E.1 森へ還る妖精への鎮魂歌(Layer:3 Fairy Story)
「意識レベルは?」
「GCS、E1、V1、M1。昏睡状態です」
「バイタル、チェック」
液晶ディスプレイに表示されたグラフと数値を、白衣の男が覗き込む。
「血圧、測定不能。脈拍、呼吸……」
医療機器に囲まれた移動ICUに、緊迫した声が響く。
「だめですっCPAに移行」
ローゼンクロイツ騎士団ER班の医師は、深呼吸をひとつして、大きな声を上げた。
「CPR開始。人工呼吸と心臓マッサージを」
タンデムローターの大型ヘリコプター、チヌークCH-47Fを改造したこの移動ICUは、コンパクトな救急救命センターと言ってもいい施設を備えていた。
騎士の本分は異種との戦闘であるから、負傷をする者も少なくない。そのため、大規模な戦闘の際には、移動ICUと外科医や救命士で構成されるER班が、戦場の近くに待機することになっている。
今回はバッキンガム宮殿が主戦場と想定されていたため、移動ICUは、実際の戦場となったロンドン塔から離れた、セントジェームスパークで待機していた。
騎士団長の最優先命令は出たものの、デイビッドのハイジャックで航空管制が麻痺していたため、ヘリはなかなか離陸できなかった。医師の独断で管制を無視して離陸したものの、すでに数分の遅れを出していた。そのロスが、致命的な遅延になりかけている。
医師は心の中で舌打ちをする。もっと早く決断していれば……。
ストレッチャーに横たわり、生気のない顔を天井に向けているのは、まだあどけなさすら感じさせる白い髪の少女だ。
どんな戦闘があったのかは知らないが、彼女は危篤な状態にあった。内臓にまで達した腹部の多発外傷による多臓器不全と、それに伴う多量出血。今まで生きながらえていたことが、奇跡のようなものだ。だが、だからこそ、この娘をここで死なせるわけにはいかない。そう思った時だった。
『ダイアグノーシス・シーケンス、コンプリート。セルフ・リカバリー・ファンクション、アベイラブル。システム、リスタート』
ガラス細工のような繊細で硬質な女性の声が、聞こえたような気がした。
医師は手を止めて、あたりを見回す。
――そんな、ばかな。
移動ICUのスタッフに、女性はいない。ここにいる女性は、ひとりだけだ。
医師が見下ろした白い少女は、呼吸が止まったままだった。もとより、声など出せるはずもない。医師は首を振ってから、スタッフに指示を出した。
「CPR、急げよ。本部救急救命センターに搬送する。ぐずぐずするなっ」
エンジンの音が高くなり、タンデムローターが空気を切り裂く爆音が押し寄せる。まもなくヘリは、ふわりと離陸した。
テムズ川を飛び越えた巨大なヘリコプターが、南の空に消えていくのを、マイケルは呆然と見送っていた。
駆け付けたERの医師たちは、エミリーをマイケルの腕から奪うように、ストレッチャーに乗せて連れ去った。それは無論、エミリーには必要な処置だった。だが、まったく無視された挙句にその場に残されたマイケルは、やるせない気持ちでいっぱいだった。
ロンドン塔周辺では、ローゼンクロイツ騎士団の作業員たちによる撤収作業が進んでいた。手慣れた様子で、つぎつぎと偽装工作がなされていく。
陣頭指揮を執っていたハノーヴァー公は、作業員のリーダーらしき人物に指示を与えてから、マイケルに歩み寄ると真横に並んで立った。
「あの子のことが、心配かね……」
激戦を終えてなお、現場で指示を出し続けていたせいか、その声は少し掠れていた。
答えを返せないマイケルに、ハノーヴァー公は穏やかな笑顔をその横顔に浮かべて見せた。
「大丈夫だよ。あれくらいのことで、命を落とす子じゃない」
自信に満ちたその言葉は、マイケルを安心させた。たとえそれが気休めだったとしても、エミリーのことを良く知っている人物の言葉には、なによりも説得力があった。
はい、と答えたマイケルに、うむ、とハノーヴァー公が頷く。
「しかし、君には悪いが、もう君とあの子は会えないかもしれない。それは覚悟しておいてくれ」
ハノーヴァー公は、諭すような口調でそう告げた。
それはおそらく、彼の中では既定の対応だったのだろう。だが同時に、マイケルとエミリーの間に芽生えた思いをわかっている者として、いくばくかの憐憫の情もあったのかもしれなかった。その表情は穏やかなままだったが、どこか悲しげな色が差しているようにも見えた。
しかし、マイケルにとってはもう、ハノーヴァー公の心情は忖度すべきことではなかった。マイケルはハノーヴァー公の正面に回ると、深い色を湛えたアイスブルーの目をしっかりと見ながら口を開いた。
「そのことで、お願いしたいことがあります……」
