6.6 タワーリング・インフェルノ(Layer:1 Main Story)
テムズ川の上空に出たリンクスは、そこで一気に高度を上げた。
開け放しのカーゴドアから見下ろすタワーブリッジは、地上からでは想像もできないほどの大惨事だった。跳ね上げ部分はオーシャンの艦首によってへし折られ、主塔もすこし傾いているように見えた。
橋の両端には、行く手を遮られた車列が渋滞し、野次馬もかなりの人数が集まっていた。警察のパトロールカーの回転灯が、青い点滅を繰り返している。
マイケルは、ついさっきまで自分もあの渦中にいたのだと、感慨のようなものを覚えた。
操縦席のビリーが振り向きざまに、ヘッドセットを投げてきた。装着すると同時に、イヤホンから豪快な笑い声がした。
「ヤードのやつら、目を回していやがったな。久しぶりに腹の底から笑ったぜ。で、行先はロンドン塔でいいんだな」
マイケルは、兵員輸送用のベンチに横たわるエミリーに顔を向ける。怪我による出血のせいか、もともと白いエミリーの顔に青みが差したように見えた。
「エミリー、大丈夫か? なんなら、このままセント・セシリア校に戻ることもできるぞ」
マイケルが確認すると、オッドアイを伏せたままでエミリーの口がうっすらと開いた。
「これくらいの怪我には慣れているから、心配いらないわ。ロンドン塔に行きましょう」
「わかった。ビリー、ロンドン塔に行ってくれ」
ヘッドセットのマイクに答えを告げると、イヤホンからオーケーとだみ声が応じた。
「だが、どうやって主任さんを取り返すんだ。もうあまり時間はねえぞ」
ビリーの言う通りだった。ハイジャックが起きてから、もう二時間ちかくが経っている。総監の言い分ではないが、航空機の燃料は残りが少ないだろう。だがシスラボに乗り込むにしても、まずデイビッドからステファニーを奪還しなければならない。
マイケルは、経験と知識を総動員して、ステファニー奪還作戦をイメージする。彼我の戦力差、こちらの状況などを考え合わせると、選択肢はもとより限られていた。
「それについては、俺に考えがある。二人とも聞いてくれ……」
リンクスは、テムズ川に係留されている巡洋艦ベルファスト号の上空で、大きく右に旋回した。
シティ・オブ・ロンドンの眩い夜景が、操縦席の彼方に広がる。「ガーキン」の愛称で知られる高層ビル30・セント・メリー・アクスが、光る巨大な松笠のように夜空に屹立している。
その足元に広がる街は、ロンドン証券取引所やイングランド銀行やロイズ本社などが軒を連ねる、ニューヨークのウォール街に匹敵する世界トップの金融センターだ。ここを大規模テロのターゲットにされては、イギリスのみならずサミット参加国も顔色が変わるのも無理はない。だが……。
――そんなことは、絶対にさせるものか。
マイケルは、あらためてそう自分に言い聞かせる。
いったんロンドン塔をやりすごしてから高度を下げたヘリは、だだっぴろい観光バス用の駐車場にふわりと着地した。タワーブリッジからもシスラボの入っているビルからも、ロンドン塔の影になって見えない場所だった。
メインローターの回転が落ちると、エミリーは気丈にも自分の足でカーゴドアから降り立った。
タワーブリッジの喧騒がよそごとのように、ロンドン塔は静まり返っていた。イングリッシュオークの並木と芝生に囲まれた灰白色の城塞の奥から、四つの塔が月光を浴びて鈍く光りながらマイケルたちを見下ろしていた。
ロンドン塔は、正式には「女王陛下の要塞にして宮殿」と言う名の通り、王家の宮殿のひとつだ。ロンドンを守る要塞として十一世紀に築造されたが、十三世紀のころからは政治犯などを幽閉する監獄として使われはじめ、そのうち処刑場としての役割が定着してしまった。いまでも幽霊の目撃談などの怪奇現象があとを絶たない、いわくつきの場所でもある。
ビリーをヘリで待機させておいて、マイケルとエミリーは幽霊ではなくテロリストたちを警戒しながら歩を進めた。岸壁からテムズ川に突き出した観光船用の桟橋には、デイビッドたちが乗り捨てたボートが係留され、黒い水面でゆらゆらと揺れていた。しかし、デイビッドやテロリストたちどころか、辺りには人の気配すらなかった。
「誰もいないな。やつら、シスラボか」
確認するようなマイケルの言葉に、そうねとエミリーが答える。しかし、先に進もうとする二人の足は、ぴたりと揃って止まった。
エミリーのオッドアイがにらみつける、大ぶりなイングリッシュオークの木陰から、ざらつくような圧迫感が放たれていた。
「いるわね」
「ああ」
マイケルの短い返事に重なるように、辺りの空間を震わせるようなデイビッドの声がした。
「遅かったな、姫君。待ちくたびれたぞ」
イングリッシュオークの幹にまとわりつく、陽炎のような揺らぎが二つに割れると、そこにはステファニーを連れたデイビッドが悠然と立っていた。
マイケルは、すばやく周囲を確認する。だがデイビッドとステファニーの他に、テロリストたちの姿は見えなかった。
「ずいぶん過小評価されたものね。あなた一人で、わたしたちの相手をするつもりなの。しかも、人質まで連れて」
挑発ともとれるエミリーの言葉に、しかしデイビッドは笑みを浮かべて答えた。
「そなたの力を正当に評価したからこそ、余が出向いてきたのだ。高貴なる白の君が相手となれば、部下では犬死させるだけであろう。それにこの娘は、余とともにいるのがいちばん安全だからな」
デイビッドの横に立つステファニーは、まるで蝋人形のように生気がなかった。
「ステファニー、大丈夫かっ」
マイケルの呼びかけにも、ステファニーは虚ろな眼差しを返すだけだった。
「だめよ、魔眼を使われているわ」
「操られているのか。厄介だな」
あの状態のステファニーを奪還できても、はたしてRAINに仕込まれた『マリオネット』を解除できるのだろうか。マイケルの心配に応えるように、デイビッドを睨んだままでエミリーがささやいた。
「彼から引き離せば、魔眼の効果はなくなるわ。無駄だと思うけど、一応交渉してみましょう」
エミリーは一歩前に進み出ると、胸を張って宣告した。
「ローゼンクロイツ黒騎士団長として、正式に一時休戦を申し入れます。ここで戦えば、いらない犠牲者が増えるわ。だからデイビッド、今すぐハイジャックを解いて、要求を撤回しなさい。そうすれば、今回は見逃してあげてもいいわ」
エミリーの声は、怪我を思わせないほど力強かった。敵に弱みを見せてはならないと思っているのだろう。
しかしデイビッドは、そんなエミリーの思惑を見透かしたように、薄い笑いを浮かべると首を横に振った。




