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4.6 アナザー・フェイス(Layer:1 Main Story)

 

 その日、セント・セシリア校でのサマースクールを終えたエミリーは、ドーチェスター・ホテルのロビーに入ったところでマイケルに告げた。

「これから、人と会う約束があるの。一時間くらいで済むと思うから、できれば待っていてほしいのだけど」

「ああ、かまわないぞ。ラウンジで、コーヒーでも飲んでるよ」

「じゃあ、着替えてくるわね」

 マイケルは、ザ・プロムナードに席をとってコーヒーを飲みながら、雑誌をめくる。巻頭から紙幅を割いて、次の夏季オリンピックが開催される北京に関する特集記事が載っていた。ちょうどその記事を読み終えたとき、マイケルの耳にエミリーの声が聞こえた。

「どうかしら、これ」

 マイケルが雑誌から目をあげると、そこには白い髪を小さくまとめ、縁のない眼鏡をかけた見知らぬ女性が立っていた。

 その細身の身体を包んでいるのは、黒いツイード生地のスカートスーツだった。七分袖のジャケットの襟まわりから前身ごろの合わせと、膝丈のスカートの裾まわりには、鮮やかな白の縁取りが描かれていて、ツイード生地の重さを感じさせないデザインになっている。ハリス・ツイードの生地を惜しげもなく使った見るからに上等な服で、そこらへんのブティックで売っているものとは一線を画していた。身体にぴったりと寄り添うようなシルエットを描くその服は、おそらくは専用に仕立てられたオートクチュールの一点ものだろう。

「だれだ?」

 マイケルが尋ねると、その女性は、聞き覚えのある声で答えた。

「わたしよ」

「知り合いに、よく似た女の子はいるけど」

 彼女は、マイケルの正面の椅子に座り、胸を張った。大きく開いたブラウスの胸元から覗く白い肌が、まぶしく見えた。綺麗に整った顔の中で、細い眉がきゅっと寄り、真紅と青のオッドアイが険しい色を帯びる。

「わざと言っているでしょう」

 マイケルは観念して、両手を軽く上げて見せる。

「ごめん、エミリー。でも、どうして変装なんてしてるんだ」

「なによ変装って。ビジネスのときは、このスタイルにしているの。見た目で評価されたくないから」

 エミリーが主張するまでもなく、スーツ姿の彼女には、落ち着いた雰囲気があった。普段はほとんど感じない、大人の女性の色香のようなものすら漂っている。

 マイケルは、エミリーとの距離が急に開いたような気がして、わざと茶化して言った。

「おまえは子供っぽいからな。けど、見た目だけ大人ぶっても、中身がついていってないんじゃないか」

 エミリーの目が、きらりと光ったように見えた。その直後に、マイケルの足の甲に痛みが走る。

「レディに対して、子供、子供って失礼ね」

 目の前には、いつもの生意気なエミリーがいた。マイケルは、なぜかほっとしている自分を感じた。

「おまえ、身なりが変わっても、やることは同じなんだな。そういうところが子供なんだよ」

「なんとでも言っていなさい。わたしは、ちょっとビジネスをしてくるから」

 エミリーが投資顧問会社を経営しているのは知っていたが、ビジネスなどという言葉は、彼女にはいちばん縁遠いもののように思えた。

「人と会うって、そっちの話なのか」

「そうよ。シリアスでリアルな話もあるから、席は外していてね」

 戦闘に関する話ではなく、ビジネスの話の方をシリアスでリアルだと言ってしまうところが、エミリーらしかった。

「わかったよ。少し離れたところに居るようにするから」

「それじゃ」

 そう言って、エミリーは、窓際の席に座った。

 マイケルは、話し声が聞こえない程度に離れた席に座りなおす。

 しばらくすると、綺麗にプレスされたグレーのスーツを隙なく着こなし、黒いビジネスバッグを持った男が現れた。四〇歳くらいで、切れ者のビジネスマンという雰囲気を漂わせた男だ。

