5.4 ハート・ブレイカー(Layer:1 Main Story)
熱を持たない熾き火のような、セシルの真紅の瞳がマイケルを見据える。
「これが最後だ。わたしの前に立つのなら、おまえも敵とみなすが」
マイケルは、そのプレッシャーに気圧されながらも、セシルを見返した。
「敵も味方もない。ここには、殺人の容疑者と警察官、そして民間人がいるだけだ。市民を守るのは俺の仕事だから、おまえたちが私闘を行う理由などないし、おまえが手を汚す必要もない」
セシルの顔に、嘲笑うような薄い笑みが浮かぶ。そして。
「スタート、ローエングリン」
およそ感情の欠片もない声でそう告げると、セシルは目にも留まらない速さで間合いを詰めてきた。マイケルの眼前に、エミリーの手刀が迫る。その真紅の瞳に、もはや自分など映っていないことを、マイケルは瞬時に理解した。
やられる、と思ったときだった。
「押しとどめよ、ファランクス・ホプリタイ」
デイビッドの声が響き、次の瞬間、あたりの空気が固まった。いつの間にか、デイビッドはマイケルの前に立ち、右手の掌でセシルの左手を押しとどめていた。
双方から発せられる殺気がぶつかり合い、空気がびりびりと震える。
「すさまじい力だな。だが、大義も信念もなく、ただ己の感情のおもむくままにその力を使い、幾多のものの命を奪い続ける。そなたのしていることは、私憤による虐殺以外の何物でもない。自らの役割を忘れ、いくら下賎の者どもと交わろうとも、この世界がそなたを受け入れることはないのだ。まだ、それがわからぬか……」
言葉を切ったデイビッドは、不敵な笑みを湛えた顔をマイケルに向けた。
「その方も、このような物騒な女とは、手を切った方が良いぞ。……蹂躙せよ、ファランクス・ヘタイロイ」
デイビッドの右手が動くと同時に、固まっていた大気が爆ぜた。
マイケルの全身に痛みが走る。
気が付くと、マイケルは地面に転がっていた。口の中には血の味が広がり、耳鳴りもしていた。
上体を起こして、周囲の様子を伺う。デイビッドとステファニーの姿はどこにもなく、なぎ倒された木々の中に倒れているセシルの姿だけが見えた。
――なんだ、今のは。俺は、あの男に助けられたのか、それともやられたのか?
マイケルは、頭を振って立ち上がる。全身の関節が軋んだが、大きな怪我はしていないようだった。
ふらつきながらも、マイケルはセシルに歩み寄った。華やかだったセシルの服は、無残にもあちこちが破れ、腕や足の傷からは血がにじんでいた。
マイケルの接近に反応するかのように、セシルがけほっと咳き込んで目を開いた。覗き込むマイケルを映した真紅の目が、不機嫌そうにつり上がる。
どう声をかけるべきなのか、マイケルは逡巡したあとで、探るように言った。
「大丈夫か」
「ああ。このくらい、なんでもない」
吐き捨てるように言うと、セシルは身体を起こす。差し出したマイケルの手は、迷惑そうな一瞥とともに払われた。とりつく島もないな、とマイケルは思う。しかし、確かめておかなければならないことがあった。
「それなら、ちょっと聞きたいことがある。この事件の真相は、おまえたちの野望の尻拭いを、俺たちにさせていたということなのか」
マイケルの口調は低く鋭かったが、セシルは軽く受け流した。
「逆だ。わたしたちの野望ではなく、おまえたちが、自らの失策のつけをわたしたちに回してきたんだ……」
セシルは、他人事のようにそう言うと、自分の着衣に視線を落とした。そして、ウエストを何回か捻る。たっぷりとしたレース使いのタブリエが、セシルの身体の動きをすこし遅れながら優雅にトレースした。ところどころにできた破れやほつれが目につく。セシルが、はあっとため息をついた。
「アマーリエ=ミリアに、また小言を言われそうだな」
状況をわきまえずにそんなことをつぶやくセシルに、マイケルの感情が高ぶる。
「そもそもWormwoodは、おまえたちがこの世界で甘い汁を吸うために、作り出したものなんだろう。そんなもののせいで、多くの市民が、そして、ソフィーが犠牲になったんだ。ちがうか?」
「アーサーが聞いていたら、いろいろと細かな訂正を求めるだろうが……まあ、大筋において誤ってはいないな。もっとも、異種どもがなぜ人を襲ったのかは、いまだにわからんがな」
セシルは自身に向けられたマイケルの怒りを知ってか知らずか、あいかわらず他人事のような態度で解説をした。
「おまえは、これだけの事件を引き起こしておいて、知らん顔なのかよ。誰かの大事な人が犠牲になろうが、無辜の市民が何人死のうが、自分には関係ないというのか」
マイケルは、自分の声が怒気をはらんでいることに気づいた。だがセシルは、均整のとれたその顔に薄い笑いを貼り付けているだけだった。
「ああ、そうだ。おまえたち人類がどうなろうと、わたしの知ったことではない。おまえたちは、わたしの邪魔さえしなければいいのだ。そうすれば、おまえたちがこの世界で自由に振舞う権利くらいは与えてやるさ」
文字通り傍若無人なセシルの言葉に、マイケルの感情が沸騰した。
