6.16 トゥルー・ナイト(Layer:1 Main Story)
目の前に立ったマイケルを一瞥して、セシルはふんと鼻を鳴らした。
「今さらのこのこと、何をしに……」
セシルの言葉が終わる前に、マイケルの右手は動いていた。
掌に柔らかな感触があって、ぱしっという音が微量の湿度を伴って鳴り渡った。
「目を覚ませ、このばかやろう」
打たれた頬を掌で押えたセシルが、オッドアイを大きく見開く。
「な……」
呆気にとられているセシルに、マイケルは畳みかける。
「気に入らないから壊す、だと? 力を振りかざせば、なんでも思い通りになると思ってるのか。どうしようもないガキだな、おまえは」
「ガキ……だと?」
セシルの声が険を帯びる。だが、マイケルは意にも介さなかった。
「ああ、おまえはまだ子どもだ。エミリーは大人だったよ。最後の最後まで、なすべきことを弁えていた。おまえは、俺たちがエミリーを奪ったと言ったが、あれはあいつの意思だった。この街も俺たちの命も、あいつが残り少ない時間を使って、自分の存在を賭けて守ったものだぞ。それを、おまえ自身がぶちこわすつもりか」
鮮やかなルビーの煌めきを取り戻したセシルの目が、まっすぐにマイケルを見据えた。
「うるさい、だまれ」
それでも、もうマイケルは止まらない。
「おまえこそ、黙って聞け。いいか、エミリーは、俺たちやロンドンだけじゃなく、おまえを守りたいと言ったんだぞ。それが最後に見つけた希望だと。それを踏みにじって、おまえの気は済むのか。おまえの大事なエミリーは、それで喜ぶのか」
「うるさい、うるさいっ。もう黙っていろ。もう……」
セシルの言葉は、マイケルを詰っているようでいて、別の誰かに向けられているようなニュアンスがあった。
荒い呼吸を繰り返しながら、セシルはなにかを決めあぐねているように、黙り込んだ。傷口からしたたり落ちる鮮血が、地面に黒い染みを広げる。立っていられるのが不思議なほどの出血だ。
やがてセシルは意を決したように、ドレスの胸元から白いハンカチを取り出すと、マイケルに投げつけた。
「このわたしに手を上げただけでなく、えらそうに説教まで垂れるとは。これほどの侮辱、許すわけにはいかん」
芝生に落ちたハンカチは、彼女の持ち物にしては地味なコットンの無地のものだった。よく見るとそれは、ピカデリー・サーカスの戦闘の後で、エミリーの手当てに使ったマイケルのハンカチだった。
セシルが低い声で言い放つ。
「拾え」
――決闘、ということか。だが……。
いくぶんか冷静になってきたマイケルは、そこに事態を打開する可能性を見出した。
「……いいだろう。おまえが俺とやりあいたいというのなら、受けて立つ。ただし、条件がある」
ブローニング・ハイパワーのマガジンを抜いて、残弾をチェックしてから、マイケルは言葉を続ける。
「俺の武器は、この拳銃だ。勝負は一回きりで、やりなおしはしない。もし俺が勝ったら、剣を納めて大人しく言うことをきけ」
セシルは、「ありえんがな」とつぶやいてから、ふっと鼻で嗤った。
「いいだろう。ならば、わたしが勝ったら、どうする?」
「その時は、俺の命をお前にやる。だからそれで、怒りを鎮めろ」
すこし間を置いて、セシルの口元がふっと緩む。
「承知した。ならば、わたしも一太刀だけで応じよう。真剣勝負だ。アーサー、エクスカリバーを使わせてもらうぞ」
事の成り行きを静観していたハノーヴァー公は、大きく頷いてSASの兵士たちを遠ざけた。
「アーサー・ウイリアム・ハノーヴァー、ブリテン王として、この勝負を見届けよう」
歩み寄ってきたハノーヴァー公を間に挟んで、マイケルとセシルは数歩分の距離をとって向き合った。
セシルはエクスカリバーを頬の横に水平に構え、その切っ先をぴたりとマイケルに向かる。マイケルはブローニング・ハイパワーMk3を両手で握り、銃口を斜め下に向けて突撃姿勢を取った。
燃えるようなセシルの赤い瞳に睨まれていても、マイケルの心は凪いでいた。出会ったころに感じていた恐怖も、今はもうどこかに消えていた。
「レディ……ファイト」
ハノーヴァー公の掛け声が、重く鋭く響いた。
セシルとマイケルの間には、十メートルほどの距離あった。
重傷を負っているうえに、重いロングソードを手にしたセシルにとって、その距離は圧倒的に不利なはずだった。ましてや、マイケルの武器は飛び道具だ。勝負は、やる前から決まっていた、はずだった。
だが、セシルの運動能力は、マイケルの予想をはるかに超えていた。満身創痍であるにもかかわらす、わずか一歩を歩むがごとき容易さで、その距離を詰めてきた。
マイケルは、その場から一歩も動けない。
いや、動かなかった。そこから動く意味も、必要もなかったからだ。マイケルの攻守の要である拳銃には、もう弾丸は残っていないのだから。
最初から、そうするしかない行動だった。セシルが間合いに入ったそのとき、マイケルは銃を捨てて両腕を拡げた。
賭け、だった。
神器とよばれる聖剣が、マイケルの装着しているボディアーマーを貫きえないのなら、剣を取り上げて俺の勝ちだと宣言すればいい。聖剣の方が勝っていたら、俺の命はそれで終わりだ。だがそのかわりに、エミリーやセシルとともに、ロンドンも救われる。
