5.2 コリジョン・コース(Layer:1 Main Story)
「今日は、ここから一人で帰るわ。……ありがとう、また明日ね」
エミリーが、笑顔でそう告げた。
その言葉で、マイケルの気分はいくぶんか軽くなった。エミリーなら大人の対応をしてくれるだろうし、自分もまた責任を持って任務に精励する自信はある。残りわずかの時間だが、せめて一緒にいられるあいだはエミリーを大切に守り通そう。
じゃあな、と告げようとしたマイケルは、険しい表情で丘の麓あたりを見据えるエミリーに気がついた。マイケルもそちらを見やるが、なにも変わったことはないようだった。
「どうしたんだ」
エミリーに声をかけると、彼女はふっと鼻で笑った。
「さすがに、これには気づかないか。かすかな気配だからな」
いつのまにか、もうひとりのエミリーの口調になっていた。マイケルはシンプソンズでの会話を思い出す。たしか、セシルという名前だったな。
「わたしの目前でむざむざと犠牲者を出すとは、なんという失態だ。エリザベートのやつ、いまさら女の子気取りで恋愛ごっこに現を抜かすとは、どういうつもりだ?」
そうぼやきながら、彼女は携帯電話を取り出した。すばやく番号を押して耳に当てる。だが、すぐに携帯電話を耳から離すと、舌打ちをしながら電源を入れた。再び携帯電話を耳に押し当てた彼女は、すこし苛立った声をあげた。
「プリムローズ・ヒルに、デフコンスリーを発令しろ。……一〇分だと? そんなに待てるか。もういい。相手は小物だ、わたしひとりで片付ける。後始末を頼むぞ」
マイケルは、瞬時に意識を切り替える。ふわふわとしていた気分が、水を浴びたように一気に冷却された。
「事件か?」
セシルは携帯電話をぱちんと閉じると、マイケルに向かって言った。
「ああ。だが、おまえはもう首を突っ込むなよ。失恋した男らしく、酒でも飲んで寝てしまうがいい。その間に、すべて終わっているさ。それではな」
右手を軽く振ってから、セシルはタブリエの裾を翻して駆け出した。
セシルが事件だと言うのなら、考えられるのは連続通り魔殺人事件しかない。しかも、電話での会話は、ピカデリー・サーカスでの戦闘直前のやりとりと酷似している。このプリムローズ・ヒルもまた人が集まる場所であり、すでに闇が辺りを閉ざしつつある。事件が起きていて、犯人がそこにいる可能性は極めて高い。
そうとなれば、セシルの忠告を律儀に守っている場合ではない。即断したマイケルは、彼女を追って走り出した。
しかし、ゆるやかとはいえ下り斜面であり、しかも足元は滑りやすい芝生だ。マイケルは、転倒しないように、バランスをとりながら走るのが精一杯だった。だというのに、ひらひらした服装にサンダル履きのセシルは、マイケルをどんどん引き離していく。妖精の羽のように揺れる白い髪を見失わないように、マイケルは必死で足を動かし続けた。
丘の麓の木立の辺りで、セシルが立ち止まるのが見えた。マイケルは、ぎりぎりまで足を速める。そして、息が上がりきる寸前になって、かろうじてその場所に駆けつけることができた。
最初に目に飛び込んできたのは、血溜りの中に倒れている少女だった。長い黒髪が地面に乱れて流れ、形の良い目は虚ろに見開かれたままだった。その目はまばたきのひとつもせず、その身体はぴくりとも動かない。
マイケルは、沸きあがってきたフラッシュバックを、なんとか押し留めた。そして、少女の傍らに膝をつき、その白くて細い首に触れる。木目の細やかな肌は柔らかくて、まだほんのりとした温みも残していたが、あるべき脈動に触れることはなかった。鼻と口に掌を当ててみても、吐きかけられるべき呼気は感じられなかった。すでに死亡していることは、ほぼ確実だった。
近くでよく見ると、その少女は、今までになんどかエミリーと一緒にいるところを見かけた子だった。たしか、アリシアと呼ばれていたか。無残としか言いようのない変わり果てた姿だったが、その儚げな美しさはより際立っているように見えた。
マイケルは、その少女の瞼を撫でるように閉じさせると、腰を上げた。
左脇のホルスターからブローニング・ハイパワーMk3拳銃を抜くと同時に、携帯無線機でスコットランドヤードに警備開始のシグナルを送る。
