1.2 ミッドサマーナイト・ドリーム(Layer:1 Main Story)
表通りから路地に入ったところで、マイケルはふと違和感を覚える。まるで、路地の奥にある闇が、来るな、と命令しているようだった。
マイケルは、その違和感を振り払うようにして、奥に向かって足を進めた。
二メートルほどの幅の路地をたどると、すぐに行き止まりになった小さな広場に出た。
灰色のコンクリートの壁に書かれたスラングの落書き、薄汚れたアスファルトの路面、裏口の階段横に乱雑に積まれたごみ袋、かすかな臭気を含んだねっとりとした空気。そういうものが入り混じった、どこか退廃的で淫靡な雰囲気が漂っていた。長い歴史を経てきたこのロンドンという町の、澱のようなものが集約された場所、マイケルにはそんなふうに思えた。
ロンドンではありふれたその場所で、マイケルはその場面に遭遇した。
薄明かりの中で、二人の人間が対峙している。コンクリートの壁を背にした細身の男と、こちらに背を向けて立つ小柄な少女だ。期待していたわけではなかったが、想定の範囲を出ない状況だった。
しかし、マイケルの心は、一瞬でそれに奪われた。
凛としたたたずまいを見せる少女の背中に、光の粒をまとった白いものがふわりと広がったのだ。
――羽……妖精、いや天使か。
マイケルがそう思った瞬間、光輝を放ち終えたそれは、音もなく閉じられた。よく見ると、それは、あるかなきかの夜風に揺れるパールホワイトのロングヘアだった。
だが、相対する男の手で鈍く光るナイフが、マイケルを強制的に現実に引き戻す。ブローニングの銃口を男に向けて、大声で命令した。
「警察だ。全員、動くな」
それから、男をにらみつけるように観察する。
安物のTシャツに擦り切れたジーンズ、薄汚れたスニーカーを裸足に突っ掛けた男は、頬のこけた顔を歪め、血走ったその目を少女に向けている。マイケルの声が聞こえていないはずはないのに、その目には少女しか見えていないようだ。手に握られたナイフが、小刻みに震えている。
鈍い光を反射するナイフが、マイケルの脳裏に、路地に横たわる血まみれの少女の姿をフラッシュバックさせた。黒い衝動が、マイケルを駆り立てる。一瞬だけ目を閉じて、深呼吸をひとつ。
――落ち着け、未遂だ。
それで、意識に冴えが戻った。気づくと、ブローニングのセーフティロックは解除され、引き金にかかる指にも力が入っていた。
――主よ、感謝します。
マイケルは空いた左手で携帯無線機を操作し、警備活動開始の一報を送信する。同時に、すばやく周囲を観察して、この場所にいるのが三人だけであることを確認した。わずかな違和感を覚えたが、ここはセオリーどおり、少女の安全の確保を優先することにした。先手をとった状況を活かして、男を取り押さえることもできるだろうが、今は単独行動でもあり無理は禁物だ。
男を銃口で牽制しつつ、マイケルは少女に声をかけた。
「大丈夫ですか」
少女は、まるで散歩のついでに立ち寄ったというふうに、涼しげに立っていた。彼女が着ているネイビーのブレザーとバーバリーチェックのプリーツミニスカートは、マイケルでも知っているほど有名な名門パブリックスクールの制服だ。スカートから伸びた素足は、スレンダーながらも柔らかで綺麗な曲線を描いて、黒いニーソックスとともに茶色のローファーに吸い込まれている。
マイケルの呼びかけに応じるように、少女が、男と対峙したままで上体を捻ってこちらを向く。
白い髪が揺れて、そこに現れたのは、雪のように白い横顔だった。まだ少女らしいあどけなさはあるが、大理石の彫像か陶器の人形を思わせる顔立ちからは、年齢を超越したなにかを感じさせられた。
少女と目が合う。どくん、と心臓が大きな動悸を刻む。サファイアのような青い左目に続いて、ルビーのような真紅の右目が現れた。
――異色虹彩か。
だが、その双眸は、物珍しいと感心して済ませられるようなものではなかった。真紅の瞳からは、有無を言わせず相手を圧倒する気配が、青の瞳からは、見つめられた者の心まで凍りつかせるような冷たさが、数メートル離れたマイケルを飲み込むほどの力で放たれていた。
背筋に悪寒が走り、緊張感が一気に高まった。本能が警鐘を鳴らす。この相手は危険だ。
唐突に、マイケルの頭に透き通った硬質な声が響いた。
(ここから立ち去れ。すべて忘れろ)
その意味を理解するより先に、行動を強制されていた。背を向けそうになった足を、マイケルは寸でのところで踏み留まらせた。
(……効かないのか?)
