからだ。
けれど、そもそも塔を登るという案自体が、本当は採用したくない消極案だ。それはあまりにも素直な回答であり、召喚した何者かの思惑に乗ってしまっている感覚がひどく気持ちが悪い。
そもそも実は塔が月に繋がっているという保証さえもない。千五百階層で攻略を止め、引きこもってしまったヴァティはそれを確かめることさえしていないため、情報がまるでないのである。
因みに千五百で攻略を止めたのは、ヴァティの判断ではなく、クラン議会の判断だった。理由は無為に人材が失われることと、逆に、千五百以上で生き残れる者の出現を恐れたという思惑が噛み合ったのだ。
クランはエリートで構成されているわけで、トップランカーはその選出基準の一つである。従って、誰であっても容易には生き残れない環境で有為な人材が失われてしまってはクランを拡充することができない。けれど逆に、そこで容易に生き抜けるほどの才能が環境によって育まれてしまえば、エリートたる自分たちの立場がない。
そういうところは人間臭いのがクランだ。それくらいしかもう彼らには目標みたいなものがないということの証拠でもある。
閑話休題。
次案として、直接月に赴くというのがある。
要はヴァティが試しに行ってきたことだ。ただし、最低でも大気圏外には出なくてはならないから、安直に地上から樹を伸ばすとか、あるいは第二の塔を建てるなどということが非常に困難であることは、ミリスが言った通りである。
〈マジで軌道エレベーターを作る気ですか~……〉
そのミリスは呆れていた。
その具体性が理解できるからこそ、それがどれだけ困難なことなのかも理解できるためだろう。
「静止軌道まで、今の俺の半分ほどの精気を有した種を上げることができれば、それほど難しい話じゃないはずだ」
〈ああ~、そういえば質量を突然出現させることができるっていうチートがあるんでしたね~……。だとしても~、難しいと思うんですが~〉
静止軌道上まで打ち上げれば、そこから惑星から離れる方向と地上への方向へと同時に質量を伸ばす。すると遠心力と重力とが釣り合ったままにできる。静止軌道から外れないようにできるということだ。
このモデルで問題なのは、資材をその静止軌道まで運ばなければならないということだ。更には断熱圧縮やら遠心力やら重力やらに耐えられる資材でなくてはならない。
他にも色々と問題はあるだろうが、飛逆は地に足の付いた知識しか持っておらず、どんな問題があるのかこれ以上には思い付けない。
〈そもそも静止軌道までどうやって上げるつもりです~? 質量を極力抑えたとしても~、姿勢制御なんかの推進剤とか必要ですし~、割と容積と容量を食われちゃいます~。大気圏外まで脱出するのさえ現状じゃ~難しいですよ~〉
「大神樹の樹皮や種皮を導電性ポリマーに作り替えて、地下熱エネルギーを自由電子の移動で生じる電圧から電力に変換して通電、磁気を発生させて……要は電磁カタパルトを作って撃ち出す。電力が足りなければ俺が直接熱を送り込めばいい。推進剤はもちろん俺が合成する」
〈ぶっ! と、とんでもないこと考えますね~。ぶっちゃけそれってレールガンですよね~? で、でも~……確かに~、最大の問題点である砲身と弾体を保たせることは~、ヒサカさんなら可能なわけで~……うわぁ、実現できそう~……ですが~……正直その計算をするのにワタシのタスク総動員しても相当の時間がかかりますよ~。宇宙工学とかワタシだって専門外なんですから~、何度も試行しないと~、どの計算式が必要なのかを探るだけで年単位かかりそうな~……。巨人兵量産計画なんてやってる暇がなくなっちゃいます~〉
「それなんだが、俺とお前だけにやるには、確かにこれは規模が大きすぎる。だからクランの鍛冶とか練成の職人にも手伝わせようかと思ってる」
ちょうどクラン議会から、職業に関して案があれば提出して欲しいという要請は受けている。斡旋できる仕事を増やすのは、公務の一つである。
〈えぇ~……教育とか~、面倒臭いんですけど~〉
