2.3 シークレット・コール(Layer:2 Side Story)
「お待たせしました、申し訳ありません」
秘話機能付きのワイヤレス受話器を、秘書からひったくるように取り上げた男は、開口一番に陳謝をした。重要な会議も中座して、三分も待たせずに応対したはずだが、それでもこの相手には失礼に当たるのだ。
受話器からは、聞き覚えのある落ち着いた声がした。そして、その声が告げた用件は、男が最高責任者を勤める組織の存在意義を覆すような内容だった。
「……ともかく、余計なことに首を突っ込まないでもらいたい。『キツネ狩り』は、我々の仕事だ。君もまだ退職などしたくないだろうし、部下を無駄に死なせたくもなかろう」
その言葉には、有無を言わせない迫力があった。男の背すじを、悪寒が這い登ってくる。
「わ、分かっております、ご意向には従います。ですが、その……、ほんとうに大丈夫なのでしょうか。例の事件、あまり長引くと市民に不安が広がりますが」
この相手に逆らえば、自分の立場が危うくなることは十分すぎるほどわかっていた。それでも男は、用件の重大さに対する純粋な恐怖感から、そう問わざるを得なかった。
受話器から、くぐもった笑い声が聞こえた。
「分っていないようだね、君は。ソールズベリー・ディストラクションを、もう忘れたのかね?」
その言葉に、男は戦慄する。
それは、ソールズベリー平原で起きた大爆発事件の通称だった。
今から二ヶ月ほど前の五月一日深夜、世界遺産のストーンヘンジ付近に、突如として巨大な火球が出現した。
その直後、衝撃波と熱波を伴った爆風が、すぐ近くにあるラークヒルとエイムズベリーの町に襲い掛かり、相当の被害を与えた。被害は、家屋やビルや自動車の窓ガラスが割れるなどの物損が主で、人的な被害は、ガラスの破片で怪我をするなどの軽微なものであった。爆発が起きたのが深夜であったため、外出している人間がいなかったことが不幸中の幸いだった。
一夜が明けると、爆発現場周辺は、見るも無残な状況になっていることが確認された。
ストーンヘンジは跡形もなく消滅し、直径一〇〇メートル、深さ二〇メートルほどのクレーターができていた。そして、半径約五〇〇メートル、面積にして八〇万平方メートルあまりの草原は、一面に真っ黒な焦土と化していた。
事件は、マスコミによって大々的に報じられた。
当初有力だったのは隕石落下説だが、爆発に先立って陸軍が出動していたことが判明してからは、軍事作戦説が有力になった。現場付近から、超高熱にさらされて溶解した岩石が見つかったことから、小型戦術核兵器の使用疑惑まで飛び出したが、放射能がほとんど検出されなかったことでその説は消えた。
さまざまな憶測が飛び交うなか、マスコミにその矛先を向けられた政府や軍の対応は拙く、事件は大きなスキャンダルに発展するかに見えた。
だが、事態はそこで急展開を迎える。
原因不明の大爆発は、対テロリスト作戦行動中だった陸軍航空隊所属の攻撃ヘリコプターが、広範囲を焼却する性能を持つ気体燃料弾頭ミサイルを誤射したことが原因だったと、軍が発表したのだ。その後、数人の将校と攻撃ヘリコプター搭乗員が処分され、事件は一気に終息した。
「……あれは、明らかに軍と警察の怠慢が原因だよ。君たちの地位と体面を守ってやったのは、誰だと思っているのだ。こちらにちょっかいをかけている暇があるのなら、早く『よもぎ狩り』を終わらせたまえ。来週には、君たちにとって重要なイベントがあるのだろう? 万が一、ロンドンで事が起きたらどうするつもりだ。我々の力にも、限度がある。今度も、あれくらいで済むと思っているのなら、大間違いだよ」
それは、事件の真相を知っている者にとって、たんなる脅しではなかった。
表向きには終息したソールズベリー・ディストラクションだが、実際には事件は終わっていないし、それを引き起こした状況も変わっていなかった。
オペレーション「よもぎ狩り」。
それが、その状況を表すコードネームだ。陸軍一個連隊と特殊部隊、そして首都警察の一部も動員し、テロリストに盗み出された「Wormwood」と呼ばれる有害物質を回収すること、同時にWormwoodに汚染された者たちを処分することを目的とした極秘作戦である。
だが、ソールズベリーで行われた第一次作戦は、結果として失敗だった。
想定していなかった勢力からの攻撃を受けたことが原因だったが、汚染者たちを取り逃がしただけでなく、Wormwoodの一部を放出させてしまうという大失態を犯したのだ。Wormwoodが風に乗ってロンドンに到達すれば、数万人単位の犠牲者が出る、そういう最悪の事態をかろうじて回避できたのは、今電話で話している人物を中心とした、ある組織の助けを借りることができたからだった。
その代償が、ソールズベリー・ディストラクションというわけだ。
そして、現在は作戦地域をロンドンに移して、極秘裏に第二次作戦が行われている。そういう状況である以上、あの悪夢のような出来事が、再び起きないという保証はないのだ。
「……なにか、まだ言いたいことはあるかね」
男の背中を、冷たい汗が流れる。
「いえ、ありません」
「よろしい、こちらの用件は終わりだ。重要な会議中だったのだろう、早く戻りたまえ」
そして、一方的に電話は切れた。
男は、脱力したように、革張りの椅子に腰を下ろす。
会議室では、各部署の責任者たちが、次の議題の審議開始を待っている。議長である自分が戻らなければ、会議が進行できない。今日中に決裁しなければならない議案が、まだたくさん残っているのだ。
しかし、男はしばらくのあいだ、椅子から立ち上がることができなかった。