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4.10 スピーカーズ・コーナー(Layer:1 Main Story)

 

 夏空を流れる雲を見送ったマイケルは、背中に聞こえた鳥の声を追うように視線を巡らせる。立ち並ぶ木々と、その足元を埋め尽くす芝生の緑が、鮮やかに広がっていた。大都市ロンドンの中心にありながら、一.四平方キロもの敷地を持つハイド・パークには、王室の狩場だったころの広大な森がよく残されている。

 平日の午後だというのに、ハイド・パークには恋人たちや家族連れの姿も少なくなかった。ベンチで話し込む老夫婦、のんびり散歩するカップル、ボール遊びに夢中の親子、スピーカーズ・コーナーで湾岸への出兵を声高らかに批判する若い男。それぞれが、それぞれにこの公園を楽しんでいるようだった。

 ピカデリー・サーカスでの戦闘から五日、連続通り魔事件はまだ終わっていないというエミリーは、相変わらず地味な犯人探しを続けていた。だが、あのときと決定的に違うのは、いるかいないかはっきりしない敵を探さなければならないということと、犯行の前に身柄を確保して裏で糸を引く真犯人にたどり着かなければならないということだ。

 連続通り魔事件を追い始めたころの俺と同じだな、とマイケルは二ヶ月前のことを思い出す。犠牲者が出なければ、表立った活動ができないマイケルにしてみれば、エミリーの捜査を支援することが真犯人を探すことに繋がる唯一の道だ。しかも、エミリーの警護を続けられる間だけという時限付きでもある。真犯人が逮捕されなくても、これ以上市民に犠牲者が出ないのなら、警察官としては納得しなければならないことではあるのだろう。だが、愛する妹ソフィーの命を奪った通り魔が誰かの操り人形だった可能性がある以上、その真犯人を逮捕しないことには、個人としてのマイケルはとうてい我慢できるものではない。スコットランドヤードが頼むに足りない以上は、細い糸であってもエミリーの持っている糸口にすがるしかないのだ。

 人が集まりそうな場所ということでエミリーが選んだハイド・パークだったが、このままでは今日も空振りに終わりそうだった。エミリーと自分のやっていることに比べたら、昼下がりのハイド・パークは、穏やかな雰囲気に溢れすぎていた。

 木陰のベンチ腰掛けたマイケルの隣には、文庫本に目を落とすエミリーがいた。ハイド・パークのすぐ近くにあるドーチェスター・ホテルで着替えをした彼女は、スカイブルーのノースリーブのワンピースの上に、薄いレースチュールのチュニックを重ね着していた。チュニックに散りばめられた小花柄の刺繍が、霞のかかった空を舞う花弁のように見える。ウエストを取り巻く白い大きなリボンと、スカートの裾からあふれ出したAラインパニエの白いレースが、シンプルでシックな装いに少女らしい華やかさを添えていた。

 ――俺たちって、傍目に見れば、物静かなカップルに見えるのだろうな。

 マイケルがそう思ったとき、近くでボール遊びをしていた兄妹から歓声が上がった。兄が五歳くらいで、妹が三歳くらいだろうか。兄がゆっくりと蹴りだしたボールを、妹は思い切り蹴飛ばす。兄は、右往左往しながらそのボールを受け止めている。

 子供は無邪気でいいな、と思いながらエミリーに目をやると、彼女もまた、細めたオッドアイから優しげなまざしをその兄妹に向けていた。もしかしたら、エミリーは子供が好きなのかもしれない。マイケルは、なんの根拠もなかったが、そんなふうに思った。

「なあ、……少し、話してもいいか」

 マイケルは、遠慮がちに声をかけた。

 エミリーは丁寧に文庫本に栞を挟み、頁を閉じた。

「ああ、かまわないぞ。なんだ?」

 その口調に、マイケルは、やはりそうかと思う。ハイド・パークに入った時からそんな気配はしていたが、今は、もう一人のエミリーになっているようだ。だが、今の彼女には、恐怖感も圧迫感もなかった。話をしてみるには、絶好のチャンスかもしれない。

 マイケルは、ボールにじゃれつくようにして遊ぶ兄妹を見やりながら、口を開いた。

「子供っていいよな」

「そうかもしれんな。だが……まあいい。それで?」

 エミリーにしては珍しい曖昧な答え方だったが、会話を続ける余地を残した答え方に、マイケルは手ごたえを感じた。

「あのくらいが、いちばん楽しいんだろうな。あいつらも、いずれは大人になって、嫌なものや汚いものも見るんだろうけど……」

 兄弟姉妹という関係は、数多くの人間関係のなかでも、特別なものだとマイケルは思う。それは、普通の人生を送る場合には、いちばん長いあいだ変化しない人間関係だからだ。俺の場合は、妹を殺人事件の被害者として失い、兄からは不当に憎まれ裏切られて切り捨てられた。あの兄妹も、もしかしたら将来、争い憎しみ合うようにならないとも限らない。それでも、血縁というものは簡単には切れない。せめて、あの兄妹はそんなことにならないように祈ってやりたい気分だった。

