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4.9 フォー・ザ・モーメント(Layer:1 Main Story)

 

 左腕に付けたスピードマスターの針が、きっかり午後一時を指した。

 腕時計から目を上げると、公園のような敷地に建つネオゴシック様式の校舎から、ネイビーのブレザーの下にバーバリーチェックのプリーツスカートを履いた少女たちが一斉に出てくるのが見えた。

 その中に、初夏の陽光を受けて颯爽と歩いてくる、白くて長い髪の少女がいた。

 いつもの時刻、いつもの場所。最近では、こうしてエミリーを迎えに来たり、一緒に過ごしたりすることが、あたりまえのように感じられる。任務だという感覚が薄くなってきている。思い返せば、エミリーの警護に当たりだしてから、もう二週間ちかくが過ぎていた。一人の人間を、これだけ長いあいだ警護するのは珍しいことだった。きっと、そのせいもあるのだろう。

 マイケルの前まで歩いてきたエミリーが口を開きかけたとき、彼女の名前を呼ぶ少女の声がした。

 後ろを向いたエミリーのもとに、セント・セシリア校の制服を着た女の子が二人走り寄ってきた。漆黒の髪をポニーテールに括ったボーイッシュな子と、長い黒髪をなびかせた大人しそうな子だった。

「エミリー、もしかして、彼氏?」

 ポニーテールの子が、そう言いながらエミリーの腕をつつく。

「そんなのじゃないのよ、カナコ。この人、刑事さんなの」

 エミリーが否定すると、カナコと呼ばれた子がその耳元に口を寄せる。その名前と外見から、おそらくは日本人だろうとマイケルはあたりをつける。

「ごまかさなくていいわよ。すごくかっこいい人ね。だけど、ずいぶん年上じゃないの。もしかして、大人の関係ってやつ?」

 耳打ちにしては、声が大きすぎる。絶対、俺に聞こえるように言ってるよな、こいつ。マイケルはそう確信する。

「デートの邪魔して悪いんだけど、ねえ、これからコヴェント・ガーデンに行かない?」

 カナコが、エミリーの手を取って誘いの言葉をかける。

 しかし、エミリーはゆっくりと首を振った。

「ごめんね、カナコ、アリシア。わたし、ちょっと」

 エミリーの答えに、カナコよりもむしろその横に黙って立っていた少女の方が、落胆したように表情を曇らせた。その少女――アリシアに、マイケルは見覚えがあった。このまえ、エミリーのホテルで見かけた少女だった。

 あのときのシーンが脳裏によみがえって、マイケルはどきりとする。こころなしか、マイケルに向けられたアリシアのまなざしに、敵意が混じっているように感じた。しかし、それも一瞬のことで、マイケルと視線が合うと、アリシアは慌てたようにうつむいた。

「やっぱりデートか。いいなあ、こんな美男美女のカップルなんて、そうはいないよ」

 カナコの無邪気な言葉に、マイケルの胸がぎゅっと苦しくなる。少女たちが交わす会話も、別れの挨拶も、遠くに聞こえる。

 俺とエミリーは、SPと被警護者という関係にすぎない。そしてその任務が終わり、エミリーと別れる日はもうそこまできている。エミリーの方から切られた期限まで、あと一日なのだ。

「……ねえ、どうしたの」

 突然、耳元で聞こえたエミリーの声で、マイケルはわれにかえった。任務中にぼうっとするなんて、なんという失態だろう。

 エミリーは、オッドアイの眉間をわずかに寄せて、小さくため息を落とした。

「あいかわらず、ダメな人ね。だらしなく鼻の下を伸ばしていないで、さっさと車のドアを開けなさい」

 マイケルが助手席のドアを開けると、エミリーはシートに座り、その背もたれにゆったりと身体を預けた。

 通常なら被警護者は後席に乗せるのだが、エミリーは後席が狭いという理由で、初日から助手席に乗り込んできた。スコットランドヤードがマイケルに貸与しているのは、ジャガーのハードトップを改造した特装車だったが、その助手席は、今ではエミリーの好みのリクライニング位置に固定されていた。

「ほんとに、もう。いつも一緒にいるのだから、もっとしゃんとしてもらわないと、わたしが恥をかくわ」

 エミリーが、前を向いたままで文句を言った。俺がしゃんとしていないと、どうしてエミリーが恥をかくのか、よくわからない理屈だった。けれど、エミリーのそんな高飛車な発言にも、ほとんど怒りは覚えなくなっていた。

「おまえにも、普通に友達がいるんだな」

「あなたね、わたしのこと何だと思っているの。非常識きわまりないだれかさんと違って、常識的な程度の協調性はもちあわせているわ」

 エミリーの口から、協調性なんて言葉が出てくるのは、意外だった。学校では、さぞやしおらしく振る舞っているのだろう。いったい何人がそれに騙されていることか。しかし、マイケルは、そんな彼女をも好ましく思っている自分に気づいて苦笑した。変われば、変わるものだ。

「なんだか、楽しそうだったな。セント・セシリア校の生徒って、もっと堅苦しい子ばかりかと思ってたよ」

「そんなことないわ。みんな、普通の女の子たちよ。かりそめの関係だけど、大事にしたいわ」

 かりそめ、という言葉が、マイケルの耳に突き刺さる。いつか失われてしまうものであることを、はっきりと宣告されたような気がした。

「なあ、エミリーはいつまでこうしていられるんだ?」

 マイケルは、ついそんなことを聞いてしまっていた。隣の席で、エミリーがはっとしたようにマイケルを見た。

「どうして、そんなこと聞くの?」

 エミリーの声が、かすかに震えているように感じた。マイケルは、意外な反応を見せた彼女に違和感を覚える。まさか、エミリーが俺を意識しているのか。

「いろいろと、気になることがあるんだ。任務のことだけじゃなくてな」

 マイケルは、すこし踏み込んでエミリーの出方を探った。エミリーは、ちいさなため息をついたあと、フロントウィンドウごしに広がる青空を見上げた。

「……わからないわ。でも、いつまでも、というわけじゃないわ」

 曖昧な、けれどわかりきっていた答えが返ってくる。その声に微妙な陰影があったことで、マイケルはまたせつない気分になる。

 ――そうなったら、お別れということなんだな、エミリー……。

 マイケルは、かすかな翳りを帯びたエミリーの横顔を一瞥し、ふと浮かんだ感傷を振り切るようにアクセルを踏み込んだ。

 

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