4.13 プリムローズ・ヒルの恋人たち(Layer:1 Main Story)
丘の上から見下ろすロンドンの街が、夕闇の底に沈み始めていた。ぽつりぽつりと点り始めた灯が、街に昼と夜の境界を引いてゆく。
シンプソンズ・イン・ザ・ストランドでのディナーを終えたマイケルは、エミリーをプリムローズ・ヒルに連れて行った。
リージェンツ・パークに連なるように盛り上がる、なだらかなこの丘の上からは、ロンドンの中心部が一望のもとだった。正面には、色とりどりのイルミネーションをまとった、ロンドン・アイのリングが見えていた。足元の公園に配置された常夜灯が、薄暗くなりはじめた芝生の上に、いくつもの光の水玉模様を浮かび上がらせている。
数多の文芸作品に取り上げられ、ロンドン屈指の高級住宅街に隣接するプリムローズ・ヒルだが、日没を待つこの時間帯は、恋人たちの聖地というべき場所になっていた。
抱擁をしたりキスを交わしたりしている彼等からすこし離れた芝生に、マイケルとエミリーは並んで座っていた。シックなスーツ姿のマイケルと、不思議の国を旅する少女が絵本から出てきたようなエミリーのカップルは、否応にも人目を引いていた。
羨望や興味の入り混じった、さまざまな種類の視線が絡み付いてくる。しかし、マイケルはそんな周囲の反応を、まったく気にしていなかった。その意識の大半は、隣に座って夕方の風に白い髪を揺らせるエミリーに向けられていた。
プリムローズ・ヒルに来てからずっと、エミリーは無言でロンドン・アイの方向を眺めたままだった。その心に去来するものが何なのか、マイケルにはわからなかった。そして、それを知りたいと心の底から思った。
やがてエミリーの口がちいさく動いて、透き通ったクリスタルガラスのような声がした。
「ここから見ていると、まるですべてが幻のように思えるわ。でも、あそこでは、今日も誰かが生まれ、生きて、そして死んでいるのね」
マイケルは、エミリーの言いたいことが、なんとなくわかるような気がした。だが同時に、なにかが大きく欠落しているようにも思えた。
「おまえには、生死に対する実感がない、というのか?」
エミリーは、遠くの街灯りを眺めたままで「そうかもしれないわね」と言った。
「でもね、生きていることに対する実感なんて、そんなにいつも感じるものではないわ。死と隣り合わせになったときにこそ、実感するのだわ」
それは、日頃から命のやりとりをしている者にしか言えない、重みのある言葉だとマイケルは思った。
「俺も警察官だから、いつかはそういう事態に、向き合わなければならないかもしれないな。そしてだれかの、それはたぶんテロリストや凶悪犯だろうけど、その命を奪うようなことになるんだろうな」
マイケルは、そう言いながら、愕然となった。
――俺は今まで、とんでもない間違いを犯してきたのではないか。
おそらくは、通り魔と呼ばれる類の犯罪者であり、連続殺人犯でもあるあいつらを始末するのは、本来なら俺たちの仕事であるはずだ。なのに俺たちは、自分の手を汚さずに、自分たちが背負うべき罪を、この少女に押し付けてきたのだ。あまつさえ、俺はそのことを断罪しようとまでしていた。
そう考えると、マイケルの心にやるせない思いがあふれ出してきた。
「エミリー、もう、あんなことはやめにしないか」
「どうして?」
エミリーはロンドン・アイから外した視線を、正面からマイケルに向けてきた。そのサファイアとルビーのようなオッドアイは、まるで正邪を測る天秤のようにも、二つの並び立たない価値観を象徴するもののようにも見えた。
マイケルは、腹を括った。そして、その青い方の瞳に向けて、言葉を発した。
「あれは、俺たちがやるべき仕事だよ」
「いまさら、責任感に目覚めたとでも言いたいのかしら。でも、今のあなたでは、まともにあいつらと戦えないわ。もし戦ったとしたら、ほぼ間違いなく、その命を失うことになる」
エミリーの言葉に、マイケルは、命がけなのはおまえだって同じじゃないか、と思う。
「なあ、エミリー。どうして、おまえが戦わなきゃならないんだ」
マイケルの問いかけに、エミリーは少し考えてから答えた。
「それが、わたしの存在意義だからよ。もう、わかっていると思うけど、わたしは普通の人間ではないの。あいつらを倒すための、特別な能力を持っているわ」