クランの連中は、この世界が惑星かどうかすら知らないレベルだ。けれどそれは知識水準が低いというだけで、頭が悪いわけではない。筋道を立てて理論を教授すればある程度までは戦力として数えることができるようになるだろう。
けれどミリスの言うこともわかる。時間もかかるし、基礎的知識がない人間に教えるのは、違う分野の学識者同士がそれぞれ別の高度専門的な議論を成立させることよりも難しい。
「俺もそれは面倒だと思う。だからそれ専用のコンピュータもどきを作って、連中に覚えさせるのはそれの扱い方だ。ハードとインターフェイスは俺が作る。植物操作と赤毛狼を併用すればそう難しくはないはずだ。お前は基本的なオペレーションシステムとシミュレーションプログラムと画像モデリングプログラムを組んでくれ。連中にはひたすらデバッグしてもらう」
〈……お、おぉ~……確かにそれなら~、巨人兵の操縦プログラムと平行して開発できますね~……〉
「というかそっちもとっとと片付けてしまおう。今何が問題だ?」
巨人兵は、筐体はできているが、それに内蔵させるプログラムの開発に難航している。
〈ん~、一番の問題は~、ワタシが自分で思っているよりもずっと思考速度というか~、反射神経? そういうのが早いってことなんですよね~。並列処理が得意なせいだと思うんですが~。だからワタシを基準にして組んだプログラムだと~、致命的にレスポンスが遅すぎて~、ヒトに操縦できるような代物じゃなくなっちゃうんですよね~。ノックバックであっという間に中がシェイクされちゃって~、それを抑えるようにしたら~、かなり遅いんです~。姿勢制御すら間に合わないレベルですね~〉
「よしわかった。それも連中自身に開発してもらおう。現状だと何が問題なのか、お前自身には解析しづらいってことだろ?」
〈まぁざっくり言えば~。ですが~、現状搭乗テストさえ難しいって話です~。搭乗室にシチューができちゃいますよぉ〉
「ああ。だから、連中を強化する」
〈眷属にしちゃうんですか~?〉
飛逆はあえて、これまでトップランカーの連中を自分の眷属にすることを避けてきた。それを撤回するのかと、ミリスは首を傾げる気配を発する。
「いや、薬で強化人間にしてしまおうって話だ。そもそも眷属化したところでお前みたいな並列処理や俺並みの思考速度は実現できない。死なない確率が上がるだけで、ダメージを受け続ければ早晩、修復のために増殖した赤毛狼に意思を喰われる」
眷属にさせない理由にはならないが、否定する。
「つまり神経加速剤を作る。それと平行して【言語基質体】のフォーマットを変更して、お前の操作プログラムを連中の頭に直接書き込めばいい。要はお前の思考分割タスクに匹敵するほどの思考速度があればお前の操縦手順で使いこなせるんだろ?」
〈と、とんでもないことばっかり言いますね~……。というかそれらの開発がそもそも相当難しい気がしますが~〉
「神経加速剤はすぐにでも作れる。コンピュータと同じく、神経伝達速度で問題なのは結局距離だ。軸索が短ければ……ニューロンからニューロンへの距離が短ければそれだけ早く出力される。お前の思考速度が速いのは、やっぱり異能なんだろう。お前の髪は距離を無視して情報を伝達するからな。思考の反射速度が早いっていうのは要は脳反射のタスクが作られるから、最適化されて狭まった道を通るために出力までが早く感じるってことだ。だが経験を積んで脳反射経路を作って思考速度を高めるほどの時間もないし、その経験を詰ませる過程の負荷に耐えられない。だから、神経伝達速度自体を高める。具体的にはイオンチャネルを強化する。細胞同士の伝導率を高めるためにギャップジャンクションも強化する。それらのイオンを貯蔵している小胞体の受容体も強化。それらの強化の後に細胞内シグナルに相当するタンパク質をレスポンスが早い薬物に代替させればそれだけで相当の神経伝達速度の加速が見込める」
〈と、溶けちゃいそうですね~、脳みそが~〉
