4.8 ガーディアンズ・デューティー(Layer:1 Main Story)
「お兄ちゃん」
少し鼻にかかった声が、恥ずかしそうに俺を呼んだ。
振り返ると、広い花畑があった。
遠くに、緑の木立と、飴色の家並みが見える。
せせらぎの音が、心地よく耳に響く。
「ソフィー?」
俺は、声の主を探す。
「ここだよ、お兄ちゃん」
一面の花畑から、小さな白髪の頭が、ちょこんとのぞいた。くりくりとした異色虹彩の瞳が、俺の姿を映す。
「……エミリー?」
「ねえ、こっちに来て」
俺は、花畑をかき分けて、彼女の近くに行く。
「今日は、お兄ちゃんのお誕生日だね。はい、プレゼント」
彼女は、小さな両手で花冠を差し出す。
「ありがとう、……エミリー」
俺は、その花冠を頭に載せる。
「えっとね、あといくつねんねしたら、わたしの誕生日かな?」
「七つだ。来週だろ」
「わたし、あと七つ、ねんねしたら、五歳だよ」
そう言って、彼女は、小さい指を折って数える。
「エミリーは、なにか欲しいものあるか」
「うんとね、指輪が欲しい」
「指輪?」
「うん。大きくなったら、大好きな人から貰うんだって、パパが言ってた」
そして、俺を見上げて目を細めて笑った。
俺は、その頭をくしゃくしゃと撫でてやる。気持ちがいいのか、エミリーは満面の笑顔になる。
「俺でいいのか?」
「うん。わたし、お兄ちゃん大好き」
エミリーは、そう言って、異色虹彩の瞳を輝かせた。
俺は、エミリーを抱きしめる。
柔らかな感触が、腕と胸に広がり、微かに甘い香りがした。
明るい朝の日差しがあふれるラウンジ「ザ・プロムナード」に、セント・セシリア校の制服を着たエミリーが現れた。この制服は、バーバリーのオーダーメイドだと言われているが、プリーツスカートやネクタイのチェックの上品さや、エミリーの身体のラインにぴったりとフィットしたシルエットを見ると、その話もうなずける。
ソフィーが生きていれば、もしかしたらこの制服を着ていたかもしれない。向かいの席で朝食を食べているエミリーを見ながら、マイケルはふとそう思った。
それにしても、昨夜の夢はなんだったのだろう。あれは、ソフィーと俺の大切な思い出だ。今まで、そこに割り込んできた者などなかった。ステファニーとの恋愛に夢中になっていたときは、あのシーンを夢に見ることすらなかった。
マイケルは、その意味を考えながら、いつものようにエミリーをセント・セシリア校に送り届けた。
スカートの裾を颯爽となびかせながら、エミリーが校舎に消える。その姿をぼうっと見送っていたマイケルの背後から、聞き覚えのある声がした。
「ステューダー警部補」
振り向いたマイケルの目に、その人が映る。マイケルより少し背の高い、長い金髪にアイスブルーの瞳の紳士、ハノーヴァー公爵だった。
「エリザベートを送ってきたのかね」
「はい」
「時間があるのなら、お茶でも飲んでいかないか」
言葉とは裏腹に、ハノーヴァー公の誘いには、時間がなくても断れないような圧力があった。公爵のような大物が、使いを寄越さず自ら誘いに来ているということから考えても、なにか重大な用件があるに違いない。
マイケルは、ハノーヴァー公に案内されて、ロビーの続きにある部屋に入った。広い部屋の壁には、湖水地方を描いた風景画が架かり、マホガニーの豪華な調度品が並んでいた。マナーハウスの応接室の典型といえる部屋だったが、その一角を飾る磨き上げられた甲冑や武器がマイケルの目を引いた。