 マイケルは、ひとりごとのように話す。エミリーは、黙ったままで聞いていた。

「なあ、大人になるって、どういうことなんだろうな」

 エミリーは、肩にかかった髪を払い、真紅と青のオッドアイをマイケルに向けた。気のせいか、青い方の瞳に陰りがあるように見えた。

「わざわざわたしに話しかけてくるから、なにかと思えば、そんなことか。……大人になるということは、自立するということだよ。子供は、親の庇護を受けられるのと同時に、その束縛も甘受しなければならない。大人は、誰からも自由だが、誰かに依存することは許されない。それは、等価としてひきかえるべきものだからな」

 丁寧に自分の考えを答える落ち着いた口調は、マイケルには期待以上の意外なものだった。それにしても、エミリーはときおり、とても大人びたことを言う。マイケルは、自分よりはるかに年下にしか見えない彼女の言葉を、人生の先輩からの助言のように感じることさえあった。出会ったころは、それが癪にさわったこともあったが、最近では素直に聞けるようになっていた。

「エミリーは、大人だと思うよ。見た目とちがってさ」

 そんなことを、つい言ってしまう。またエミリーに仕返しされそうだ、とマイケルは反省する。

 しかし、エミリーは、マイケルの言葉の後半を聞き流したようだ。もしかしたら、ほかのことを考えていたのかもしれない。

 本を膝に置いたエミリーは、小さな背伸びをした。

「いったい誰に向かって、ものを言っているのだ? わたしに、世辞など通じないぞ。自分でもわかっているつもりだ。わたしは、まだ独り立ちのできない子供だよ」

 今日のエミリーは、妙に素直だ。なにか、心境の変化でもあったのだろうか。だが、思い返せば、こちらのエミリーはいつも素直だったように思う。彼女から受ける威圧感に紛れて、それに気がつかなかっただけなのかもしれない。

「俺は、大人っていうのは、自分の人生と他人の人生に責任がとれるってことだと思う。自分の人生に責任をとるのはあたりまえだけど、他の人の人生も背負えてこそ、一人前なんだよ」

 エミリーのオッドアイが、正面からマイケルに向けられる。

「あいかわらず、口だけは達者だな。ならば、わたしの問いに答えられるか? 人は本質的には、だれもみな孤独な存在だ。自分以外の者を、完全に理解することはできないからな。理解すらできないモノを、負担することはできるのか?」

 達観したようなもの言いだったが、マイケルは、エミリーの表情にかすかな翳りがあることに気がついた。

「もしかして、おまえ、寂しいんじゃないのか。たしか、家族がいないとか言ってたよな」

 思ったことが、そのまま口に出ていた。

 オッドアイの紅玉がすっと細くなって、桜色の小さな唇からふっと嘲笑が漏れた。

「余計なお世話だ。おまえごときに心配されるとは、わたしも随分と甘く見られたものだな。寂しいなどという言葉は、所詮は負け犬の遠吠えさ。それより、わたしの質問に対する答えをまだ聞いていないぞ」

 マイケルは、それがエミリーの強がりだとしか思えなかった。だから、俺を頼ってくれていいんだぞ、という思いも込めて答えた。

「俺は、理解できない部分も一緒に背負っていこうと思っている。大切な人の人生なら、たとえ這いずってでもだ。できる、できないの問題じゃないんだ。やろうとする意思があるかどうかだよ」

 マイケルの言葉に、エミリーはまた鼻で笑った。

「じつに、くだらん。おまえの主張は、いわゆる精神論だ。わたしの質問に対する回答としては、完全な落第点だな。だが、そこまで言うのなら、おまえの大事な者の人生くらいは、背負ってみせることだな」

 その言葉の意味を考えたとき、マイケルの胸は高鳴った。動揺を抑えて、マイケルはゆっくりと喋る。

「エミリーは、誰かに背負ってもらいたいって思わないのか」

「さあ、どうだろうな。……もっとも、誰かに背負わせられるような人生とは思えないが」

 エミリーは、微妙な表現の答えを返してきた。その真意はうかがい知れなかったが、マイケルはかまわず話を続けた。

「結婚したら、子供は二人以上欲しいな。兄弟か姉妹かを作ってやりたいからな」

 話が弾むことを期待したが、エミリーはなにも答えず、遠くに見える木立の方向に目を向けた。

 マイケルは、自分が家庭を持つ姿を想像してみる。息子と娘がいる。無邪気に、ボールを追いかけている。俺は、転んでけがをしないかとはらはらしている。そして、そんな俺たちの横で、ゆっくりとお茶を飲む、かわいい妻。それが、エミリーだったら、どんなにいいだろうか。しかし……。

 アンティークドールのような横顔を見せるエミリーは、そんなあたりまえの幸福から、あまりにも離れた場所にいる。甘美な空想が消え、心の芯がすっと冷たくなる。そして、やりきれない思いがこみ上げてきた。

 兄妹のボール遊びは、まだ続いていた。兄の投げたボールが高めに浮き、妹が受け損った。そのボールが、エミリーの手元に転がってきた。後を追って、妹が駆けてくる。エミリーはボールを拾って、笑顔でその子に差し出した。

 しかし、その子はエミリーの近くまで来ると、あと数歩というところでぴたりと足を止めた。そしてひとしきりエミリーの顔を見つめたあと、怯えたように泣き出した。

「ふふっ。純粋な恐怖心というわけか。わたしのことが、わかるのだな。……子供は、素直だからな」

 エミリーの顔に、冷笑が浮かぶ。

 マイケルには、彼女にかける言葉がなかった。

 

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