「熱はそれらの反応……チャネルの開閉とかを起こさせる動力源のATPを産生する過程で発生するものがほとんどだ。だからATPの産生を抑制しつつ代替する異能化学物質を同時に注入すれば大概問題はない。もちろん化学反応とイオンの磁気摩擦で発生する熱量で多少は頭が茹だるかもしれないが、そこら辺は加減すればいい。というかそういう物質を合成する小胞体を作るサイクリックDNAでも細胞内に仕込むか? 普段は休眠させて特定の薬剤で起動するようにして……冷却剤はおそらく合成できるし……むしろその熱量を吸収して促進される化学反応にすればいいか」
言っている途中で案を思い付く。やはり他人に聞かせるのは有意義だ。具体案が出されなくとも思考がまとまっていく。
〈な、なんだかわかりませんが~、そこまで行ったらそれってもう人間じゃない気がするんですが~〉
「別に、俺の血族にならなければ問題ない」
その線引きはどこからなのか、それを飛逆は決めていないし、わかっていないけれども。
彼らを人間ではなくすことは別段、飛逆はどうだっていいのだ。
〈それにしても~、神経加速剤とか~、そもそも【能力結晶】がそうでしたが~、なんかゲーム的アイテムがどんどん出てきますね~……〉
「俺はゲームには詳しくない。使い道がなくてもアイデアがあったらどんどん出してくれ。作れるかどうか検討しよう。クランの連中に卸せば勝手に使い道が見つかるだろうし」
地上での戦力を拡充しておくことは、万が一飛逆だけではどうしようもないことに直面したときに役に立つ。
〈わかりました~……けど~、ワタシはいつになったら解呪できるんでしょうか~……〉
「そっちはウリオの成果待ちだ。正確にはハルドーとかいう医師だが。外部入力でヒトの意思を強化することができるようなら、能力はそのままで外見だけヒトに戻れる」
ミリスに今から能力が失われることは、飛逆としては許容できない。どこまでが彼女に元々備わっている能力なのかわからないため、研究開発に差し障りがでてしまいかねないためだ。さすがに知識だけでどうにかなるような開発ではないのである。
〈やっぱりワタシをヒサカさんの眷属にはしてくれませんか~……〉
ミリスは至極残念そうな響きで言う。
現状でさえ、彼女を眷属にすれば――赤毛狼と植物操作の【能力】を扱えるようにすれば、確かに思考の平行処理できなくなる(かもしれない)などのデメリットこそあるが、飛逆に準じる技術力を発揮できるようになり、プラスマイナスゼロくらいかもしれない。
「正直、迷ってる。お前を喰えば、赤毛狼たちの【能力】をお前の髪憑きに合成だってできるし、その上でお前を眷属化すれば、むしろ開発能力は向上するからな。お前は怪物との適合係数は高いって証明されているわけで、他の眷属よりも強力にできるし」
モモコを残しておけば、この『チュートリアル』は終わりにならない。
合理的に考えれば、ミリスを一旦解呪し、その上で眷属化することは、やらない手はない。
怪物との適合係数――どれだけ怪物に精気を送り込んでも(【能力】を使用しても)制御を失わないかという目安の値――は、すでに怪物を宿している自我を保っていることから、他のただの人間よりもずっと高いことは証明されている。不適合による暴走の可能性は低い。
この係数は、ウリオからヴァティを甦生させるための研究を任命されたハルドーが、精気を感知する樹木を用いて計測し、理論として組み上げた。今のところ彼の一番の研究成果である。
ウリオなども高い方だが、飛逆の見立てではおそらくミリスはその倍は行けるだろう。
因みにこの係数が最も高いのは、飛逆という怪物を除けばヒューリァだ。彼女は飛逆の半分に匹敵するほどの精気量を有することができる。それは怪物付きのミリスと比べてさえ、膨大だと言える量だ。【神旭】による怪物性の肥大の抑制が行われているということを考えても、飛び抜けていると言えた。
他の人間であれば、少なくともヒトの形を保つことができなくなっているだろう。もちろん意思など消し飛んでいる。デメリットがあるとすれば、一定以上の精気がなければ意識を保てないことと、飛逆の血からしか補給できないことくらい。後者に関しては、眷属全員に言えることだ(クランの連中はヴァティの育てた果実を定期的に食わなければ生命維持できない)。
