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4.4 不都合な真実(Layer:1 Main Story)

 エミリーをホテルに送り届けたマイケルがオフィスに戻ると、一枚のファクスが届いていた。それは陸軍第二連隊本部からで、ゲイツ伍長は本日付で転属が命じられたので面会はできなくなった、という通知だった。

 マイケルは、連隊の基地に電話をかけて、ゲイツ伍長に取り次ぎを依頼した。電話に出た女性は、どこかへ問い合わせをしたあと、申し訳なさそうに答えた。

「ゲイツ伍長は、すでに任地へ向けて出発しています」

 その言葉に、マイケルは驚きを隠せない。

「今朝までそこに居たんだろう。いくらなんでも急すぎないか」

「はあ。そのあたりは、私ではわかりかねますので」

 電話の相手は、事務的に答えた。マイケルは、焦りと苛立ちを覚える。

「どこに転属になったんだ。海外か」

「機密情報になりますので、お答えはいたしかねます」

「連絡はとれないのか」

 マイケルの剣幕に驚いたのか、電話口の女性は、探るような口調で答えた。

「手紙でしたら、お届けできます。ただし、相当の日数が必要になります」

 マイケルは、またしても目に見えない力が働いたことを、敏感に感じ取った。

「あの、なにか事件でもあったのでしょうか」

 マイケルが沈黙したので、電話の相手が心配そうな声で聞いてきた。

「いや。もういい」

 そう言って、マイケルは受話器を置いた。

 たしかに今日、エミリーとソールズベリー・ディストラクションの話をした。情報源は漏らしていないが、その日のうちにゲイツ伍長が転属するなど、偶然にしては話ができすぎている。考えてみれば、ローゼンクロイツ騎士団は軍との関係が深い組織だった。その手が回ったとすれば、おそらくもう彼には会えないだろう。

 この事件に関しては、時間が経てば解決に近づくというようなものではない。事実、今までは先手を取られっぱなしだった。エミリーが切った期限まで三日ほどあるが、スコットランドヤードの通常の決裁期間を考えると、そろそろ潮時だとマイケルは判断した。今までに得られた情報と証拠で、立件まで持ち込んでスコットランドヤードを動かすしかない。

 マイケルは、休憩室に行ってサーバーから熱いコーヒーを紙コップに注ぐ。デスクに戻ってひとくち飲むと、淹れたてのブルーマウンテンの香りが鼻腔をくすぐり、脳細胞が働き始めた。

 エミリーたちが始末していた「あいつら」は、あきらかに人外の者たちだ。それは、違法な遺伝子操作で生み出されたものである可能性が極めて高い。そして、脳を破壊する有害物質Wormwoodの存在だ。ゲイツ伍長やエミリーの話では、ソールズベリー・ディストラクションは、Wormwoodを処分するために起きたことだ。ならば、その現場から脱走したという「あいつら」とは、関係があると考える方が自然だろう。いずれにせよ、「あいつら」には警察や軍の武器では歯が立たず、エミリーたちの特殊な能力でないと対抗できない。もし、あんな者たちが組織的に攻めてきたら、どうなるのか。ゲリラ戦や局地戦においては、軍を凌駕するほどの戦闘集団になるだろう……。

 ――そうか、そういうことか……。これで、いけるぞ。

 今までばらばらだったパズルのピースがぴたりとはまって、マイケルの脳裏にひとつの構図が浮かんできた。

 端末のスイッチを入れ、報告書のフォームを画面に表示する。そして、熱いコーヒーをもうひとくち飲んでから、一気にキーボードを叩き始めた。


 壁の掛け時計は、午後八時をまわったことを告げている。

 人の姿もまばらなオフィスには、空調の音だけが響いていた。

 マイケルが所属するテロ対策課を含む特殊作戦部は、来週末に予定されているロンドン・サミットを見据えた警備や警護活動に手一杯で、のんびりとオフィスにいるのはマイケルくらいだった。

 席を立って、窓のブラインドを上げる。

 外の雨は、本降りになっていた。大きな窓の下には、ダークグレーに沈んだ街が見えている。テムズ川を遡上する船の航跡が、インクを流したような川面に白く浮かび上がっていた。