「ふざけるなっ。おまえは、そんなことを、本気で言っているのか。さっきのあれは、俺も一緒に殺そうとしていたのか」
荒げた声でそう言い放ち、マイケルはセシルを睨みつける。セシルもまた、怒りの表情をあらわにした。
「おまえは、わたしの言葉をなんだと思っているのだ。おまえには、何度も言ったはずだぞ。あの子がおまえを気に入っているようだから、今まで見逃してきたが、思い上がるなよ」
その言葉は、マイケルの心に決定的な打撃を与えた。それはセシルという名の少女の言葉だったが、目の前で燃えるような真紅の瞳を輝かせているのは、まぎれもなくエミリーその人でもあるのだ。つい先刻までエミリーに抱いていた感情がどういうものだったのか、マイケルはもう思い出せなかった。
冷酷な沈黙を破ったのは、追い討ちをかけるようなセシルの言葉だった。
「この際だから、はっきりと言ってやる。おまえなどが、アマーリエ=ミリアと釣り合うわけがないのだ。たとえあの子の気まぐれでおまえと交際などしたところで、どのみちおまえとあの子とは別れるしかないのだからな」
「ああ、そうだろうよ。俺の任務も、もうすぐ終わりだしな」
マイケルの喧嘩腰の言葉ですら、まったく意に介さないかのように、セシルは淡々と答える。
「それなら、それでいい。これ以上あの子に関わって、無駄な時間を使わせるなよ。あの子には、あまり時間が無いのだからな。ん……ああ、わかったよ……」
セシルの言葉が、そこで曖昧に途切れた。やがて、ふっとため息をついたセシルは、マイケルから目をそらせるようにしてうつむいた。
「ひどいわ、セシル……」
小さな唇から漏れ出したささやくような声は、エミリーのものだとすぐにわかった。彼女らしからぬ、悲しげで頼りなさげな声だった。しかし、マイケルの心を深く沈めた水面には、怒りの波紋しか広がらなかった。
「エミリー、おまえはセシルとは違うのか、それとも同じなのか?」
なかば投げやりなその言葉を、エミリーに否定してほしいのか肯定してほしいのか、マイケルにはわからなかった。ただ、どちらにしても、もう結論は同じだと思えた。
うつむいたエミリーの唇から、深いため息が漏れた。そして、ゆっくりと顔を上げると、はっきりとした声で答えた。
「同じよ」
「邪魔になれば、誰でも……俺でも殺すというんだな」
マイケルは、明確な言葉を選んで問いかけた。それは、マイケルにとってはもはや確認でしかなかった。
エミリーが、オッドアイの青い瞳を伏せる。それだけで、マイケルには彼女の出す答えがわかってしまった。
「そうならないという約束は、できないわ」
「わかった。どうやら俺は、いろいろと思い違いをしていたようだ。それなら俺も、なすべきことをするだけだ」
マイケルの口をついて出た言葉には、自分でも驚くほど、冷たい響きがあった。その声色でなにかを察したのか、エミリーの表情にかすかな憂いが浮かんだ。
「そうね。あなたは、わたしを誤解していたのだわ。わたしはやはり、あなたと共にいるべき存在ではないのよ」
ああ、そうだ。とマイケルは納得する。すべては、俺の勝手な思い込みだったのだ。
マイケルに向けられていたエミリーの青い瞳が、固く閉ざされた瞼の奥に隠れる。ほんのわずかな時がすぎて、再び開かれたエミリーの目元には、意外にもおだやかな微笑が宿っていた。
「それじゃあ、さようなら」
エミリーはそう告げると、なにかを断ち切るようにマイケルに背を向けた。一瞬、彼女の瞳がきらりと光ったように見えた。
マイケルは、背を向けて立ち去るエミリーの白い後姿を、無言で見送った。
騒動が完全に決着してから、まるでそれを待っていたかのようにやってきたスコットランドヤードの手で、アリシアの遺体は回収され、現場には立ち入り禁止の措置がとられた。
マイケルは、遺体発見の状況以外には、なにも報告を求められなかった。重大事件の現場にいた警察官として、それは異常なことだと言わざるをえなかったが、この事件に関する限りはそちらのほうが正常に思えた。そして、そう思える自分を、マイケルは自嘲するしかなかった。
深夜になって帰宅したマイケルは、新しいスコッチの封を切った。グラスに注ぎ、そのまま一気に飲み干す。
あまりに長く、そして重い一日だった。
そういえば、今日はエミリーとのデートだったんだよな。そのあとの出来事が、あまりに衝撃的だったせいで、マイケルはそのことを忘れかかっていた。たくさん話をして、告白して、そしてキスもした。結局、プロポーズは断られた。それは、それでいい。しかたのないことだ、と思う。しかし……。
マイケルは、もう一杯、スコッチをあおった。けれど、酒の酔いはまわってこない。
目を閉じると、エミリーの顔が脳裏に浮かぶ。
俺は、おまえが好きだった。あんなに本気になったのは、初めてだったんだぞ。エミリー、どうしておまえは……。
マイケルは、服を着たままでベッドに転がった。セシルやデイビッドとの荒事であちこち汚れていたが、着替える気も起きなかった。




