5.8 推定有罪(Layer:1 Main Story)
目を覚ましたマイケルは、しばらく動くことができなかった。
朝日が差し込む部屋に、効きの悪いエアコンが小さく唸りながら、生ぬるい空気を吐き出していた。全身がじっとりと汗にまみれているが、それはエアコンの性能のせいだけではなかった。
石畳に倒れ伏す、血まみれの少女。ときどき見るあの悪夢は、ソフィーの殺害現場の状況だ。そして、いつもそこで終わる夢だった。なのに、さっきのは何だ。ナイフを握った女、それに……。
『余とここで会ったことは、忘れるがよい』
その言葉と、それを告げた男の顔が、はっきりと思い出された。頭の芯にあった鈍い痛みは消え、靄がかかったように曖昧だった記憶もすべてが明瞭になっていた。
――なんてことだ。俺は……。
マイケルは携帯電話を取り出し、スコットランドヤードのテロ対策課に電話をかける。短い呼び出し音のあとで電話に出た相手に、一気にまくしたてた。
「今すぐ、外務省のデータベースに職権で照会をかけてくれ。デイビッド・サスーン・アル=イスカンダルの入出国記録を、今年から十五年前までだ。それから、養子縁組の記録も当たってくれ」
受話口から、カタカタとキーボードを打つ音が聞こえると、待つほどもなく返答があった。
「結果が出ました。デイビッド・サスーン・アル=イスカンダルですが、十五年前にもロンドンに滞在しています。養子縁組をした記録も残っていますね。相手は、ソフィア・アンナマリー・ハーミア・ヴォールスです」
マイケルは、電話を切ってからひとつ深呼吸をした。
そう、俺は十五年前にもあの男――デイビッドに出会っていたのだ。そして、一昨日のステファニーと同じように、事件の犯人を匿うところ目撃していたのだ。物的証拠はないが、ふたつの事件にデイビッドが関与していることは、もはや疑うべくもない。
――ソフィー、俺は、やっとここまでたどり着いたよ。けれど……。
マイケルは、深いため息をつく。いまさらのように、巡りあわせの悪さが恨めしかった。デイビッドは外国人で、しかもかなりの政治力を持っている。今の状況では、手も足も出せないのだ。もうすこし早く、せめて一昨日の夜、プリムローズ・ヒルでデイビッドに出会ったときにこのことを思い出していたら。あるいはセシルと協力して、犯人隠避の現行犯でデイビッドの身柄を拘束できていたかもしれない。
無念の臍を噛むマイケルの耳に、緊急自動車のサイレンの音が聞こえた。その後を追うように、いくつものサイレンの音が重なっていく。
これはただごとではないな、と思った直後に、マイケルの携帯電話が鳴った。特殊作戦部からの呼び出しだった。
「いま、どこにいる?」
緊張をはらんだ部長の声に、マイケルは短く答える。
「自宅で待機中です」
「地下鉄ピカデリー線のラッセルスクエアで、地下鉄車両が何者かによって爆破された。サークル線のアルドゲイトとエッジウェア・ロードでも同様の爆発事件があった。詳細は不明だが、なにかが起きている。すぐにラッセルスクエアに行ってくれ」
マイケルは大急ぎで支度を整えると、部屋を飛び出した。ドアの鍵を閉めるのももどかしかった。階段を駆け下りてマウンテンバイクにまたがると、一気にペダルを踏み込んだ。
メリルボーン・ロードを西に走り、南へ曲がってマーチモンド・ストリートに入る。赤レンガの壁に四つのアーチ型のガラス窓がくりぬかれたラッセルスクエア駅舎が見えてくるころには、周囲は騒然とした様子になっていた。
駅舎に面したバーナード・ストリートは、すでに一般車の通行が規制され、何台ものパトカーや救急車が警告灯を点滅させながら狭い路上を埋め尽くしていた。上空には警察と消防、それに報道関係と思われるヘリコプターが飛び交っている。街路樹が影を落とす路上には、黄緑のウインドブレーカーを着た警察官と、オレンジの繋ぎを着こんだレスキュー隊員たちがせわしなく行き交っていた。
救助された乗客たちは救急隊員に怪我の状況を確認され、そのうちの何人かはストレッチャーに寝かされて救急車に乗せられていく。歩道に蹲る老婦人、泣きながら抱き合う母子連れ、携帯電話に怒鳴り散らすビジネスマンたち。現場は、まさに阿鼻叫喚の状態だった。
そのなかにいたひとりの男に、マイケルの目が釘付けになった。淡い色のポロシャツにチノパンを履き、せわしなく周囲を見回すその男は、二週間前にロイヤル・オペラ・ハウスで捕まえたハノーヴァー公襲撃犯だった。