 組織的な支援がない任務だからやむをえないが、マイケルは自分だけが周囲から取り残されたような疎外感を噛み締める。そして、夕方に提出した報告書も、黙殺されるのではないかと不安になった。

 マイケルはブラインドを下ろすと、デスクに戻って書類を片付ける。そろそろ帰宅しようかと思ったとき、机上の電話が鳴った。発信元は、総監室の番号だった。

「ステューダー警部補、総監がお呼びです。総監室においで下さい」

 電話に出ると、女性の声が事務的にそう告げた。

 総監が直接マイケルにコンタクトをとってくるなど、あの報告書に関すること以外には考えにくい。だが、それにしては早すぎる。通常なら、総監宛の報告書が回るまでには、まる一日はかかるはずだ。いずれにせよ、呼び出された以上は、顔を出さないわけにはいかない。

「了解しました」

 マイケルはそう答えると、上着を羽織ってオフィスを出た。

 重厚なドアを通って、総監室に通される。この部屋に入るのは、初めてだった。

 ドアの正面には木目の鮮やかな大型の事務机があり、肘掛のついた椅子の上には、この部屋の主が不機嫌そうに座っていた。ブラウンの短い髪の小男で、ハムスターのような茶色の目を、銀縁メガネの奥でせわしなく瞬かせている。その横には、特殊作戦部長の姿もあった。その表情は厳しく、言外に「余計なことは言うなよ」と告げていた。

 マイケルが敬礼を終えると、総監が口を開いた。

「ステューダー警部補。君の報告書は、読ませてもらった」

「はい」

「非常に、興味深い内容ではあるが……。君に、小説家の才能があるとは意外だったよ」

 ずいぶん遠まわしな言い方をするものだと、マイケルは思う。

「どういうことですか」

「それは、こちらが聞くことだ。いったい、どういうつもりかね」

 どうやら、自分の口では言いたくないらしい。こちらの出方をうかがっているのか、それとも、なにかうしろめたいことでもあるのか。

「報告書をお読みになったのなら、それに書いたとおりですよ。私は事実と推論を報告し、現状でもっとも有効であろう対応策を提示したのですが」

「強力な兵士を作るという軍事目的のために、遺伝子操作によって生み出された人外の魔物がいる。そしてWormwoodという薬物に脳を侵されたその魔物が、連続通り魔殺人事件を起こした。それを非合法的に処分している者たちがいて、軍の一部もそれに加担している。事件はまだ終わっていない可能性があり、背後に黒幕の存在も考えられるから、その魔物退治と捜査にスコットランドヤードのテロ対策課員を動員したい。しかるべき後に、その非合法組織と軍の関係者を摘発せよ……。こんなふざけた報告書の、どこが事実だというのか」

 総監がようやく、報告書の内容に言及した。敵性体を「魔物」とは書いていないはずだが、総監はそう理解したようだ。マイケルは、とりあえず話を合わせておくことにした。

「私の推測も含まれていますから、すべてが事実だとは言いません。ですが、実際に私もその敵……魔物に襲われました。そのときに、ハノーヴァー公爵が魔物を始末して、結果として私も救われたことは、すでに報告したはずですが」

「そんなことは、聞いておらんぞ」

 ほんとうに知らないのか、知っていて知らないふりをしているのか。マイケルは、踏み込んでみることにした。

「セントジェームスパークで、先週末に通り魔殺人事件があったでしょう。ここからは目と鼻の先ですよ」

 それまで沈黙を守っていた特殊作戦部長が、会話に割り込んできた。

「女性が一人、通り魔に襲われて死亡したそうです。犯人は、まだ逮捕されていません。それだけです」

 マイケルは、部長の顔から表情が消えていることに気づく。これ以上は、まずいということなのだろうか。マイケルは、部長に顔を向けて、確認するようにゆっくりと話す。

「表向きはそういうことでも構いませんが、我々には市民の生命を守る義務があるでしょう。怪しげな組織に、あんなことをさせていていいのですか。そこにも書いたとおり、今のままでは犯人が検挙されることはありませんよ」