ヒューリァは間違いなく『特別』なのだ。
そんな『特別』、求めてはいないだろうけど。
だから、迷う。
〈……決まったらお願いします~。ワタシの希望は今言ったとおりですので~〉
ここでがっつけばひねくれ者の飛逆は引くだろうと察したのか、ミリスは大人しい言い方をした。
〓〓
つくづく厄介な契約を結んでしまったと飛逆が思うのは、こういうときだ。
「それは俺に持ってくる必要があるのか?」
ヴァティと交わした契約は、確かに飛逆が好き勝手にしてもいいというものではあったが、クランというヴァティの眷属集団を『生かして』おかなければならないという大前提があってのことだ。
ヴァティは『変化がなければ死んでいるのと同じ』だと言っていたが、逆に言えば『死んだように生かす』ことはできないということ。曖昧模糊とした『生の実感』とやらを、飛逆は彼らに供給しなければならない。
けれどだからといって、
「食事をどうにかしろって……舐めてんのか、マジで」
ミリスと取り決めしたいくつかのことを周知させるために開いた会議で、ついでにクランからの要望を上げさせてみたら、そんなのが入っていた。
「はっきり言うと、我々がどこまでキサマに要求しても良いかというラインの見定めのために混ぜた案件だ」
「……滅ぼしたい」
正直に言うウリオだが、そんな彼を飛逆は本気で殺したかった。ついでにクランを滅ぼしてやりたかった。
先刻までの会議の内容から、飛逆がそんなことに構っている余裕がないことくらいわかっているはずなのにその物言いだ。
ウリオにご機嫌窺われても腹が立つが、ある程度のお為ごかしは必要なのだと、知りたくもなかった社会性の不条理について学習した飛逆は知らず溜息を吐いた。
「だが、比較的要求の声が高い案件でもある。確かにキサマが熱心に解決に乗り出しそうにはないとは予測していたが、我々がなるべく早く解決したい問題だ。クランの一部で就労への意欲が減じていることは報告に上げたとおりだが、そのモチベーション低下の一因となっている」
「その理屈はわからんでもないけどな」
食事という行為自体が活力源となるという、生物として真っ当な心理作用は、理解できるが。
彼らにやりたい労働がないというのがそもそも問題だ。飛逆が最初に反逆の芽を抑えるために飴を与えすぎた結果である。衣食住のどれかをもう少し加減して与えれば、彼らはその獲得のためのモチベーションを得ることができただろう。
「つか、ドロップ品を自由にさせてるのに、何が不満なんだ?」
「我々が必ずあの不味い実を食さなければならないということが、問題なのだ。あれで腹が膨れるため、あえて他の物を調理してまで食おうという気力が削がれる」
「ぶっちゃけそれで意欲が出ないとか言う奴は死ねばいいと思うんだが、そうもいかんか」
これは別に、飛逆がヴァティとの契約に縛られているから『そうもいかない』のではなく、集団の場合、必ずそういう層は出来るのだ。
とはいえ、蟻の巣では全体の三割が働かない蟻だとは有名な話だが、彼らは単に休んでいるだけで(働き蟻はシフト制なのだ)、怠けているわけではない。これが示すのは数が多いと偏りが目視しやすくなるということであり、怠けている層が生まれることを必要悪だと肯定する現象ではない。休んでいるのではなく、怠けている層は放置してはいけないのだ。
仮に今そうした不満を表に出している連中が死んだところで、後になれば、また似たような層が出来る。集団では偏りが必ず発生する。そして死んで、数が減る。割合としては小さいかも知れないが、積み重なればそれこそ全滅するだろう。対処してもイタチごっこだが、対処しなければ衰退するという、これまた不条理な原理である。
「一応我々のほうでも食堂を開くなどの案は講じているが」
「効果ないだろ、それ。そんな連中は結局、旨い不味いは大して問題じゃなくて、食うこと自体が面倒臭くなってんだろうし……なるほどね、結構な問題だ」