エミリーに言われるまでもなく、マイケルもそれはわかっていた。しかし、それは認めたくないことだった。認めてしまえば、エミリーとのあいだに埋めようのない大きな溝ができるのは、わかりきっていたからだ。それだけに、あらためてエミリーの口からそれを聞かされたことには、最後通牒を突きつけられたような重みと痛みがあった。
「そのためだけに、おまえはいるっていうのか」
エミリーがゆっくりと首を振る。
「わたしにも、まだわからないの。自分が何者なのか、何をなすべきなのか、なぜこうして存在しているのか……。長い長い時間をかけても、わからなかった。最後まで、答えは出ないかもしれない。ただ、あいつらを斃すことは、わたしに課せられた義務であり、わたしが出来ることであり、したいことでもあるの。だから、今のわたしには、戦うことがすべてなの」
「そんな……」
マイケルは、言葉につまる。
戦うことがすべてだなんて、少女が言うべきことではない。なにがエミリーをそこまで追い込んでいるのかわからないが、俺にも、いや俺だからこそできることがあるのではないか。なにか、なにか言うべき言葉はないのか。
次の言葉を必死で捜すマイケルを、エミリーのオッドアイが、優しげにそして悲しげに見つめていた。
自分の存在意義は戦うことだとは言い切れても、なぜそうなのかということには答えを見つけられない。
そう告げたエミリーの言葉に、マイケルは違和感を覚える。なにか、根本的な部分で間違えているのではないか。
人は、理由があるから行動を起こす。そして、その結果が生じるものだ。行動と結果だけがあって、理由がないということがあるのだろうか。自分がなぜ存在するのか、自分とはいったいなにものなのか。思春期のころなら、多かれ少なかれ、だれでも抱くような疑問だ。マイケルも、そんな疑問を抱いたことはある。数奇と言っていい運命をたどってきたから、その疑問も苦悩も深かった。けれど、大人になった今では、もうその答えは見つけているし、自分が自分であることを受け入れている。
だが、エミリーはそうではない、と言った。それはつまり、今のエミリーを彼女自身が受け入れていないということではないのか。
「おまえ、今の自分が嫌じゃないのか?」
マイケルの問いかけに、エミリーがふっと笑う。それは、質問をしたマイケルへの嘲笑でも、自分を卑下する嗤いでもないように思えた。まるで、自身を含めたこの世界の出来事を、喜劇の舞台を見下ろすようなものだとでも言わんばかりの笑みだった。
「嫌なんかじゃないわ。気にしてもらう必要も、ないことよ」
それは、たしかにエミリーが告げた言葉だ。けれどその中には、『ままならぬのが人生だろう?』と薄い笑いを浮かべるセシルの声が混じっているように思えた。
マイケルは、エミリーと自分の置かれている場所の違いを、思い知った気がした。そういえば、エミリーはいつでも、自分のあるべき姿ややるべき事を優先させているように思えた。まるで、自分自身にそう言い聞かせるかのように。それは、ほんとうの彼女の姿なのか。彼女が、ほんとうに望んでいることなのか。
「なあ、エミリー。俺に、ほんとうのおまえのことを、教えてくれないか」
「ほんとうの、わたし?」
エミリーが、そう言って小さな唇に白くて細い指を当てる。
「どうして?」
「俺には、おまえが本心からそう言っているとは思えないんだ。だからもし、おまえが望むのなら、俺はおまえのことを守ってやる。いや、守りたいんだ」
「それは、任務だから?」
「それもある。けど、俺は、目の前でソフィーを死なせてしまったときに心に決めたんだ。大人になったら、大切な人を守れる男になるって。それができたかどうか、ずっとわからなかった。今でもときどき、ソフィーの夢を見るんだ。あいつは、弱気になった俺を叱ってくれているんだろうな。そしていつか、自分の大切な人を守り通せたとき、ソフィーは俺を許してくれるんだと思ってる」
「そう……なんだ」
気持ちを言葉に乗せて熱く語るマイケルの言葉を、エミリーは苦しげな表情で受け止めているようだった。しかし、それには構わず、マイケルは先を続けた。
「俺は、おまえを守り通すことで、ようやくそれが叶うと思ってるんだ。だから、俺におまえのことを守らせて欲しい。これからも、ずっと……」
マイケルは、姿勢を正し、エミリーを正面から見つめる。