 口を噤んだままの部長を見上げた総監が、吐き捨てるように言った。

「我々は、犯罪者の捜査と逮捕が仕事だ。デマや都市伝説の類に、いちいちとりあっていられない」

 その顔には、これ以上話をするのが面倒だという表情が、ありありと浮かんでいる。呼びつけておいてのその態度に、マイケルの頭に血が上る。

「相手は人外の者かも知れませんが、デマでも伝説でもありません。すべて現実の出来事です。科学的根拠も示しました。しかも、軍を巻き込んだ犯罪行為の可能性が極めて高い」

「そんな不確かな情報で、スコットランドヤードは動けんよ」

「無関係の市民にも、犠牲者が出ているのですよ」

 マイケルの言葉に、総監はやれやれと言わんばかりに首を左右に振る。

「頭を冷やせ、ステューダー警部補。仮にだが、もしそういう事実があるのだとしても、サミットを控えたこの時期に、我々が表立って動くわけにはいかないだろう」

 マイケルは、総監のその言葉に耳を疑う。それと同時に、ひとつの疑念が浮かんでくる。まさかとは思うが、総監はすべてを承知しているのではないか。

 マイケルは、心を鎮めて総監に問いかけた。

「今のお言葉は、どういう意味ですか」

「そのままの意味だ。君の報告を信じるとすれば、その魔物には、銃もキックボクシングのコンボも効かないのだろう。そんなものの相手をさせて、署員に殉職者でも出てみろ、どうなると思う。外務省は文句を言う、マスコミは騒ぐ、遺族は泣きついてくる。その対策や補償やらに、どれだけの手間と金がかかるか……」

 これが市民の安全を守る組織を預かる者の言葉かと思うと、マイケルは怒りのあまり返す言葉が出てこない。総監は、そこで言葉を切ると、椅子の背もたれに寄りかかった。

「ともかく、我々が危険を冒す理由はない」

 その言葉で、マイケルは確信した。やはり、上層部の連中は、ある程度の事実を知っているのだ。その上で、見て見ぬふりをきめこむつもりなのだ。

『卑怯よ』

 マイケルの脳裏に、エミリーの言葉とともに、敵の女に首を絞められて命を落としかかり、戦闘で折れた指の痛みに身体を震わせて耐えていた白い髪の少女の姿が浮かぶ。

「その組織を正当化するつもりはありませんが、年端もいかない少女が命をかけて戦っているんですよ。我々スコットランドヤードに、矜持というものはないんですか」

 マイケルは、その言葉に最後の望みを込めた。しかし、総監の反応は期待を裏切るものだった。

「君のいう年端もいかない少女というのは、素手で暴漢を切り裂いて殺害した例の娘のことかね」

 総監が、奥歯にものの挟まったような言い方をする。

「そうです」

「ふん。だとすると、その娘もまた、魔物とやらではないのかね」

「なにを言い出すんですか」

 マイケルは言葉を返したが、考えてみれば、その考え方のほうが普通なのかもしれない。マイケル自身、最初のうちはそう思っていたのだ。黙りこんだマイケルに、総監がとどめの言葉を放った。

「魔物の始末など、同じ魔物にやらせておけばいいのだ。ステューダー警部補、この報告書は受け取っていないことにする。無論、ここでの会話もなかったということだ。そのほうが、お互いのためだよ」

 総監が、報告書を机に投げ出す。その表紙には、通常ならあるはずの上席者のサインが、ひとつもされていなかった。総監の言葉とその事実に、マイケルの頭に上った血が沸騰した。

「こんなことが、許されるはずがない」

 しかし、すでに総監は、マイケルを追い返す決心をしていたようだ。彼の冷たい言葉が、マイケルに浴びせられた。

「もういい、下がりたまえ。内務省や外務省への手前もあるから、任務はそのまま継続していい。それと、こちらから要求するまで、一切の報告は不要だ」

 マイケルは、黙って退出するしかなかった。

 絨毯を敷きつめた廊下を歩きながら、マイケルは思った。俺は、スコットランドヤードの仕事を誇りにしてきた。それなのに……。

 やり場の無い悔しさが溢れてきて、廊下の壁に掛けられた油彩画が歪んで見えた。

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