「エリザベス・ヴァージンクイーン陛下から、ガーター勲章とともに拝領したものだ。興味があるのかね」
ハノーヴァー公の問いかけに、マイケルは首を振る。
「いいえ、武具のことはあまり知らないので。ですが、立派なものですね」
「ただの飾りだよ」
やがて、ドアがノックされ、品のよさそうなメイドがワゴンで紅茶を運んできた。大きなテーブルにカップとソーサーを手際よく並べると、彼女は一礼して部屋を出ていった。
「あの件は、もういいのかね」
ハノーヴァー公は、紅茶に口をつけてから、そう切り出した。
あの件というのは、もちろん十五年前の事件のことだろう。聞きたいことなら山ほどあるが、どうしても知りたいのは、ひとつだけだった。
「聞いたら、教えてくれるんですか」
マイケルは、そう返してから、紅茶をすする。香りも味もいいダージリンだった。
カップの向こうから、ハノーヴァー公の声が聞こえた。
「内容によるがね。君は、もう戻れないほど深入りしている。覚悟は、あるかね」
エミリーと同じようなことを言うんだな。マイケルは、ずいぶん前に彼女と言い合いになったときのことを思い出した。
「ええ。なによりも知りたいのは、あの敵……」
敵、という言葉で表現するには、マイケルはまだ少し抵抗があった。
「そう、あいつらについてです」
「エリザベートから、なにか聞かされているのだろう」
エミリーに比べると、ハノーヴァー公は慎重だった。
マイケルは、エミリーから聞いたことを、なるべく正確に思い出しながら話した。
「人間を、破滅させるかも知れないものだと。そして、それは人から生まれるものだとも」
マイケルの言葉に、ハノーヴァー公がうなずく。
「その通りだよ。あいつらは人間とはまったく異なる種であるにもかかわらず、人間と交わることで子孫を増やすことができるのだ。本来なら、この地球上の生命の系統樹に存在してはいけないものなのだよ」
荒唐無稽な話に聞こえるが、トムの分析結果を知り、自身もそういうレポートを書いた今となっては、なんの疑いもなく信じられる。ただ、ハノーヴァー公の説明は、簡潔で明瞭だが、肝心な部分が意図的にぼやかされているように聞こえる。なぜ、そんなものが存在するのか、ということが。
「遺伝子操作によって、作り出されたものなのですか」
マイケルは、知識を総動員して、そう切り込んだ。
「どう拡大解釈しても、そうは呼べないだろうね。あいつらは、あくまでも自然交配によって、人間から生まれたものだよ。ただ、交配相手が人間ではないだけのことさ。あいつらの中には、超常の才能を生かして、英雄や政治家、思想家、活動家、資産家になった者もいる。君が歴史の授業で名前を聞いたような者にも、あいつらの仲間は紛れ込んでいる。人間を破滅させるかもしれないというのは、そういうことだよ。だから、我々は、あいつらを殲滅しなければならないのだ」
ハノーヴァー公は、あいつらに対してずいぶん否定的だな、とマイケルは思った。同時に、マイケルは自分の考えの矛盾にも気づく。そんな存在に対して否定的なのは、あたりまえではないか。なにか、おかしい。エミリーはこのまえ、なんと言っていた?