――ばかな、なぜあの男がここにいるんだ。
その直後、マイケルの脳裏に昨日のサヴォイでの出来事がよみがえった。あの男、たしかデイビッドの付き人ではなかったか。
マイケルは、マウンテンバイクを飛び降りると、一気にポロシャツの男に迫った。バイクが路上に倒れる音に振り向いた男が、マイケルの姿を見て驚いたように逃げ出した。
ポロシャツとの距離はさして離れていないが、ごったがえす路上ではなかなか追いつけない。このままだと、人ごみに紛れて見失う可能性もある。マイケルは、走りながら叫んだ。
「スコットランドヤードだ。だれか、その男を取り押さえてくれっ」
期待はしていなかったが、まるでマイケルの声に応えるように、がっしりとした体格の男が、逃げるポロシャツの前に立ちふさがった。その男は、見た目とはうらはらの機敏で無駄のない動作で、あっという間にポロシャツを地面に組み伏せた。
マイケルは、ふたりに近づくと、ポロシャツを押さえ込んでいる男に声をかけた。
「ご協力に感謝する」
マイケルの言葉に、男がゆっくりと顔を上げる。その岩石のような風貌を見たマイケルは、心の底から驚いた。
「ビリー……、ウィルヘルム・ゲイツ伍長なのか?」
ポロシャツの男は問い詰めるまでもなく、自分がデイビッドの組織に属していること、ハノーヴァー公襲撃事件のあと釈放されてからずっとデイビッドと行動をともにしていたこと、今回は事件の結果を調べるように命令されていたことを、あっさりと白状した。
うなだれたポロシャツの男を警察官に引き渡したマイケルは、あらためてビリーに礼を言った。
「ビリーがいてくれて、助かったよ。それにしても、どうしてこんなところに……もしかして、作戦中なのか」
マイケルの問いかけに、ビリーは首を横に振った。
「いや、それは俺の仕事じゃねえんだ。今は民間の会社にガードマンとして出向していてな。今日は、あのひとのボディガードだったんだが」
そう言って、ビリーは街路樹の下のベンチに目を向けた。
そこには、警察官と話をするひとりの女性の姿があった。まさか、と思うより早く、マイケルは女性の元に駆け寄っていた。
「ステファニー」
呼びかけたマイケルの声に、弾かれたようにステファニーが顔を上げる。長い金髪が揺れて、その碧眼がマイケルを映す。しかし、次の瞬間、悲しげな表情を浮かべた彼女は深くうなだれた。
ステファニーとビリーへの質問を終えた警察官が立ち去ったあと、マイケルはビリーから地下鉄で起きた事件の詳細を聞き出した。
マイケルとビリーが会話を交わすあいだ、ステファニーは終始うつむいたままだった。マイケルへの気まずさなのか、事件のショックなのか、あるいはその両方なのかもしれない。だが、いまのマイケルにかつての恋人を思いやっている余裕はなかった。
「間違いないのか、Wormwoodがテロに使われたというのは」
マイケルが確認すると、ビリーは大きくうなずいた。
「ああ。でなけりゃ、SASのエディがわざわざ出張ってくることはないさ。ありゃあ、まちがいなく『ヨモギ狩り作戦』のセカンドステージだ」
陸軍から盗み出されたWormwoodは、今はデイビッドの手元にあるはずだ。おまけにポロシャツの証言もある。この事件にも、デイビッドが関与していることは間違いない。
連続通り魔殺人事件、ハノーヴァー公襲撃事件、そして地下鉄テロ事件。すべてがデイビッドに繋がっていくのに、どれひとつ決定的な証拠がない。しかも、これだけの事件を起こしておきながら、その目的がまったく見えてこない。
ステファニーに、なにか知らないかと問いかけても、うなだれたままで小さく首を振るだけだった。
マイケルの脳裏に、銀色と褐色のオッドアイを細めて嘲笑するデイビッドの顔が浮かぶ。筋書きも知らされずに舞台の上で右往左往する俺たちを、やつは脚本片手にボックス席から見下ろしているのかもしれない。
待てよ、とマイケルは思う。もしや、これは俺たちを右往左往させることが目的なのではないか……。
そうか、この流れは十五年前と同じだ。『連続無差別殺人事件』と『地下鉄火災事件』に世間の耳目が集まったそのとき、『ロンドン証券取引所爆破事件』が起きたのだ。とすると、デイビッドの狙いは今回も……いや、違う。デイビッドは昨日、なんと言っていた?