「俺は、エミリーのことを心から大切に思っている。おまえが好きだ」
エミリーが、ちいさく首を振る。
「やめてよ。悪い冗談だわ」
「俺は、本気だ。おまえを愛しているんだ」
少しの沈黙があった。
やがて、エミリーは深いため息をもらした。
「告白、されちゃった……」
そして、また、静かな時間が流れた。
不思議なことに、気まずさはなかった。むしろ、その沈黙が心地よいくらいだった。
やがて、エミリーはマイケルを見上げるようにして目を閉じた。その意味は、すぐに分かった。
マイケルは、その唇にそっとくちづけをする。エミリーの唇は、やわらかくて、すこし冷たかった。マイケルは、そのまま彼女の背中に両手をまわして、そっと抱きしめた。
人生の中で、初めて本気で好きになった女性とのファーストキスだった。けれど、マイケルの心は、ほんの少しも動かなかった。エミリーとふれあったところから、冷たいものが自分の中に流れ込んできて広がっていくのを感じていた。そして二人の唇が離れたとき、マイケルは辛い結末を予感した。こんなに悲しいキスは、それこそ初めてだった。
やがて、エミリーがぽつりとつぶやいた。
「どうして、今、なのかな。なんで、いつもわたしなのかな」
丘を吹き渡ってきた風にかき消されて、エミリーの言葉がマイケルの耳をかすめていく。黄昏どきの紫色の空を背にして、エミリーが言葉を続ける。
「わたしのこと、好きだって言ってくれて、ありがとう。その言葉とその気持ちは、ずっと忘れずに大切にしていくわ。……でも、わたしは、あなたの気持ちに応えられない」
マイケルの予感は的中した。だが、不思議なほどにショックはなかった。
「なんとなく、そう言うんじゃないかって思ってたよ。……理由を聞いても、いいかな?」
そんなものを聞いても、どうしようもないと分かっていた。それでもマイケルは、エミリーの言葉が欲しかった。でなければ、この気持ちをもっていく場所がない。
エミリーは、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「あなたは、ほんとうのわたしを知りたいと言ったわね。シンプソンズで聞かれたことに対する答えにもなるのだけれど、わたしとあの子はふたりでひとりなの。でも、ほんとうのわたしは、わたしではないの。だから、あなたに守ってもらう資格も、あなたに愛してもらう資格も、わたしにはないのよ。これまでも、そして、これからもね」
わたしには、という部分をことさら強調するように告げてから、エミリーは風に乱れた白い髪を整えようともせず、また夜の街に視線を投げた。
マイケルは、シンプソンズで感じた疑問を反芻する。セシルとエミリー、いったい、どちらがほんとうの彼女なのか。その答えが今の言葉だと言うのなら、やはりエミリーは……。
それを聞いてしまったら、たしかにもう後戻りはできないだろう。けれど、それでもなお、マイケルは知りたかった。彼女が、いったい何者なのかということを。
「それは、おまえがエミリーだから、なのか?」
短い問いに、マイケルはすべてを託した。だが、その問いに対するエミリーの反応は、意外なものだった。
「ねえ、マイケル。『真夏の夜の夢』を知っている?」
答えをはぐらかすように問いを返したエミリーに、マイケルは戸惑う。だが、この状況で、エミリーが無意味なことを言うはずはない。
『真夏の夜の夢』か。子供のころに、父親のヴォールス伯爵や妹のソフィーと一緒に、リージェンツ・パークの野外劇場で見たことがあったな。たしか、魔法にかかった妖精たちと人間たちがアテネ郊外の森に会して、行き違いやすれ違いを演じる喜劇だったはずだ。
「シェイクスピアだろう。だいたいのことは、知っている」
エミリーは、オッドアイの青い目をまっすぐに向けてきた。その奥に宿っている、ちいさな光が揺らめいたように見えた。
「あのワルプルギスの夜から、ロンドンはまるごと妖精の森の中に踏み込んでしまっているのよ。みんな、いたずら好きな妖精の魔法にかかっているだけ。だから、妖精の魔法が解けたら、すべては元通り。それで、このおとぎ話は終わり、ということよ」
そう言って、エミリーは穏やかに微笑んだ。
エミリーの完璧なまでの拒絶の言葉に、マイケルにはもう、かえす言葉がなかった。ただ、その儚く透明な笑顔を、見つめ返すことしかできなかった。