そう、勝負の行方はともかく、結果は最初から決まっていたのだ。
目を閉じると、エミリーと過ごした日々が、早送りのビデオのように甦る。そのラストシーンは、ロンドン・アイだった。
『約束しなさい……必ず、生き残ると』
――すまない、エミリー。約束は、守れないかもしれない。
その直後、マイケルの胸に大きな衝撃があった。
それは剣の切っ先のような、冷たく鋭いものではなかった。あたたかくて柔らかなものが、ふわりと胸に飛び込んできた。
マイケルの鼻孔に、リリー・オブ・ザ・バレーの甘酸っぱい香りが広がり、耳には澄んだ声が聞こえた。
「わたしとしたことが、決闘で剣を落とすとはな。引き分け、いや、わたしの負けか。だが……これでいいんだな、アマーリエ=ミリア」
セシルの身体から力が抜けて、ぐらりと傾いた。
マイケルは、彼女を抱きかかえて、そのまま芝生の上にそっと寝かせる。
自分自身からの出血と返り血で、彼女の全身は赤い色に彩られていた。しかし、その顔には安らぎに満ちた微笑みが浮かんでいた。
「ごめんね……ありがとう、セシル」
「エミリー?」
マイケルの問いかけを、彼女はちいさく頷いて肯定した。
「良かった。消えてしまったのかと思ったぞ」
「消えてしまった方が、ましだったわよ。すごく痛いし、気分も悪い。おまけに、あなたなんかに介抱されて。でも……」
エミリーの青い瞳に、マイケルが映る。
「わたしとの約束、守ってくれたのね」
「ああ、なんとかな。けど、おまえを守るなんて大きなことを言っておいて、逆になってしまった」
エミリーが静かに首を振る。パールホワイトの髪が、艶めかしく揺れた。
「役立たずのあなたには、はじめから期待なんてしていなかったわ」
マイケルには、その言葉に込められたエミリーの心遣いが、痛いほどわかった。
「……悪かったな、役立たずで」
またエミリーと軽口を叩きあえる。そんな他愛もないことが、マイケルにはなによりも得難い喜びだった。もう大丈夫なのだ、と思った。だが……。
マイケルの腕の中で、エミリーが小刻みに震えだした。
「夏なのに、寒いわね。どうしたのかしら」
見開かれたエミリーの青い瞳から、すこしずつ光が失われていくように見えた。
――出血性ショックかっ!
着ていたジャケットを脱ぎ、エミリーに着せ掛けると、マイケルはハノーヴァー公に向かって叫んだ。
「早く、エミリーの手当をっ」
ハノーヴァー公が、携帯電話に早口で指示を出す。
「デフコン・ワン解除。移動ICUとER班を、ロンドン塔のテムズ川畔に寄こせ。……そうだ、最優先だ。あらゆる行動を許可する。一分、一秒でも早く来い」
「おおげさね、アーサー」
エミリーは蒼白な顔に、かすかな微笑みを浮かべた。
「あなたも、あいかわらず、だめな人ね。レディを地面に寝かせるなんて。せめてハンカチくらい敷きなさいって、何度言ったらわかるの?」
喘ぐように、エミリーはそう言った。
「そうだったな。次からは、そうするよ」
光を失った彼女の青い瞳が、あてもなく彷徨う。
「ねえ、マイケル。そこにいるの? なんだか、よく見えないの……」
エミリーは、細い声でつぶやいた。
「ああ、ここにいる……もう、しゃべるな」
マイケルの制止に「いいえ」と答えたエミリーの声は、ほとんど聞き取れないくらいに小さくなっていた。
「もう最後になりそうだから……もうひとつだけ、約束してほしいの」
「なんだ」
「これからも、あの子を……守ってあげて」
まるで我が子を託すかのような言葉が、マイケルの心を芯の部分から冷やした。
「だめだ、だめだっ。俺はそんな約束なんてしないぞ。今まで通り、おまえが守ってやれよ」
「なに? よく聞こえないわ。……約束、したわよ」
そう言って、かすかに微笑んだエミリーの瞳は、すでにマイケルを映していなかった。その紺碧の水面を、中天にかかった月の光が照らす。
エミリーの右手が、煌々と輝く満月に向かって、ゆっくりと持ち上がる。血にまみれた小さな掌が開き、震えながらなにかを探すようにさまよう。
その手をいま捕まえないと、永遠に失ってしまうのではないか。マイケルは、そんな思いに駆られて、満月とエミリーの掌に手を伸ばす。
しかし。
マイケルの手をすり抜けるようにして、満月は天に残り、エミリーの手は地に落ちた。
「エミリー?」
マイケルの呼びかけに、エミリーは、まるで自嘲するかのような儚げな笑顔を浮かべた。そして桜色の小さな唇から、深い息とともにかすかな言葉が漏れた。
「アウフ……ヴィーダー……ゼー……」
それを最後に、エミリーの瞼が落ち、身体からすべての力が失われた。
かすかな呼吸に合わせて、ドレスの胸のリボンが上下する。
いまにも消えてしまいそうな、小さなひとつの命。そのわずかなぬくもりが、たまらなく愛おしかった。
マイケルは、心の中で語りかける。
エミリー、絶対に死ぬなよ。俺はこれからも、おまえを、おまえだけを守ってやる。だから俺は誓う。
……おまえのための、真の騎士になると。




