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4.7 ファースト・デート(Layer:1 Main Story)

 夕方のコヴェント・ガーデンは、賑わっていた。

 その一角で、二人連れの東洋人の大道芸人が、幾重にも取り囲まれた観客から喝采を浴びていた。フルートを吹く長い黒髪の女と、変わった形をした三弦の楽器をかき鳴らす男のデュオだった。楽器の組み合わせも異色だったが、その演奏もまた異彩を放っていた。

 それは、初めて聞く東洋的な調べだったが、不思議なほど心が揺り動かされた。耳で受けた音を頭で聞いているのではなく、まるで身体そのものに響き渡るような音楽だった。

 マイケルは、隣で大道芸人たちの演奏に聞き入っているエミリーに、さりげなく目をやる。セント・セシリア校の制服に身を包んだエミリーは、焦点の定まらない視線を大道芸人たちに向けている。見開かれたオッドアイは、いつもの凛とした光を宿しながらも、どこか遠くを見ているようだった。

 大道芸人たちの演奏が終わり、アーチ型の高い天井を夕日がオレンジ色に染めると、エミリーはマイケルに問いかけてきた。

「このあと、なにか予定はあるのかしら」

 問われて答えるほどの予定はなかった。スコットランドヤードに戻っても、報告を上げる必要もなくなったので、回覧された書類に目を通すくらいのものだ。

「いや、べつに」

 マイケルがそう答えると、エミリーは上目遣いでマイケルを見た。

「おなかがすいたから、食事をしましょう。パブに行ってみたいわ」

 エミリーはそうリクエストすると、ブレザーの裾をつまんで言葉を継いだ

「でも、こんな格好じゃあ、パブには入れないわね。服を買うから、ちょっとつきあって」

 どうせ最初から夜遊びをするつもりだったくせに、どうしてわざわざ制服なんか着てきたのだろう。いつものように、ひらひらした服を着てくれば良いものを。

 マイケルは不満を覚えたが、さっさと歩き出したエミリーの背中を追ううちに、一軒のブティックに連れ込まれていた。そこは、エミリーがいつも出入りしているような高級店ではなく、若い女性向けのカジュアルなブティックだった。

「ねえ、どんな服がいいと思う?」

 エミリーが、マイケルに意見を求めてきた。

「俺の好みでいいのか?」

「いいわよ」

 マイケルは、店内をざっと見回す。けれど、どの服も同じように見えるうえに、エミリーに似合うのかどうか見当もつかない。そういえば、ステファニーがどんな格好でデートに来ていたのかも、あまり憶えていなかった。しかたがなく、店内で一番目立つ場所に立っているマネキンを指差す。

「あれなんか、いいんじゃないか。女の子っぽくてさ」

「やっぱり聞くんじゃなかったわ。あなた、センス悪すぎよ」

 エミリーはそう言いながらも、店員を呼び、その服を持ってフィッティングルームに向かった。

 手持ちぶさたになったマイケルは、あらためて店内を見渡す。並んでいる服よりも非常口の方が気になり、思わず苦笑する。そんなマイケルの耳に、店員たちのひそひそ話が聞こえてきた。

「ねえ、見た? いまの子」

「セント・セシリア校の制服を着てた子でしょ。お人形さんみたいで、かわいかったよね」

 エミリーのことだな、と気づく。なぜかマイケルは、自分が褒められたように嬉しくなった。

 まもなく、試着を済ませたエミリーが現れた。

 普段の彼女からは想像できない、派手なプリントが施されたピンクのキャミソールに、ラメの飾りが散りばめられた黒のティアード・ミニスカートという組み合わせだった。

「ちょっと、子供っぽくないかしら。それにこれ、短かすぎない?」

 エミリーが恥ずかしそうに、キャミソールとスカートの裾を引っ張る。それは、どちらもあきらかに丈が短かった。もちろん、そういうデザインの服なのだが、結果として、綺麗にくびれたウエストと、細い足が太股のあたりから惜しげもなくさらされていた。勧めたマイケルの方が恥ずかしくなるくらいに、セクシーでキュートだった。

「でもまあ、似合ってるんじゃないか。……たぶん」

 マイケルが褒めると、エミリーは胸を張った。スレンダーな身体には不釣合いなほど豊かな、胸の膨らみがまぶしい。

「そんなの当然だわ。わたしが着て似合わなければ、服の方が悪いのよ」

 てっきり試着だけだろうと思っていたのに、エミリーは上機嫌で「これ着ていきます」と店員に告げた。

「言っておくけど、こんなスタイルはわたしの趣味じゃないわよ。あなたがどうしてもって言うし、他に着るものもないから、仕方なしにだからね」

 いつ俺が、おまえにそんなことを頼んだんだよ。マイケルは、そう言い返しそうになったが、いつものことなので聞き流しておいた。服に合わせて黒いミュールも購入してから、エミリーは店を出た。