結局問題点は、自由度のなさなのだ。どれだけヴァリエーションが豊富だろうと、喩え旨かろうと、それに縛られているという感覚が閉塞感の原因であるのなら、仮に『旨い物』を供給したところで効果は薄い。
「旨い果実に品種改良するのは大前提として……逆に、食えば腹が減るような果実にするか。そうすれば調理にも食事にも精が出るようになるだろ」
眷属化すれば真っ当な食事は必要なくなる。けれど食欲自体が無くなるわけではない。結局普通の食料とは、飛逆含めて全員にとって嗜好品でしかない。ならばむしろそれを強調してしまうという手段は、多少は効果が見込めるだろう。
「それで解決するのか、という私の疑問はさておき……可能なのか、そんなことが」
「異様に消化がよくてインスリン分泌を亢進させるような薬品を混入すれば、血糖値の上昇と低下が交互に来て、すぐに腹が減るぞ」
赤毛狼と混合した今の『植物操作』ならば果実自体にそういう成分を合成させることが簡単にできる。
「申し訳ないがその案は棄却していただけるかな」
これまで沈黙を保っていたハルドーが控え目な声量で発言した。
「副作用は極力抑えるが?」
もうそれで問題は片付いたことにしたい飛逆だ。
何気にウリオも、この問題を引っ張りたくなかったようで(ヴァティの甦生という大目標のモチベーションがあるウリオにとって、嗜好を満たすことなどどうでもよく、この問題の元となる連中に共感できず、理解できないのだろう)、飛逆と同じ気分らしい。必要性は理解できても納得できない。怪訝そうにハルドーを見やる。
「そのような果実があれば、それを食べ過ぎてしまうのではないかという懸念がありますな。適合係数の低い者であれば、そちらの言うところの『発芽』に至ってしまうでしょう」
「……ありえるな。ある種の中毒を促す仕組みだからな……。インスリン分泌亢進を除いても、旨くしすぎると結局はダメか」
困ったことに、ハルドーのそれはとても真っ当な意見だった。
果実それ自体に薬物依存性成分が含まれていなくとも、満腹中枢(血糖とインスリンで励起する)刺激の上げ下げなどを行えばその揺り戻しで依存症状が促される。理性ではこれ以上食べてはならないとわかっていても、抗えないから依存症なのである。
「怪物の眷属相手にまさか生活習慣病予防を講じなきゃいけないとは思わなかった」
生命維持がヒトよりも容易い眷属連中ならば治世も多少は楽ができるかと思いきや、甘かった。飽和した供給は怪物をも殺す。
「食に変わる嗜好品を用意するのも一つの手だが……虚しさが加速するんだよな、そういうことすると。自然発生的ならともかく、俺たちから供給するのは無しだ」
本気で八方塞がりだった。
「いっそ仕事にノルマ制を導入して、果実の配給を制限するか……っていうのも、連中に反逆の大義名分を与えるだけ」
別に反逆されても粛正の名分を得ることができるのは飛逆にしても同じだ。けれど前述したように、それを繰り返せばクランは衰退の坂を転げ落ちる。ただでさえ組織としては人数が少ないクランの場合、蜂起されれば一度で致命傷だ。
「根本的な解決にはならないし、面倒臭いが『調理すれば旨くなる果実』を設計するか」
手間暇かければ美味しくなるとなれば、少なくとも調理への意欲は向上するだろう。美味くできたときに達成感も得られるし、逆に、手間をかけさせることで食べ過ぎへの抑制にもなる。
「ほう。それはよろしいのではないですかな」
ハルドーは好々爺然とした笑みを浮かべて肯くが、彼の見た目はクランの中では老けている方だとはいえ、それでも中年よりも若い。このギャップ感を本気でどうにかしてほしいと飛逆は密かに思っている。
「だが、言ったように根本的な解決にはならないし、あと本気で面倒臭いぞ。いくつもの『旨い味』っていうのから逆算して、例えば加熱なんかの手間を掛けて初めてそれが再現できるような組成にしなきゃいけない。『旨さ』のパラメーターを作ることから最終的な調整まで含めると、やたら時間がかかりそうな……ああ、それも職業の一つに追加するか」