夜が明けないうちに現場の偽装工作は完了した。そして、周辺を警戒するSASの兵士を残して、騎士団のメンバーは撤収した。
タワーブリッジとロンドン塔で起きた事件は、大規模な爆弾テロであると報じられ、数週間にわたって陸軍による現場の封鎖が続いた。
テロが終結した翌日、スコットランドヤードで記者会見が行われ、五月から続いていた連続通り魔殺人事件が、テロリストたちの内部抗争であったと発表された。そして、事件の全容解明が遅れ早期に解決できなかった責任を取って、警視総監が更迭されたことも明らかになった。
そんな混乱のさなかに、事件に関与したと言って、ひとりの女性がスコットランドヤードに出頭してきた。しかし、事件はすでに解決済みであったので、形式的な事情聴取が行われただけで、立件されることはなかった。
その二日後、スコットランドヤード特殊作戦部テロ対策課のマイケル・ステューダー警部補から、辞表が提出された。記されていた退職理由は、一身上の都合による、の一言だった。
「やはり、行くのか」
アーサー・ウイリアム・ハノーヴァーは、花瓶に挿した薔薇の花束の形を整えながら、彼女に話しかけた。
開け放した窓から、初夏の夕方の涼風が病室に吹き込んでくる。
ベッドの上で上体を起こした彼女の、パールホワイトの髪がその風に揺れた。
「あの男が、いよいよ天に召されるらしい。デイビッドを地獄に送ったわたしの手で、あいつの人生の幕引きもしてやらねばなるまい……」
セシルはそこで言葉を切ると、視線を窓の外に向けた。
「ほんとうなら、あの子がしてやりたかったのだろうがな」
アーサーは、わずかに表情を曇らせたが、それはすぐに穏やかな笑みによって覆われた。
「おまえのことだ、言い出したら聞かないか。だが……」
そして、松葉杖を突いて窓辺に行くと、カウチに腰を下ろした。
「せめて、新騎士叙任式典の後にしたらどうだ。傷はふさがったといっても、あれからまだ三日だぞ。この季節の香港は、病み上がりに対して優しい気候ではない」
アーサーの言葉が終わると同時に、病室のドアがノックされて、メイドがワゴンに紅茶を載せて入ってきた。彼女は、ベッドにテーブルをセットして紅茶とスコーンを並べ、続いてアーサーの横のテーブルにも同じものを並べる。
セシルは黙って窓の外を眺めたままで、病室には静かな時間が流れた。
メイドが退出すると、セシルが口を開いた。
「すこし、急がなければならないんだ。できれば、先にけりをつけておきたいからな」
「そうか」
アーサーは短く答えると、紅茶を一口飲んで話題を変えた。
「それにしても、おまえの生命力には驚かされるよ。天国の入口まで行ってきたというのに、もうその元気だ。私はまだ、このとおりだよ」
アーサーは、ギプスのはまった右足を叩いて見せる。
セシルは肩をすくめると、あははっと笑った。
「あのろくでなしに、まだ来るなって言われたよ。だいいち、わたしをあっちに送り届けるのは、おまえの役目じゃないか……」
聴きようによっては剣呑な話だったが、セシルの顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「それに、オーバーロードはあと一体残っている。あの似非救世主を始末するまでは、この世界に居座りつづけてやるさ」
セシルはそう言って、紅茶のカップを手に取った。
ウエッジウッド・アストバリーブラックのカップに、彼女の桜色の唇がそっと触れる。
セシルは、こくんと喉を鳴らして紅茶を飲むと、カップをソーサーに戻した。
かちゃりと音を立てたカップの縁には、彼女の唇が触れた痕跡は何も残っていなかった。
コンコンと病室の扉がノックされ、アーサーは腕時計を確認した。
「すまん、会合の時間だ。また来るよ」
アーサーはそう告げて、カウチから立ち上がった。
「あいかわらず、忙しいことだな。顔を見せてすぐに帰るくらいなら、見舞いになど来なくていいのに」
セシルの文句を聞き流して、アーサーは彼女のとなりに腰をおろす。そして、セシルの頭に手をやると、その髪を優しく撫でた。絹糸を思わせる長い髪に、少し残っていた寝癖のあとが、きれいに直っていく。
「やめろよ、くすぐったい」
細めたセシルの目のなかで、紅玉のような瞳が無邪気な輝きを見せていた。
アーサーは柔らかい笑みを返した。そして掌で、ぽんぽんと軽く彼女の頭を叩いた。
「つい、昔を思い出してな」
立ち上がったアーサーは、セシルに背を向けた。その背中に向けて、少し拗ねたようなセシルの声が投げかけられる。
「ふん。……わたしは、もう、子供ではないぞ」
アーサーは、それには答えずに背中越しに手を振ってから、病室の扉を出て行った。