セシルは、そんなマイケルに目もくれずに、街灯の影に立つ人影に険しい視線を投げていた。
「姿を見せろよ、出来損ない」
侮蔑のこもったセシルの呼びかけに応じて、その人影が足を踏み出す。パンプスの足元が、じゃりっと乾いた音を立てた。そして、街灯の光の下に現われた金髪の女性を見た瞬間、マイケルの思考は停止した。
なにがどうなって、こんな状況が現出しているのか、理解などしようもなかった。ところどころに返り血を浴び、手には小さなナイフを握り、薄い笑いをその顔に貼り付けている女性は、マイケルにとって知りすぎているといえる人物だった。
「ステファニー。なぜ、君がこんなことを……」
ほとんど無意識なマイケルのつぶやきは、悪夢の続きのようなこの状況を、現実のものとして認定してしまった。それは、連続通り魔事件がまだ終わっていなかったという現実であり、その犯人の身元が一連の事件ではじめて特定されたという事実であった。それが、事件の犯人をだれよりも憎み、だれよりも熱心に犯人を追っていた自分自身に深い関わりがある人だったことは、皮肉としか言いようがなかった。
呆然と立ち尽くすマイケルに、セシルは嘲笑うかのような冷ややかな眼差しを向けた。そこには、『だから首を突っ込むなと言っただろう』という揶揄が込められているように思えた。
セシルはマイケルを一瞥しただけで、興味を失ったかのように、その真紅の瞳をステファニーに移した。
「よりによって、この子を襲うとはな。見逃してもらった恩を仇で返すとは、いい度胸だ。そちらがそのつもりなら、わたしも容赦はしない」
宣戦を布告したセシルに、ステファニーは不敵な笑顔で応じる。その口が開いて、機嫌の悪いときに発する猫なで声がした。
「あらあら、いつかの生意気な子ね。言ったでしょ、あたし何をするかわからないって。ちょうどいいわ、あなたはたっぷりと可愛がってあげる」
挑発するようなステファニーの言葉に、セシルは少しも表情を動かさなかった。
「出来損ないの分際で、よくも言ってくれる。こちらも言ったはずだ、二度目はない、とな……」
そして、ハンドバックに手を突っ込んだセシルは、その中から取り出したものを空中に放り投げた。
「PEB結界子、正規展開。高速起動、連係開始」
マイケルたちを取り囲むように地面に落ちたものは、ピカデリー・サーカスの路地裏で見たあの光るガラス玉だった。セシルの声に反応するように、今もまた仄かな赤い光を放っている。
「マルチロール・ウエポンシステム、アクティベーション」
わずかな澱みもなく続くセシルの詠唱に、マイケルは戦慄する。止めなければ、取り返しのつかないことになる。
「待て」
けれど、その喉から絞り出されるのは、か弱いつぶやきに過ぎなかった。
「セッティング・リロード、スタート、ローエングリン」
セシルの右手が、薄い緑色の蛍光を発する。
「かわいい声で泣きなさい、チェリーちゃん」
ステファニーが、血に濡れたナイフを掲げる。
「待つんだ、セシル。ステファニーも……」
マイケルの制止に耳も貸さず、セシルとステファニーが同時に足を踏み出した。
これから起こるであろうことを想像すると、マイケルの全身から血の気が引く。こうなってはもう、打つ手などないとわかっていた。だというのにマイケルの身体は勝手に動き、気が付くとセシルとステファニーの間に飛び出していた。
身体が動いたことで、マイケルにかかっていた呪縛のようなものが解けた。腹の底から押し出すように、力を込めた息に声を載せる。
「二人とも、動くな。やめるんだっ」
それはあまりにも無謀な行動だったが、エミリーとステファニーの動きをとりあえず止めることには成功した。
「ちっ」
セシルの忌々しげな舌打ちに、ステファニーの甘えたような声が重なる。
「マイケル、来てくれたのね……。やっぱり、あなたはあたしのものよ。お願い、助けて。その子、あたしを殺そうとしてるのよ」
二人の女性の間に立ち、その視線を一身に浴びるマイケルは、どう好意的に解釈しても、三角関係の清算を迫られているプレイボーイといったところだ。だが、この三者の関係は、もちろんそんな微笑ましいものではなかった。
この状況をどう解釈したのか、セシルはくつくつと笑い声を上げた。
