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5.10 ホイール・オブ・フォーチュン(Layer:1 Main Story)

 

 西に傾いた陽の光を、テムズ川のさざ波が光の粒に変えてふりまいている。

 ふり仰げば、巨大な自転車の車輪のようなロンドン・アイが、音もなく回転していた。直径一三五メートルの輪の外側には、水滴を思わせる透明な三二個のカプセルが取りついていて、その中には人影が見え隠れしていた。

『わたし、あれに乗ってみたい』

 ウエストミンスターブリッジの欄干に腰かけて、足をぶらつかせながら白い少女は目を細めていた。

『今度、連れて行ってやるよ』

 あれはまだ、ほんの数日前の出来事だ。

 なんの確証もないが、ハノーヴァー公の言葉に従ってここに来た。おそらく、いや間違いなく、ここで彼女と再会することになるだろう。

 ――まるで、運命の輪ホイール・オブ・フォーチュンだな。

 マイケルはロンドン・アイを見上げながら、タロットカードの絵柄を思い出した。この運命の輪は、正位置で出るのか、それとも逆位置で出るのか……。

 そう思ったときだった。

 はあっというため息に続いて、クリスタルガラスのように透明な声が言葉を紡いだ。

「いつまで、ぼうっとしているつもり?」

 その言葉は、唐突で心外だった。しかし。

「呼び出しておいて、わたしの方から声をかけさせるなんて、どういうつもりなの」

 その声は、マイケルの耳にすっかり馴染んでいた。

 ロンドン・アイから視線を下げると、そのひとがそこにいた。

 パールホワイトのロングヘア、サファイアとルビーのオッドアイ。彼女は、たっぷりとスカートを膨ませた、黒いドレスを着ていた。両肩とスカートの裾に、銀色の逆十字の紋章が輝いている。豊かに盛り上がったドレスの胸元からのぞく白いフリルのブラウスには、黒い薔薇のコサージュが誇らしげに花を咲かせていた。

 予想していた状況なのに、マイケルは言葉を発することができなかった。なにから話すのか、まだ決めかねていた。

 逡巡するマイケルを見て、エミリーの眉がきゅっと寄った。

「役立たずのあなたとちがって、わたしは忙しいの。用事がないのなら帰るわよ」

 せかすような言葉とはうらはらに、その声にはマイケルの反応をうかがっているような響きがあった。オッドアイの青い瞳から向けられたまなざしも、さまようように宙を泳いでいる。

 ――そうか、そうだよな。

 マイケルの心に、あの夜のウエストミンスターブリッジと同じ、あたたかくて甘い風が吹きわたる。マイケルは、ロンドン・アイを指差しながらゆっくりと答えを返す。

「あれ、乗りたかったんだろう。これからどうだ?」

 マイケルが指し示した先を見たエミリーの頬が、ほんのすこし緩んだように見えた。彼女のオッドアイが、こんどはマイケルの笑顔を映す。

「憶えていてくれたんだ……」

 オッドアイを伏せたエミリーの顔に、おだやかな微笑みがうかんだ。

「しかたないわね、つきあってあげるわ」


 世界最大の観覧車としてギネスブックにも登録されたロンドン・アイは、当初の計画では設置後五年で撤去されることになっていた。そのため、開業直後は人気が過熱して乗客が殺到した。しかし後日の協議で恒久的に設置されることが決まると、珍しいもの目当ての客も少なくなってきた。最近では、ロンドンの街にすっかり馴染んで、ウエストミンスター界隈のランドマークになっていた。

 搭乗待ちの団体客をすり抜けて、ガラス張りのカプセルに乗り込む。二十五人を収容できる広いカプセルだが、マイケルとエミリーの他に乗客の姿はなかった。

 木製のスノコのようなベンチに並んで腰を下ろす。二人のあいだには、すこし距離があった。マイケルは腰を浮かせて、エミリーとの間を詰める。エミリーがわずかに身じろぎした拍子に、フローレスのオードトワレ、リリー・オブ・ザ・バレーの甘酸っぱい香りが、ふわりとマイケルの鼻腔をくすぐった。

 テムズ川を見下ろすように、カプセルは上昇する。高度を上げるにつれて、街並みが見渡せるようになる。夏の強い夕陽に照らされたロンドンの街は、さながらオレンジ色の光の海だった。

