表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/73

3.7 恋に落ちて(Layer:1 Main Story)

 マイケルの母親は、ロンドン市内の平凡な家庭に生まれた女性で、ロンドンシティの銀行に勤めるオフィスガールだった。

「それが、ちょっとしたきっかけで、ヴォールス伯爵家の若い当主と知り合ったんだ。そして、二人が付き合い始めて半年ほどたったころ、母は俺を妊娠したことに気づいた」

 エミリーが、少し間をおいてから相槌を打つ。

「シンデレラストーリーね。いいお話だわ」

 マイケルは、首を横に振った。

「ヴォールス伯爵がまともな感覚の持ち主だったら、そのとおりさ。身分の違いはあるけど、それはたいした問題じゃなかっただろうからな。だが、その当時伯爵には、裕福な貴族の娘との縁談が持ち上がっていたんだ。そんなときに、事が世間に知れれば、破談になるのは明らかだった。そこで伯爵は、わずかな手切れ金で母を見捨てて、その貴族の娘と結婚してしまったのさ」

 マイケルの話を黙って聞いていたエミリーだが、その表情には翳りが差していた。

 すこし刺激が強かったか、とマイケルは思う。大人びて見えても、案外、中身は純真な少女なのかもしれない。

「もう、やめるか?」

 マイケルは気を使って、そう聞いた。

「えっ? いいえ。……よかったら続けて」

 エミリーは、そう答えて、ワインを口にした。そして、彼女の表情を曇らせたなんらかの感情とともに、それを飲み下したように見えた。

 マイケルは、話を続けることにした。

「母は、争ってまで貴族の妻の座を欲しいとは思わなかったようだ。結局、俺は父親がわからない私生児として、この世に生を受けた。母に罪があるわけでもないが、そんな子供を生んだ女を、世間も親も許さなかった。勘当同然に家を追い出された母は、誰の支援も受けられず、働きながら一人で俺を育てるしかなかったんだ……」

 ワインの酔いのせいか、マイケルの脳裏に幼かった頃の記憶が次々によみがえってきた。


 マイケルの母が、過労のせいで身体を壊しこの世を去ったのは、彼が七歳の冬のことだった。

 その事を聞き知ったヴォールス伯爵は、掌を返したようにマイケルを引き取り、無理やり養子縁組をした。目的は、マイケルの口を封じることだった。

 すでに正妻との間に嫡男をもうけていた伯爵にとって、マイケルの存在は邪魔者でしかなかった。表向きは長男としてちやほやされたが、屋敷の人間、とくに正妻とその息子がマイケルを見る目は冷たかった。陰湿ないやがらせは、毎日のように繰り返され、マイケルは屋敷の中で孤立し、素行も悪くなった。そして、それが周囲の人を遠ざけるという悪循環が繰り返された。

 そんな伯爵家で、唯一、マイケルの心を慰めてくれたのがソフィーだった。

 ソフィーは、伯爵が遅くにもうけた娘で、マイケルが伯爵家に引き取られたときには、まだ三歳になったばかりだった。愛嬌があり、甘え上手なソフィーはだれからも愛される可愛らしい子供だった。

 マイケルとソフィーは、義母や義弟の目を盗んでは、屋敷の目立たない場所でよく遊ぶようになった。異母兄妹のふたりが仲良く遊ぶ姿を見るうちに、いつしか屋敷の人々がマイケルを見る目も変わっていった。ソフィーのおかげで、マイケルは決定的に道を踏み外さずに済んだのだった。

 しかし、そんなささやかな幸せも、長くは続かなかった。

 ヴォールス伯爵家は、それなりの資産家だったが、伯爵一家の浪費のせいで、家計は傾きかかっていた。伯爵はリスクの高い投機に手を出し、結果、大きな損害を出した。屋敷や土地も抵当に入り、資産はほとんど底をついていた。それでも、伯爵一家は、世間体を気にして相変わらずの浪費を続けていた。

 マイケルがパブリックスクールに入学したころ、破産寸前になっていた伯爵は、とんでもない行動に出た。まだ十歳にもならないソフィーを、アラブの資産家に嫁がせようとしたのだ。無論、正式な結婚はできないから養子縁組という形式だったが、相手の男は何人もの若い愛妾を囲い、大きな声では言えない嗜好を持った好色家だったから、その目的ははっきりしていた。