少なくとも、全面的な否定ではなかったように思う。そこには、エミリーとハノーヴァー公との考え方の違いというレベルで片付けられない、根本的な差異があるような気がする。
マイケルは、うまく考えがまとまらなかった。その沈黙を了承と受け取ったのか、ハノーヴァー公のゆったりした声がした。
「だから、あいつらの始末は事情を知っている者によって、極秘裏に行われなければならないのだよ。わかってもらえたかね」
「ええ、ある程度は。しかし、俺が遭遇した連中は、あまり知的ではなかったようですが」
ふむ、とつぶやいてハノーヴァー公が顎をなでる。
「事件を起こしたやつらの脳は、wormwoodで破壊されていた。そこに、何らかの方法で殺人衝動を刷り込んだのだろう。要するに、あいつらは操り人形のようなものだよ。これは、十五年前の事件と、事実関係が酷似している。エリザベートの推理どおり、黒幕がいるのは間違いない。かなり厄介な状況ではあるが、残念なことに敵の正体も動機も目的もわからない。今のところは、手詰まりだよ」
ハノーヴァー公の言葉は、とんでもない犯罪の可能性を示唆している。だが、黒幕の正体がわからない現状では、マイケルにしてもハノーヴァー公にしても、手も足も出ない状況ではある。
「敵になんらかの目的があるのなら、必ず動きを起こすだろう。まあその件は、いずれ我々の手でカタをつける。それよりも、だ。ステューダー警部補……」
咳払いをしたハノーヴァー公は、今までよりも真剣な面持ちになった。アイスブルーの瞳が、正面からマイケルを見据えている。その眼差しは、これからが本題だと告げていた。
「非礼を承知で尋ねるが、君はエリザベートのことをどう思っているのかね」
「は?」
ハノーヴァー公の発した意外すぎる言葉に、マイケルは自分の耳を疑った。
「好意以上の気持ちを、持っているのではないのかね」
念を押すように質問されて、マイケルは面食らった。どうして、この人にそんなことを、しかも連続殺人事件よりも重大事であるかのように、問われなければならないのか。
「それは、今、答えないといけないほどの重大事ですか」
「回答を強制はしない……」
ハノーヴァー公は、そう言ってティーカップを手に取る。
「だが、答えてもらえるとありがたい。私の仕事が、ひとつ減るのでね」
そう言うハノーヴァー公の表情は真剣そのもので、まるで娘を心配する父親のような感じを受けた。もしかしたら、ハノーヴァー公とエミリーは親子ではないか、そんな考えがマイケルの頭をよぎった。
「私も非礼を承知で、もう一度うかがいます。あなたとエミリーは、どういうご関係なんですか」
マイケルの問いかけを、ハノーヴァー公は、顔色ひとつ変えずに受け止めた。
「それを君に答える必要はないし、そもそも、君にはそれを問う資格がない。だが、私には君に問いただす資格があるのだよ。私は、ガーディアンだからね」
そういえば、公式にはハノーヴァー公はエミリーの保証人ということになっている。そんなものは表向きだけの話であって、実態は裏社会で暗躍している組織の構成員同士という関係だ。だが、彼等の活動は超法規的に黙認され、犯罪性は立証できていない。しかもここは、公爵の私邸とはいえ学校の敷地内だ。校長であり保証人でもある人物から公式な立場で問われれば、自分の立場を考えても責任をもって答えないわけにもいかない。役者が違うな、とマイケルは感じた。
「わかりました。正直に言うと、エミリーのことは気になります。自分でも、まだはっきりとは分かりませんが、彼女に惹かれ始めているのかもしれません」
「そうか」
ハノーヴァー公は、カップをソーサーに戻し、すこし沈黙したあとで静かに言った。
「君には悪いが、これ以上、あの子には近づかないでもらいたい」
なんとなく予想はできていたが、はっきりと言われるといい気分ではなかった。しかしマイケルは、その感情を抑えて聞き返した。
「理由は、なんなのですか」
「あの子には重大な使命がある。だからこれ以上、部外者を深入りさせるわけにはいかない」
ハノーヴァー公は即答したが、マイケルはそれが嘘だということに気づいていた。その程度の理由であるなら、とっくに手を打っているはずだ。ハノーヴァー公には、それだけの実力がある。俺のほうから身を引かせるように仕向けるのは、エミリーにもその気があって、俺たちがそういう関係になっては困るということを、如実に物語っている。