 エミリーと男は顔見知りらしく、ティーカップを傾けながら、親しげに談笑を始めた。そんな彼女を見ているうちに、マイケルの心の中に、ざらついた感情が芽生えてきた。

 ――エミリーが、笑っている。

 マイケルには見せたことのない、大人びた女性の笑顔だ。いわゆるビジネス・スマイルというものなのだろうが、エミリーが自分以外の男に笑いかけていることが、マイケルの気持ちを波立たせた。

 男がテーブルの上にノートパソコンを広げると、エミリーは男のすぐ横に席を移し、顔を寄せてその画面を覗き込んだ。男が画面を指差して何かを告げると、エミリーは男の顔を見て目を輝かせながら答える。マイケルの位置から見ると、まるで二人の唇が触れ合っているように見える。

 恋人同士がじゃれあっているようにすら見えてきて、マイケルはエミリーたちから視線を外す。手許にあった雑誌の記事に目を走らせるが、言葉をなぞっているだけでなにも頭に入ってこない。それどころか、見えなくなったせいで、余計にエミリーのことが気にかかる。雑誌からちらちらと視線を投げるたびに、エミリーと男の親密な様子が目に入り、マイケルは苛立ちを覚え始めた。

 俺は、いったい何を考えているんだ。エミリーは、ビジネスの話をしているのだ。しかも、俺は彼女の警護担当の警察官だ。職業倫理から言っても、俺のこの感情は問題があることじゃないか。

 しかし、頭で理解していても、感情が許さなかった。くだらない妄想が、次々に浮かんでは消えるのを止められない。

「くそっ」

 マイケルは、小さく吐き捨てる。エミリーと男の姿に下劣な想像をしてしまう自分に腹が立ったし、なぜかエミリーに対しても腹が立っていた。

 悶々としたまま、一時間近くが過ぎた。

 やがて、二人は席を立ってラウンジの出口に向かって歩き出した。マイケルの席の近くを通り過ぎるとき、エミリーは軽いウインクを投げてきた。

 二人は、ラウンジの出口で笑顔のまま二言三言交わし、最後に握手をして別れた。

 エミリーは、ゆっくりとした足取りでラウンジに戻ると、マイケルの向かいの席に座った。

 眼鏡をはずしたエミリーが、小さなため息を落とす。少し、疲れているようだった。アップにして括っている髪から黒いリボン型のバレッタを外すと、パールホワイトの髪がふわりと広がってから、ジャケットの肩をさらさらと滑り落ちた。

 マイケルは、なにか話さなければと思ったが、うまく言葉が出ない。

「お待たせしました。……退屈だった?」

 エミリーの方が、先に声をかけてきた。

 それどころではない、とマイケルは思った。

「いや」

 ようやく言葉が出たが、自分でも驚くほど、無愛想だった。

「ちょっと疲れたわ。彼ったら、しつこくて。でも、思った通りね。アラブ系のマネーに、おかしな動きがある。やはり、あいつがなにか企んでいるわね。今回は、先に仕掛けようかしら……」

 エミリーの話の、半分も耳に入らなかった。

「そうか」

 感情を抑えようとすればするほど、言葉尻が険しくなった。

 エミリーが、探るような視線でマイケルの顔を覗き込む。

「もしかして、怒っているの?」

「べつに、怒ってなんかいないぞ」

 やはり、うまく話せない。そんな自分に、マイケルは余計に腹が立った。

 エミリーは、何かを察したように立ち上がると、「着替えてくるわね」と言ってラウンジを出ていった。

 残されたマイケルは、自己嫌悪に陥る。ひとりの男としても、プロフェッショナルとしても失格だと思う。エミリーとあの男の関係について、俺はどうこう言える立場ではないのだ。だいたいあいつは、生意気で高慢で、俺の大嫌いな貴族じゃなかったのか。

 そう思っている端から、エミリーの笑顔が思い浮かぶ。沸き起こる感情のすべてが、エミリーに向かっている。ほんとうに、どうしてしまったんだ俺は。これじゃ、まるで……。

 やがて、着替えを終えたエミリーが、ラウンジに現れた。セント・セシリア校の制服姿だった。

 これから出かけるというのに、わざわざ制服を着てくるなんて、エミリーはどういうつもりだろう。

 いぶかしむマイケルに、エミリーは柔らかな笑顔を向けた。

「コヴェント・ガーデンに行きましょう」

 

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