「料理人ならすでにいるが?」
ウリオは半信半疑のようだ。
「調理じゃなくて、素材の組成パターンをクランの連中に任せるってことだ。つまりは品種改良開発だな。下手に任せるとそのままで『旨い実』っていうのを作っちまいそうだからそこらへんのブロックが面倒だが……そうだな。クランへの忠誠度が高くて、こっちの事情を理解できるくらい頭が回る奴に限定してこれを任せよう。方法はさっき言ったシミュレーションプログラムでパラメータ調整して、上手く行きそうだったら実際に作るってことにする」
「なるほど……よくわからんが、ではこの問題はそのように処理するとして……」
仮想的情報処理という概念が上手く理解できないらしいウリオは、けれどとりあえず納得することにしたようだ。
「だが今度は職種が増えすぎだな。働き手が足りん。軌道エレベーターだかなんだかの事業とこの品種改良? 及び意思甦生開発研究で半分は占められる。意欲の維持のため、生活の充実を考えればその半分では回らない」
「あぁもう……」
次から次へと。
品種改良は全体的な勤労意欲の回復に必須であり、圧迫されるのは軌道エレベーターのほうだろう。だが飛逆としてはこちらのほうが優先度が高い。意思甦生開発が完成すれば労働人口を増やせるので、やはりこちらのほうが優先されるわけだが、進捗から考えてどう見てもまだまだ時間がかかる。ジレンマだった。というか根本的に人口が足りない。
「産めよ増やせよなんてやってる時間はないし……本気で外交するしかないか……」
真っ当な方法でどうにもならないのであれば、他所から引っ張ってくるしかない。
「侵略戦争はともかく、戦後調整なんかやってる暇はないから、難民の受け入れしかないな。条件の合いそうな国があるようなら資料にまとめて寄越せ。輸送手段はこっちでなんとかしておくから、距離は考えなくても良い」
「了解した、が。キサマらが出現する以前の情報しかない。遠方の国には新しく間諜を送り込むしかないし、隣国であっても現地に潜む者に連絡を取らせなければならない。しばし時間がかかるぞ」
「……騎乗用赤毛狼を出す。携行できるように樹木に寄生して発生するような種にするから、いくつか持って行かせれば現地で顕現できる。見た目が問題だってんなら毛皮でも被せて馬にでも見せかけろ」
またやることが増えた。一人二人ならばともかく、大人数の移動となれば燃費の悪い赤毛狼や巨人兵ではどうにもならない。受け入れ体制を整えること自体はすでに過剰なので、いますぐ十万増えたところで問題はない。
問題は時間だ。国にとって手に余るから難民化しているのだといえども、ほいほい人口を受け渡しなどしていては国体が立ちゆかなくなる。喜んで差し出したいのが本音でも、何か条件を付けてくるのは間違いない。故にどうせこの辺の折衝にも時間がかかるだろうから、すぐにでも事業を進めるためにその間に短時間での大人数移動手段を確立しておかなければならない。
またミリスと相談するしかない。
一旦会議を切り上げて、彼女が最近入り浸りの巨人兵開発区画へと移動する。
ミリスは会議に出席する暇もないほどオペレーションシステムの構築に忙しい。今も、飛逆がプロトタイプとして作ったインターフェイスに向かって髪を方々に伸ばし、カタカタとやっている。樹皮とヒカリゴケを改造して作製した有機液晶画面には、言語化されていく赤毛狼プログラムがずらっと並んでは流れていく。形而上にある(割とファジーな)プログラムを規格化していく作業が行われていた。
〈話はわかりましたが~……何やってんでしょうね~、ワタシたち~〉
「言うな……俺も泥沼に嵌り込んでいる自覚はあるんだ」
すべて必要なことなのは間違いない。けれど本末転倒している感がどうしても否めない。
本来ならそれこそ集合知によって組み上げられるはずのオペレーションシステムなんぞを一人で開発しているミリスは、声の調子だけでもげっそりしていることがわかった。
