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3.8 エリザベートの憂鬱(Layer:1 Main Story)

『紀元前三三一年。アレクサンドロス大王は、チグリス川上流のガウガメラでの戦闘で、ダレイオス三世が指揮するペルシャ軍を打ち破った。それは、ペルシャ帝国の事実上の滅亡を……』

 マイケルは、欠伸をひとつかみ殺す。

 大英博物館のリーディングルームは、静かな雰囲気に包まれていた。円形のリーディングルームを囲むように配置された書棚には、読者を待つ本たちが整然と並んでいる。机のあいだを行き交う人々も、なるべく音を立てないように注意をしているようだ。

 読んでいた歴史の図鑑から目を上げて視線を巡らせると、制服のままのエミリーが、すこし離れた席で大型の本を広げているのが見えた。

 エミリーは、もともと読書が好きなようだった。いつでも文庫本を持っていて、暇をみつけては読んでいた。しかし、今日の彼女は、どう見ても読書になっていない。ため息をついたり、なにか考え事をしたりしながら、ときおり思い出したようにページをめくるだけだった。

 ――なんだっていうんだ、いったい。

 マイケルは、今日、何度目かのため息をついた。

 今日は、朝から本降りの雨だった。

 エミリーは、まるでその空模様のように不機嫌だった。朝食の席に現われたときも、無愛想に「おはようございます」と言っただけで、黙ったまま朝食を済ませた。ときどき、険しい目でマイケルを見るが、それ以外は視線もあまり合わせない。マイケルが話しかけても、答えるのは「はい」か「いいえ」だけだった。

 午後になっても、雨は止まなかったし、エミリーの機嫌も直らなかった。

 セント・セシリア校に出迎えに行ったマイケルの顔を見るなり、彼女はそっけなく告げた。

「大英博物館に行きましょう」

 それが、朝の挨拶のあと、初めてエミリーの方から口にした言葉だった。いつもなら、着替えのためにホテルに寄るのに、今日はそれすらしようとしなかった。

 大英博物館に着くと、エミリーは、ギリシャ神殿のようなコリント様式のエントランスを見上げたあと、足早に中に入っていった。

 古色蒼然とした外観からは想像もつかないほど、館内はモダンな造りになっている。幾何学模様のガラス天井に覆われた、吹き抜けの巨大なロビーには、こんな天気のせいか、いやこんな天気だからこそか、多くの来館者があふれていた。その多くは白人や黒人だったが、東洋人らしい何人かの若い女性が、場違いな喚声を上げながらカメラであちこちを撮影している姿が、やけに目立っていた。

 不機嫌そうに見えたエミリーだったが、展示物を見つめる目は、好奇心に満ちてきらきら輝いていた。なかでもエルギンマーブルやロゼッタストーンには興味を引かれたようで、じっくりと見つめていた。

 エミリーは、パンフレットを片手に、きょろきょろしたり、方向を間違えて行ったり来たりしたが、マイケルには声をかけてこなかった。意地になって、マイケルと距離をおいているようだった。それ自体は今に始まったことではないが、昨夜、あれほどいい雰囲気になっていたのが嘘のようだった。

 エミリーは、たっぷり時間をかけて、ギリシャとメソポタミアとペルシャ、それにエジプトに関連する展示室を見終えた。それで疲れたのか、展示物を見るのを切り上げた彼女は、ロビーの中央にあるリーディングルームに入ると、手近にあった本を選んで、ひとりでさっさと席についてしまった。

 読書に付き合わされると分かったマイケルは、さんざん迷ったあげくに、図表や挿絵の多いこの図鑑をみつけたのだった。


「……帰りましょう」

 エミリーの声で、マイケルは目を覚ました。

 不覚にも、居眠りをしていたらしい。事件が起きなかったことと、涎で本を汚さずに済んだことは幸いだった。

 マイケルが図鑑を片付けるのも待たずに、エミリーは出口に向かっていた。

 エミリーを追って外に出たマイケルの目の前で、エミリーの持つピンクの雨傘が開いた。雨にけむる灰色の歩道の上を、ふわふわ揺れるコクリコの花のように、雨傘を差したエミリーが歩いていく。

 ――今日はもう、このままにしておこう。

 マイケルが、そんなふうに思ったときだった。

 けたたましいクラクションの音が、マイケルの耳を打った。そして、横断歩道の真ん中で立ち止まったエミリーの姿と、接近する自動車と、赤い色が点灯した歩行者用信号が目に飛び込んできた。

「エミリー、だめだっ」

 マイケルは、傘を投げ捨て、エミリーに向かって駆け出す。しかし、わずか五メートルほどの距離が、絶望的な隔たりだった。

 ――間に合わない。

 そう思った直後、自分でも驚くほどの素早さで移動したマイケルの手は、エミリーの手を後ろからしっかりと掴んでいた。反射的に両足を踏ん張って後方に退きながら、マイケルはその手を強く引き寄せた。