「興冷めな台詞だな。しかも、大根役者まで闖入してくるとは。とんだ茶番だが、いまさら台本は替わらないぞ。邪魔者は、さっさと舞台を降りろ」
セシルの顔には笑みが浮かんでいるが、真紅の瞳から放たれる眼差しは厳しかった。そのプレッシャーを感じながら、マイケルは口を開いた。
「警察官としても、一人の男としても、それはできない。おまえもステファニーも、俺にとっては大事な人だ。その二人が殺しあうなんて、見逃せるわけがないだろう」
「おまえ、正気か? ここは今、対異種生命体戦闘地域に指定されているんだぞ。そして、あの目障りなモノは異種だ。ここまで接近すれば、おまえにもこの波動は感じられるはずだが?」
セシルの言葉は、マイケルに冷酷な現実をつきつけた。口元に薄い笑いを浮かべたまま佇立しているステファニーからは、ピカデリー・サーカスで察知したものと同じ気配が、はっきりと感じられた。
今にして思えば、エミリーは、ソーホーの中華街でステファニーに出会ったときに、彼女が異種だということに気づいたに違いない。冷酷にすら見えたあのときのエミリーの言動も、こういう事態にならないようにするための布石だったのだろう。
だが、それを認めることは、マイケルの感情が許さなかった。恋人としてステファニーと交際していたころには、まったくそんなことは感じなかったのに、今になって、なぜこんなことになったのだ。
「くそっ」
やり場のない怒りが、口をついて出た。これはやつあたりだ、とマイケルには分かっていた。しかし、それでも言わずにはいられなかった。
「異種といっても、ステファニーは人間だぞ。それを、当然のように殺そうとするなんて。おまえには、命の大切さがわからないのかよ」
セシルが、やれやれと言わんばかりに、盛大にため息をついた。
「命が大切というなら、その子はどうなるのだ。その出来損ないは、血の味を覚えたケダモノだ。放って置けばこれからも、理由も意味もなく人間の命を奪い続けるだろう。それを阻止できるのは、わたしたちだけだ。それに、異種を殲滅することは、おまえたちとわたしたちの間で交わされた契約の履行なのだ。わたしたちは異種を狩る、おまえたちはしかるべき対価を支払う。そういう仕組みなのさ」
セシルが話したことは、スコットランドヤードに提出した報告書を握りつぶされてから、たぶんそうではないかと漠然と考えていたことと符号した。ローゼンクロイツ騎士団が、非合法に見える行為を超法規的に容認されている理由、そしてその存在意義。それが今、当事者の口からはっきりと告げられたのだ。
「そしておまえたちは、自分の身を危険にさらさず、自分の手を汚さず、安穏と暮らしていけるというわけだ。だから、おまえがいくら綺麗事をならべても、母親のスカートの中で大口を叩いている子どもと同じさ」
返す言葉が見つからないマイケルに追い討ちをかけるように、容赦のないセシルの声が投げつけられた。
「それで、おまえはどうするのだ。黙ってわたしのすることを見ているか、あいつを庇ってわたしと戦うか、好きな方を選べ」
あまりに極端な二者択一の要求に、マイケルは逡巡する。どちらかを選択できるようなことではない。だが、与えられた時間が短いことも事実だ。
迷った挙句にマイケルが告げたのは、どっちつかずの答えだった。
「ステファニーは、殺人事件の重要参考人として、首都警察で身柄を拘束する。そして、我々の法律で裁く。だから、おまえは手を引いてくれ」
そう言いながらも、マイケルは、その提案にセシルが乗ることはないだろうと思った。
「論外だな。もういい、そこをどけ」
予想通り、セシルはマイケルの提案を門前払いにした。
そして、セシルのウエストがほんの少しだけ捻られたように見えた。
次の瞬間、マイケルを強い衝撃が襲った。
弾き飛ばされた身体が地面に落ちる前に、マイケルの目は、ステファニーの間合いに入ったセシルが右手を斜めに振り上げる姿を捉えた。
青白い閃光が、一直線の軌跡を描く。
瞬きする間も与えないセシルの攻撃に、ステファニーは微動だにできなかった。何が起きたのか理解する前に、彼女は切り裂かれて絶命する。
……はずだった。
「そこまでだ」
低くてよく通る男の声が響き渡り、セシルの右手が空中で停止した。