 コヴェント・ガーデンの「ザ・パンチ・アンド・ジュディ」は満席だった。キングスクロスにあるいきつけのパブにしようかとも思ったが、エミリーの喜びそうなフードメニューがなかったことを思い出して、マイケルは一度だけ行ったことのある有名なパブに足を向けた。


 コヴェント・ガーデンから、チャリングクロス駅前を通って、トラファルガー・スクエアへ。黄昏の街を歩くと、ビジネスマンと観光客の雑踏や、行きかう自動車の音が、短い夏の夜を謳歌する街の息吹を感じさせた。

 すれ違う男たちは、例外なく羨望のまなざしを投げてくる。今も、殺気がこもったような視線を背中に感じたばかりだ。マイケルは気が気ではないが、エミリーは平気な顔をしている。人から見られるということに、慣れているのかもしれない。

 ノーサンバーランドストリートに入ったところにある一軒のパブの前で、マイケルは足を止めた。花かごを吊るした赤レンガの壁から、鹿討帽子とインバネスコートに身を包んでパイプをくゆらせる男を描いた看板が突き出している。看板の下の黒い板壁には、金文字で“SHERLOCK HOLMES”と横書きされていた。大きな曇ガラスの窓には、ホームズやワトソン博士、それに作者であるコナン・ドイルの肖像が浮き彫りにされている。

 ドアを押して店に入ると、ちょうど夕食どきとあって混雑していたが、運よく二階のテーブル席につくことができた。この店の二階には、ベイカーストリートにあったとされるシャーロック・ホームズの書斎を再現したディスプレイがあり、それを目当てにした外国人観光客も多い。それでも、雑然とした一階とは違って、落ち着いて食事ができそうな雰囲気だった。

「いいお店ね。あなたにしては、上出来だわ」

 ベルベット張りの椅子に腰を下ろしたエミリーは、深い艶を放つテーブルに頬杖をついて、オッドアイのまなじりを下げた。


 マイケルはビールをグラスで、エミリーはスパークリングワインをボトルで注文し、食事はフィッシュアンドチップスとサンドイッチにした。

「ロンドンのパブの定番メニューだよ」

 マイケルは、ご機嫌でビールをあおった。エミリーも、サンドイッチをつまみながら、ワインを飲んでいる。散歩して、買い物をして、それから食事をする。まるで、デートみたいだとマイケルは思う。

「イギリスの料理は美味しくないって聞いていたけど、案外いけるのね。……ちょっと、見直したわ」

 頬を染めて上機嫌なエミリーに、マイケルもつい軽口で返す。

「俺のことか?」

 エミリーは、フライドポテトをごっそりと掴んで、一気に頬張る。スパークリングワインでそれを飲み下すと、口元をナプキンで拭った。

「すぐにつけあがるんだから。そんなわけないでしょう。でも、いちおうお礼は言っておくわ。ホテルの食事にも、そろそろ飽きていたの」

 マイケルは、エミリーのグラスにワインを注ぐ。もう、二本目のボトルも半分ちかくになっていた。

「こっちこそ、礼を言うよ。エミリーのかわいい姿も見られたし」

「わたしがかわいいなんて、あたりまえのことを、いまさら言わないで欲しいわ」

 エミリーは、ウエイターを呼んでグラスを持ってこさせると、ボトルに残っていたワインを注いでマイケルの前に置いた。グラスに描かれたホームズの白いシルエットが、淡いピンク色に染まって見えた。

「ほら、かわいいわたしのお酌よ。光栄に思いなさい。それから……これで、機嫌をなおすのよ」

 なるほど、とマイケルは合点がいった。昼間のことを気にしていたのか。あれは、俺が勝手に機嫌を悪くしていただけなのに。

「すまない。気をつかわせたのか」

「なにを勘違いしているの? あいにくだけど、あなたにつかう気なんて持ち合わせていないわ。ここのところ、いろいろと借りがあったでしょう。だから、返せるうちに、返しておこうと思っただけよ」