「きゃっ」

 ちいさな悲鳴が聞こえた。

 その直後、車道に落ちたピンクの雨傘を、急ブレーキをかけた車が踏み潰す。しかし、そこにあるはずだったマイケルとエミリーの身体は、なにごともなかったかのように歩道の上にあった。

 マイケルの腕に抱きとめられて、まるで恋人同士のように見える二人に、横断歩道の先で止まった車の運転手が何かを怒鳴ってから車を発車させた。

 呆然と車を見送ったマイケルは、顔を濡らす雨粒の冷たさに、ふと我に返った。

 腕の中にあるエミリーの身体は、あたたかくてやわらかかった。そして、ほんのりと上品な甘い香りがした。うつむいた彼女のパールホワイトの髪に、雨粒が降りかかり、吸い込まれていく。

「おい、エミリー」

 マイケルは、エミリーの身体をゆする。その声に答えるように、彼女は陶然とした表情でマイケルを見上げた。いつものような凛とした雰囲気はなく、やわらかな微笑みの中で、ルビーとサファイアの瞳が潤んでいる。なにか言いたげにわずかに開いた唇から、かすかな吐息がもれ出した。

 不意に、マイケルの胸がどきりと鼓動を打つ。

 このまま、エミリーを抱きしめたい。自分の中に起きた衝動に、マイケルは困惑する。

 まるで、それを見透かしたように、エミリーの身体がびくんと小さく震え、マイケルの顔を見ていたオッドアイが一気に怒りの色を帯びた。

「いやっ、放してっ。わたしに触らないでって、言ったでしょ」

 マイケルは、呆気にとられた。

 たしかに、はからずもエミリーを抱き止めた形にはなったが、普段の彼女なら、そんなときでも礼の一言くらいは言ったはずだ。エミリーは、たしかに高慢な態度をとるが、礼儀作法をおろそかにしたことはなかった。だから、マイケルは彼女を軽蔑することはしなかったのだ。それが、いまはどうだ。助けられたというのに、まるで、迷惑だとでも言わんばかりの態度だ。

 だが、たとえ一瞬とはいえ、エミリーを抱きたいと思ってしまった自分に対する後ろめたさもあったから、マイケルは、わきあがってきた怒りをなんとか抑えた。

 エミリーを解放して、ひとつ深呼吸をしてから口を開いた。

「おまえ、今の状況がわかってるのか」

 エミリーが、唇を噛んでうつむいた。

「わかってるわよ。どうせ、わたし……の代わり……」

 通り過ぎる車の音に紛れて、エミリーのつぶやきは聞こえにくかった。だが、どうやら状況もマイケルの話も理解していないようだった。

「それなら確認するが、おまえ、もう少しで車にひかれるところだったんだぞ」

 マイケルの言葉に、エミリーは弾かれたように顔を上げた。そして、行き交う車と、横断歩道と、マイケルを見まわした。考え事にふけっていて、周りを見ていなかったらしい。

「まさか、そんな……。どうして、こんなときに」

 エミリーは、固く目を閉じてうつむいた。ロングヘアに隠れて、その表情は見えない。かすかに囁くドイツ語が、いくつか聞こえてきた。

 そして、ゆっくりと首を振ってから、エミリーは顔をあげた。ほんのわずかな時間で、どうやって気分を切り替えたのか、彼女の顔には、もう険しさも不機嫌さもなくなっていた。

「ごめんなさい。助けてもらったのね、わたし……」

 エミリーが、マイケルに向かって、ていねいにお辞儀をする。

 今日はずっと様子がおかしかったエミリーだが、素直なその言葉とその態度で、マイケルは安心した。

「気をつけろよ。現職警察官しかも警護担当者の目前で、信号無視して交通事故に会ったなんて、洒落にもならない」

 エミリーはなぜか、納得できないわ、と言いたげな表情でマイケルを見返してきた。

「……それだけなの?」

 その問いかけに、マイケルは一瞬たじろぐ。そして、つい先ほど自分の中に起きた衝動を、男の本能的な欲求にすぎないと片付けることにした。そうだ、エミリーに対するそんな感情が俺に起きるはずがないのだ。

 潤んだようなエミリーの青い瞳を見返しながら、マイケルは自身にも言い聞かせるように告げた。

「俺は、おまえのSPだぞ。おまえになにかあったら、俺の立場がなくなるだろ」

 エミリーは、二度ほど瞬きをしたあと、マイケルから視線を逸らせた。そして、大きなため息をもらした。

「なによ、それ。わたし、馬鹿みたい……」

 意味を図りかねて問い返そうとしたマイケルの目の前で、エミリーは両手を頭の後ろに上げて、小さく背伸びをした。

「もういいわ。今日は、いろいろ失礼したわね。帰りましょう」

 そして、エミリーはマイケルに向けて微笑みを浮かべた。

 今までに見たことのない、ごく自然なエミリーの笑顔が、なぜだかマイケルにはとても遠いものに感じられた。

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