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4.12 君の名は(Layer:1 Main Story)

 

 高い天井から下がったシャンデリアの光に、壁のウッドパネルがワインレッドの輝きを反している。

 額に収まった大きな風景画が見おろす店内は、夕食時ということもあって、ほとんどのテーブルが埋まっていた。食器がふれあう音と、会話の声があちこちから間断なく聞こえる。タキシードのピアニストが、『慕情』のテーマを低く奏でていた。

 マイケルは、ディナーのレストランにシンプソンズ・イン・ザ・ストランドを選んだ。仕事帰りのマイケルはともかく、無理やり連れ出したエミリーはカジュアルウェアだ。そのドレスコードでディナータイムを過ごせる店のなかで、特別な日に使うとすれば、まちがいなくここが最良の選択だろう。観光客にも人気のあるレストランだから、予約なしで席につけたのは幸いというしかなかった。

「……メインは、ローストビーフで」

 マイケルは、以前に食べたことのある、この店の名物料理をオーダーした。だが、ふとあることを思い出して窓から外を眺めるエミリーに声をかける。

「エミリー、牛肉は大丈夫か?」

「いいわよ。BSEのせいで、ここのところ、まともなビーフを食べてないから」

 シャンデリアの光に包まれたエミリーが、そう答えて微笑む。その白い髪は淡いオレンジ色に染まり、オッドアイがサファイアとルビーのようにきらりと光る。着ているものは、子供っぽいとさえ言えるような趣味の服だが、かもし出す雰囲気は、年上のはずのマイケルですら及ばないような大人びたものだった。

「飲むだろう?」

 マイケルは、その姿につられるように、そう誘った。

「ええ、いただくわ」

 うなずくエミリーに相槌を返しておいて、マイケルは、ボーイに追加オーダーをする。

「ワインを一本くれないか。銘柄は、ソムリエに任せるよ」

「お連れの方は?」と問いかけるボーイに、マイケルは「彼女もワインでいい。成人だからね」と告げた。

「それで、よかったんだよな?」

 ボーイが立ち去ったあとで、マイケルはエミリーに確認する。いまさらとは思うが、よく考えてみれば、マイケルは彼女の年齢を知らない。

「想像におまかせするわ」

 エミリーは思わせぶりに答えて、髪に手をやった。そして、毛先を指に巻きつけて弄びながら、マイケルに視線を投げてきた。

『今日の目的は、なに?』

 そのまなざしが、そう問いかけているように見える。エミリーを相手に、回りくどいやりかたは逆効果だろう。よしっ、と自分に気合を入れてから、マイケルは話しかけた。

「エミリー。おまえと出会ってから、まだ二週間ほどだが、ほんとうにいろんなことがあったよな」

「ええ、そうね」

「思えば、俺たちの出会いは最悪だった。正直に言うと、最初のうちは、おまえのことが大嫌いだった。けど、今は違う。おまえと、もっと知り合いたいと思っている。だから、おまえのことを、いろいろと教えてほしいんだ」

 エミリーが、オッドアイの瞳をわずかに細めて、微笑を浮かべる。

「嫌よ。そんな聞き方をするのなら、なにも教えてあげないわ。人にものを尋ねるのなら、きちんとした訊き方があるでしょう。それができないのなら、自分で調べることね」

 言葉の内容とは裏腹に、その口調は穏やかだった。拒絶されているわけではなさそうだが、エミリーは何かにこだわっているようだ。思い当たることがなくて、マイケルは首を横に振る。

「おまえのことは、調べたつもりだ。けど、わかったのは、身分や仕事のことばかり。そんなことが知りたいんじゃないんだ」

 それでもエミリーは、知らん顔を決め込んでいた。いきなりのつまずきに、マイケルは心の中でため息をつく。そういえば、スコットランドヤードの取調室でも、知らぬ存ぜぬだった。自分からは、なにも話さないやつなんだな。

 いや、待てよ。そういえば……。マイケルは、ふと、あることを思い出した。まさかそんなことが、と思いながらも試してみることにした。

「エミリー、いまさらだけど……。俺は、マイケル・ステューダーだ。ロンドン首都警察で、テロリストの相手や、君みたいな要人の警護を仕事にしている。ついでに、ヴォールス男爵家の当主でもある。君の名前を、教えてくれるかい?」

 スターターに出されたホロホロ鳥のテリーヌをつついていたエミリーは、フォークとナイフを絵皿にそっと戻すと、目尻を下げて微笑を浮かべた。

「初めましてって、言うべきかしらね……。わたしの名前は、セシル・ディ・エーデルワイス・エリザベート・アマーリエ=ミリア・フォン・フォアエスターライヒです。とても長い名前で呼びにくいので、皆さんにはエミリーと呼んでもらっているわ」

