4.3 アップルパイとフィレオフィッシュ(Layer:2 Side story)
その日の昼食に配膳された加給食は、部隊内で美味いと評判のアップルパイだった。
しかし、ビリーは舌打ちをする。こいつと俺とは、どうも相性が悪い。一月ほど前にも、こいつを食ったあと整備班の連中とひと悶着やらかして、嫌味な中隊長にこってりと絞られたのだ。あれは明らかに整備班のミスなのに、どうして俺が……。
そして、その日も食堂で昼食を終えたばかりのビリーを、その中隊長からの呼び出しが待っていた。
司令部に出向くと、中隊長から命令書が差し出された。
「ウィルヘルム・ゲイツ伍長。本日より無期限で転属を命じる。ただちに任地、ロンドンシティ、シトラス・システムズ・ラボラトリィ社に出頭せよ」
「イエス、サー。……ですが、あんな民間の研究所で、ヘリ副操縦士の俺になにをしろというんですか」
ビリーは、平時の国境警備より更に暇そうな任地への不満を口にした。
「詳細は軍機だが、サミットを狙ったテロへの対策の一環だ。テロリストどもが標的にしているものがそこにある、との情報を得たのでな。貴様は、その警備に当たれ」
中隊長はそう説明したが、それは彼のアドリブだった。
スコットランドヤードの刑事から、ゲイツ伍長への面談申し入れがあった直後に、ゲイツ伍長をしばらく世間から隔離しておくよう、ある筋から要請があったというのが実態だった。隔離先は何処でもよかったので、軍とのコネクションのある企業の中からたまたま選ばれたのがシトラス・システムズ・ラボラトリィ社だった。
「……RAINですか」
ビリーは、先日から運用を開始して話題になっている、次世代コンピュータネットワークの名前を口にした。その中枢が、これから彼が着任する研究所だった。
「ほう、よく知っているじゃないか」
「はあ、学生のころにちょっとかじったことがありまして」
「まあいい。その通りだ。貴様の任務は、そのシステムをテロリストどもから守ることにある。もし、不測の事態になったら、連隊からの命令を待たず実力行使をしろ。報告は、帰隊後にまとめて聞く」
中隊長は渡りに船とばかりに得意げに説明するが、RAINがテロリストに狙われるような代物ではないことはわかっていないようだった。要するに、民間会社のガードマン代わりをやっていろということらしい。そう理解したビリーは、嫌味を込めて聞き返した。
「不測の事態って、なんですかね」
「予測がつかないから、不測の事態と言うのだ。それに、貴様をこの任務に指名したのは、連隊のオーナーであるハノーヴァー公爵閣下だ。栄転だな」
中隊長が口にしたのは、半分は本当のことだった。転属命令が、連隊の名目的な所有者である人物からのものだという部分だ。それは、ビリーはもちろん中隊長にも理解し難い命令だったが、ひとつだけはっきりしていることがある。もとより、どちらにも断る権利などない、ということだ。
「今日のアップルパイも、美味かった」
思わず漏らしたビリーの独り言に、中隊長が首をかしげる。
ビリーは、あわてて敬礼をしてから、命令を復唱した。
「了解しました。ただちにシトラス・システムズ・ラボラトリィ社に出頭します」
液晶モニターに、最後のプログラムがインストールされたことを示すメッセージが表示された。
呆然としながらそれを見つめていたステファニーは、ふと我に返る。
目の前のデスクには、食べかけのフィレオフィッシュの断面が、包み紙から覗いていた。ランチに行かなかったステファニーに、心配した同僚が買って来てくれたものだ。
「私、なにしてるのかな……」
つぶやいた言葉は、ほとんど声にならなかった。
チャイナタウンのチェンチェンクーでマイケルとあの少女を目撃して、修羅場があって、レスタースクエアで泣いているところに、あの紳士――デイビッドが現われて。何かを話して、それからどうなったのか。
身も心も蕩けるような熱い夜が明けて、ザ・リッツ・ロンドンのスイートルームで目を覚ましたステファニーは、文字通り目の覚めるような上等な真紅のドレスを着せられていた。あれから、デイビッドのホテルで暮らしていて、自宅のアパートにも戻っていない。
デイビッドのオッドアイに見つめられ、我が娘よとささやかれるたびに、ステファニーの記憶は霞がかかったように曖昧になる。けれど、彼から依頼された仕事だけは、はっきりと覚えていた。抗いようのない命令に従うように、ステファニーはそれをこなしていた。