「俺は、これでも警察官です。あなたが、本当のことを言っているかどうかくらいは、わかりますよ」
マイケルの指摘に、ハノーヴァー公が苦笑する。
「困った男だな、君は。だが、たしかにこの程度のごまかしが通用するはずもないか。これは、あまり言いたくはなかったのだが。あの子は、とても危険な存在なのだ。関わった者に、破滅と厄災をもたらす……」
「いくらなんでも、言っていいことと、悪いことがあるでしょう。エミリーは、そんな子じゃない」
マイケルは、思わず机を叩いて立ち上がっていた。紅茶を湛えたウエッジウッド・アストバリーブラックのティーセットが、がちゃりと重く鳴った。
「まあ、落ち着きなさい。話は最後まで聞くものだよ」
ハノーヴァー公は、マイケルの態度など意に介さないように、穏やかにたしなめた。
「失礼しました」
腹の虫はまだ治まっていないが、マイケルはそう詫びて座りなおす。
ハノーヴァー公は、なにかに納得したようにひとつうなずいた。
「あの子の存在は、とても微妙なバランスの上に成り立っているのだ。そのバランスが崩壊したとき、制御が効かなくなったあの子は、今までに何度も大きな厄災をもたらしてきた。しばらく落ち着いていたのだが、最近そのバランスが崩れ始めている。エリザベートが、不安定になっているようなのだ。もし、またあれが起ころうとしているのなら、何者かの蠢動などよりはるかに重大事なのだよ。……と、ここまで言えば、もうわかるだろう」
ハノーヴァー公は、そこでいったん言葉を切った。
「つまり、俺がそのバランスを崩している原因だということですか」
「うむ」
そんなことを言われても、マイケルには訳がわからなかった。
エミリーに限らず、だれでも恋愛感情を抱けば、心は不安定になるだろう。それによって起きる厄災がどれほどのものかは知らないが、だとしても、それを理由にして人の心を縛ることなどできるはずもない。
しかし、ハノーヴァー公の言葉には、何かひっかかるところがある。『あの子の存在』とか『制御が効かない』って、まるで機械かなにかのようじゃないか。いったい、ハノーヴァー公は何を言っているのだ?
マイケルは、黙り込まざるを得なかった。
「もはや、君ひとりの問題ではないのだ。これ以上は言えないが、どのみち君は、いずれはエリザベートと別れることになるだろう。だから、私のアドバイスに従った方が、結局は君のためにもなると思っているのだが」
そう言って、ハノーヴァー公はマイケルを見た。穏やかな眼差しではなかったが、非難するような色はなかった。ハノーヴァー公のことをそれほど知っているわけではないが、その真摯な人柄は、言動に滲み出ている。嘘偽りは、ないだろう。
それでも、そんな曖昧な理由で、エミリーと別れることを承諾するわけにはいかない。だいいち、エミリーとの別れが確定しているかのような言われ方は、心外でもあった。
マイケルは、言葉を選んでから口を開いた。
「エミリーに近づくなというご忠告ですが、残念ながら従うことはできません。彼女の警護は、俺の任務です。解任されるまで、側を離れるつもりはありません」
マイケルは、そこでいったん言葉を切る。ハノーヴァー公の様子をうかがったが、彼は表情を変えず無言のままだった。
「それと、こちらの方が重要ですが、そもそも、これは俺とエミリーの問題です。もし、エミリーが俺に何かを望んでくれているのなら、俺は拒絶するつもりはありません。彼女の気持ちも確かめないで、俺の方から身を引くなんて、考えられないことです」
ハノーヴァー公は、マイケルの言葉にうなずいた。
「君なら、そう言うのではないかと思っていたよ。心配したとおりになったか。それに、今すぐにあれが起きるという確証もないからな。余計なおせっかいをしてしまったようだね。非礼は、お詫びする。だが……」
そこで一度言葉を切ったハノーヴァー公は、少し間を置いてから、毅然とした表情で続けた。
「私には、あの子とこの世界を守る義務があるのだ。もし君が、その義務を阻害する者だとわかったら、私は君を排除することにためらいはしない。そのことは、忘れないでもらいたい」
穏やかな口調だったが、最後の言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
マイケルは、席を立ち、丁寧に礼を告げてから退出した。