 会話もないままに、静かな時が過ぎていく。このまま三十分の空中散歩を終えれば、「じゃあまた明日ね」と挨拶をして別れる。ほんの数日前までは、そんな気軽な関係だった。会話のきっかけを作るのに、こんなに身構えなければならないことなどなかったのに。

 まるで、別れ話を切り出す直前のカップルみたいだな。

 何気なく浮かんだ発想を、マイケルは軽く頭を振って追い払う。とにかく、なにか話しかけよう。夕焼けが綺麗だ、でもいいではないか。

 そんなマイケルの決心を見抜いたかのように、エミリーが長いため息とともに口を開いた。

「気がきかないひとね。なにか言いなさいよ」

「俺は……」

 それでマイケルの覚悟が決まった。余計な会話など、最初から必要なかったのだ。

「いや、おまえはやはり戦うのか?」

 エミリーは、ええと応じた。

「デイビッドはかならず、この手で始末するわ」

「勝てるのか、あいつに。負けたら、死ぬかもしれないんだろう」

「戦闘だもの。その覚悟はしているわ」

 思えばそれは、あたりまえのことだった。エミリーもそしてハノーヴァー公も、なんども繰り返しそう言っていたのだ。彼らのしていることは、命をやりとりする戦闘であると。その覚悟がなければ、その場に立つ資格はないのだと。だが、ならばこそ、戦闘員ではなく警察官である俺にしかできないことがあるはずだ。

「それならやはり、俺もいっしょに戦う。おまえを守ると誓ったからな」

「わたしには、あなたに守ってもらう資格がないと言ったはずよ」

 これでは堂々巡りだ。ああ、と答えたマイケルは、プリムローズ・ヒルでのエミリーの言葉を引き合いに出した。

「『真夏の夜の夢』だったな。おまえはヘレナで、俺はライサンダーだと言いたいのか」

 マイケルの問いに、エミリーは頭を振った。

 それならば、なぜだ。マイケルは、想定外のエミリーの反応に戸惑う。俺がエミリーを好きになったのは、妖精のかけた魔法のせいだと言いたいのではないのか。

 黄昏の空に、満月が浮かんでいた。その薄黄色の円の中を、一機の旅客機が横切って行くのが見えた。

 やがて、頂点をすぎたゴンドラは下降を始めた。

 口を引き結んだままで月に目を向けていたエミリーは、ふうっと息を吐くとマイケルに向かって微笑んだ。

「わたし……」

 透き通るような儚い笑みを浮かべながら、エミリーはささやくように告げた。

「もうすぐ消えてしまうのよ」

 それは、BBCのアナウンサーの手本になりそうなほど、正確で明瞭なキングス・イングリッシュだった。だから、不明な言葉はひとつもなかった。なのに、マイケルにはその意味がまったく理解できなかった。

「今、なんて言ったんだ……」

 帰国するとか、遠くに行くとかではなかった。エミリーが口にしたのは、消滅するという言葉だった。

「おまえが消えるって、そう言ったのか」

 混乱のあまり、思わずそう聞き返したマイケルに、エミリーがうなずきで応える。

「そう、いなくなるの、この世界から。セシルは、この身体とともに永遠を約束された存在だわ。だけどわたしが、エリザベート・アマーリエ=ミリアが存在していられる時間には、もともと限りがあったの。わたしがこうしていることは、砂時計の砂が落ちていることと同じなのよ」

 エミリーの落ち着きはらった告白は、マイケルに冷静さを取り戻させた。その言葉の意味は、にわかには信じがたかった。しかし……。

『まさか、そんな……。どうして、こんなときに』

『どのみちおまえとあの子とは別れるしかないのだからな』

 思い返してみれば、大英博物館やプリムローズ・ヒルでの会話は、それがエミリーにとっては予期されていたものであったことを物語っている。そして、含みを持たせたようなハノーヴァー公の話も、このことをほのめかしていたのだろう。

 カプセルのエアコンが効きすぎているのか、血の気が引いて、指先が小刻みに震え出す。

 俺は、また愛するひとを失うのか。ソフィーを失ったのは、回避しようもない突然の事件だった。けれど俺は、あんな悲劇は繰り返さないと心に誓い、そのために必要な力を身につけたのではなかったのか。なのに、予定されたエミリーの喪失に対して、手をこまねいていることしかできないなんて。