つくづく異能という奴はチートだ。プログラミングについて詳しくもない飛逆が、そうと想起するだけで上手く動くようにデバッグされていくわけで、ミリスがやっていることはそのデバッガを移して翻訳していくような作業だ。言うなれば異能という不条理の言語化である。気取った言い方をするならば、神の作ったシステムをほんの一部とはいえ拝借しているようなものだ。あくまでも比喩ではあるが。
〈けど~……やってて思ったんですが~、この作業ってもしかしたら~、意思甦生開発の一助になるかもしれません~〉
「頭にオペレーションシステムを書き込むのか?」
〈あくまで呼び水として~、ですけどね~。擬人格みたいなもので~、脳を使用させれば~、それが刺激となって~、本来の人格が目覚めるかも~?〉
赤毛狼寄生の眷属では、ある程度自律し命令を聞くが、それは実はヒト部分を使っていないことが明らかになっている。このことからヒトの『身体』を自律させなければならないのではないかという推論が浮かぶ。このオペレーティングシステムをヒトの脳に書き込めば、それが実現可能なのではないか、という話だ。
「ありえるな……。こっちの開発が一段落したら、ハルドーにこのシステム自体を渡して検討させよう」
〈意外と~、彼~、役に立ちますからね~〉
地味だが、適合係数という理論式の発見はそれなりの勲功だ。
もちろん飛逆たちもそれらを言語化しないだけで、体験的に理解はしていた。けれど逆にそうした理論として組み上げようという発想がなかったのだ。
「伊達に長年怪物の眷属を診てきたわけじゃないってことなんだろう。何気に大脳皮質だとか小脳とかの大まかな区分やそれぞれの役割は理解していなくても、『空想領域』とか『原始領域』って感じで脳、というより意識をある程度体系化して理解してたらしい」
〈考えてみればそりゃそうですよね~。彼の場合~、単純な生命維持だったらあっさり解決してしまう怪物たちの中で医師なんてやってたんですから~、精神医学分野に特化しますか~〉
「まあ、だとしても海馬やら扁桃体やら歯状回だのって記憶の仕組みの基本からニューロンと軸索とシナプスとかの基礎的な仕組みを教えるまでやらないと、このシステムを渡したところで有効に使えるかどうかはわからんけどな……。計測装置を作るしかないか……PETも磁気共鳴装置も俺が構造を理解してないから再現できないが……ラベリングした疑似神経伝達物質……グルタミン酸様物質とアセチルコリン、ノルアドレナリン、ナトリウム、カリウム、カルシウムイオン様物質……ミクロレベルをリアルタイムで走査してモデリング画像を表示できるようなシステムを作れば……ラベリングに放射性同位体は却下として侵襲が小さく生体電位を乱さないとしたらどんなのが……硬膜の下に直接電極を埋め込むか……いや、極小の擬態赤毛狼に通り道を記憶させてそれを……生体ノイズの解析には……暗号解析処理を……」
〈ヒサカさ~ん。ドツボに嵌ってますよ~。ていうか怖いです~〉
またやることを増やそうとしていた飛逆は、ミリスになんとか引き戻された。
「……すまん」
面を上げて、額に手を当てて溜息を落とした。
〈疲れてるんですね~……わかりますけど~……〉
不意に、会話している間も流れ続けていたタイピングの音が止む。
唐突に訪れた静寂が、奇妙な緊張を醸し出す。
繭を纏っているせいでわかりにくいが、ミリスは身体を飛逆に向けたようだ。
奇妙な緊張感の発信元は、ミリスだった。
飛逆が怪訝を浮かべると、ぱらり、とあっけなく繭が解かれる。
〈……〉
「何をしてる」
なおも飛逆は怪訝顔だ。その繭の下が拘束衣ではなく、ミリスの裸身であっても、それ以上の動揺はなかった。
彼女は無言で、拘束衣を編むわけでもなく、飛逆に近づく。
そして、そっと飛逆の顔に手を触れた。悲しいことに縫合糸に縫われたその指は、柔らかいというよりチクチクした。
〈……避けないんですね~〉
「お前のことは信用してる。ただ、なんのつもりだろうなっては思ってる」
〈なんか、ヒサカさんの疲れたところにキュンキュンしちゃったんです~。ほら〉