『王を気取って頂上会議などとぬかしおって。厚顔無恥も、ここに極まれりというものよ。いずれ相応の報いをくれてやるわ』
そのとき、マイケルの中で思考の歯車が音を立てて噛み合った。
――事件は陽動で、ほんとうの狙いはサミットかっ。
スケジュールどおりなら、今日はメインイベントともいうべき首脳会談が行われ、夜にはエリザベス女王陛下主催の晩餐会が予定されている。会場をバッキンガム宮殿に移して行われる晩餐会には、サミット出席者の他に多くの要人も招待されている。テロの標的としては、これ以上のものはあるまい。
明白な証拠があるわけではない。だが……。
マイケルは携帯電話をかけて、特殊作戦部長を呼び出した。地下鉄での爆破事件の概要と状況を報告し、推理を説明したあとで力を込めた言葉を一気に吐き出した。
「テロリストのターゲットは今夜の晩餐会です。そこでなんらかのテロ行為が行われる可能性が極めて高い。晩餐会を中止してください」
しかし、受話口から聞こえてきた声は歯切れが悪かった。
「無茶を言うな。アフタヌーンティー・パーティではないのだぞ。そんな不確実な情報で簡単に中止になどできるものか。よしんば、テロが計画されているとしても、我々にできるのは会場の警備に万全を尽くすことだけだ」
「起きてからでは遅いのです。Wormwoodがやつらの手にある以上、もし使用されたら、その時点で取り返しがつかないのです」
マイケルの反論に、わかっている、と答えたあと部長は声を落とした。
「ついさきほど、海軍のヘリ空母『オーシャン』に出動命令が出た。海兵隊一個連隊を載せてテムズ川を遡上させ、ロンドン塔の目の前のタワーピアに配備させるらしい。記念館になっている巡洋艦『ベルファスト』と並べば、さぞや壮観なことだろうな。その上で、サミット参加国は共同で声明を出すことになっている。『我々はテロには屈しない』とな。その意味は、わかるな?」
マイケルは、思わず舌打ちをした。くだらない政治パフォーマンスだ。だが、政府がそう決めたのなら、スコットランドヤードが組織的にできることは限られている。悔しさと一緒にコーヒーの紙コップを握りつぶしているだろう部長の顔を思い浮かべながら、マイケルは静かに答えた。
「わかりました。これから先は、私に与えられた職権に基づいた行動をとります。テロ行為の阻止と容疑者の身柄確保を……」
まるでマイケルの申告を待っていたかのように、部長の短い返答があった。
「許可する」
電話を切ったマイケルに、ビリーは感心したような表情を見せた。
「あんた、やっぱり見どころがあるな。俺も協力するぜ。テロリストどもにゃあ、いろいろと借りがあるからな」
現職の警察官と現役の軍人が結託して独断で行動するなど、本来なら許されない行為だが、この際ひとりでも味方は多いほうがいい。わかった、と答えようとしたとき、背後から思いがけない声がした。
「失礼だが、ステファニー・ジョブズだね」
いきなり声をかけられたステファニーは、驚いたように顔をあげて声の主を見た。その顔に、かすかな怖れの表情が浮かぶ。
「君を探していたのだよ。すこし、お付き合いを願おう」
上品だが、どこか威圧的なその声に、マイケルは聞き覚えがあった。
振り向くと、はたしてそこにはネイビーのピンストライプのスーツに身を包んだ、金髪の紳士が悠然と立っていた。ゆるくウェーブした長髪に縁どられた端正な顔のなかから、アイスブルーの瞳が一分の隙もなくマイケルたちを見据えていた。