「それはもう、どうしようもないことなのか」

「ええ。これは最初から、わたしがあの子のなかに存在しはじめたときから、定められた運命だったから」

 正位置で出た答えがこれだというのなら、運命の輪を司る獣たちは悪意に満ちているとしか思えない。

「しのこしたことは、たくさんある。もっといろんなことを知りたかったし、いろんなものを見たかった。でも、もうそれもおしまい」

 エミリーは、まるで自分自身に言い聞かせるようにそう話すと、オッドアイを伏せた。

 ――ちょっと待てよ、そんなことをなぜ納得してるんだよ。

 行き場をなくしていたマイケルの感情が、お門違いの怒りになってエミリーの方に向いた。

「おまえは、そんな大事な時間を戦いに費やすつもりなのか」

 マイケルの語気は荒かったが、エミリーは瞳を閉じたままでさらりと答えた。

「そうよ」

「ばかなことを言うな。デイビッドは、俺がかならず止めてみせる。それに、ハノーヴァー公もいるじゃないか。だから、おまえはもう戦わなくていい。おまえはいつも、やりたいことではなくやるべきことを優先させてきたんだろう。最後のときだというのなら、もっとわがままになれよ。泣きたいなら泣けばいいし、文句があるのなら俺がいくらでも聞いてやる」

 思いのたけをぶちまけるようなマイケルの言葉に、エミリーのオッドアイの青い水面がわずかにさざめいた。しかし、そのかすかな波紋は、深い湖に吸い込まれるようにすぐに消えていった。

「大事な時間だからこそ、なすべきことをなすために使わなければ。デイビッド、それにWormwood。わたしに端を発したことは、わたし自身の手で決着をつけるわ。それに、わたしが消滅する前にあいつを斃さないと、怒ったあの子がなにをしでかすか想像もできない。それを抑えられるのは、わたししかいない。わたしが存在する理由と意味が、最後の最後になってやっとわかったわ。だから、もうわたしの邪魔はしないで」

 エミリーの言葉は、マイケルを拒絶するものでしかなかった。なのにマイケルは、それこそが俺の愛したエミリーなのだと得心してしまった。

「わかった。それなら、俺は……」

 マイケルの心にも、もう怒りも嘆きも悲しみもなかった。ただひとつの思いだけが、静かに広がっていくのを感じた。

「最後までおまえを守るだけだ」

 なにかを言いかけたエミリーを、マイケルは強い言葉で遮った。

「もういい、俺が決めたことだ。おまえがどんな存在だろうと、俺にはそんなことはどうでもいい。おまえがもうすぐ消えてしまうというのなら、俺が見送ってやる。おまえが嫌だと言っても、俺は最後までおまえと一緒にいるからな」

 エミリーは、弾かれたようにマイケルを見た。二人のまなざしが絡み合う。やがてエミリーの桜色の唇から、深いため息が漏れ出した。

「どうしてこうも、馬鹿なひとばかりなのかしらね……。わかったわ。それなら約束しなさい」

「約束?」

「そう、約束よ。なにがあっても生き残りなさい。そして、わたしのことを憶えていなさい。いいわね」

 パールホワイトのロングヘアを小刻みに揺らせながら、エミリーはそう告げた。彼女の青い瞳が、うるんでいるように見えた。

 マイケルは、ああと答えておおきくうなずいた。

「もちろんだ。死ぬつもりなんてないし、おまえのことも絶対に忘れない。デイビッドの野郎をぶちのめして刑務所に放り込んだら、俺のいきつけのパブで派手な送別会を開いてやるからな」

「いやよ、そんなところ」

「いいから黙ってついて来いよ。いくぞ、エミリー」

 マイケルはベンチを立ち、右手を差し出した。しかしその手は、盛大なため息とともにエミリーの右手で払いのけられた。

「なんて無礼なひとかしら。レディ・ファーストよ。あなたがわたしについてきなさい、マイケル」

 肩をすくめたマイケルの背後で、カプセルの扉が開いた。

 二人を乗せた運命の輪は、ちょうど一回りして元の位置に戻っていた。

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