再び、そんな声が聞こえたような気がして、マイケルは思わず声を出した。
「なんだって?」
少女が、ひとつ瞬きをした。
そして、その小さな唇がわずかに動き、氷のように澄みきった声がした。
「だれ?」
その声は、さっき頭の中に響いた声とよく似ていた。
そしてマイケルは、さっきの声が耳で聞いたものではなかったことに気づいた。
一瞬の混乱が、マイケルを襲う。
だが、そういった状況でも事実だけをもとに判断する技術は訓練で叩き込まれている。混乱を振り払い、気圧されかけている自分に気合を入れるように、マイケルは大きな声で告げる。
「警察の者だ。わかるか」
少女は、ひとしきりマイケルをにらんだあとで、ふんと鼻を鳴らす。
「結界を張っておいたのに、越えて来るとはな……。まあいい。死にたくなければ、邪魔をするなよ」
クリスタルガラスを思わせる、高く透明な声に似合わない口調でそう言い放つと、少女は、また男に向き直った。
マイケルは、ここにいたって確信した。自分は、大きな勘違いをしていたのだ。
少女が口にしたバリアとは、おそらく、路地に侵入した際に感じた違和感のことだろう。だとすると、この状況も彼女が意図的に現出させたものだということになる。そもそも、彼女が男に襲われかかっているのなら、二人の立ち位置が逆のはずだ。考えにくいことではあるが、彼女の方が男を追いつめていたのだ。
マイケルには、事態を冷静に判断するための時間が必要だった。しかし、彼が「待て」と命令するより早く、状況は変化してしまった。
堪えきれなくなった男が、少女に向かってナイフを突き出したのだ。
左へ踏み出し、射線から少女を外して、男の足を狙い打つ。
わずか数秒のその動作より、少女の対応は速かった。
「スタート、ローエングリン」
その声とともに、少女は男のナイフを左手で弾くと、右手を斜め上方に振り上げた。ただ、それだけだった。
青緑色の蛍光が一筋の残像を描く。
男の身体は斜めに分断され、血しぶきが上がる。スローモーションのように、上半身が滑り落ち、下半身がどさりという鈍重な音をたてて倒れた。アスファルトの路面に転がった男の身体は、鮮血を吹き上げながら何度も激しく痙攣する。噴出した鮮血が、赤黒い血溜りを作っていく。
ほどなく、人間の男だったモノの残骸は、ぴくりとも動かなくなった。
少女は、一瞬の間に、しかも素手による一撃で、完璧な破壊――いや殺害を実行してみせた。
こみ上げてくる嘔吐を、マイケルはかろうじて抑えた。
白い髪がふわりと広がり、少女がマイケルの方を向いた。白いブラウスに赤いチェックのネクタイを締めたVゾーンの上で、不自然なほどに美しく均整がとれた顔が、ぞっとするほど冷たい笑みをたたえていた。
――人を殺しておいて、微笑むのか……。
少女のオッドアイが、妖しく揺らめく。
その瞳に魅せられて、不快感とともに現実感が急速に失われていく。瞬きさえできず、マイケルは少女を見つめる。
少女が、マイケルに向かって一歩を踏み出す。彼女の履くローファーが路地の砂を踏んで、じゃりっと音を立てる。
得体の知れないプレッシャーに、マイケルは一歩後退する。
しかし、少女の足は、そこで止まった。その唇が動き、なにかを言ったように見えた。
次の瞬間、少女はマイケルに向かって崩れるように倒れこんできた。
気がつくと、マイケルは少女を抱きとめていた。腕に柔らかな重みと感触があって、ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
近くで見ると、少女の肌は、色白を通り越して内側が透けて見えそうだった。その姿は、薄汚れた路地裏にありながら、清涼な高地に咲く薄雪草を思わせた。
しかし、この少女は微笑を浮かべたままで、ひとつの生命を奪ったのだ。マイケルの本能は、危険な存在だと警鐘を鳴らし続ける。
二つの相反する意識の狭間で、マイケルはもう、目の前のモノを理解することができなくなっていた。