飛逆の開いた手を持ち上げて、ミリスは自分の左胸に置かせた。
早くはないが、強い鼓動が伝わってきた。
徐々に、早くなっていく。
〈真剣に、向き合うには、こうするんでしたよね~……ワタ、ワタシはマジです〉
ようやく、飛逆は、ミリスに迫られているのだと理解した。
「お前な……このクソ忙しいときに……」
〈忙しいからこそ~……です。気分転換、しなきゃ、ダメじゃないですか~〉
よほど恥ずかしいのか、どうしても茶化すような雰囲気を混ぜるが、飛逆の顔から手をどかさないし、飛逆の手を離そうとしない。
ミリスはどうやら本当に真剣だった。
「そうじゃない。俺の答えは変わらないってことだ」
よりによって今、真剣に迫られても、困るだけだ。
どうしたら彼女を傷付けずに断ることができるだろうか。
彼女を尊重しているからこそ、真剣に迫られれば真剣に応えたいと思う。けれどどうしても今は打算が働く。今、彼女に落ち込まれては能率に致命的な差し障りが出る。そんな打算で彼女に返答したくはない。
ジレンマが飛逆に言葉以上の拒絶を封じた。
クスリ、とミリスは笑ったかも知れない。
〈手慰みの、お遊びでいいんです。全部を向けてもらえるなんて、思ってません。ワタシじゃヒューリァさんの代わりにはなれません。それはわかっていますから〉
ミリスは、この時を狙っていた。
それをようやく飛逆は察する。
拒絶できないことを、ミリスは知った上でこうしている。あるいはずっと、この時が来ることを待っていた。飛逆の性格を分析し、自分の存在感を示して――有用性を証明し、代わりのいない存在であると飛逆に知らしめた上で、飛逆が拒絶できないように――どこまでも打算的に、ミリスは情を迫ってきていた。
それが彼女の、この上ないくらい真剣なやり方だった。
〈ワタシで遊んでください。ほら、ワタシってマゾですから~。そんなんで悦ぶんです〉
万難を排してのこの行動は、けれどミリスに恐れがないわけではない。
その証拠に、彼女は細かく震えている。自在に動く彼女の髪は、今にも彼女が頑なに隠したがっていたその縫合痕を隠そうとして、けれどそれに抗ってうねっている。
こうまでしても拒絶されるかもしれない。
誰だって認めてもらいたい誰かに拒絶されるのは怖い。
それは飛逆も例外ではない。だからわかる。わかるからこそジレンマだ。
そうする間にミリスは次の行動に出ていた。動かない飛逆にぴったりとくっついて背中に手を回す。ぎこちなく、服をめくって手を差し入れてきた。冷たい手だった。緊張で冷え切っているのかもしれない。
これからどうしたらいいのかと迷うような手つきを感じながら飛逆は、場違いなことに、胸にすっぽり納まる彼女が、やっぱり小さいな、なんて思っていた。
ヒューリァとは違うんだな、なんて――
思ったところでそっとミリスの両肩を押して、距離を拡げる。
〈ぁ……〉
彼女の縫い付けられた眼は物を言えないが、端を縫い付けられたその口は泣き笑いの形になっていた。
「ごめんな、ミリス」
〈あ、あはっ……。あははぁ……――謝らないでくださいっ!〉
誤魔化そうとして失敗した歪んだ笑みの後に、涙を流せない彼女は、ありもしない涙を隠すように俯いて、飛逆の胸をドンっ、と叩く。
「その望みは叶えてやれない。だからごめん」
〈だからぁ……っ〉
再び胸を打たれる。
顔を埋める彼女の頭に手を置いた。
しゃくりを上げる彼女の頭をしばらく撫でる。
少しだけ落ち着いた様子になった頃に告げた。
「代わりにはならないが、……せめて泣けるようにしてやる」
〈――ぇ?〉
「悪いな……こんな応え方しかできなくて」
飛逆の髪が茶褐色に染まり、琥珀色の瞳に切り替わる。
顔を上げた彼女は、やっぱり泣き笑いの形を浮かべていた。
〈あ、ははは……誤算でした~。二つを同時に望んじゃ、ダメだったんですね~〉
彼女の頭に置いた手が、暗色にして虹色の光を発する。
〈――でも、卑怯です〉
それが彼女が呪いから解かれる以前の最期の言葉となった。
「……本当にな」
飛逆の同意する言葉は、彼女の絶叫に呑まれて消えた。