 それは、あたりまえで、とても簡単なことだったのだ。エミリーは、最初からちゃんとそう言っていたのに、俺は、なんて遠回りをしてしまったのだろう。

「やっと、自分から名乗ったわね、マイケル」

 エミリーは、そう言って、また笑った。

 ようやく聞き出したエミリーの本名だが、マイケルは強烈な違和感を覚える。ファーストネームは、てっきりエリザベートだと思っていたのに。

「ファーストネームは、セシルっていうのか」

「ええ」

「エーデルワイスって、花の名前だよな」

 マイケルは、アルプスに咲いているウスユキソウを思い浮かべる。白い可憐な花は、エミリーのイメージに合っていると思う。しかし、エミリーはちいさく首を振った。

「ディ・エーデルワイスで、『白い王女』っていう意味よ。愛称みたいなものだわ」

 エミリーが、右手の指で髪を払う。絹糸のような彼女の髪が、さらりと流れた。

 なるほど、白い王女か。マイケルは納得した。

「でもね、それは、あの子の名前なの」

「あの子?」

「あなたも、何回か会ったことがあるでしょう。最初にあなたに出会ったのは、あの子の方よ。そして、今日もね」

 マイケルは、チャイナタウンでのエミリーとの会話を思い出す。たしか、自分は二重人格じゃないと言っていた。

「昼間、ハイド・パークで話をしたときのことか。あの子って、別人っていうのは、どういう意味なんだ?」

 エミリーが、表情を曇らせてため息をつく。

「ほんとに、あなたって頭も悪ければ、デリカシーもないのね。これだけ一緒にいて、まだわからないの? あの子、セシル・ディ・エーデルワイス。わたしとは違うわたし、もうひとりのわたしよ」

 彼女の口から、それを聞くのは二度目だった。エミリーを理解するためには、避けて通れない問題だが、マイケルにとっては理解しがたい難問である。

 マイケルに考える時間を与えてくれるかのように、ワゴンがやってきてローストビーフがサーブされる。焼き加減の違う三種類の中から、マイケルは迷わずレアを選んだ。エミリーも同じものを選び、「こんなローストビーフは初めてだわ」と目を丸くしている。

 エミリーは、ちいさく切った肉を口に運び、グラスからボルドーの赤ワインをひとくち飲んで「おいしい」と言った。マイケルは、グレービーソースのかかったローストビーフを口に運びながら、ついさっきエミリーが話したことに思いを巡らせる。それは、簡単そうなことなのに、常識が邪魔をして、どうしても解答が得られない。自分の中に、もう一人の自分がいる。いや、お互いにお互いを認識しているから、やはり別人なのか。それは、いったいどういう状態なのだろう。

「エミリー、俺にはわからない。おまえは、ひとりなのか。それとも、ふたりなのか」

 マイケルは、素直に降参して見せた。

「普通の人に理解できないのは、あたりまえだわ。わたしとあの子は、ふたりでひとりなの。どちらかが欠けたら、それはもう、わたしという存在ではないわ。でもね……」

 エミリーは、一度そこで言葉を切って、マイケルの目を見た。そして、微笑みながら続けた。

「このわたしは、エリザベート・アマーリエ=ミリアなの。だから、わたしのことはエミリーと呼んでほしいの」

 エミリーが、自分の呼び名にこだわった理由に、マイケルはようやく合点がいった。そして、たとえ人格障害であったにせよ、それがエミリーの心のあり方だとすれば、受け入れるしかないと思う。だが、だとしたら、いったいどちらが本当の彼女(・・・・・)なのかという問題に突き当たる。

 最初に出会ったときは、セシルという人格だったと、エミリーは言った。その後、何度か会話をしたセシルは、いくつもの核心的な発言をしていたように思う。それに比べると、エミリーの言葉は、どこか曖昧でなにかを隠しているかごまかしているような節がある。しかも、彼女の本分とでもいうべき戦闘はセシルの受け持ちで、あの見えない武器をはじめとした不思議な力を使えるのはセシルだけだとも言っていた。そしてなにより、朝食の席でセシルの正体を聞こうとしたとき、『それを聞いたら後戻りはできなくなるぞ』と警告されなかったか。

 マイケルは、そこに思い至って、背すじがすっと冷たくなるのを感じた。俺が好きになったこのエミリー(・・・・・・)とは、いったい何者なのだ……。

「エミリー、おまえは……」

 問いかけようとして、マイケルは躊躇する。それを聞いてどうなるというのだ。今までずっと一緒にいたのも、今もこうして話をしているのもエミリーではないか。それに、セシルが出てきたのはほんの数回だけだ。それなら、セシルの方にもう一度聞いてみたらどうだ。おまえは一体、何者なのだ、と。

「いや、いい。それより、セシル……さんと、すこし話しをしてみたいんだが」

 マイケルを見つめていたエミリーの青い瞳が、一瞬だけ光を失ったように翳る。長い睫毛が揺れて瞼がその瞳を隠し、再び現われた青い瞳には怜悧な輝きが戻っていた。ほぼ同時に、足の甲を激しい痛みが襲う。最近はめっきりなくなっていたから、不意を突かれた格好になって、かなりの痛みだった。

「今のは、わたしとあの子の二人からよ。あの子、怒ってるわ。今度会うときは、覚悟しておくことね。それから、さんづけはしなくていいわ。あの子も、そういうの嫌いだから」

 顔をしかめたマイケルが可笑しかったのか、エミリーは目を細めて笑った。まぶしいくらいに屈託のない笑顔と、隠されてしまったオッドアイのせいで、その表情からは何も読み取れなくなってしまった。

 マイケルは、作戦の失敗を悟った。けれど、撤退するという選択肢は、この戦場にはありえない。

 サーブされてから時間が経ったせいでジューシーさを失いかけている牛肉を、赤ワインとともに飲み込む。糧食の補給を受けた頭は、すでに新しい作戦を構築し始めていた。


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