 マイケルは、自分の立場を忘れて伯爵一家に食って掛かった。浪費をやめ、使用人を整理して、倹約に努めれば、破産することはない。ソフィーをそんなところにやるくらいなら、俺を追い出してくれと。しかし、そんなマイケルの抵抗など、一笑に付されて終わりだった。

 そして、悲劇は起きた。

 ロンドンに遊興に来ていたアラブの資産家を訪ねた帰り道で、通り魔に襲われた伯爵とソフィーが、そのまま帰らぬ人になってしまったのだ。


「それで、ジ・エンドだった。義母と義弟は、長男であり、すでに男爵の称号を得ていた俺に、遺産相続として抵当に入った屋敷や不動産と一緒に、借金と使用人を全て押し付けたんだ。そして自分たちは、伯爵の称号と有価証券やら貴金属やらを手に、義弟名義で購入していたシンガポールの別荘に逃げ出したのさ」

「そんな、ひどいことを」

 エミリーの顔が、険しくなる。たとえ他人のことであっても、卑怯なことは許せないのだろう。マイケルは、なんとなくだが、エミリーがそう思っているような気がした。

「遺産を相続したと言っても、未成年の学生だった俺には、なすすべもなかった。一ヶ月もしないうちに、義母の依頼でやってきた後見人の弁護士がきれいに後始末をして、残ったのは破産したヴォールス男爵様だけだった。無一文で世間に放り出された俺は、これからは自分の力だけで生きていくと誓った。これが、俺が貴族嫌いになった理由さ。幸い、特例措置で奨学金を受けることができたから、アルバイトで生活費を稼ぎながらパブリックスクールを卒業したんだ。そして、唯一、俺に救いの手を差し伸べてくれた社会ってやつに貢献したくて、スコットランドヤードに入ったのさ」

 マイケルは、そこまで話すと、ワインを飲み干した。

 映画音楽のメドレーを奏でていたアンサンブルバンドが、「慕情」のテーマを演奏しはじめた。甘くて切ないメロディが、食事と会話の余韻を楽しませるように流れてくる。

 グラスをテーブルに戻して、エミリーに話しかけようとしたところで、マイケルは唖然となった。正面からマイケルを見つめるエミリーのオッドアイがきらりと光り、大粒の涙が零れ落ちた。

 ――エミリーが、泣いている? まさか、そんな。

 マイケルは、あわてて言葉を続けた。

「まあ、その、なんだ。べつに、おまえが悪いわけじゃない。俺の貴族嫌いが、筋違いだってことは、頭では分かってるんだ。ただ、どうしても気持ちの整理がつかなくてな」

 エミリーが、ゆっくりと首を振る。

「ちがうの。ちょっと、昔のことを思い出しちゃって。わたしにも、家族がいないから……」

 そこで言葉を切ったエミリーは、涙を隠したかったのか、そっとうつむいた。

 しおらしいエミリーの姿に、マイケルの胸がどきりと鼓動を打つ。

 しかし、マイケルは先日のドーチェスターでの出来事を思い出す。そうだ、甘い気分にだまされて、失敗を繰り返すわけにはいかないぞ。

「エミリー」

 マイケルは、黙り込んだエミリーに呼びかけた。だが、彼女はうつむいたままで、返事をしなかった。

「なあ、エミリー」

 マイケルは、少し大きな声で、ゆっくりと呼びかける。

 エミリーが、その呼びかけに驚いたように身体を震わせた。

「いやだ、わたしったら、ぼうっとしちゃった」

「大丈夫か? へんな話を聞かせてしまったからな。……悪かったな」

 そんな言葉が、自分の口から自然に出てきたことに、マイケルは驚いた。

「ううん、いいのよ。……例の事件にこだわっていたのも、そのせいなのね」

「ああ」

 短く答えたマイケルに、エミリーは席を立ってお辞儀をした。

「知らなかったとはいえ、ひどい事を言ってしまったわ。ごめんなさい」

 椅子に座ったエミリーは、正面からマイケルをじっと見つめた。その表情は、なにかを問いかけようとして、ためらっているようにも見えた。そのしんみりした空気が嫌で、マイケルはおどけて見せる。

