6.8 ラスト・ノート(Layer:1 Main Story)
「ハノーヴァー公」
マイケルの口から思わず出た呼びかけに、彼の口元がわずかに緩んだ。
「君たちの動きはトレースさせていたからね、状況は理解しているよ。よくここまで持ちこたえてくれたね。……さて、デイビッド・サスーン・アル=イスカンダル。この子を傷つけた罪は、その命で償ってもらうよ」
ハノーヴァー公が、剣を右肩に担ぐように構える。そのアイスブルーの瞳から放たれる厳しい眼差しを、デイビッドの銀色と琥珀色のオッドアイがこともなげに受け止める。
「戦場に遅参しておきながら、よくもぬけぬけと言えたものよ。その大口に実力が伴っておるのか、余が確かめてやる。騎士王よ、自慢のエクスカリバーが余のファランクスに通じるかどうか、試してみるがよかろう」
ファランクスだのエクスカリバーだのというおとぎ話のような会話に似つかわしい、まるで娯楽映画のワンシーンのような戦闘が始まった。
ハノーヴァー公が、地面を蹴って正面からデイビッドに迫る。その速度は尋常ではなかったが、間合いを詰めるより早く、デイビッドの右手が差し出された。
「ファランクス・ヘタイロイ」
デイビッドの声と同時に、彼の前の空気が蜃気楼のように揺らいだ。
エミリーを吹き飛ばした見えない力が、ハノーヴァー公を襲う。遠目に見ると、それは空気の揺らぎのように、デイビッドからハノーヴァー公に向かって放たれていた。
ハノーヴァー公の剣――エクスカリバーが一閃される。揺らぎがハノーヴァー公の前で二つに裂け、ひとときわだかまったあと爆散して派手に土煙を上げた。
「若造が、やりおるな」
感心したように声を発したデイビッドは、土煙の中から突き出されたエクスカリバーをすんでのところで躱してみせた。そして眼前に姿を見せたハノーヴァー公に、左手の拳を打ち込む。
身体を捻ってデイビッドの拳を躱したハノーヴァー公は、その捻りを戻す勢いでエクスカリバーを横に薙いだ。
デイビッドがすかさず飛び退く。その首に吸い込まれたように見えたエクスカリバーは、しかし彼の頬をかすめただけだった。
それは瞬きをする間の、激しい攻防だった。
間合いが離れた二人がにらみ合う。
頬を流れる血を拭いながら、デイビッドがにやりと笑った。
「このように血がたぎる闘いは、久しぶりであるわ。余を本気にさせたこと、褒めてとらすぞ騎士王よ」
「君こそ、歴戦の最後の相手が私であったことを、ハーデスへの土産話にするといい。ゆくぞ」
ハノーヴァー公は、左足を前に出して、エクスカリバーの切っ先を相手に向け、右の頬の横に構えた。
はあっ、という掛け声とともに、ハノーヴァー公が跳ねた。
白銀の剣が閃く。
横に薙ぐかと見えた剣筋は、デイビッドの喉元に向けて一直線に突き出された。
それは、まさに神速の業だった。デイビッドは、右の掌でエクスカリバーの進路を塞ぐしかなかった。
――勝負あった、だな。
マイケルは、そう確信した。
ロングソードの運動エネルギーを、鋭利な切っ先に集約した渾身の突きだ。それを素手で防げる道理はなかった。
しかし……。
「ファランクス・ホプリタイ」
デイビッドの掌に現れた空気の揺らぎが、エクスカリバーの突撃を数ミリの距離を残して完全に受け止めた。
ハノーヴァー公が突き出す剣と、デイビッドが押し出す掌。二人の力がその一点に集まって、お互いの動きが完全に停止した。
「この攻撃を受け止めたのは、君が初めてだよ」
ハノーヴァー公が口の端を上げると、デイビッドもふっと笑みを浮かべた。
「未熟者が。その程度の技が、余に通じると思うたか」
口と腕でデイビッドと鍔迫り合いを繰り広げながら、ハノーヴァー公の目が一瞬だけマイケルに向けられる。マイケルから外れたその視線が、デイビッドの背後にいるステファニーを一瞥した。
――そういうことか。
ハノーヴァー公の意図を察したマイケルは、デイビッドの背後に駆け込んでステファニーの手を掴んだ。
「走るんだっ、ステファニー」
よろめきながら駆けだしたステファニーの手を引きながら、マイケルは無線インカムに怒鳴る。
「ターン・オーバー成功。ビリー、頼むっ」
リンクスから飛び降りてきたビリーのごつい手に、ステファニーの華奢な指を預ける。
「時間がない。すぐにシスラボへ行ってくれ」
「オーケー。まかせとけ」
即答したビリーの横で、しかしステファニーは力なく顔を伏せた。
「マイケル、あたし……怖い」
立ちすくんだステファニーを、マイケルはそっと抱きしめた。
「ステファニー、聞いてくれ……」
耳元でそう告げたマイケルの鼻孔を、クロエのオー・ド・パルファムのラスト・ノートがくすぐる。つい先日までこの女性に抱いていた感情が、甘い香りとともに甦った。
しかしマイケルは、まだ震えているステファニーをそっと腕の中から解き放った。
「今回の事件では、君も被害者だと思う。だけど、たとえ君の意志ではなくても、なんの罪もないアリシアが、君の手にかかって死んだことは事実だ。『マリオネット』を解除してテロを阻止しても、君の罪が償われるわけじゃない。けれど、それでも君は行くべきなんだ。誰よりも、君自身のために」
マイケルの言葉を黙って聞いていたステファニーは、肩を落として「でも、あたし」と力なく答えた。
ちっという、ビリーの舌打ちが聞こえた。
「見てられねえな、まったく。行くぜ、主任さん。あんたじゃなきゃ、だめなんだよ」
ビリーはそう言い放つと、ステファニーの手を強く引いた。
ステファニーが、はっとしたようにビリーを見た。
そして小さくうなずいて、マイケルに背を向ける。その目元が、かすかに光ったように見えた。