――もう、いいよね。みんな忘れて、またがんばろう。
よしっ、と心の中で声をかけてから、ステファニーはシステムを再起動させる。一瞬ブラックアウトしたモニター画面に、「RAIN SYSTEM-ZERO Operating System Ver0.9.11」の文字が浮かび上がった。
RAINは、ステファニーを中心としたグループが、五年の歳月をかけて基礎研究から開発した新世代の無線ネットワークシステムだ。Resonance effect All area Inflastoracture Network system の頭文字をとってRAINと名づけられたこのシステムの特長は、特殊な共鳴を応用して微弱な電波でも遠方まで伝播させることが可能なことだ。理論上は、たった一台の送受信装置で、地球上のすべての場所との双方向通信が可能になる。このSYSTEM-ZEROは、試験運用中ということで送信出力が制限されているが、それでもヨーロッパの大部分をカバーし、ジブラルタルやアイスランドでも電波が到達していることが確認されている。
たまにはファーストフードもいいかと、フィレオフィッシュに手を伸ばしかけたところで、背後から聞きなれた男の声がした。
「主任、すこしいいかな」
返事をして振り返ると、ステファニーの上司にあたるRAINプロジェクトのマネージャーが、石像を思わせる風采の上がらない男を連れて立っていた。やせぎすのマネージャーに比べると腕っ節は強そうだが、およそデリカシーなどとは縁遠い存在感をこれでもかと発している。
「しばらくの間、ここを警備することになった、陸軍伍長の……」
「ウィルヘルム・ゲイツだ。ビリー、で構わない」
――ああ、また軍人さんか。
ステファニーは、妙なところで納得する。もともと、RAINは軍の情報インフラとしての研究から始まったプロジェクトだったから、視察やらなにやらでしばしば軍人がやって来た。だが、来るのはいつも高級将校ばかりで、下士官は始めてだった。
「ビリー・ゲイツさんでしたね。開発主任のステファニー・ジョブズです。よろしく」
席を立って挨拶をしたステファニーに、ビリーは感心したように顔をほころばせた。野暮で粗忽そうだが、人懐こそうな笑顔だった。
「へぇ、女の主任さんか。あんた、頭いいんだな」
第一印象をそのまま表したかのようなビリーの言葉に、ステファニーは苦笑する。
「主任、彼にセキュリティの説明と、所内の案内を頼む」
厄介ごとを押し付けてくるプロジェクトリーダーに、それでもステファニーはできるだけ愛想のいい笑顔を返す。
「わかりました」
ステファニーはそう答えたものの、若干の心配があった。はたしてこの無骨な男に、最新鋭のセキュリティシステムを理解することができるのだろうか。ほら、もうドアの生体認証でエラー出されてるし……。
「……という仕組みです。RAINメインシステムにアクセスするためには、このコントロールルームの端末を使うしかありません。ドアは一箇所だけで、見ての通り窓もありません。室内の状態は、警備室のモニターで常時監視されています。ドアの開閉はさっき教えた通りですが、侵入者があったときは、RAINの保護と侵入者を閉じ込めるために、全部のドアが閉鎖されます。研究所内は喫煙ブースを除いて火気厳禁ですが、万一のためにハロン系の消火システムが設置されています。火災発生時だけは、中の人間が全員避難するまでの間、すべてのドアが開きっぱなしになります。間違っても、ここでタバコは吸わないでね。大変なことになるから。それと、なんらかの事態で外部からの電源供給が絶たれた場合、所内の無停電電源装置と自家発電装置が作動して五分間だけは電力が供給されます。RAINを安全にシャットダウンさせるのに普通ならそれくらいかかるから。これでほぼ全部説明したけど、なにか質問はあるかしら」
「ひとつだけ、聞いていいか」
ビリーは、なにやらそわそわした様子で視線をさ迷わせている。
ちょっと急ぎすぎたかもしれない、とステファニーは思った。理解はしないまでも、間違えずに扱えるようにはなってもらわないと、後が大変だ。このあいだも、派遣の清掃係が侵入者警報を作動させて、警察官と軍人が大挙しておしかけてくる騒ぎがあったばかりだ。
「トイレは、どこだ?」
ステファニーの不安は、確信に変わった。
――この人は、絶対になにかやらかすわ……。