「それより、さっき俺のことさんざんに言っていたけど、おまえには恋人とかいるのかよ。まあ、いるようには見えないけどな」

 いつものエミリーなら、マイケルの足を踏みつけて、嫌味の一言も言うはずだ。そうすれば……。

 だが、エミリーの答えは、マイケルの期待を裏切った。

「なあに、気になるの?」

 アルコールのせいか、少し甘えたような口調だった。

「いや、べつに。どうでもいいんだけど」

「それは、嘘ね」

 ――なんだよ、それは。さては、またなにか企んでいるな。

 マイケルは、そうあたりをつける。

 エミリーは、ワインを飲むと、アップにしていた髪を解いた。絹糸のような彼女の髪が、さらりと流れ落ちる。

 そして、マイケルと目を合わせたエミリーは、ゆっくりと答えた。

「いるわよ」

 エミリーが普通に答えたことも意外だったが、恋人がいるということがもっと意外だった。そういえば、昨日リージェンツパークで出会ったデイビッドという男も、エミリーを花嫁にとかなんとか言っていたな。たしかに、見た目は美麗な娘だが、こんなヤツのいったいどこがいいのか。

「そうか。……それは、驚いたな」

 マイケルは、正直な感想を漏らした。

「やきもち、やいているの?」

 エミリーが、にこやかに聞いてくる。

 どうして俺が、おまえの彼氏とやらに嫉妬しなければならないんだよ。マイケルは、そっけなく答える。

「そんなわけ、ないだろう」

「それも、嘘ね。でも、今はもう、いたって言う方がいいのかも。ふふっ。どう、安心した?」

 エミリーは、マイケルの気持ちなどおかまいなしに話し続ける。

 マイケルは、相槌を打ちながら聞き流しておく。思っていた方向とは違うが、話題は切り替わっているから、それはそれでいい。

 エミリーは、天井のガラス越しの夜空を見上げた。その横顔に、ふとかげりが差したように見えた。

「もうすぐ、お別れなの。あそこに行ってしまうんだって。……あの人とは、いろいろあったわ。そう願ったわけじゃないけれど、あの人とデイビッドが、わたしを奪い合って争うことにもなった。でも大喧嘩してから、ずっと連絡もしてなくてね。もう会うこともないかなって、思っていたんだけど。このあいだ、久しぶりに連絡がきたと思ったら、余命がいくばくもないって……」

 遠くを見るようなエミリーのオッドアイを、ゆっくりと瞼がふさぐ。

「ばかな人……。わたしのことなんて、さっさと忘れてしまえばよかったのに」

 夜空に語りかけるようにそう言うと、エミリーはマイケルに向き直って穏やかに微笑んだ。

 エミリーの恋人が老人ということはないだろうから、重い病気でも患っているのかもしれない。いずれにしても、心中が穏やかであるはずもないのに、いままでそんなそぶりも見せなかったエミリーに、マイケルは感心する。自制心が強いのか、すべてを達観しているのか。

 微妙に気まずい空気になりかかったところに、折よくデザートのストロベリータルトがサーブされた。

「わたしったら、へんなこと話しちゃった……」

 エミリーは、そう言うと、髪に手をやった。そして、指先に髪を巻きつけるようにしながら、言葉を続けた。

「忘れてくれると、うれしいわ」

 マイケルは、無言でうなずく。それが、エチケットだと思った。

 エミリーは、かるく頭を振って髪を整えると、フォークを手に取った。その表情は、すっかり無邪気な笑顔に戻っていた。

「デザートをいただきましょう。美味しそうよ」

「そうだな。……ストロベリータルトか」

 マイケルは、バースディケーキとして用意されたホールのストロベリータルトを、うれしそうにつついていたソフィーを思い出した。

「これ、ソフィーの好物だったな」

 ついそんな言葉が、マイケルの口をついて出てしまっていた。せっかくソフィーのことから話題をそらせたのに、自分から話を振ってしまうとは。

 軽い後悔で言葉に詰まったマイケルに、エミリーはまだすこし潤んだままの青い瞳を向けた。

「わたし、ソフィーに似てる?」

 その問いに、マイケルは言葉を失う。

「いや……」

 エミリーとソフィー、全く共通点がないと言えるほどに、二人は似ていなかった。だというのに……。

「けど、なぜだろうな。おまえを見ていると、ソフィーを思い出す」

「そう……なんだ」

 つぶやくように答えたエミリーは、タルトに添えるようにフォークを置いた。

 スピーカーから、恒例のダンスタイムを告げるアナウンスが流れ、アンサンブルバンドがウインナーワルツの名曲を演奏し始めた。着飾った男女が、華麗なステップを披露するのを横目に、エミリーがふうっと深いため息を落とした。

 彼女のストロベリータルトは、まだたっぷりと残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