 そういう言い方は、エミリーらしいと思う。しかし、マイケルは、その心遣いがうれしかった。


 酒と食事でいい気分になったマイケルは、エミリーをヴィクトリア・エンバンクメントの遊歩道に誘い出した。

 テムズ川沿いに国防省や首相官邸などの庁舎が立ち並ぶ一角を抜けると、ウエストミンスター橋にさしかかる。正面にはビッグベンの時計塔が、淡い光を放ちながら威厳のあるたたずまいを見せている。左後ろには観覧車ロンドンアイが、光を浴びて天にそびえる大きな車輪のような姿を見せている。ここは、ロンドンの新旧のシンボルが同時に見える絶好のポイントだ。橋の上には、立ち止まって夜景を楽しんだり、記念写真を撮ったりする人の姿も多い。

 涼やかな夜風が、エミリーの髪とスカートを揺らす。三日前も、ディナークルーズで夜まで一緒にいたし、最近はエミリーと過ごす時間が多くなった。出会ったころは、しょっちゅう言い合ったり喧嘩したりしていたのに、ここ数日でずいぶん仲良くなったものだ。いや、仲良くなったなどという表現ではとても足りない。マイケルの心のなかは、すでに大部分がエミリーに占領されているのだ。

 ――エミリーを、口説いてみようか。

 斜め前を歩くエミリーの姿を見ながら、酒の酔いも手伝って、マイケルはそんなことを思いついた。華奢なくせに、妙に艶やかで豊かなその身体に、男の本能がその鎌首をもたげはじめている。

 マイケルは、エミリーの横に並ぶと、わざとあらたまった調子で声をかけた。

「エリザベート」

 エミリーは、その呼び方に文句も言わず、触れ合った腕を引っ込めることもなく、澄んだ声で問い返してきた。

「なあに、あらたまって」

「いい夜だな」

「ええ」

「もう、疲れたかい?」

「すこし」

「よく遊んだな」

「そうね……」

 エミリーは、わずかに目を伏せて、虹色の光を返す髪を指先に巻きつけた。そのまま指をスライドさせると、髪が解けてキャミソールを持ち上げた胸の上を滑り落ちた。

「楽しかったわ」

 こちらの意図を知ってか知らずか、エミリーはそう答えた。マイケルは、すかさず言い返す。

「おまえ、英文法も大人の会話も、全然ダメだな」

「心外ね。あなたより、よほど上手だと思うわ」

「それなら、間違えるなよ。俺たちの夜が、もう過去形なわけがないだろう」

 エミリーが、ふわりと一歩先に行って、背を向けたままで立ち止まる。一瞬の間があって、彼女は振り向いた。

 ゆれるその髪に、またたくその瞳に、ロンドンアイのあざやかな光が映る。そして、白い少女はわずかに首をかしげた。

「ふふっ。わたしが間違えたと言うのね……」

 マイケルは、自分がしようとしていたことも忘れて、この世のものとも思えないその姿に見とれてしまう。心を奪われるという言葉の意味を、はじめてわかった気がした。そして、火照っていた頭が、急に醒めていくのを感じた。

「じゃあ、どう答えればよかったのかしら」

 甘えたようなエミリーの声がしたとき、マイケルは心を決めた。これ以上の無粋な会話で、この夜を台無しにしないでおこう。

「いや。飲みすぎて、俺の方が間違えたようだ。ほんとうに、いい夜だ……とても楽しかったよ」

「そう……」

 エミリーは、マイケルに背を向けると、首を捻って横顔から青い瞳をマイケルに向けた。その瞳が、そっと伏せられる。

「残念だわ」

 再び沸きあがりそうになった衝動を、マイケルは、小さな呼吸ひとつで押しとどめた。

 エミリーが、夜空を見上げながら両手を肩の高さに広げる。爪先立ちになった彼女は、バレエを踊るようにくるりと一回転した。白い髪とともに、短いスカートがふわりとひろがり、マイケルは目のやりばに困る。まわりの人々も、なにごとかと見とれている。

「あははっ。気持ちいいねっ」

 そんな視線にはおかまいなしで、エミリーは、くるりくるりと回り続ける。ひとしきり回転すると、街灯の支柱をつかんでふわりと欄干に腰掛けた。そして、その支柱に背中を預けて無邪気な笑みを満面に浮かべた。

「ねえねえ。わたし、あれに乗ってみたい」

 エミリーは、足をぶらぶらさせながら、ロンドンアイを指差して目を細める。その笑顔につられて、マイケルもいつの間にか笑っていた。

「おまえ、やっぱりお子様だな。また今度、連れて行ってやるよ」

 エミリーの頬が、ぷうっとふくれる。

 テムズ川を渡るほのあたたかい風にのって、エミリーの甘い香りがマイケルの鼻腔をくすぐった。

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